年末になると何かと忙しなく、進路志望調査に基づいてそろそろ志望校を絞っていかねばならないし、また受験に向けて心も改めねばならない時期が来ているのだが、そんなことよりも今の椿希はいかに無理なく毎日を過ごすか、という、普通の学生ならばさして悩む必要のないことにぶつかっていた。少し前までならば椿希も若さから多少の無理は出来たけれど、徐々に飲む薬の量が増えていくにつれ、体にも負担がかかってしまっているので、徹夜はもちろんのこと、遅くまで起きていることで疲労を残してはならないので、他の学生たちから遅れを取らないか心配なようであった。ましてや、今が病気の急性期ということもあって、悪化に向かうその勢いは自分の体が徐々に侵されていくようで、身震いが止まらない。 葵生のいなくなった光塾では、当然葵生に代わって別の学生が一位を取ることになったわけだが、それでも葵生のように全ての教科において均等に良い成績を取れていたわけではなく、また二位以下を大きく突き放して一位を獲得するということもなかったので、葵生がいなくなって皆、彼がいかに特別に優秀な存在だったかを思い知らされたのだった。 桔梗は以前より葵生のことを良き競争相手として見ていたからか、 「なんだか味気ないよな。今回初めて数学で一位を取れたけど、俺の上にはいつも葵生がいたんだからな。しかも、あいつならもっと」 と、言葉を最後まで紡がず、少し寂しそうに呟いた。葵生ならばもっと良い得点で一位だったに違いない、とでも思ったのだろうか。桔梗はそれ以上言わなかったけれど、それを聞いて椿希は葵生のことを懐かしく思った。 「英語は私の方が得意だったけれど、葵生くんも頑張って伸ばし、成績を上方で安定させてきたから、私も油断すると抜かれてしまいそうで冷や冷やしていたものだった。お互いに切磋琢磨して受験まで進めたら、どんなに辛い受験勉強へ臨む心の負担が軽くなることか」 と、葵生がいなくなったことを心から残念に思っていた。 葵生がいたら、からかわれながらも「次こそは」と、少しでも葵生の成績に追いつこうと踏ん張れるのだが、目標を見失ったためなのか、大幅ではないものの、今回の椿希の成績は少し下降してしまっていた。今までが順調に伸びてきていたのでそれほどの痛手ではなかったけれど、それでも椿希にとってはがっかりするような結果であったのは間違いなかった。
年末年始は天候が大荒れとなり、来る日も来る日も灰色の空から雪が吹雪となって舞い、凍りつくような風が木々を薙いで行く。 窓をがたがたと揺らしていくのを部屋の中から見ていた葵生は、溜め息を吐きながら、見た目よりもずっと華奢な椿希のことを思った。彼女は風邪を引いていないだろうか、また医者に診てもらっているのだろうか、などと傍にいることが出来ない分、心配でならなかった。 同時に、今頃彼女の隣には誰がいるのだろうとも思う。以前から椿希に好意を寄せているらしい桔梗あたりがおそらく、筆頭となるのだろう。桔梗は朗らかな性格で、時々独善的なところがあるけれど、頼りない男に比べれば余程良いだろうと思われるので、まだ桔梗であれば安心は出来る。だが、もし藤悟だったらと思うと、居てもたってもいられない。幼馴染み同士で、しかも椿希は藤悟に対して絶大なる信頼を寄せているらしい。塾で二人が並んで立っているのを見ただけでも、もうそれ以上見ているのが辛い気持ちになったし、胸が苦しくなったものだった。 「俺の初恋は椿希であることは間違いないけれど、椿希の初恋は一体いつだったのだろう。彼女も中学受験をして女子校に入ってしまったから、もしかしたら今時が初めてなのかもしれないけれど、彼女には春成先輩という素晴らしい幼馴染みがいたようだし、それを考えるとやはり春成先輩だったのだろうか」 初恋など気にしても栓のないことなのだとは分かっているものの、藤悟と何かにつけて比べられていたのだろうかと思うと、恥ずかしいやら辛いやら。 ただ、別れの言葉を告げた日に語り合った様々なことや、感じた彼女の温もりや、伝えきれないほどの熱情など、ひとつひとつ思い出しながら拾い上げてみると、過去はどうあれとにかく彼女のことが懐かしくて愛しくて堪らないのだった。街を歩くたびに彼女の姿を探し、彼女の学校の制服を着た女子学生がいれば、もしかしてと胸をときめかせる。 そういう毎日が続いて、気がつけばもう一月も終わりに差し掛かっていた。葵生は分かっていてもどうにもならない心の荒みようを持て余して、ますます内緒にしているアルバイトに打ち込むのだった。そうして、身も心もぼろぼろになり、何も考えたくない状態にしてようやくぐっすりと眠ることが出来る。夢に彼女が現れて欲しいのが本当のところだけれど、後ろめたい気持ちにさせられてしまうのも事実なので、それならばいっそ見ない方が良いのかもしれないと思っていたのだった。
期末試験が終わったその日、試験勉強のため体に鞭打って徹夜しながら勉強を続けていた椿希は、重苦しい体を引き摺るようにしながら予約していた通りに外来に来ていたのだが、主治医である向日医師から、診察室に入って早々、 「冬麻さん、最近何かありましたか。急に数値が悪くなっているんですよ」 と言われてしまい、嘆息した。ああ、やはりそうかと自覚していたけれど、そんなに簡単に数値に出るものなのかと驚き呆れた様子で、 「いいえ。強いて言うなら、受験勉強が始まるから少し神経質になっていたかもしれませんが」 とだけ言った。 本当にその程度しか思いつかないので、椿希は受験勉強に取り掛からなければならないという心の重圧が病を悪化させたのだろうか、試験勉強に力を入れすぎたかと思って顔を赤らめた。 「今のうちに入院した方がいいですね」 向日医師がデータを何度も見比べながら言った。椿希は入院という言葉を聞いて身じろぎし、渡された患者用の控えのデータを見た。それほど酷いのだろうか、確かに体の調子は以前よりは悪いけれど入院するほどのものなのだろうか、と首を傾げた。 「本当を言うと、確かに外来で様子を見ても構わないんです。ただ、悪くなってから入院するよりは、今のうちに徹底的に治療して寛解状態に持っていくのがいいと思います。今のうちに入院するなら期間も短くて済むだろうし、受験勉強にも大きく響かないと思うけど、どうかな」 何度も外来に通っているうちに姉が出来たように思って、とても信頼している椿希は、確かに向日医師の言うとおりだと思って、 「今日は母が外の待合にいるので、母を呼んできてもいいですか」 と言って、外にいる母親を呼んできたのだった。母は何事かと思いながら診察室に入り、向日医師から現在の状態と今後の見込みについて話を聞いて、「まあ」と口元を押さえて驚いていた。まさか入院しなければならない事態になっているとは思いもしなかったので、少しうろたえた様子で、口元を押さえたまま固まってしまっていた。 「早ければ三ヶ月程度で退院出来ると思います。幸い薬との相性は良いようですから、思い切って入院してしまって、あとは受験に備えるというのはどうでしょう」 なんとしても受験勉強に差し障りのない一番良い方法を探そうとしたが、椿希も向日医師の言うとおり、今の状態から集中して治していけば良いのではないかと思って、母に対しても入院して治療したいと言った。 向日医師と母が状況と今後について話をしている間、椿希は鞄にぶら下げていた小さな熊の縫いぐるみを見て、切ない気持ちになった。そういえば、この縫いぐるみは葵生がくれた初めての贈り物だった。高価なものではないけれど、その方がかえって印象に残って恥ずかしくなる。熊のつぶらな瞳を見ていると、まるで葵生が見ているような気がして顔を赤らめた。 「入院することになってしまったこと、本当の葵生くんに知られなくて良かった。彼に迷惑をかけたくないし、今はどうか受験のことだけ考えていて欲しいもの」 そう強く思う椿希の健気な姿を葵生がもし見ることが出来るならば、心を入れ替えて勉強に打ち込んでいただろうけれど、会いたくても会うわけにはいかないのだからどうしようもない。入院するときに葵生がいないのがお互いにとって良かったことだと椿希は思っていたけれど、葵生の退塾を見計らったように悪くなっていった体調といい、運命がそうさせたような気がして不思議なことであった。体が弱くなってしまった我が身を恨むこともあったけれど、ただ葵生に知られなかったことだけが、せめてもの救いのように椿希は思っていたのだった。
期末試験が終わったため、もう学校の授業は中断されてしまうこともあって、登校日はまだいくらか残っていたけれど、椿希の母から担任教師に連絡して 直ちに入院することとなった。突然のことだったので光塾の誰に対しても告げることなく、数ヶ月ほど休むわけだが、そういえば一年前も長い間休んだから今更驚くこともないだろうと、それほど心配はしていない。けれど、これが入院のためではなく去年のように語学研修のためという理由であったなら、と思わずにはいられない。 妥子にだけは連絡を取っておこうと思って電話をして事情を説明すると、案の定驚いた声で、 「そんなに具合が悪いの」 と、迫るように言った。 「確かに前よりは辛い日が増えたけど、入院するほどだろうかと思っていたよ。入院するかしないか瀬戸際のところみたいだけど、このまま放っておいて、高三になってから悪くなったから入院すると、入院期間が延びるだろうし、それならいっそのこと今のうちにということになって」 と説明をすると、納得したように「なるほど」と言った。妥子は受話器を左手に持ちながら、右手で買っておいたその病気の本をぱらぱらと捲っていた。 「塾のみんなにはそのことをもちろん伏せるつもりなのでしょう。ただ、私も隠しきれる自信がない。何て言えばいいかな。椿希の言うとおりにするよ」 入院期間は短くて二ヶ月から三ヶ月、長ければ半年から一年近くになる人もいるという記述を見つけて、肺炎のように一週間程度で退院出来るわけではないので、それならば素直に言ってしまった方が楽かもしれない、と妥子は思った。 「入院のことはもう話してしまっていいの。もう何人か、私の体調の悪いのに気付いて気を遣ってくれているから。ただ、日向くんに一言伝言をお願いしたくて」 柊一に伝言、と聞いて妥子はもしやと思ったが、口を挟まず椿希の言葉を待った。数秒ほどして、椿希は意を決したかのように、少し低い声で言った。 「このこと、どうか葵生くんには内緒にしておいて欲しい、と。彼がもし私のことを尋ねるようなことがあったら、元気でやっているとだけ言って欲しいの」 妥子は口元を覆った。すぐに反応出来なくて、少し黙り込んでしまったけれど、ようやくのことで、 「うん、分かった」 とだけ返事をして、妥子は溜め息を吐いた。 病気のことも伏せて欲しいと言って、入院する今となっても伏せて欲しいと言って、本当に椿希はそれが望みなのだろうかと思うと、妥子の方が泣いてしまいたい気持ちになった。葵生から塾を辞めると聞かされた椿希は、その時に何を思ったのだろうと考えを及ばせると、これで隠し事が明らかにならなくて済むと安堵する気持ちよりも、隠し事をしながらでも、崩れそうな気持ちを寄りかからせる柱のような葵生にいて欲しいという気持ちの方が勝らなかったのだろうかと思った。 「椿希、葵生くんと何かあったの。何か聞いているの」 そう訊ねたい気持ちを抑えて、妥子は目頭を指で押さえた。 椿希には葵生のような男が似合う、と思ったのは直感だったけれど、それが正しかったのだと思っていた矢先に次々と当惑させられるような出来事が起きて、その上別れ別れになるとはあんまりだと、自分のことのように妥子は運命を呪わずにはいられない。
ちょうどそんな折も折に、葵生は何か予感を感じ取っていたのだろうか、普段から椿希のことを思う日々が続いていたのだが、いつもに増して彼女のことが恋しくてならなくなっていた。高校生にとっては長いような短いような、実質二ヶ月近い春休みを迎える前に、会えないならばせめて彼女がどうしているかを知りたくて、わざわざ柊一のいる教室にまで出向いて行ったのだった。 ちらちらと雪が舞い散る景色が、室内で暖房のよく効いた教室にいても寒さを身に感じさせるような寒色に彩られている。 柊一は突然の葵生の訪問に驚いたが、彼の姿を見つけるなり大方用事が分かっていたので、黙って葵生を教室の隅に連れて行った。 鈍くない柊一が気付いていないわけがないだろうと思っていたが、それでもやはり切り出すのには少し躊躇いがあって、葵生は外の景色を見て落ち着かせ、静かに息を吐いた。 「もう塾を離れてからかなりの日数が経ったけど、みんなどうしているかなと思っていてさ。今、誰が一位になっているのかとか、桔梗は相変わらずみんなの纏め役なのかだとか、笙馬は彼女と上手くやっているのかだとか、そういうことばかり気になっているよ。最近は羨ましくて仕方ない。俺も、少し前まではそこにいたはずなのにな、本当に残念だ」 相変わらずの無表情ながらもどこか寂しそうに見える葵生は、今更本音を隠してもどうしようもないというのに、切り出そうとしない。柊一はそこで、 「もうはっきり言っちゃえばいいのに。本当は一番気になっているのは冬麻さんのことだけなんでしょ。気を遣っているのか、照れ隠しなのか分かんないけど、隠すことなんてないんだから」 と、からかうように言うと、葵生は景色を見詰めたまま低く、「まあな」と言った。 「彼女は元気でやっているよ。努力家だから心配には及ばないよ」 そう言った後で、なんともぶっきらぼうには聞こえなかったか、適当に答えたように受け取られないかと思ったが、葵生は薄く笑った。 「そうだよな。そういう女性(ひと)だった」 椿希は表面的には元気で明るく繕っていても、本当はどうなのかは分からない。柊一は敏感な性質だから、完璧ではないにせよ、ある程度椿希の嘘を見抜くことは出来るだろうから、きっとそれは本当のことなのだろうと、葵生は思っていた。 知らず漏れた溜め息にびくりと体を震わせた。まるで隠していた本音が出てしまったようで、自分のことながら驚いて息を呑んだ。このことを椿希に報告されては困る。だが、出た言葉は違った。 「彼女が頑張っているのに、俺はこの様だ。とても顔を合わせられそうにない。ああ、こんなことなら何があっても離れるべきじゃなかった。どうして抗いきれなかったのか」 そんなことを思いながら自分自身の有様を恥じ、それでいて改善しようという方向に心が向いていかない情けなさに、また葵生の心はまた荒れ模様になりそうだった。このような物思いをするくらいならば、初めから彼女に出会わなければ良かったとさえ思うこともあるけれど、出会わなければ得られなかった喜びや感情、様々な悩みや幸せを知ることもなかったのだと思うと、やはり彼女の存在は深く刻み込んでおきたいのだった。 「女は魔性なんだから」と、いつか言っていた母親の言葉が身に染みる。彼女は意図していなかっただろうが、こんなにも心を惑わせ狂わせたのだから、十分彼女は魔性だったのかもしれない。だが、葵生はそれでも彼女を求めずにはいられない。求めているのに、それに伴うだけのことをしていないのだから矛盾も甚だしい、と思うのは他人事のように思っているからだろうか。
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