夜道の肝試しは思っていた以上になかなか迫力があって、山の中で薄暗い電灯と懐中電灯だけを頼りに、いつ襲い掛かってくるかも分からないお化けにも気を遣わねばならないとなると、随分緊張するものなのだなと、葵生は思っていた。電灯に関してはキャンプ場という施設側の配慮なのかそれとも経理的な事情があるのかは定かではないが、道のところどころにある程度で、その光の届かないところを歩く時には、慎重にならねばならない。 そういうところを突いてお化け役は待機していたのだが、衣装に足を引っ掛けて怖がらせるはずが転んでしまって、結局笑われる羽目になってしまっていた。お化け役も「参った」と照れながら、「気をつけて」と送り出した。怖くはなかったが、なかなか楽しかったのである。 そうは言っても、暗闇の中を歩くときには足元に注意しなければならないので、一層の注意を払っていたのだから、心配なのは妥子曰く『ああ見えて怖がり』だという椿希のことだった。男である自分ですら、夜道を歩くのに気が張ると思ったのに、彼女はどういう心地でいるのだろうと思い遣った。先にゴール地点に辿り着いた葵生は、椿希たちの班が来るのを待ちながら、きっとそれでも強がっているか、あるいはあくまでもどうということはない振りをして歩いているであろう椿希の姿を想像しながら、ちらちらと元来た道に目を遣っていた。 「椿希、どうしてるだろうね」 妥子がそんな葵生の気持ちを読み取ったかのように、呟いた。 「妥子、怖くなかった」 どうやら向こうでジュースが配られていたらしく、気の利く笙馬が三人分のジュースを持ってきた。 「私は全然。笙馬くんこそどうだったのよ。なんとなく、へっぴり腰になっていたみたいだけど」 つくづく妥子は観察眼が鋭い。道中の暗さに安心しきって、自分の情けない姿をまさか見られているとは思っていなかった笙馬は、思わず顔を引きつらせた。 「怖い、わけないだろう。十六にもなって、怖いわけが」 そう言う声もどこかしら上ずったものに聞こえるのだから、妥子はそんな風に強がる笙馬を可笑しいと思った。 「はいはい。ごめんね、からかって」 そんな二人の会話も、葵生には遠くの出来事のように上の空に聞いていた。ちらちらと見ていたのを、笙馬と妥子の遣り取りを聞き流しているうちに、堪らず視線をじっとその夜道に向けるようになった。 月夜とはいえ満月ではなく、おぼろげに光るのがどこか寂しげで、心細くさせられる。頼りになるのは月明かりと星屑たち、そして一緒に歩く仲間たちと懐中電灯の光。しかしそれらもざわざわと揺れる木々の音や砂利を踏む音などが、不気味さを感じさせ、不安な気持ちを膨らませていく。そんな風に思うと、葵生は自分こそが彼女の月明かりにはなれないだろうか、彼女が困っているときや進む道先を照らす光にはなれないのだろうかと、珍しく情緒あることを考えていた。 向こうからぼんやりと光が見え、ゆっくりと近づいてきたと思ったら、ようやく待ち人の姿が見えた。近くまで来てその表情が分かったが、微かに笑みを浮かべてはいるが気を張りながら歩いていたらしく、ぎこちないものに見える。それに反して、葵生の表情は安心したらしく、ふわりと緩んだ。 「お帰り」 妥子が声を掛けると、椿希が安心したのだろうか、駆け足でやって来た。休憩所の淡い暖色の光は、いつも慣れている蛍光灯に比べるととても弱々しく頼りないのだが、それでも夜道の闇に比べれば心強く感じられ、また友人が迎えてくれているところを見て、安堵した様子だった。 「お疲れ様」 妥子が椿希を葵生たちのいるところへ連れて行く。 「ただいま」 柔和な笑みで友人に帰還の挨拶をする椿希は、流石プリンスと呼ばれるだけあり、自分の弱いところは人には見せず、何事もなかったかのように振舞っている。そんな風だから、笙馬が言っていたように、多くの人たちから『凛とした印象が強い』と思われてしまうのだろう。この切り替えはほとんど無意識のうちに行われているのだろうが、葵生には少し寂しくも思えてならない。彼女にとっての月明かりは、今回はどうやら妥子だったらしい。 「怖くなかった、椿希ちゃん」 笙馬が声を掛けると、椿希はさっぱりとした表情で、 「大丈夫。だって私はプリンスだもの」 と言い張るのだった。笙馬はそれに安心したように笑っていたけれど、葵生は微笑みながらも心の中では、これは繕った姿なのだろうかと疑心を抱いていた。 それからまた少し時間を空けて別のグループが到着し、そのたびにめいめい感想を言い合ったり、歓声を上げたりしているうちに、しばらくしてようやく全員がこのゴール地点に揃った。二年生もその後小道具を持って合流し、無事に肝試しは終了となった。 「みんな、星でも見に行かないか」 講師が言った。天体観測の出来る場所があるということで、全員がぞろぞろとその場所へ動き出した。誰一人先に就寝するとは言わなかったのは、皆、この機会に是非にも星を見上げたかったからというだけではなく、夢の世界にいるようなこの時を、もう少し楽しみたいと思っていたからに違いないだろう。まだ眠りたくないのだ。 何よりこの天体観測など出来る機会は滅多にないのだから、興味を持つのは当然のことだ。まずは図鑑より星座や天の川などといった写真を見て感動し、次にプラネタリウムの人工の星を見て、本来ならばこのくらいよく見えるものなのだと知っていたけれど、今回せっかく本物の星たちを見ることが出来るのだから、葵生の探究心や好奇心が騒ぎ出す。また、このような場面において椿希もいるということが、葵生にとっての非日常性をより特別なものに仕立て上げていた。 妥子と並んで少し先を歩く椿希を見つめながら、葵生は、月明かりになれなくとも、せめてあの星屑のうちの一つになって、いずれは彼女にすぐに見つけてもらえる一等星になれたらと、ぼんやりと考え事をしながら歩いていた。辛いときや困ったとき、迷ったときに彼女の足元を照らし、安全を守ることの出来る存在になれたなら、この上ない喜びとなるだろうと。 キャンプ場までの道のりで通ったところにある、と講師は言ったが、バスに乗っている間は皆景色よりもそれぞれの会話を楽しむのに夢中だったから、このような天体観測に最適な場所があるとは誰も気付かなかった。もうじき着くという場所には芝生が広がり、その中にテラスが設けられているのが見えた。 昼間だと、青い空に緑の芝生と森、そしてそこに木造のテラスがそれぞれの色を主張し合うことなく調和が取れて、きらきらと太陽の光を受けて朝露の滴がきらめくのだろうかと思うと、改めて見てみたい気持ちになる。街中のコンクリートで囲まれた生活に慣れきっていると、本当に同じ世界にあるものだろうかと思うほど異なっていて、写真やテレビで見た景色がこうして眼前にあるとなると、その感動もひとしおである。 葵生はほぅ、と小さく溜め息を吐くと、しゃりしゃりとみずみずしい音を立てながら芝生の上を歩いた。この辺りに住めば買い物や通勤通学には不便だろうが、毎日が心洗われて邪念も憎しみも取り払われ、いらぬ心配などせず伸び伸びと暮らせるのではないかと、老成しきった風に葵生は思っている。 テラスで皆、体を仰け反らせて天体観測が出来るようになっているのだと、卒業生の誰かが言うと、学生たちが幼い子供に戻ったかのように、歓声を上げながらテラスに向かって駆けて行く。十代も半ばから後半に差し掛かると、初体験と呼べるものが徐々に減っていくものだが、こうして夜空を見上げることが初めてだという学生があまりに多かったようで、やれやれ体格はすっかり大人びた者もいれば、ませた口の者もいるけれど、やっぱりまだまだ子供だと講師たちは思い、微笑ましく見ている。そして思った以上に皆が喜んでいるのを見て、いい経験をさせてやれて良かったと、後からゆっくりと歩いて来ていた。 「あらあら、テラスもいいけど、せっかくの機会だから芝生にごろんと寝転がって見たいわ」 と椿希が言うと、妥子が「いいね」と興奮した様子で乗った。近くにいた葵生にも、 「もちろん一緒に来るでしょう」 と、妥子が目配せをするので葵生は苦笑いして渋々行く風を装っていたが、もちろんそれは本心ではなく、またとない機会だと内心は喜んでいるのだけれど。 さりげなく椿希の近くに行き、「この辺りにしよう」と椿希と妥子が決めて座ろうとすると、さっと素早く椿希の隣に移動した。すると妥子の隣に人影がしたのでふと横を見ると、笙馬が何食わぬ顔で座ろうとしていた。もしかして同じ心を持つ仲間なのかな、と思ったが訊ねられるような状況ではなく、同じ班になったことがきっかけで妥子を意識しはじめたのだろう、と思って葵生は納得している。 「俺も混ぜて」 と、桔梗が四人の姿を認めてテラスからわざわざ芝生にやって来た。 「俺の隣で良ければどうぞ」 葵生が言うと、「では遠慮なく」と慌しく座る様子が、なんともこの静寂の中にある味わい深い情緒を壊しているような気がするのだが、桔梗はいかにも今風でさっぱりとしているから、しみじみと何かに浸ることはないのだろうな、と思って見ていた。 それからしばらくしても桔梗以外には誰もやって来なかった。皆、もうパノラマの景色に圧倒されてばかりで、少しでも目を離すのが惜しくてならないのだ。テラスの辺りでは様々な声がひそひそと会話しているらしく聞こえていたが、やがて静まり、ほとんど聞こえなくなった。 そして芝生の上に寝転ぶ者たちからは、あれが何座であれが何と言う星だと、天体に詳しい者が遠慮がちに小さな声で説明しているらしい声が聞こえている。この静けさの中に身を置いていると、声を発するのも悪いことのような気がしてしまうのも、現代に生きる者が忘れてしまいそうになっている、ゆかしさだとか風情だとかいったものをまだ心が覚えていたのだな、とこの悠然たる自然のありがたみを感じ入っている。
しばらくして、手を突いて空を見上げていたのを止めて、芝生の上に寝そべった。こんなことをするのは初めてだったため、少し遠慮がちになってしまうのがまた、ゆかしい感じがする。優しいそよ風が頬を撫でて過ぎ去り、少し濡れた芝生の上をひんやりと心地良い空気が後に残して行った。桔梗が、椿希が横たわろうとする前に、石や尖ったものがないかを甲斐甲斐しく入念に確認していたのを、椿希が申し訳なさそうにしている。 「そこまでしなくても大丈夫なのに」 肝試しの間中から、ずっと椿希を護るようにしていたらしい桔梗に、「もういいよ」と声を掛けると手を引いたが、どことなくそれが残念そうに見える。帰ってきたときに椿希が顔が引きつっているように見えたのは、こういう理由もあったのかもしれない。あまり世話を焼かれすぎると確かに困るし、まるであらゆる行動を監視されているようで辛いよな、と葵生は思った。さりげなくするために、葵生は椿希が寝転がってから、ゆっくりと身を倒した。 仰向けになって空を見上げると、月明かりと星の光しかない暗い世界が広がり、なるほど静けさのことを『深々(しんしん)とした』という形容詞を使うのも納得出来ると、しみじみと感じ入る。 そんな中、隣から感じる彼女の気配と息遣いに、彼女の体の方がぴりぴりと緊張して吊ったようになって熱を帯びているような気がする。こういう感覚はまるで初めてのことなので、葵生は鎮まらぬ体内の騒ぎのために、いかにして平然を保つかであれこれと思案している。 ふと彼女の方に顔を向けると、彼女はじっと瞬きするのを惜しむように空を見上げていて、感嘆しているのか時折溜め息さえも漏れ聞こえそうな様子である。 空には満天の星たちが輝き、時々流れ星となって空を駆け巡るのがなんと幻想的であることか、これがフィルムを通した映像ではなく、実の目で見ているのだと思うと、なんと宇宙は雄大で泰然としているのだろうと、人間の悩みなど取るに足らない出来事のように思えてくる。皆がそう感じ入り、中にはぐっと涙を堪えている者までいるほどで、こういったことに感動出来るとは、様々な出来事で荒みそうになっていても、やはり深層の部分では心が澄んでいるということなのだろう。宇宙に吸い込まれそうな気がして、まるで魅入られたかのようにじっとしたまま動こうとしない。 そんな星屑の下にいて、葵生は夜空の感動よりも心臓の動きが早くてたまらず、こんな風にわが身について気を揉んでいるのはこの中ではただ一人、自分だけではないかと思うと、たまらなく恥ずかしいと感じている。流れ星を見つけるたびに、妥子と椿希がきゃあと小さく歓声を上げて、桔梗や笙馬もそれに加わって、興奮を無邪気に分かち合っている。自分ひとりが世界から取り残されたようなのに、それでも彼女の近くにこんなに長い間いるということが、信じられなかった。 「どうしたの」 椿希が言った。葵生の視線を感じたのだろうか、それとも一人はしゃがない葵生を不思議に思ったのだろうか、こちらに顔を向けていている。いつものように何もかもを照らし出す明るい照明がない分、彼女の端整な顔が影の部分と弱く青白い光に照らされており、それがとても幻想的に映っていた。それが普段よりもずっと大人びて見え、どこか艶やかさすら感じられるのが、なんとも美しい。長い睫が、自分を見つめるたびにぱちぱちと小さく動き、そのせいで葵生の心はちっとも静寂ではなくなっていた。 「いや、なんでもない」 少し声が上ずった。椿希の顔を見ているのが恥ずかしくて、視線を他所へ向けようとするが、彼女が呼吸するたびに動く胸や腹部のあたりを見て、ごくりと唾を飲み込んでしまった。その音が彼女に聞かれやしなかったかと思って、葵生はもう堪らなく恥ずかしい。 「ほら、星が綺麗。こんなの初めて。せっかくだし、目に焼き付けておかないとね」 葵生が心をどうにか落ち着かせようと、ようやく空に目をやったのを見て、椿希も視線を戻そうとしたが、その葵生の横顔が目に入り、思わず見とれてしまった。 「なんて綺麗なの」それが感想だった。皆が「美人」だと騒ぐし、椿希自身もそれは兼ねてから思っていたことではあったが、この至近距離で彼の横顔を見たのは初めてであり、しかもそれを夜空の下で見ているということに、彼の異なった趣を感じずにはいられない。薄暗さで、彼の美しい輪郭や通った鼻筋、品のある唇の形がよく強調されており、横になったことで、重力で額から地面にふさふさと流れる髪に見とれてしまった。 星の光や月の明かりが、まるで遠慮しているかのような細々とした頼りない光を放っているため、目を凝らさなければはっきりと見えないけれど、女性とも見まごうほどの繊細な作りをした葵生の横顔があまりにも妖艶なのに、椿希ははっと息を呑んで思わず見入ってしまっている。柊一が散々自慢し倒すのも分からないでもないほどの、彫刻的で艶やかな美しさが、なんとも罪深いように思えてならないほどであった。 「こんな夜はね、夜空の星屑が詩を紡ぐの」 妥子が歌うように言ったのが、またこの雰囲気に適う声色で、風流じみている。 「星屑が詩を」 椿希の声が妙に色っぽく聞こえて、葵生はごくりとまたも唾を飲み込んだ。 「そう。ロマンチックでしょう。夜空の星屑たちの『うた』が聴こえるんだって」 詩か散文の一節を引用したのかもしれないにせよ、この神秘的な夜空に相応しい台詞を味わい深いと思いながら、葵生は聞いていた。迷信だの占いだのといった非科学的なものを信じてはいないけれど、本当に耳を澄ませば聴こえるかもしれない。こんなにも人を美しく惑わせる星たちを彼方に見上げながら、星と会話するように、葵生は誰にも見せたことのない秘めた思いを解き放ったのだった。
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