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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第48回   第二章 第九話 【霜柱】3
 その年の冬は街のあらゆるものを凍てつかせるような寒気が襲い、吐く息まで凍ってしまいそうなほどで、このあたりでは滅多に見ることの出来ない霜柱までが、公園の隅のあたりでひっそりと姿を現しているのを見ると、ますます寒さで身を縮ませてしまいそうであった。
 分厚い雲が空を覆いつくして太陽を隠し、雪を緩急自在に操って降らせるのが憎らしい。厚手のコートの中は何枚も重ね着をしているけれど、体の芯から冷え切ったこんな毎日を過ごしていると、思い浮かべるのは風邪を引きやすかった彼女のことばかりで、今頃どうしているだろうか、厄介な風邪をもらっていないだろうかなどと気が気でならない。
 葵生は、少しも捗らない勉強を中断して、問題集とノートを広げたままぼんやりと窓の外を眺めていた。母親によって与えられた携帯電話を手で握り締め、画面を見詰めるけれど、そこに彼女の名前は登録されていない。せめて名前だけでも入れておきたいところだけれど、母親が管理している以上見つかるとまたややこしい事態になり兼ねないので、電話帳の作成画面を開いては入力し、しかし登録をせずに切断するということを、何度行っただろうか。
 届かないメールを作ったり、住所録に登録しかけてやめたり、そういったことに虚しさを感じながらもやめられないでいるのだった。彼女は今頃、その性格から察するに、受験に向けてきっと必死で勉強机に向かっているだろうに、自分は未だに過去に固執し続けたまま前に進めない。
 しかし葵生も事情を知っていれば、どうなっていただろうか。椿希は葵生に迷惑をかけたくないと言って、心を閉ざしていたけれど、椿希が葵生に縋って頼ることになっていたなら、葵生はこのように荒れることはなかったのではないだろうか、と思えるのは過去の事情を全て知る人間の勝手な想像だろうか。
 成績は緩やかに下降線を辿っていた。絶頂期の成績は全国ランキングでも名前が載るほど上位に入るほどのものだったこともあって、下降したと言ってもそれほど悪いわけではないのだが、受験の年を迎えるに当たって射程距離が遠ざかるというのは良いものではない。志望大学を変えて公立大学や私立大学に変更するならば、まだまだ余裕を持っていられるとはいえ、それだと椿希との約束を守れないではないかと、意地でも変更する気はなかった。そのくせ勉強が捗らないのだから矛盾している。
 ついこの前再会した小学校のときの同級生がすっかり様変わりして、大人びた風になっているのに驚いたものだった。聞けば高校も中退して今はアルバイトをしているのだとか言っていたが、この辺りは新興住宅地で、比較的教育に熱心な家庭の多い地域だっただけに、こういう高校中退というのが現実的ではないように感じていた葵生にとっては、自分の知らない世界を知る同級生が羨ましく思えて、
 「もう経済的にも自立したのか。親御さん納得しないと中退だって、勝手に出来るものじゃないだろうに」
と、さりげなくどうやって中退したのかを訊ねてみたところ、
 「そりゃあ親は反対したけどさ、勉強することに意味が見出せなかったし、第一みんなが大学とか短大行くからって、なんで俺までって思ったら馬鹿馬鹿しく思えてさ。もう親に迷惑かけないって約束で、勘当同然に家も出て行って安いアパート暮らし。でも金が足りないから彼女と同棲している」
と答えた。
 勉強することに意味がない、と言い切ったのを聞いて、口には出さなかったが、「そうは言っても、知識は身を守るし、知識がなければ取り組めないことだってたくさんあるだろうに。せめて高校を卒業しなければ、この就職氷河期と言われている今、働き口もないだろう」と、世間もよく知らないのに思って、葵生は呆れながらもほんの少しの羨望を抱えながら、
 「まあ、それがお前の思ったことならいいけどな。それはそうと、同棲しているのかよ。はあ、全く早い奴だなあ。彼女の両親もよくその年齢で許したよな」
 親の顔を見てみたい、と葵生は思った。確かにその『真面目一途な中流家庭』の多いこの地域の中では、複雑な事情を抱えた家庭に育ったと広く知られていたその同級生だが、昔一緒に遊んでいたときにはそれほど大きな問題があったとは思えなかったと振り返った。一体どういう経緯があったのか知らないけれど、周りの目も気にしないでこんな大胆なことをするなんて、と葵生は心の中で溜め息を吐いた。
 「まあな、彼女の方が年上で、今は短大生なんだ。彼女の下宿先に転がり込んだ、とも言うな」
 同級生はにかっ、と歯並びの悪い歯を見せて笑った。こういう何も考えていなさそうな、純粋というか単純なところがこいつのいいところなんだけど、と葵生は思いながらも、
 「年上の彼女かよ。もし彼女が就職したら、お前は紐になるんじゃないのか」
と皮肉めいたことをつい口にしてしまった。しかし、相手は少しも気にする様子もなく言った。
 「その通りかもな。でも、いざというときはちゃんと俺も働くつもりでいるよ。そうとはいえ、俺に出来る仕事って何かあるだろうか。高校中退して後悔していることっていえば、ちゃんとした仕事に就きたくても就かせてもらえないことだなあ」
 珍しく悩んだ素振りを見せたので、葵生はやはり後悔が全くないわけではないのか、と少しがっかりした気持ちでいた。自由を手にしているように見える友人を羨ましく思ったものの、やはり高校を卒業していないことで風当たりが厳しいのは当然のことだった。だが、それでも友人が贅沢は出来なくても、それなりに幸せにやっていける見込みがあれば、少なくとも今の自分よりは恵まれているのではないかと、そのことばかり頭を占めていく。
 「だって大学卒業したって仕事があるとは限らないのだろう。それなら、高校中退したって一緒だろうって思ったんだけどさ、やっぱりいざ就職しようかって履歴書出したら、悉く面接行く前に断られてしまうんだからなあ」
 愚痴を言いながらも、自分の犯してしまった過ちを悔やんでいるのが哀れに思える。とはいえ手助けなど出来るはずもない。いや、そうではない。羨ましいのだ、好きな人と一緒に朝も昼も夜も共に過ごせるというのが。だが、それを口にするのは葵生の自尊心が許さなかった。
 「まあ、いざというときには専業主夫にでもなればいいんじゃないのか。頑張れ」
と、投げやりのような適当な台詞を言って、葵生はぼんやりと先のことを考えていた。そうは言ったものの、自分が椿希に養ってもらうなどとは全く考えられないので、やはりなんとか大学に進学しておかないといけないなと漠然と思っていた。しかし、彼はもはや医学部進学への情熱などすっかり冷めてしまったのか、ただ一刻も早く彼女を手に入れることばかり考えているので、このままだとずるずると谷底へ引き摺り下ろされていくというのにまるで気付いていなかった。
 「葵生はいいよなぁ、お前はきっとエリートコースをひた走るんだろうなあ」
 同級生の本音なのか皮肉なのかよく分からない言葉でさえも、麻痺してしまっている葵生からすると、
 「まあ、高校卒業して適当に大学卒業して、あんな才色兼備な彼女と一緒になれるのなら、俺はもうそれだけで満足出来るだろう」
という心境なのだから仕方がない。

 そんなことがあったことも全く知るはずのない椿希は、入院してからも相変わらずの努力家な性格が少しの間も怠惰することを許さず、看護師の目を盗んではこつこつと勉強に励んでいたので、病状が思ったより良くなる様子が見られなかった。向日医師は椿希がきっと勉強しているだろうと思って、
 「思い切って何もしないという作戦は受け入れてもらえないのかな」
と、病室に顔を覗かせたときに言ったのだが、
 「寝てばっかりだと、体と頭が鈍ってしまいます」
と笑いながらあっさりと返されてしまった。実際、椿希は体に負担をかけない程度に病室で軽く柔軟体操をしているようだけれど、向日医師にとってはそういう軽い運動は奨励するとしても、夜遅くまで勉強しているらしいというのを夜勤の看護師から報告を受けていたので、そちらの方が気掛かりだった。
 向日医師は棚にずらりと並べられ、置くことの出来ないものは椅子の上に積み上げられた問題集を見詰め、何冊か手にとってぱらぱらと捲った。
 「うーん、懐かしい。私もこんな時代があったんだよね。もう忘れちゃったけど、こういうのを昔は解けたのに、今はもう全然分かんないや。多分、高校生の頃が一番賢かったんじゃないかなって思うときがあるよ」
 英単語帳を開いた瞬間、向日医師は苦笑いした。
 「でも先生はお医者さんで、今でも医学について勉強しているんでしょう」
 椿希が薬の影響で少しふっくらとした頬を緩ませて言った。
 「確かにそうだけど、それが専門だからね。専門分野以外は疎かになってしまうから、偏ってしまうのよね。大人になったら万遍なく勉強なんてしていられないもの。国語も数学も歴史も化学も英語も、全部勉強出来た昔が懐かしい」
 勉強なんて苦しいだけだと思うのは、学生だけなのだろうか、と椿希は思った。大人になれば、向日医師のように思うようになるのかもしれないと思うと、受験勉強を必死で頑張ったこともいい思い出になるのだろうか、と新しい視点で受験勉強に取り組めそうな気がする。
 椿希は向日医師の優しい顔から白衣姿に目をじっと遣ると、
 「先生。私の友達も、医者を目指しているんです。先生はどうして医者になろうと思ったんですか」
と訊いた。
 向日医師は視線を宙に遣り、逡巡させると、唸るような声を上げながら、
 「難しい質問ね。私は父が医者だったからね。跡を継いで欲しいとは言われなかったけど、自然とそういう気分になっていたわ。そういう人、多いからね。それで、お友達はどうなの」
と、何気なく訊ねてみると、椿希は苦笑いした。
 「照れくさそうにしていたからはっきりとは知らないんですけど、どうやら昔、入院したときにお世話になったお医者さんがすごく格好良かったからって、それで目指すようになったようなことを言っていました」
 葵生がしどろもどろになりながら、顔を真っ赤にさせて言っていたのを思い出すと、噴出して笑い出しそうだったが、椿希は努めて冷静な振りをして言った。
 「へぇ、男前の医者だったんだ。それはラッキーだったね。うん、そういう理由があってもいいかもね」
 向日医師も苦笑いしながら言った。それを見て、向日医師は「どうやらその友達というのが女の子だと思ったらしい」と察した椿希は、まさかそれが男だとは言えずに、また苦笑いした。葵生にその『気』はなさそうだと思っていたけれど、もしかしたら案外、という思いも過ぎったが、椿希はそこまで思いながらも少し胸が苦しくなった。
 「今度、その子がお見舞いに来たら教えてね」
 向日医師はそう言って病室から出て行ったが、椿希は微笑みを返しただけだった。
 病室の窓から見える景色は限られているけれど、外がとてつもなく寒そうだというのは、木々を唸りながら薙ぎ払っていく風や、灰色の空から時折降る雪の舞い散るのを見ていておよそ察しがつく。
 見舞いに来るはずのない人のことを思い出して、椿希は溜め息を吐いた。塾を辞めることになったと告げた人は、その不器用さからとうとう思いを椿希に打ち明けることはなかったけれど、身も心も彼女に惹かれているのだということをはっきりと示して去って行った。
 腕にそっと自分の指が触れると、あのときの彼の力強さが思い出されるし、髪を何度も撫でていたこともありありと思い出される。心が、体が、はっきりと彼のことを覚えているからこそ、椿希は苦しかった。どうしても言えなかった秘密を、やはり明かしておけば良かったのかもしれないと、辛くて堪らなくなる。
 夜になると、病室で声を潜めて涙で枕を濡らし、明かりの消えた部屋から見える月が眩しくて、二人で過ごした花火大会のことを思い出す。不意に抱きしめられて唇を奪われた給湯室のこと、別れなければいけないと言われたあの河川敷のこと、離れがたいとしてあれからもう少し付き合った夜の街でのこと、あんなにも思いをぶつけてくれた人だったのに、受身でいたばかりで少しも彼に対して何かをしてあげたことがなかった、と椿希は心から申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。
 あんなに彼は傍にいてくれたのに、あんなに一緒にいたいと言ってくれたのに、どうして自らそれを振り切るような真似をしてしまったのか、椿希は自分が分からなくなっていた。あの別れなければいけないと言われたときに、素直な気持ちを少しでも見せただろうか。引き止めるのは彼のためではないと思って身を引いたけれど、それは彼のためではなく保身のためではなかったか、と今更になってあれもこれもと、自分の犯してしまったことを責め続けた。
 「いや、でも、これで良かったのだと思おう。彼に私の病気のことを告げて、彼が去っていく姿なんて見たくなかったもの。それなら、今は思い切り辛い思いをしていても、時の流れがやがて浄化してくれて、いつかこれで良かったのだと心から思えるようになるはずだから」
 そんなことを思って慰めているうちに、日が経つにつれて、椿希の心も少しずつ穏やかさを取り戻すようになっていった。
 「精神状態が一時期不安定だったような時期もありましたけど、薬の量が減っていくらか楽になられたようですね。そういう副作用が出ることもあるんです、良かった」
 向日医師が、そう母に告げたらしい。自分ではごく普通に振舞っていたつもりでも、どうやら他人から見れば相当酷い精神状態だったのだろうかと思うと、一体どんなことをしていたのかと気恥ずかしい思いでもあるが、毎夜のように葵生のことを思って涙した日々が夢のように思えて、今となっては少し懐かしくも思うのだった。初めて感じた熱情に身を焦がしたことを思い出していた日々が嘘のようで、葵生への思いの正体が一体なんだったのか、結局椿希には分からないまま、病院での月日は流れていった。


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