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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第44回   第一章 第八話 【薄月】
 その日は夏の残していった、うだるような暑さが和らいでいて、むしろ秋の訪れを感じさせるような涼しげながらも、肌には寂寥感を感じさせるような、ひんやりとした感覚が残り、どことなくいつもと違っているようであった。あれほど喧しく鳴いていた蝉もぱったりと姿を消してしまっていて、やがて人が気付かぬうちに、いつの間にか葉は色づき紅や黄の衣を纏うようになるのだろう。普段は何もかもが当たり前のように身の回りにあるものだから、特にありがたみを感じないというのに、ぱたりと失ってしまってから、あのときもっと目を留めて見詰めて感じていれば良かったと後悔するのは、どれほど年齢を重ねても治らないのかもしれない。世の中は無常であるというのは、もう何百年も前から分かりきったことで、『諸行無常の響きあり』とはよく言ったものだと、こういうときにしみじみと心に感じ入るのであった。
 葵生と椿希の二人は、あの花火大会の行われた川よりは上流にあたる、塾に程近い河川敷に来ていた。川幅は下流よりも狭くて向こう岸の建物や家がかなり大きく見えるのだが、人影もほとんどなく、時折自転車に乗った人や犬の散歩で出歩いている人がいる程度で、このように話し込むような姿はどこにも見受けられなかった。
 河川敷の草が濡れて湿り、ところどころ太陽の光を受けてきらきらと小さく輝いているのが、いかにも控えめに秋らしさを醸し出しているようである。
 椿希はもしかしたら来ないのではないかと思っていた葵生は、前と同じように待ち合わせ場所に時間より少し早く現れた彼女を見て、心を震わせ、いたく感激した。しかもうっすらと微笑みを湛えながら小ざっぱりとした、いつもと同じ姿に、「良かった、嫌われたのではなかったのだ」と葵生を十分に安心させたのだった。
 「来てくれてありがとう。この前は、ごめんな」
 思ったよりも素直に言えた。椿希は頷いた。
 手を繋ぎたいと思った葵生だったが、手を伸ばさずそのまま握り締め、「行こう」と言った。人々の笑い声も聞こえ、時々往来する姿もあったのだけれど、もはや葵生は椿希しか見えていなかった。緊張のあまり、喉が絞られて痛くなった。
 葵生は先ほどからずっと黙ったまま、椿希の数歩先をゆっくりと歩いていた。椿希は葵生を追い越すこともなく、彼女もまた無言で彼が何か言おうとするのを待っていた。椿希はあの給湯室での一件からどうしても葵生の考えていることが読み取れず、あのような激しい感情を突然ぶつけるだなんて思ってもいなかったから恐ろしく、こうして二人きりでいるのも気まずくて、早く解放されないだろうかとばかり思っていた。そんな風に思っているにもかかわらず、どうして最近落ち込んでいるのか、元気がないのかと訊ねたいこともあるので、心中は複雑である。
 そんな彼女の思いなど知るわけもないのだが、葵生はベンチを見つけると、そちらへ行こうと促した。椿希は少し躊躇った様子を見せたが、葵生の表情は緊張というよりも思い詰めたような重苦しい色をしているので、何か悩み事でもあるように見えた。悩み事を打ち明け、相談したいことがあるのかもしれないと思った椿希は、葵生の後を数歩ほど遅れて歩いていた。
 ベンチに座るとき、葵生は何も気にすることなく座ったのだが、椿希はほんの少し間を空けた。それがいかにも警戒しているようで、不自然に思われはしないかと気になっていたが、葵生はちらとその隙間を見ただけで何も言わず、息をゆっくりと吐いて気持ちを整え、慎重に言葉を選びながら言った。
 「ちょっと馬鹿な話をするけど、是非椿希には聞いて欲しいんだ」
 葵生は水面を見つめ、心を落ち着かせた。
「思い上がりも甚だしいと思うけれど、俺は欲しいと思ったものは何でも手に入ると思っていたんだ。学力が欲しいと思えば、努力すればそれは叶えられたし、バスケの三点シュートが出来るようになりたいと思ったら、少し練習すればすぐに出来るようになった。何か努力すれば、それ相応の見返りが得られると思っていたよ。だから高校を卒業したら、希望通りの進路に進んでやがて希望通りの仕事に就く、それが当たり前のように出来るものだと漠然と思っていたんだ」
 葵生は少し遠くに流れる川を眺めながら、焦点もきちんと定まらない目で言った。少し掠れた声や節なげな表情からは、本当に深く悩んでいるのが分かるようで、椿希も身じろぎ一つせず、じっと聞いていた。
 「何もしないで何かを得られるとは思っていなかった。頑張れば、それ相応の結果が得られる。そう、中学受験の時に塾の先生に教わっていたのを、俺はずっと信じていたんだ。馬鹿げていると思うかもしれないけど、そう信じたかったんだ。だんだんとそうはいかないことも分かってきたけれど、夢を叶えるっていうのは努力の成果だと思ったから。だから、きっと、そう、いつか一緒に、椿希と」
と、言葉を詰まらせて上手く紡げない葵生を見ていると、いつものあの自信に満ち溢れていて、受け取りようによっては少し高慢とも思えるような態度ではあっても、それがかえって頼もしく思えるような凛々しさは幻だったのだろうかと勘違いしてしまいそうなほどの憔悴ぶりなので、椿希は思わず葵生の顔を覗き込んだ。葵生は顔を伏せて、ぐっと涙を堪えて手を握り締め、唇を噛んだ。顔を上げて椿希を見たとき、椿希の大きな瞳とぶつかり、顔を真っ赤にさせて慌てて居住まいを正した。
 「いや、だから、とにかく、俺は思い上がっていたということなんだ」
 そう言って一息吐いた。
 「こうなるのもその報いかもしれないと思うと本当に情けないけれど、誰よりも早く椿希に知って欲しかったんだ」
 椿希が怪訝な顔をして、
 「思い上がりの報いで、何かあったの」
と訊いた。葵生は椿希の顔を見詰めた。黒目がちの目で、自分を覗き込んでいるのがなんとも可憐で、愛しい、と思った。二人の間にある僅かな隙間は、今座っている空間だけではなく、体や心の隔たりでさえも埋め尽くしてしまいたいほど、堪らなく彼女のことが愛しいのだ。
 震える唇をなぞる風が、次の言葉を出すのを躊躇わせる。
 「一緒に受験の日を迎えて、一緒に大学に入学する、そんなことは俺が望んでいたものの中でも、一番簡単に叶えられることだと思っていたよ。簡単だと思っていたことが、実はものすごく高い壁だっていうことに気付かなかっただなんて」
 椿希はもしやと思ったが、口に出さずにいた。左手で口元を軽く覆いながら、溜め息が漏れそうになるのを堪えている。
 「俺、来月から医歯薬学部進学のための予備校に通うことになったんだ。光塾との両立は、家計が苦しくなるから出来そうにない。日にちも重なってしまうから、絶対に辞めなくては。だから、もうじき、さよなら、だね」
 そう言い切ると、はあ、と葵生は息を吐いた。風が涙を連れ去って、目頭が熱くなるのを感じながらも頬には何も伝わらず、それがなんともあっさりとしていて、葵生は風情も何もあったもんじゃないな、と思った。だけど涙を椿希に見せるのはもっと格好の悪いことだから、これはこれで良いだろうとも思う。悔しさと別れを告げた辛さとで体が小刻みに震え、喉元が熱くひりひりと痛い。握り締めた拳は堅く、爪が皮膚に食い込んで痛い。
 椿希は口元に当てていた左手を軽く閉じ、胸のところに当てた。何か言いたいけれど、上手く言葉が出てこなくて、自分がどういう表情をしているかを考える余裕もなくて、困惑しきってしまっている。
 葵生は、涙を出すのだけは避けたいけれど、もうこの際無様な姿を残すことになろうと構わないから吐き出してしまおうと思って、
 「本当は辞めたくなんかないよ。家計が苦しいだなんて嘘だ。掛け持ちしてもいいと、この前まで母さんは言っていたのに。光塾に通いながら、家庭教師を付けるなり別の予備校に通うなり、手は打てるはずなんだ。だけど、俺はまだ子供だから」
と、勢いのままに言い切った。激しい口調で、訴えかけるような葵生に対し、椿希は首を横に大きく振った。頬を赤く染め、悲しそうな顔をしている。目の前にいる愛しい人の初めて見る悲しげな顔を見て、胸が痛くて堪らない。
 「寂しくなるのは葵生くんだけじゃないよ。みんなは葵生くんは何でも出来る人だと思っていたみたいだけど、本当は人の何倍も努力して得た結果なんだっていうことを、私はずっと前から気付いていたの。だから、塾の誰よりも尊敬していて、いつかあなたに追いつきたい、追い抜きたい、そのつもりでいたから私も頑張れたんだよ。だから、葵生くんがいなくなるとすごく寂しくなる。きっと、目標を見失って呆然としてしまう気がする」
 声を震わせながら話す隣の椿希を、思い切り掻き抱きたい衝動が沸き起こる。初めて聞いた本音に感動しながらも、これが最後かもしれないと思うと一言も漏らすまいと、耳を傾ける。これが最後でなければ、どれほどの喜びだろうかと、葵生はもう体中が震え出して止まらない。
椿希は口には出さなかったが、
 「葵生くんの進もうとすること、しようとすることが明らかに間違っているのなら止めるけど、将来の夢に向かって突き進もうとしているのに、それを私が妨げるようなことをする権利はどこにもないもの」
そのように思って、次の言葉を待つ葵生に目を向けた。手を組んでじっとしているのが、心底塾を辞めてしまうことが辛そうなので、椿希もなんとか声を掛けてやりたいし、背中を押してやりたいけれど、葵生の心の中にあまり深く自分を刻み込むということで執着心を残してしまって、受験勉強に手がつかないようになってはいけないような気がして、次の言葉を上手く紡げない。
 「でも、受験が終わったら会えるよ。志望大学が同じなんだし、きっと塾の同窓会もあるはず。だから、ほんの少しのお別れだね」
 葵生に気を遣って軽く言った言葉が、かえって葵生の心に深く刻み込まれる。
 確かに志望大学は同じだけれど志望学部が異なるうえに、キャンパスも二つに分かれているとなると、そう簡単に会うことも出来ないだろう。塾の同窓会だって、最後まで塾にいて卒業するのではないというのに、果たして皆から誘ってもらえるのだろうか。いや、そもそも大学受験に合格するかどうかすら分からない。特に葵生の場合は医学部進学だから、場合によっては今の大学から変更して、少しでも入りやすいところに変更するかもしれない。そんな酷く消極的なことばかり考えているからか、葵生の顔は椿希の言葉を受けても少しも曇りが取れず、引き攣った笑みを浮かべるばかりであった。
 気休めに過ぎないようなことを言ってしまった後悔からか、椿希の表情もどことなく暗いようである。それは、本当は葵生の突然の告白に戸惑い辛く思っているのか、それとも葵生の心中を察して同情しているのか、葵生には悟ることは出来なかった。
 これきり会えなくなるというわけではないはずなのに、何故こんなにも辛いのか葵生には分からなかった。ただはっきりとしていることは、椿希が海外語学研修としてアメリカへ行っていたときと違って、必ず時が経てば再会出来るというわけではないということだった。離れている間が、高校卒業までの残り一年半だけという制限があるのなら、これほど悲しみに沈むこともないはずだけれど、今初めて二人の関係が先行きの不安定なものであるかと気付き、あれこれとしておけばよかったことや、言いたかったことを伝え切れなくて、悔やむことも多いのだった。
 二人は言葉少なではあったが、色々と思い出を途切れ途切れに語り合った。夏に比べて短くなった昼の時間のせいで陽の沈むのも早くなり、急かすように次々と周りの街灯の明かりが点る。言いたいことは山のようにあったのに、それがどうして当人を目の前にすれば言葉に詰まるのだろうと、葵生は情けない気持ちと名残惜しさで切なくて堪らない。
 河川敷を離れて塾の近くを通り、駅に近づくにつれて胸の潰れるような思いに駆られ、半歩ほど後ろを歩いていた椿希の右手を捜して手繰り寄せるように指を絡めた。もう何もしてこないだろうと思っていた椿希は内心は驚いていたが、ぴくりと反応することも顔を合わせることもなく、葵生の手に細い自身の指をそっと添えるようにした。もしかしたら、椿希も名残惜しいと思っていたのかもしれない。
 「もう少しだけ、話が出来ないかな」
 駅前の広場が見えてきたところで、ぽつりと葵生が言った。天気の良かった空の雲行きが怪しくなり、立ち込めてきた灰色の雲が今にも雨を降らせそうな様子なので、もう解散して家に帰るのが良いのではないかと普通ならば思うところだが、椿希は静かに頷いた。
 「ありがとう」
 葵生は少し笑った。椿希は、微笑んだ。
 二人きりでいるのが怖い、と思っていたはずなのに、何故か葵生の誘いを断れなかった椿希は、半ば夢見心地で歩いていた。葵生は椿希と会うのはこれが最後かもしれないと思って、なかなか手放せそうになかった。
 それから二人が、どこへ向かっていったのか、行方を知るのは、夜空にぼんやりと輝く薄月だけだった。


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