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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第46回   第二章 第九話 【霜柱】1
 流れる時間に身を任せ、ただ木々の移ろい行く色を眺め過ごしていると、いつの間にか冬が訪れていたことに気付いて、不意に寂しさを覚える。楽しかった日々や懐かしい人たちのことを思い返せば、しんみりとした気分になって、取り返せるものなら取り返して、宝物のような物事を慈しみながら日々を送りたいものだと思う。
 土曜日、濃紺の学生服たちが校門を通り過ぎていく中、その近くに数名の女子学生の姿が見える。葵生はそれを見つけると、あの中にもしや彼女が混ざっていないだろうかと、あの日から毎週土曜日になると、あるはずもない虚しい期待を胸に抱きながら、ゆっくりと歩いていくのだった。
 白い溜め息は儚くも宙に消え、落ち葉を踏む乾いた音は味気なく、目に映る景色は色褪せて見え、快活な笑い声はもはや過去のものとなってしまった。
 彼女がいなければ、動けない。
 葵生は情けないけれど、そう認めざるを得なかった。いつの間にか夢を叶えることよりも、夢を叶えることで得られるであろう彼女という存在の方が大切になってしまっていたことに気付くと、いくら母親の言うことだからといって、従ってしまったことに後悔ばかりが募っていく。
 大学に進学さえすれば会えるかもしれないと彼女は何度も言っていたけれど、あの広大なキャンパスでどうやって会うというのか。志望学部も彼女は文学部で、自分は医学部だというのに。その前に彼女が他の男に取られてしまうのではないか。そう思うと、何故しっかりと捕まえておかなかったのかと、自分自身に対しても怒りが湧き起こってくる。
 葵生は長くなった髪を靡かせながら、昇降口へと消えていった。それは校則に違反した長さで、何度となく生活指導の教師に捕まっては説教されていたのだが、葵生の耳には一向に入っていなかった。魂の抜けたような葵生は、彼女がいるであろう方向をじっと窓から虚ろな目で見詰めて、思いを馳せてばかりいるのだった。

 葵生のいなくなった塾では、誰も大っぴらに口にはしなかったけれど、初めの二週間ほどは皆が違和感を拭えないでいた。単に成績優秀者が抜けた穴が大きいと感じていただけではなく、無口で目立たぬよう行動していたような節の見られる葵生ではあったが、ただ教室にいるだけで洗練された空気の流れるような、人を惹きつける魅力を持った人だったからこそ、塾生たちの心に大きな風穴を開けることになったのかもしれない。
 振り返れば、いつもぼんやりと窓の外の景色を眺めていた姿が見え、絵画の中にいるかのような美しい人をもう見ることが出来ないのかと思うと、あまりにも突然いなくなってしまった人のことを懐かしいとも恋しいとも思うのだった。
 同じ高校出身の柊一は事情を知っているだろうということで、多くの塾生からの質問攻めに遭ったが、何も聞いていない柊一が知るわけもなく、結局のところ、何故葵生が突然塾を辞めてしまったのかは憶測で推し量るしかなかった。だが、やはり誰もが思いつくのだろうか、「きっと、予備校に移ったのだろう」ということで纏まったようであった。
 柊一もおそらく皆の言う通りなのだろうと思ってはいたけれど、葵生はそんなにあっさりと塾を辞めたのだろうかと疑問は残った。進学と恋愛との二つ道のうち、進学を選ぶという選択は葵生の立場ならば当然だし受験のことを考えれば正解であり、そうしたことで柊一の心は安堵したのだが、果たして葵生は心から納得してそちらを選んだのだろうかと思うと、どうしても心に引っ掛かるのだ。
 柊一は釈然としない気持ちで、椿希の様子を見守り、会話の中でそれとなく事情を知っているかを探るけれど、椿希はその話題を振られると、
 「葵生くんは皆の目標だったから、本当に辞めてしまったのは残念だね」
とだけ言い、それ以上続けることはなかった。椿希はただ静かに微笑むばかりで、どこといって変わった様子は見られなかった。
 高校ではクラスが異なるため、葵生と会うにはわざわざ教室まで出向かねばならないけれど、葵生の噂は時々耳に入ってくるのである程度の葵生の現状について予想はついていた。
 信じたくないけれど、葵生はもはや光塾の誰もが憧れた染井の君ではなかった。朝は遅刻する、突然早退する、制服をわざと襟元を開襟して、だらしなくカッターシャツの裾を学生服の下からちらつかせている。髪には艶がなく傷んでいて、後ろ髪が詰襟にかかるほど伸ばしっぱなしで、少しも進学校の学生とは思えないような乱れぶりであった。何度教師から指導されても直す気配はなく、教師が実力行使に出ようとすると、その気配を察知していつの間にかいなくなっているのだとか。
 そういう噂を聞くにつけ、柊一はやはり葵生は本心とは裏腹に塾を辞めてしまったのだろうと思い、どうにかして葵生に会って話をしたいところだが、あれこれと気を揉んでいるうちに日は過ぎていったのだった。

 妥子は心配で堪らなかった。ここ数ヶ月の間に、椿希の様子が変わってきたのだった。本人もとうとう辛いのを隠すことも出来なくなり、聖歌隊での活動もままならなくなって、ここのところは休み通しであった。倦怠感、微熱、関節痛が主症状であるらしいけれど、本当にそれだけなのだろうかと妥子は気になって、その病気の本を買ってきて読み通したものだった。
 薬の影響から、輪郭が少しふっくらとしてきて、見掛けはそれほどの大病には見えないのだが、元の顔立ちを知る妥子にとってはいたわしいことと、胸を痛めていた。椿希は冗談めかして、「太っちゃった」と言っているけれど、十代の娘にとって容貌の変化は相当辛いのか、身だしなみを整える以外で鏡を見ることはなく、友人たちが、枝毛が気になるだの前髪が揃わないだのと、特に用事もないのに休み時間のたびに鏡を見て騒いでいるというのに、椿希はそれを微笑みながら見ているだけだった。
 「薬が減れば、元に戻るんだって」
と、前向きな発言ですら無理をしているのではないかと痛々しく、妥子は祈るような思いで椿希の回復を願うのだった。
 それにしても、葵生が塾にいないというのは幸いだった。葵生が椿希を呼び出して欲しいと妥子に頼み、その内容は「いずれ分かるから」と言っていたことが、塾を去るということだったのだろうかと今になって気付いてみると、運命とは不思議なものだと思わずにはいられない。あれほど椿希は自身の病気について葵生に隠したがっていたけれど、その葵生が自ら塾を去っていって、その直後に椿希の病が勢いづくとはなんということだろうか。なんとか隠したくて気が張っていたのかもしれないと思うと、椿希の健気さには感心して溜め息も吐いてしまいそうなものだけれど、こうして椿希の様子が傍目にも辛そうなのを見ていると、こういうときこそ葵生が傍についていて欲しいのにとも願ってしまう。
 「椿希ちゃんは本当に大丈夫なの。まさかと思うけど、葵生と何かあったのだろうか」
 笙馬でさえそう思うのだから、塾生の何人かもそのように疑っていることだろう。椿希のふっくらとした顔を見て、事情を知らない浅はかな者たちはひそひそと、こう言い合っていた。
 「あの染井の夏苅くんが見たら幻滅するだろうね。本当、いい無様な姿」
 葵生に見向きもされなかったのが余程堪えていたのだろうか。そうであったとしても、椿希を責め攻撃するのはお門違いといったものだ。
 椿希にはそのような噂を耳に入れないよう、妥子や桔梗はそれとなく気を遣って、例の女子たちが集まって椿希をちらちらと見ているときにはわざと教室の外に連れ出したり、用事を頼んでその場から遠ざけるようにしたりしていたけれど、椿希とて自分が何を言われているか全く気付かないわけがなく、近頃は敏感に反応して相手を刺激しないようおっとりと構え、努めて鈍い振りをしているのだった。
 たとえ少々ふっくらとしていても、相変わらず顔立ちは端正であるので、以前は綺麗という言葉がぴったりだったのが、今は可愛らしさが増して、これはこれでまた良いのではないかと客観的には思われた。しかしながら、それを椿希に言ったところで慰めにはならないだろうけれど。

 椿希は元々努力家で、少々無理を押してでもやると決めたことは貫く性分だったのだが、それが災いしたのか、心労が重なったのか、とうとう冬の訪れを感じられるようになった北風の一段と強い日、塾を途中で早退して帰っていったのだった。
 その頃は頻繁に、机の上で肘を突いて手で顔を覆い、じっとしている姿が見られたので、誰が見ても椿希の体調の悪さは明らかだったので、「無理しないように」と念を押していた。だが、椿希は「疲れているだけだから」と言って、最後まで粘りに粘って授業を聞いているのだった。果たして授業の内容が頭に入っていたのかは傍目には分からなかったけれど、指の関節が痛いからかぎこちない動きをしながら文字を書く姿を見ていると、なんとか踏ん張らねばという椿希の常人の何倍もの意思の強さを感じられて、このことに関しては椿希の悪評を次々と並べ立てていた者たちも、驚き感心していたようだった。
 柊一はその様子を見るにつけても、自分の予想していた通りの展開に進んでいくので、もしやそのように考えたから、どんどんと椿希の容態が悪くなっていっているのではないかと恐ろしくなっていた。言霊というのを聞いたことはあるけれど、まさか考えていることでさえも一度願ってしまえば、醜い嫉妬心が力となって、椿希の運命を変えていったのではないかと、柊一は申し訳ないやら気味が悪いやらで、どうにかして椿希がなんでもなかったかのように元気に姿を現して欲しいと思ってばかりいた。そういうわけだから、罪滅ぼしのような気持ちで思い遣りのある言葉を椿希に掛けるようになったものだから、妥子や笙馬は怪訝そうな顔をしているのだったが。
 柊一は、兼ねてより椿希がもっと葵生に目を向けてくれるならば、この報われない思いもいくらかは救われるのに、と勝手ながらも思っていたものだった。だが、今は何故なのか葵生がもっと椿希のことを思っていて欲しいと思うようになったのだから、自分のことながら柊一は不思議で仕方がない。もし、葵生が椿希のことを気にしていて何をするにも手に付かないようなら、椿希の病気のことを知りうる限りすっかり話してしまって、どうかもう彼女を手放すようなことはしないで欲しいと懇願するのに、ともどかしくてならない。
 だがその葵生は得意の無表情にますます磨きがかかって、友人たちと話をしていても満面の笑みで笑うことがなくなった。口元を持ち上げるようにして笑っているけれど、心の底の悲しみの色がちらちらと見えるようで、時折クラスを訪れた柊一を居た堪れない気持ちにさせた。
 ただ、気のせいだろうか、柊一が葵生と廊下や昇降口で擦れ違うと、葵生が何かを言いたそうに一瞬こちらを見詰めていることがあった。あまり期待をし過ぎて後でがっかりするようなことがあっては、なんとも後味が悪くなりそうだから、と気に留めないようにしているのだが、本当はこちらから葵生に、一体何故急に変わってしまったのか、問い詰めたいところだった。だが、葵生は柊一のことを未だに苦手と思っているようなので、柊一から声を掛けるのも気が引けてしまっていて、結局お互いに何も出来ないまま何日も過ぎていたのだった。二人のどちらかが、もっと対人関係を築き上げるのが得意であれば、そのような『擦れ違い』はなかったのだろうけれど。

 元々、葵生は医学部進学するためには、光塾だけで受験勉強を続けるのは心許ないと考えていたため、いずれは医学部進学のための予備校に通わねばならないだろうというつもりでいた。だから、今、こうして予備校に通っていることについては不満などないのだが、光塾を辞める必要はなかったのだと、未練がましく何日も何度も繰り返し思っていた。
 新しい予備校でも目指すところが同じであるためか、すぐに相談相手は出来たけれど、光塾のように友人だとか戦友だとか、そういう親密な間柄になれそうな関係ではなく、非常にからっとしたものであったので、なんとなく物足りない。以前の葵生なら、光塾に入る前であったなら、中学受験の時の雰囲気に似ていて、そういう関係の方がむしろ心地良いと感じただろうが、あの無邪気に遊んではしゃいだキャンプのことや、椿希の学校の音楽会に皆で聴きに行ったことなどを思い出すと、ああいう仲間がいて、適度に遊んで発散していたからこそ勉学への意欲も増して、熱心に打ち込めたのではないかと分析をする。
 受験生になると、もう遊んでなどいられないというのは分かっているけれど、辛い受験勉強も、戦友と呼べる仲間がいれば然程苦にもならず乗り切れるような気がしていたので、葵生はそんな大切なものを失ってしまったと感じて、心の中が空っぽになってしまったように虚ろな目をしていた。
 そして、何よりも毎日のように心の中で叫び続けている、椿希のことは一緒に過ごしていたときよりももっと、葵生の心を大きく占めるようになったようだった。
 会えないからこそ思いが募り、連絡が取れないからこそ消息が気になって何にも手がつかない。このような有様を椿希が見たら幻滅するだろうか、と自嘲するくせに直そうとしないのだから困ったものだ。葵生がそのように落ちぶれたような姿になって立ち直ろうとしないのは、椿希の責任にしているようなものだということに、彼はまだ気付いていなかったのだから。
 予備校のない日は、よく街のゲームセンターに行ってゲームに没頭していた。参考書や問題集を買うと言って親から多めに貰った小遣いを使って、それでも足りなければ校則で禁止されている短期のアルバイトで、土日の間に稼いだものを使っていた。有益なものではなく、無益なものにお金を使う方が、今の葵生にとっては、心境をこういう風にしか表せないのを示しているようで、相応しいようだった。
 伸びた髪を、尾の部分の長さは短いけれど一つに括って作業をしやすいようにしていると、時々、
 「本当に遠目から見ていると綺麗な女の子がいるって思うんだけど、近づいたら髭があるんだもんなぁ。それと、喉仏と」
と言われていた。髭を剃ってすっきりしたい気分でもないから放っているだけだったが、鏡で改めて見ると、決してお洒落で伸ばしているわけではないから、長さも均一ではなくてまばらで、だらしないと他人に思われても仕方のない有様だった。流石に不精髭はすぐに剃ったが。
 沈んだまま浮かび上がろうとしない心は当てもなく彷徨い、行き先も定まらないまま薄暗い中を頼りなく進んでいるようで、葵生は深く嘆息した。
 外の曇ったままの天候がやけに葵生の心の色にぴったりのようであった。


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