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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第50回   第二章 第九話 【霜柱】5
 眠れぬ夜を過ごした椿希は、窓の外の妖しい月に魅入られたかのように、珍しくぼんやりとした一日を過ごすこととなった。
 兄の親友だった藤悟と出会い、よく家に遊びに来ていた藤悟と親しくなって、いつしか心の中を藤悟のことで多くを占めるようになったのはいつの頃だっただろうか。藤悟が家に来ていると、緊張してどきどきしながらお菓子やジュースを持って兄の部屋へ行ったものだった。
 「ありがとう、椿希ちゃん」
 そう言ってくれるのが嬉しくて堪らなくて、率先してその役目を担ったものだった。小学校、中学校と同じ学校に通う親友同士の榊希と藤悟、そしてそこに椿希も時々遊び仲間に入れてもらって、無邪気にはしゃいだ日々を思うと、懐かしくていつまでもそこに留まっていたいような気分になる。榊希に気持ちを悟られて、藤悟が帰ってから色々とからかわれたこともあったけれど、
 「まあ、藤悟なら俺も安心かな」
と、最後には決まってそう言ってくれるのが恥ずかしいようなこそばゆいような、そんな思い出が今もまだしっかりと胸に残っている。
 それなのに、何故こんなに気持ちがぐらついているのだろうか、椿希には分からなかった。こんな風にいつまでも悩んでいるのは性に合わないのだが、何故かそのことを知らなければいけないような気がして、椿希は本を開いたまま勉強に没頭出来ないでいた。

 そんな折に病室を訪れたのは桔梗だった。快活な笑顔をみやげに、変わらぬ明るさは外の重苦しい景色とは正反対で、かえって奇妙な感じを覚えさせた。だけど、桔梗が来てくれたということで少し心が軽くなったような気もしたので、椿希は本当に嬉しかった。
 コートとマフラーを脱ぐと、その下にはセーターが見えた。やはり寒いのだろうか、そんな日にわざわざ来てくれるなんて本当にありがたいこと、と椿希は心から感謝していた。
 話題といっても塾の出来事ばかりで、それは妥子から大分と聞いていたので新鮮な話はこれといってなかったけれど、妥子からではなく桔梗からも聞いてみると、不思議なもので捉え方が違うのか、同じ話のはずなのに違う印象を受けた。とはいえ、何かと心を閉ざしやすい入院生活においては、こうして友人たちが見舞いに来てくれるというのはありがたいことだと椿希は思っていた。
 だけど、やはり胸の中をくすぶり続けているものがずっと、桔梗との会話中にも時折顔を覗かせては存在を椿希に気付かせようとする。椿希の表情が次第に作ったような、はにかんだ笑顔に変わっていく。
 それに気付いたのか気付いていないのか、桔梗は椿希の顔を覗き込むように微笑んで言った。
 「椿希。今は高校生だし大学受験をすることが最優先だよな。何もかも片がついて、自由になれたら、一緒にちょっと遠くまで遊びに行こう。小旅行とか」
 婉曲的な表現ではあったけれど、桔梗の言わんとするところはよく分かったので、椿希は困ったような顔をした。
 「私は入院しているのよ。今、そんな先のことなんて考えられないわ。ただ早くここから出ることばかり考えているっていうのに」
と、口振りは優しいけれど心の中は困惑してしまっているので、決して穏やかではない。表情には出さないので、そんな心の内まで桔梗は悟ることが出来ず、
 「返事が今すぐ欲しいわけじゃないんだ。いつでもいい。ただ、心に留めておいて欲しいと思って」
とさらに言った。
 余裕のあるときであれば、上手く返すことの出来る椿希なのだが、このときはひどく気に掛かっているもやもやとしたことがあって、さらに薬の副作用で精神状態が以前よりいくらかは良くなったとはいえ、相変わらず不安定な状態にあるとされていることもあって、さらりと言葉が出てこない。
 椿希が言いよどんでいるのを見て、桔梗はどこかの誰かのようにしつこく執念深く追及するようなことはしなかったけれど、椿希が何も言わないのは前向きに考えてくれているからだろうかと、いい意味で捉えて考えていた。何も疑うことなく、椿希が言葉を詰まらせているのを見ていると、それが恋愛に慣れた風ではないのでかえって好ましく思えて、桔梗は愛しい思いを募らせていた。
 「今はそれどころじゃないから、ごめんね」
 やっとのことで言ったのがそれだった。もう少し別の言い方もあったかもしれないとは思うが、それが精一杯だった椿希は、今はもう独りきりになりたくて、わざと伏せるようにしてベッドの上のシーツを体へと引き寄せた。その様子がまた何故か艶やかに見えて、桔梗はどきどきと胸を高鳴らせた。全く、恋心を抱いたまま物事を見ると、何もかもが色めいて見えるものらしいから不思議なものである。
 病人になればやつれてしまって、その美しさも見劣りするのではと思われがちなのだが、何故だろうか、こうして静かに座っている椿希を見ていると、いつもの凛然としていて隙のない佇まいのときよりも、ぐっと女性らしいたおやかでしっとりとした雰囲気があって、桔梗は前よりももっとより一層惹かれてしまいそうなのだった。少しふっくらした頬も、以前のほっそりとした顔立ちよりもかえって丸みのある女性らしさが引き立ったようで、桔梗にとっては愛らしく思えてならない。
 どきどきと胸を打つ鼓動が鳴り止まず、しかし椿希は変わらず具合が悪そうなので、慌てた桔梗が看護師を呼ぼうとしたが、「いつものことだから」と制された。
 こうして仕方なく病室を後にした桔梗であったが、桔梗の中に深く刻み込まれた椿希の別の一面がどうしても気になって仕方なく、何度も病院を振り返りながら、しみじみと切ない気持ちのまま帰宅していったのだった。

 桔梗と入れ替わりに病室に入ってきた妥子は、椿希が何か沈んでいるらしい様子に気付いたけれど、本当に体調が悪くて伏せているのではないようなので、鞄を椅子に上に置くとお茶を淹れて椿希に渡した。
 椿希はぼんやりと何か考えていたような様子で、のろのろと起き上がると、熱いお茶をほんの少し口元を濡らすように含んだ。するとその唇のあたりが濡れて赤く色づき、なんとも言えぬ匂い立つような艶やかさであった。そこが病室であるということを忘れさせるような、うっとりとさせるような美しさに、妥子でさえも思わず息を呑んだ。
 「私は、主体性のない女性にはなりたくないの」
 唐突にそう言った椿希に、妥子は驚いて、
 「どうしたの、突然。何かあったの」
と、姉のように言うと、椿希はベッドの上で三角座りに足を立てて膝に額をつけて顔を伏せた。
 「私、分かった。分かってしまったの。どうすればいいんだろう」
 椿希が取り乱す様子を見たのは初めてだった妥子は、優しく椿希の華奢な背中を摩った。少し心の中で平常心が戻ってきたのか、椿希は相変わらず顔は伏せたままであったが、言葉を続けた。
 「あの頃はただただ困った人だと思っていたし、到底あの人には及ばないと思っていたからか、彼が向けてくれる細々とした気遣いや優しさを無下に扱うようなことをしてしまって、今となってはすごく後悔するばかりで申し訳なく思っているの。時に彼の熱い視線が辛くて、気付かない振りをしてそのままにしてしまったこともあった。私はただ、彼との間の友情を壊したくないと思うばかりで、戦友としてこれから受験を乗り切らなくちゃいけないと、そんな風に思っていたものだから、なんて情けないこと。
 別れを知らせてくれたあの日、河川敷で色々話し合って、それでもまだ私はきちんと理解出来ていなかったんだから、自分のことながら呆れてしまうわね。あんなに離れ難いと思ってくれていたのに、私は引きとめようともしなかった。何故、少しでも『行かないで』と言えなかったんだろう。決まっていたこととはいえ、せめて心のこもった言葉をかけてあげれば良かったと思う。あれからも、彼と随分と夜遅くまで一緒にいたけれど、彼はあんなにも必死だったのに私は冷淡だったかもしれない。彼を受け入れるのが怖かったし、これが最後だなんて思いたくなかったから」
 そう言って深い溜め息を吐く椿希の横顔が艶めいて見えて、妥子は同性ながら思わず見入ってしまった。葵生がまるで妥子に乗り移ったかのように、魅力があって心惹かれずにはいられない様子の椿希を見ていると、妥子までもが切なくて苦しい気持ちになってしまう。
 椿希は自分の身を抱くようにして、高波に呑み込まれそうで恐ろしく思えたあのときのことを思い出していた。徐々に彼が自分の心を攫っていく中で、あんなに平安を感じていた人のことを忘れそうになって、今までの幼い頃からの思い出がどんどんと塗り替えられていくのを拒んでいた。だけど、心の奥ではそうなっていくのを望んでいるところもあったり、どんどんと引き込まれていくことに甘く美しい世界を見出していたりと、二つに心が引き裂かれていくようで、ここのところは心が塞ぎがちになっていたのだった。
 あちらにも惹かれ、こちらも気になる、という主体性のない状態が続くのは美学に反するとして、椿希はどうにも不快感でいっぱいであったのだが、ようやくひとつの解決の糸口を見出してみると、また新たな悩みの種が芽生えてしまっていて、尽きせぬ無限回廊に迷い込んでしまったようであった。
 別れてから初めて気付いた思いを伝える術などなく、胸に秘めたまま過ごす日々は切なく、目を逸らしてばかりいた過去が恨めしく、いかようにしても付いて離れぬ彼への思いのやり場に困り果てて、椿希はただ後悔してばかりいるのだった。

 藤悟も桔梗も、葵生が椿希の傍から離れたことによって、いよいよ抑えていた気持ちを少しずつ解くようになり、彼女の病室を見舞うことが多くなった。不思議なことにこの二人が病室でばったり出くわすこともなかったのは、藤悟は平日の午前中に、桔梗は塾のない日の夕方と、それぞれ時間帯がずれていたせいだった。
 藤悟はそれでも、椿希の体調を気遣って、それほど頻繁に彼女に会いに行くことはせず、たまに顔を見せては彼女の変化を感じるようにしていた。少しずつ、彼女が元に戻っていくようなのが嬉しくて、遠い空の彼方から妹を見守っているだろう榊希にも心の中で報告をする。
 病室に行くと、椿希はいつも藤悟を待っていたかのようににっこりと笑って、勉強で躓いたところを尋ねるのだ。
 「俺って、いいように使われているかな」
と、冗談めかして言ってみると、椿希は、
 「ふふ、年上の宿命よ」
と返した。そんな遣り取りを交わしていると、藤悟は最近になって本当に大人びて香り立つような艶やかさを身に纏うようになった椿希に、どきりとさせられてしまう。ほんの何気ない仕草、たとえば髪を耳にかける指先やそのときにちらりと見えるうなじ、軽く目を閉じたときの睫毛の揺れるのだとか、飲み物を口にするときの唇の動きだとか、何もこれといって特別なことをしているわけでもないのに、藤悟の心は妖しくざわめくのだった。
 そっと腕を伸ばして、彼女の額に触れようとしたけれど、簡単に触れてはいけないような気がして、指先がそれ以上進むのを躊躇わせるようなその女性は、本当に幼い頃から知っている椿希で間違いないのだろうか、と藤悟は思う。
 桔梗はというと、週に何度も病室を訪れていたので看護師たちから、「椿希ちゃんの彼氏」と噂されていた。それを桔梗がいないときに看護師からからかわれて、椿希はきっぱりと否定していたのだが、頻繁に訪れているといくら否定したところで信じてもらえないのが、椿希には悩みどころであった。
 だから本当は、もう少し病室に来る頻度を減らして欲しいものなので、
 「桔梗くん、受験勉強しなくちゃいけないから、そんなに見舞いに来てくれなくていいのよ。自分のことを優先させて。今、一番大事なことは違うでしょう」
と言ったのだが、桔梗は笑って、
 「いや、椿希の顔を見ておきたいんだ。いつもの格好いい椿希が、こうして力なく横たわっているのを見るのも、すごく男心をくすぐるものだよ」
とからかいながら言うのだから、椿希は顔を赤らめて反論も出来ない。困ったこと、と眉を顰めながら椿希はどうにかして桔梗の思いを振りほどかなければと思案するのだが、ああ言えばこう言う桔梗を説得するのは難しいに違いない。
 「あんまりしつこいと、嫌われるよ」
 見かねた妥子が出した助け舟に、椿希はほっとして「ありがとう」と口を動かした。
 妥子は学校や塾の授業のノートを見せたり、あった出来事を報告したりするので、よく病室を訪れていたのだが、それも用がないときは椿希を少しでも休ませてあげたいと思って、土日に押しかけるなんてもってのほかと遠慮していたものだった。それなのにどうやら桔梗はあまりにもよく来ているらしく、看護師が噂しているのを聞くたびに呆れ返っていた。
 弱っているところなんて見られたくないはずなのに、それを見たいだなんてなんていう男だろう、と妥子は友人ながら桔梗を窘めたい気分だった。葵生ならきっとそんなことはしないだろう、時々は見舞うにしても、やはり彼女のことを第一に考えて少しでも良くなるように慮ることだろう、と思うと、やはり妥子は椿希には葵生がついていて欲しかったと唇を噛んだ。
 「俺、そんなにしつこかったかな」
 伺うように言った桔梗に対して、椿希は静かに頷いた。
 「私のことを友達とも戦友とも思ってくれるのなら、どうか今は無事に退院出来るよう、そっとしておいて欲しいの」
 そう返した椿希を見て、妥子はどうやら本調子に戻ってきたらしいと思って、心の中でにんまりと笑った。

 妥子が病院から出て行こうとすると、病院の庭園のベンチに座る藤悟の姿が見えたので、引き返してそちらへと向かった。
 外はまだ冬の名残を感じさせる肌寒さでとても長くそこにはいられないだろうと思われるのだが、マフラーに半分顔を埋めるようにして何か考え事でもしているような藤悟の姿を見ると、とてもそのまま放っておけなくなって、妥子はまた自分のおせっかいな性格が顔を覗かせてしまったようだと苦笑いしながら歩いていった。
 「春成さん」
 突然頭上から降ってきた声に驚いて、びくんと肩を揺らした藤悟は声の主が妥子だと分かると、優しい笑顔を向けた。
 「ああ、妥子ちゃん」
 以前から、何度か顔を合わせていたけれど、椿希が入院してからは何度か椿希からも話を聞いていたし、実際に病室で会うこともあったこともあって自然と親しくなっていた二人だったので、そのまま一緒にベンチに座ってとりとめのない会話が始まった。
 学校が春休みだったこともあって妥子は私服姿だったので、傍から見れば年頃の恋人同士が話をしているように見えるのかもしれないが、会話を聞いていればそうではないことがよく分かる。兄と妹のような二人、と形容されるだろうけれど、そんなことに気付いた藤悟はかつての椿希との関係を思い出させて、なんだか懐かしい気持ちにもなる。
 「いつもありがとうね、椿希を見舞ってくれて。これからも頼むよ」
 立ち上がって、微笑みながら言う藤悟に、妥子は頷いた。本当に椿希の兄のようだと思って、妥子はこの藤悟には好感を抱いていた。榊希のことは椿希から話に聞いていて知っていたし、薄々は椿希の藤悟への気持ちにも気付いていた。そして実際にこうして会話してみると藤悟の良さが会うたびに分かるようになって、葵生でなくても藤悟が椿希の相手でもいいかもしれない、とさえ思うようになった。
 藤悟と別れてから家へと帰る道すがら、そんなことばかり考えていた妥子は、恋人である笙馬がいるにも関わらず藤悟のことばかり考えていた。そうして少しうきうきとした気持ちのままでいたため、うっかり忘れ掛けていた書店で問題集を買いに行く用事を思い出して、慌てて駅前の大型書店へと足を向けたのだった。


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