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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第42回   第一章 第七話 【花火】11
 母と距離を置くようになったのはいつの頃からだろう、と葵生はぼんやりと電車の中で考えていた。姉の結婚式の後、家に帰って父のいる前で恋人がいるのではと問い詰められ、まるで被疑者への尋問のようにしつこく根掘り葉掘り聞くのだから、葵生はいい加減見境なく怒り出して、話を切り上げてしまおうかとも思ったが、父のいる手前それはしなかった。いや、父がいなくてもそのような不埒な行動はしなかったかもしれない。葵生が本気になって怒れば、母もきっとそれ以上追及することもなく黙り込むだろうけれど、そうすることが得策とは思えないのは、母を傷つけるからということもあるけれど、母によって椿希がますます貶められていくのが耐えられそうにないからだった。葵生が椿希のことを庇えば庇うほど、母はむきになって葵生の『恋人』を悪女呼ばわりして蔑むだろうから、ここは葵生が耐えるしかなかったのだった。
 母と距離を置くようになったのは、思い返せばもうずっと昔の頃からだったかもしれない。何故これほどまでに執着されるのか分からないでいる葵生にとっては、付き纏うように干渉してくるのが重々しくて、しかし振りほどこうにも親だから出来ないでいるのが悔しくてならない。赤の他人ならば思い切って突っぱねることが出来るものを、いかに疎んじていても正真正銘血の繋がった親子であるのだからと、葵生は思い切れないでいるのだった。
 ここのところ溜め息が多くなったと自分でも感じるほどに、すっかり気持ちが塞ぎこんでしまっているので、塾がお盆休みに入った今、電車に乗って当てもなくぶらぶらとして、少しは気を紛らわせることにした。定期券で買ってある学校の最寄りより先の駅にはあまり行くことがなかったので、そこを過ぎて、見知らぬ街の風景が窓の外に映し出されると、先ほどまでの鬱々とした物思いもいつの間にか消えてしまったようで、葵生は見入ってしまっていた。街の景色といっても、どこもそう変わりはないようだけれど、背の高いビルばかりが立ち並ぶところや、建設中のマンションなどを見るにつけても、小旅行をしているような気分になれて新鮮であった。
 どこへ行くか決めていなかったけれど、視界に海が見えて来ると急に胸が熱くなり、目にきらきらとした輝きが集まってきて心が躍り揺れる。埋立地の向こうに見える群青の海が太陽の光を受けて、宝石を散りばめたようなのが、年齢以上に大人になり過ぎていた葵生を童心に戻らせるようであった。
 港のある駅に降り立ち、土地勘もないところなので、とりあえず葵生は出来るだけ海に近いところへ行こうとすると、大きなショッピングセンターがあるのが目に留まり、そちらへ向けて歩いていった。そういえば最近出来たと噂に聞いたことがあったけれど、聞き流してしまっていて、こうしたついでに思い出すと、自然と惹かれるように足が向いたのだった。
 葵生は海風を頬に感じながら、夏休みなので連れ立って歩く親子や恋人たちを見て、どうせならばあの花火大会の時のように椿希がいてくれたらと思わずにはいられなかった。こんなにも彼女のことを恋しく思い、花火のことや天体観測のことなどの美しい思い出ばかりを拾い上げては、じんわりと心を慰めるのが日課のようになってしまっている。
 建物の中は小洒落た雑貨屋や古着屋、輸入物の生活用品など、ほんのちょっとしたものでも異国的で、和風のものを取り揃えた店を見つけても、そういったものばかり置いてある店が自宅近くにはないので、日本にいながらにして外国に来たような不思議な感覚に陥っていた。高い天井は吹き抜けになっていて明るい光を取り込み、噴水が水音を立てている周りを子供たちが歓声を上げて遊んでいる。なんとなく場違いのような気がしたけれど、色々なものに目移りしてしまって、葵生はほうと溜め息を吐いた。椿希の好きそうな店があるけれど、彼女と一緒に買い物をするのもなかなか楽しいだろうなと思うのだが、高校生であるから、今はそれもままならないだろうと、落胆してみたりもする。
 入り口から反対側に出てみると、そこはもう目の前に海が迫っており、なんとも素晴らしい眺めが広がっていた。テラスになっているところのあちこちには、人々が軽食を食べていたり話し込んでいたりして、憩いの場になるよう工夫がされており、時折吹き込む風が暑さを和らげて心地良い爽やかな空気を運ぶので、なんとも気持ちの良い場所であった。水平線がくっきりと見える良い天気で、遠くに船がぼんやりと見えるのが写真や絵画でしか見たことがなかったので、葵生はそれを見ただけでもすっかり感動してしまって、ここに来て正解だったと思うのだった。絵にも表しにくいその光の照り返し、風のそよぎや体を包み込む温かな空気、それら全てを浴びながら、目は遠くをじっと見詰めていた。
 あの給湯室で不埒なことをしてしまってから、葵生は一度も椿希と会話をしていなかった。流石に全く目も合わさないというのは周りも怪しむだろうから、一応簡単な挨拶程度をすることはあっても、それから先が続かなかった。互いに避け合っているし、葵生の欲望を止められなかったせいでこのようなことになってしまったのだと思うと、椿希の態度を恨めしく思うのはお門違いだと思って反省もしているのだった。とはいえ、いくら反省したところでそれをどうやって椿希に伝えるにはどうすればいいか、知恵を振り絞ったところで、こういった恋愛事に不慣れな葵生には全く思いつかないでいた。妥子に相談してみようかと思ったこともあったが、あの給湯室の出来事を知られるのは気恥ずかしいし、妥子の態度からも椿希はまだ話していなさそうなので、止そうと考えを改める。
 そろそろ、椿希との関係も前のように戻したいところだと葵生は海風に当たりながら思った。あれこれと元通りにする計画を立てていたけれど、こういうのは自然の成り行きに任せるのが一番で、計算したところで学問のように答えがあるわけではなく、誠実な思いをありのままに見せる方が、かえって相手の心も解きほぐすに違いないのだからと、ようやく思い立ったのか、気持ちも少し楽になったようである。
 椿希とああいうことをしたい、ああいうことを話したい、あそこへ一緒に行きたい、あんな映画を観たい、などと様々な願望が、まるで泉が湧き出るように挙げられる。そういったことをするには、やはり隔てられた仲を戻すことが先決なので、葵生もやっと椿希と向き合う覚悟が出来たのだった。
 黄昏時になるまで、葵生は海をじっと眺めたままでいたが、そろそろ帰宅しようかと、衣服に付いた汚れをさっと掃って立ち上がった。黄色い太陽が水平線の向こうに沈んでいく様子を見ていたいけれど、まだ太陽は高いところにあるので、ここに長居していてはあの口煩い母親に何を言われるか分からないからと、渋々帰っていく。
 電車に揺られながら海の方角をじっと見詰め、大学生になればこういった秘密の小旅行も大目に見てもらえるのだろうかと期待したいところだが、それも怪しいので、是非とも一人暮らしをしたいものだと、切ない気持ちになる。今の全ての希望が叶えば、下宿先に椿希を呼んで一晩中飽きることのない高校時代の思い出話をしたり、鍋を突付き合ったり、くだらないことで小さな喧嘩をしたり、時には桂佑、妥子、笙馬などの塾の仲間たちも呼んでみたりしながら、平凡な中にも楽しく幸せなひと時を織り交ぜた宝物のような時を過ごせるのだろう。
 まずは志望校合格しなければ話は始まらない。志望校に合格すれば、それも医学部なら母ももしかすると下宿を許してくれるかもしれない。研究や実験に忙しくなるからと、上手く言えば一年生の時は無理でも二年生になってからでも、希望が通るかもしれない。葵生の決心はいよいよ揺るぎないものへと変わり、同時に椿希との関係を元に戻すという気概も強まり、心は晴れ晴れとしていた。

 家に帰ってみると、母親はどうやら居間で何かを読んでいるらしく、普段なら葵生が帰宅したのに気付けば料理をしていても出迎えに来るというのに、今日はそうでないのを不審がって、ちらと部屋を覗いてみたけれど熱心に食らいつくように読んでいるので、全く気がついていないようであった。声をかけるかかけまいかで迷ったが、読んでいるものに目を遣ると、葵生はすっかり帰宅したことを告げる気も失せて、そそくさと自分の部屋に戻って行った。
 葵生は部屋に戻って、深い溜め息を吐いた。せっかく気分が良くなってきたというのに、あんなものを見てしまったからには、おそらく母親は本気であろうと思うと、これから先のことが思い遣られて気分はまた逆戻りしてしまう。
 母親が夢中になって読んでいたものとは、医歯薬学部進学のための専門予備校のパンフレットであった。姉の結婚式以来、光塾に葵生を惑わせる女がいるのだと疑い続けている母は、それから何度となく、光塾にいては何かと葵生のために良くないから辞めた方がいい、というようなことを匂わせることを言っていた。母は一度言い出したら猛進する性質なので、パンフレットを取り寄せているところから母の考えていることがあからさまに見えた気がして、葵生は何もかもを勝手に決めて線路を敷いてしまう母を、情けなく呆れたように嘆いていた。
 母の言うことに従わない手もあるけれど、これまで育ててくれたのは紛れもなく、この母であるし、染井に通えるようあらゆる手を尽くして協力してくれたのも母のお陰なので、そのことを思うとどうしても抗いきれないのだった。母も葵生のためを思っているので、迷惑千万と思ってはいても、無下に扱うわけにもいかず、葵生はもうどうしていいのか分からず、考えることさえ放棄してしまいたいような気分であった。
 それにつけても恋しい人の姿が瞼の上に焼きついて離れず、もし本当に光塾を辞めるようなことになったら、もう簡単に会うことは出来なくなるだろうと思うと、切なくて身を焦がすような熱いものが体全体を覆っていく。あの日、不埒ではあったけれど彼女を掻き抱いた細い体や、自分にはない柔らかな感覚などが未だにはっきりと覚えていて、顔と顔が近づいたときの緊張感や触れたときの皮膚の温かさなどを思い出すにつけても、しみじみとした情感と共に涙が溢れてきそうな様子である。
 葵生はそっと母親の寝室に忍び込み、電話の子機を取ってくると、自室のベランダに出て小さな紙切れを見ながらボタンを押した。あれこれ考えもせずに電話を掛けているので、呼び出し音が聞こえた時には、怖くなって切ってしまおうかとも考えたけれど、迷っているうちに相手は電話に出てしまった。
 声を聞いた途端、葵生は鼻をすすり上げて大きく息を吸い込むと、ゆっくりと息を吐いた。
 「先輩、お久しぶりです。夏苅です」
 声色を低く、ゆっくりと落ち着いたものにしたのは、涙声になりそうなのを堪えるためだったのかもしれない。これから話す内容で、葵生がぐずぐずとしているのを悟られてしまうのは具合が悪いと思い、葵生は冷静になろうと心の中は躍起になっていた。
 電話の向こうでは、まさか葵生からの電話だと思っていなかったのか、驚いた様子で、
 「葵生か。ああ、本当に久しぶりだな。元気そうだな」
と、言った。携帯電話の番号とメールアドレスを書いた紙を渡してから約半年の間、一度も連絡がなかったけれど、何故今夜突然電話が掛かってきたのかと思うと、何か思い詰めたことでもあるのだろうと藤悟は察したが、それを微塵も表には出さない。
 「久しぶりに先輩の声が聞きたくなって」
と言って、なかなか本題を切り出すことが出来そうにない葵生だが、ここはひとつ思い切って言わなければと一瞬の沈黙のあと、口に出した。
 「実は母親に、そろそろ光塾ではなく医歯薬進学のための専門の予備校に通うよう言われているんです。先輩たちの代で、確か塾から医学部に行った人がいたように思うんですが、そのことについて先輩に聞きたくて」
 はっきりとそう言ったので、藤悟はそれが本題なのだろうかと考えたが、裏に何か言いたいことが別にあるのではないかという気もするので、しばらく様子を見ることにした。
 「確かに、あいつは医学部に進んだけど、葵生の志望校、つまり俺の行っている大学ではないからなんとも言いがたいし、塾だけじゃなくて家庭教師も別に雇っていたとか聞くから、塾一本では厳しいっていうのが、正直なところじゃないか」
 そう藤悟が言うと、
 「やはりそうですか。そんな気はしていたんですけどね」
と、嘆息しながら葵生が言った。電話の向こうなので葵生の様子は窺い知ることは出来ないものの、普段は感情を表に出さない葵生にしては珍しく、声色が本当に残念そうである。
 「先輩はどうだったんですか。塾一本だったんですか」
 学部は違うけれど、と葵生は思ったがひとまず訊ねるだけ訊いてみることにした。
 「俺は塾だけで通したけどね。薬学部や歯学部は確か、塾一本だけで最後まで受験勉強をして通った例はあるようだけど、医学部については過去を遡っても塾のみで受験した人っていうのは、聞いたことがないからな。やっぱり葵生の言うとおり、最後は予備校に通うようになるというのが当然といえば当然かなと」
と言い差して、はっと藤悟は気付いてしまった。葵生には塾を離れたくない理由があるのではないか、もしかするとそれは椿希のことがあるのではないか、と気付いたが、はっきりと葵生がそう言ったわけではないので押し黙っていた。
 「なんとか塾を辞めないで受験したいと思っているんですけど、そうはなかなか難しいですか。今のところ、偏差値的に問題はないし、順調に伸びているからどうにかならないかと思っていて」
 葵生らしくない悩みように、藤悟は傍に行ってじっくり顔と顔を突き合わせて話を聞いてやりたいと思ったが、藤悟は身軽だからいいとしても、葵生はまだ高校生なのだ。噂に聴く葵生の母が許さないだろうと思うと、唇を噛んだ。
 葵生は受話器を手にしたままあれこれと考えていた。おそらく藤悟はもう何もかも察しているのだろうから、隠す必要もないのだけれど、だからといって椿希への断ち難い執念をあからさまにするのもまた決まり悪く、また椿希の幼馴染みの藤悟に弱味を見せるのも自尊心が耐えられないので、
 「そうですか。親と話し合いをしてみます。経済的に負担にならない方法を見つけて、なんとか塾に留まれるように努力してみます」
とだけ言って、それきりその話は終えてしまった。藤悟は葵生が話題を唐突に変えたのを不審がったが、今あれこれ詮索しなくても後々で聞けば良いことだろうとして、葵生の話を聞いてやったのだった。それは、いつもはとても話下手な葵生なのに、随分と長話だったのだとか。


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