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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第43回   第一章 第七話 【花火】12
 葵生は藤悟に相談したことで心境に何かしらの変化があったのか、塾の教室に踏み入れても心が震えてしまっていて、油断すると涙が零れ落ちそうになるのを堪えていた。男なのにと言い聞かせ、なんでもない振りをして過ごす。何かに耐えようとしている様子は、すっかりと萎れた花のようで、風が吹けば散ってしまいそうなほど弱々しかった。
 十七歳とは十代でも最も良い年齢だと、よく父に言われていたけれど、葵生にとっては思い返せば悩み深い年齢であった。たかだか十七年余りしか生きてはいないけれど、今が最も濃密で苦しくて、進学と恋愛との悩みが常に心の中を大きく占めていた。
 もし、こんな進学校ではなくて、何かしら行事があるたびに一致団結して盛り上がることの出来るような高校に通っていたなら、人並みに恋愛をして、人並みに大学に進学して、就職して結婚して家庭を持つ、そんなごく平凡な人生を過ごすことになるのかもしれない。多少の波乱はあれど、大きな波風も立たせることなく、淡々としているけれど平和に過ごすことが出来る。かつては詰らないのではと見くびっていたが、今では、葵生はそんな人生もまた良いのではないかと思っていた。何も人より優れた大学に進学して、名声あり尊敬される仕事をして、もしかしたらどこかの令嬢と見合いをするかもしれない、そんな人生を葵生は望んでいなかった。
 心の震えがずっと止まらない。顔は極めて平静で、相変わらず整った精悍な顔立ちからは特に変わった様子は微塵も感じさせなかったけれども、葵生の心はずっと泣いていた。とめどなく流れる涙は滝になり、それが心を震わせて葵生の表情を曇らせていた。普段からはにかむような笑みを作ることが多く、満面の笑みを向けるのは決まって椿希に対してだけだった葵生が、たとえ表情を曇らせていても、誰もそれが葵生の心境の変化によるものだとは思ってはいなかった。ただ、少しばかり虫の居所が悪いのだろう、というだけで。
 だが、椿希を見詰める視線はあくまでも優しく穏やかで微笑みを形作り、愛しい人を見詰める目はこの上なく優美で見惚れそうであった。椿希だけは、そんな葵生の様子がどこかいつもと違うのに気付いていたが、少し前のあの給湯室での一件のことが思い出されて、ただ見守ることだけに留めていた。何もしなければこんなにも穏やかな人なのに、その瞳に宿す激しいものにまた囚われてしまうのが怖くて、目を逸らしてばかりだったのだ。

 もう花火の季節が終わり、少しずつ暑さも和らいで秋が近づいてくると、いよいよ塾生らは受験に向けて気持ちを入れ替えたのか、浮ついた会話や下らないことで漏らす笑い声も少しずつ消えていった。そのように、当たり前のようにぱたりと話題も心持ちも切り替わってしまうことが、葵生には寂しいように思えてならなかった。
 これから先のことが不安で堪らない葵生は、せめて支えが欲しくてより一層勉強に打ち込んだ。何かに没頭していなければ自分が崩れてしまいそうで、心に何か悪いものが付け入る隙を与えぬようにと、葵生は必死だった。時々訳もなく頬を伝うものがあったが、それをごしごしと手の甲で拭いながら、もう椿希のことですら考えることもなくなっていた。
 お陰で、その後すぐに行われた模擬試験は過去最高の成績を獲得し、英語も初めて椿希と同点の一位となったのだった。
 ざわつき色々と噂し合う塾生たちの声は葵生には届かず、いつか言いたかった「やっと追いついた」と誇らしげに椿希に言える元気もなく、葵生は虚ろな目で掲示板を見詰めていた。嬉しいはずなのに、終わってしまったという思いで、ただただ悲しくて切なくて、物を考える気力も湧かなかった。
 「葵生、お前大丈夫か。顔色悪いぞ」
と、流石に様子がおかしいことに気付いた桔梗が心配そうに言ったが、葵生はただ「大丈夫だから気にするな」と言うばかりで、誰からも話し掛けられないよう、どの塾生たちからも距離を置いていた。休み時間になると黙って教室を出て行き、階段のところで時間を潰し、帰るときには真っ先に教室を出て挨拶もせずに帰って行く。
 「何かあったのだろうか」
 いよいよ塾生たちがあれこれ噂をするけれど、その噂も勝手なもので、きっと勉強のしすぎで追い詰められて軽いノイローゼにでもなったのだろうということばかりが出回っていた。そういった口さがない塾生たちの声も葵生には届かず、葵生はすっかり塞ぎこんでいて、暗い世界に閉じこもってしまっているのだった。
 椿希は、もしや自分があのとき拒むようなことをしたからだろうか、と気になっていて、なんとか葵生と話す機会がないものかと機会を窺っているのだが、いよいよ葵生が椿希に対しても心をすっかり閉ざしてしまっているので、未だに一度も会話をすることがなかった。だけど、あのときは葵生が恐ろしくて、拒まずにはいられなかったのだからほかにどうしようというのだろうか。椿希が責任を感じることはないのだが、自分のせいではないかと気に病んでいる様子である。
 椿希は葵生のことが気掛かりではあったけれど、あのときの恐ろしい思いに怯えてしまっていて、とても葵生をわざわざ捕まえて訊ねる気にもなれなくて、そのまま何日も過ぎてしまっていた。葵生にとってみれば、自業自得なのか、それとも不器用すぎるというのだろうか。
 最後の花火大会が、県境で行われたらしい。
 そのことを聞くにつけ、葵生はかの夏の日のことがありありと思い出されて、涙ぐんでは仕舞い込んだ思いを少しずつ拾い上げて、ひとつひとつの出来事を懐かしんでいた。

 ある日、椿希が聖歌隊の練習のために一日だけ塾を休んだ日があったのだが、その日は丁度葵生が椿希にどうしても会って話したい用事のある日だったこともあって、伝えたいことを纏めて今日こそ話そうと意気込んでいただけに、なんという擦れ違いだろうと葵生はがっかりしていた。
 普段ならば別の日にでもと思うところなのだが、そのときは相当の決心があったのだろうか、このまま引っ込むのも良くないような気がして、葵生は妥子にこのように伝言を頼んだ。
 「話したいことがあるから、時間を作ってくれないだろうか。土曜でも日曜でも構わないので、出来るだけ早くに」
 妥子は怪訝そうな顔をして、
 「どうして本人に直接そう言わないの。大事な話なら、私を通さないで直に話した方がいいよ」
と言った。おそらく妥子も葵生が椿希を避けているのに気付いているのだろう。思慮の深い、聡明な妥子のことだから、もしかしたらもっと気付いていることがあるけれど、敢えて語らないだけかもしれない。
 「ごめん。いずれ分かることだから、今回だけ頼まれてくれないか」
 葵生の切なく揺れる瞳があまりにも美しく、僅かに潤んだ目がきらりと光ったようにも見えた。そんな姿を見て、心を動かされない者がいるだろうか。妥子は心がぎゅっと締め付けられて流されそうになるのをどうにか抑えながら、
 「分かった」
とだけ言い、それ以上は何も訊ねることはなかったのだった。

 妥子はどうにも胸騒ぎがして、登校する間もずっとあれこれと葵生が何を言おうとしていたのかを考えていた。葵生があんな顔をするなんて余程思い詰めていたのだろうと思うといたわしいのだが、恋に惑わされると、いかに沈着冷静で頭脳明晰な男でもあのように苦しむものなのだろうかと、妥子は悩ましく思っていた。
 「葵生くんが椿希に用事があるから、土日でも構わないから出来るだけ早く、時間をくれないかって言っているんだけど」
 登校したばかりの椿希に突然そう言ったので、椿希は驚いた様子で目を丸くしながら妥子を見ていた。妥子の表情は、葵生に何も訊ねられなかった分、椿希に色々と訊きたくて、問い詰めようとするような真剣なものであったので、椿希もすぐに鞄を机の横に引っ掛けると妥子と向き合った。
 「葵生くんが時間を欲しいって言ったのね」
 確認するように椿希が言った。妥子は頷いた。
 椿希は考えを巡らせると、思い当たることといえばあの給湯室の件について、詫びようとしているのか、それとも思いを伝えようとしているのかのどちらかしかなかった。実はそれらの考えは全く違っていて、純粋に何か別の用事があるだけかもしれないが、今回に限ってはその予感が全くしなかった。だけど、詫びることでも告白でもない、そんな気もして椿希は表情を堅くした。
 「思い当たるような、思い当たらないようなところかな。分からない」
 椿希は嘆息しながら言った。
 「でも、葵生くんは『いずれ分かること』と言ったよ」
 妥子が間髪入れずに言った。妥子の口振りから、妥子が何を考えてそう言ったのかが読めて、椿希は、
 「違うと思う。違うはず。私はそんなつもりはないもの」
と、首を横に振りながら言った。妥子は椿希の腕を掴み、上目遣いで椿希の目をじっと見詰めた。妥子の訴えるような眼差しが痛いけれど、椿希はなおも首を横に振る。
 「どうしてそう思うの」
 妥子が珍しく食い下がるので、椿希は少しその様子を不思議に思ったが、落ち着きを払った声色で言った。
 「そういう話なら、きっと直接私に言うはずだから。塾が終わってどんなに私が早く帰ろうとしても、必ず捕まえるはず。そういう人なのよ、葵生くんは」
 今度は妥子が驚いて目を丸くした。椿希は葵生について断言するようなことをそれまで言ったことがなかった。確かに、葵生が妥子を介して告白するなんていう回りくどいことはしないだろう。告白するならば、妥子を介して呼び出さなくても、時間のゆっくり取れる別の日にでも椿希本人を直接呼び出せば良いことなのだし、これから告白するとわざわざ宣言するようなことを、恥ずかしがりの葵生がするはずがない。椿希が逃げるかもしれない、と懸念しているのならば口頭でなくても、紙切れをまた以前のようにそっと椿希に渡すなり筆箱に忍ばせるなり、方法はいくらでもあるはずだった。いくら葵生の気持ちを妥子が知っているからと言っても、葵生の一途な性格ならばそのようにはしないだろう。
 椿希は溜め息を吐いた。やはり葵生の考えていることは読めない。分かりやすい行動を取ったかと思えば、そうではないような素振りを見せるものだから、つくづく葵生のことを「よく分からない人」と思うのだった。今回も、一体どういうつもりなのか分からず、困惑した色を抱えたまま椿希は心の準備も出来そうにない。
 「聞いてもいいかな。椿希は葵生くんのことをどう思っているの」
 妥子が躊躇いがちに言うと、椿希はまた無意識のうちに小さく溜め息を吐いた。
 「分からない。友達として大切だとは思っているけど、友達以上とも以下ともはっきりとは分からない。ただ、最近は葵生くんと一緒にいるのが、実はもう辛くて堪らないの。出来るだけ離れていたいと思うの。怖い。見てしまったような気がするから、葵生くんの深いところにある、どろどろとした熱い激情のようなものを」
 椿希は自分の腕を抱き締めるようにして、表情を強張らせながら静かに言った。半袖の制服から見える細い腕を掴む繊細な指が僅かに震えているようなのを見ると、妥子はさては葵生と何かあったのだろうかと察して、椿希を見詰めたまま言葉を探した。
 「葵生くんが、怖いのね」
 妥子はそう言って視線をまた椿希の腕のあたりに遣った。
 あまり葵生の内面を深く知る機会のなかったはずの妥子でさえ、椿希が言う『熱い激情のようなもの』が分かるような気がしていた。柊一に対して激怒したあのことを椿希は知らないけれど、あの時に垣間見た葵生の中に燃え滾る熱いものは、ほとんどの塾生はもう忘れてしまったかもしれないけれど、妥子の中にしっかりと植えつけられていた。
 だが、椿希がそこまで何故怯えるようにしているのかとも思う。あれほど純粋な思いを抱いていた葵生が、果たして椿希を傷つけるようなことをするだろうかと、妥子には信じられないのだ。もしかすると知らず、妥子は葵生に同情するあまりについ彼の肩を持つようになってしまったのかもしれないけれど、それも無理のないほどの葵生の恋のやつれぶりはなんとも艶やかで、同情してつい恋の手引きもしてあげたくなるほどの有様だったのだから。
 いじらしくも哀れな様子の椿希ではあるが、椿希もきっとひと時の気の迷いや、葵生の有り余るほどの愛情に戸惑っているのだろうと妥子は思って、
 「私がこう言うのもなんだけれど、葵生くんほど限りない気持ちをぶつけてくれる人はこの先そんなに現れるものなのかな。大人になれば、色々と世間のことも知ってしまうから様々な駆け引きや損得などを考えて、純粋な気持ちを持ち続けることは難しくなるものなんじゃないかな。現役の高校生たる私たちだからあまり客観的なことは言えないだろうけれど、多分、そうなんじゃないかと思う」
と、それとなく葵生を受け入れるよう促すものだから、椿希は俯きながらもどうしていいのか分からず、顔を伏せた。
 指先でそっと触れた唇に残った葵生の感覚がありありと蘇って、椿希は顔を赤らめて首を横に振り、妥子に顔を見られないよう背けて、様々に巡る思いの行方を、途方に暮れる思いで捜しているのだった。


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