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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第40回   第一章 第七話 【花火】9
 あのように二人きりで長い時間過ごしたのは初めてだったので、次に顔を合わせるのはなんとなく気恥ずかしくて、今までは塾の日が来るのを楽しみにしていたのに憂鬱な気分である。会いたい気持ちとは裏腹に、会えば一体どんな顔をして何と言えばいいのだろうかと、葵生は常日頃から頭で何もかもを考え込んでしまう癖があるので、考え込んで塞いでしまいそうであった。
 今年は猛暑になりそうだと天気予報では言っていたが、まだそのような気配があまり感じられない八月上旬のことである。花火大会はあの七月下旬に葵生が椿希を誘っていったもの以外にも、あちこちでこれからどんどんと開催されるのだが、学校の夏期講習にかこつけて夜を自由に出回れるのはあの時だけだったので、あの機会を逸しなくて正解であったと葵生は密かに思っていた。万一、母親にうまく言い訳が出来たとしても、塾が終わってから二人きりで抜け駆けするのは難しいことだろうし、誰か余計な供人がついていくと名乗り出かねない。
 葵生は次の授業の準備を終えて頬杖を突きながら、教室内で会話に花を咲かせている椿希と桔梗の姿をぼんやりと見つめながら、小さく溜め息を吐いた。

 朝から夕方まで授業の行われる夏期講習が始まって、葵生は椿希と会う回数こそ増えはしたものの、相変わらず社交的な椿希は妥子や桔梗をはじめとして、友人たちとの会話に呼ばれては加わり楽しそうにしているので、葵生は手持ち無沙汰でつまらないと思っていた。あれほど「どのような顔をして会えば良いのか」と思い悩んでいたのが嘘のような変わりようは、本当に身勝手なものであるが、引っ込み思案というか人付き合いの苦手な性質ゆえというか、葵生は椿希と過ごしたあの日のことを思い返しては、椿希の周りにいる男たちよりは自分は優位にいるのだと言い聞かせながら、どうにか平静さを保っているのであった。
 妥子はすっかり椿希から彼女の体調についての事情を聞いているので、それとなく気遣っている様子が見受けられる。初め聞いたときには驚きのあまりに何と言えば良いのか分からず呆然としてしまったものだったが、書店や図書館で椿希の病気について調べ尽くしたので、昔からそうだったように、椿希にとってますます頼もしい最高の味方となったのだった。塾生たちには誰一人悟られないよう、妥子は皆の前では病気のことについては一言も触れることはなかったし、笙馬にさえもそのことは伏せていた。笙馬が信じられないというのではないが、誰かに話すということは何かの弾みで漏れ伝わりかねないという危険性を持つことになるため、少なくともその時が来るまでは黙っておこうと妥子は判断したのだった。笙馬がそのことを知ったら、さぞかし恨み言をつらつらと言うのだろうと思われたけれど。
 昼休みの間になると、必ず椿希は給湯室で薬を飲んでいた。教室では目立ちすぎるというのと、目ざとい葵生が見つけて追究しようとするだろうという懸念からであり、妥子もそれを承知していた。手洗いに行く振りをして、おもむろに席を立って手の中に薬を握り締めながら、椿希はいつも給湯室へ向かうのだった。
 薬の種類は大学病院に通い始めた頃から変わらないが、量は少し増えてしまっていた。まだ明らかな副作用は出ていないものの、この調子で薬が増えていけば副作用もどんどん現れるだろうし、副作用を抑えるための薬が新たに処方されて、飲まねばならない種類も増えていくことだろう。そうなったときに自分の体はどうなっているのだろう、と椿希は絶望にも似た気持ちで深く溜め息を吐いた。このところどうしてもこのような悲観的なことばかり考えてしまうのがいけない、と考えを振り切ろうとするのだが、毎晩眠る時になって張り詰めていたものがなくなると、そのことばかり思い浮かぶのだから、苦しくて堪らない。
 人前では努めて元気でいつもと変わらぬ姿を見せているのは、無理をしているからではなく、誰かと話している間は自分が病気を持っていることなど忘れられるからであった。確かに薬を飲んでいるお陰だろうか、体そのものはとても溌剌としていて倦怠感もなく、健康のように思えるほどなのだが、それが薬によって保たれているのだという事実を、薬を飲むときになって嫌でも思い出すのだ。もしこの薬を飲まなければどうなるのだろう、と何度も思ったが、薬の減量は慎重にならねばならず、医師の管理に頼らねば命取りになるということを向日医師にも散々言われていたし、医学書にもそう書いてあったのだから、試したことは一度もない。椿希はぼんやりとその薬を見詰めながら、飲みたくないけれど飲まなければならないのだと、溜め息を吐いた。
 あまりに途方に暮れてぼんやりとしていたからだろうか、そこに人がいることに気付かなかった椿希は、不意の気配にびくっと肩を震わせた。ひんやりと背中に冷たいものが流れていく。
 「何びっくりしてるの。別に襲ったりしないよ。それより、こんなところで何してるのかな。さては誰かから秘密の手紙でももらったとか」
 微笑みながら給湯室の入り口のところに立っていた葵生を見ると、椿希はほっとした気持ちをすぐに消して、さっと薬を握り締めた。
 「用事はもう終わったから、これから教室に戻るわ。そこを通してくれる」
 そう言って葵生の脇を通り過ぎようとすると、葵生はすっと体を動かして入り口を完全に塞いでしまった。なんて子供っぽいことをするのだろうと、椿希は抗議の気持ちを込めて困った顔で葵生を見ると、葵生は肩を竦めている。おどけた様子を見せているが、本当のところは給湯室に入っていくのを見て来たのだろうと椿希は察し、呆れながら、煩わしいことになったと思っていた。
 「給湯室のような人の目につかないところで何をしてたのかな。俺には言えないことでもしてたの」
 普段はこんなに食い下がることのない人なのに、何故今回はこんなにしつこいのかと、椿希はうんざりしてしまいそうな気持ちを抑えながら、
 「手を洗っていただけよ。だからもう用事は済んだの」
と、本当になんでもなかったようにさらりと言うものだから、葵生は一瞬そうだったのかと信じようとしたが、流し場のところがほとんど濡れていないのを見て、
 「そんな見え透いた嘘を言っても、騙されないよ」
と、さらに迫るのであった。椿希は左手に持った水と右手に握り締めた薬を持つ手に力が籠もり、いよいよどう言い訳しようかと頭の中の思考回路も高速に動き始めた。こんなことならばぼんやりと考え事をしないで、さっさと薬を飲み終えて出て行ってしまえばよかったのだと後悔をしていたが、それも後の祭りである。思考を巡らせようにも、眼前に迫る葵生の整った顔がこちらの心を見透かそうとしているので、いい考えが閃かない。
 妖しいまでに美しい顔を、妖しく笑みを湛えながらこちらをじっと見詰めてくる葵生の姿は、気後れしてしまいそうなほど超然としていた。椿希は事情がもっと軽いものであれば打ち明けることも出来るだろうに、と目を逸らしながら思った。葵生を押し退けて出て行こうにも、背丈は彼の方が少し高い上に体格でもすっかり負けてしまっているのだから、無駄といえば無駄であろう。助けを求めるのも、まだ何もされていないのだからおかしなことだし、あらぬ噂を立てられるのも決まり悪いことだから、椿希はやはり何とか言い繕って出て行くか、授業が始まる時間になるまで粘るかしかないだろうと思い至ったのだった。
 「いいでしょう。それじゃあ我慢比べでもしましょうか」
 語気を強くして言った椿希に、葵生は「どうやらプリンスモードに入ったらしいな」と思ったが、椿希が時間を稼ごうとしているらしいことに気付いた葵生は、なんとか時間が来るまでに白状させたいという意地が芽生えてきたので、何か少しでも突っ込むことの出来るものはないかと、彼女の全身をくまなく見詰めていた。すると、彼女の右手が堅く握り締められているのを見つけ、きっとそれが彼女の言う『用事』だったに違いないと思い、
 「その右手の中は何があるのかな。やはり手紙でも隠してあるんじゃないの。見咎められてばつの悪い思いをするくらいなら、早く白状してしまった方が余程気楽じゃないかな」
と、葵生は自分の手を彼女の右手の前に差し出して、手を開くよう促すが、椿希は右手を背中に回してしまった。葵生があまりにも執着するからか、流石の椿希も情けなく思って、
 「葵生くんは私の保護者じゃないのよ。どうかもう勘弁してちょうだい。私にだって言いたくないこともあるのよ。何もかも葵生くんに話せたらどんなに私だって楽なことか」
と、つい本音も漏れてしまうのであった。しかしこの本音は葵生には心を開けないと言われているようで信じたくなく、目の前も真っ暗になって惑乱していく。あれこれ考えるよりも先に、葵生の体の方が先に動き、一歩前へにじり出ると両腕がすっと伸びて、椿希の体を捕まえたのだった。
 自分でも一体何が起きたのか説明も出来そうにないまま、葵生は椿希の体をしっかりと抱き締めていた。椿希も呆然としてしまい、体を離そうとするのも忘れてしまっている。椿希は力が抜けて水と薬を落としてしまいそうになったのに気付いて我に返り、身じろぎして葵生から体を離そうとするが、男の強い力がそうさせない。
 今までこのような荒っぽいことは、どんなに感情が高ぶっても理性の強さで決してするまいと思っていたのに、自分でも衝動的に出た行動に後には引けず、葵生は彼女の肌に思いがけず触れたことに、どきどきと胸を打つ鼓動を感じていた。夏なので薄手の服になったことが一層彼女を直に触れているような感覚に陥らせ、くらくらと眩暈のしそうなほどの高揚感が葵生を包んでいく。だが喜びを得られないのは、椿希が葵生の行動を許していないようだからかもしれない。
 椿希は再び身じろぎして葵生から離れようとした。すると、授業開始五分前のチャイムが鳴り、もう本当に教室に戻らなければいけないから時間切れといったところなのだが、このまま済ませてしまうのは椿希の作戦勝ちに終わってしまうようで悔しいので、葵生はふと頭に魔が差した『もの』が、すっと通り過ぎようとするのを捕まえて、自分の意識の方へ引き寄せた。
 「もう時間だから、教室に戻ろうよ」
 椿希が身をよじらせて腕から離れ、葵生を交わして出て行こうとするのを、葵生は彼女の腕を掴んで引きとめた。椿希が驚いて顔を上げたその瞬間に、葵生はさっと頭を屈めて自らの唇を彼女のそれに、押し付けるように重ね合わせたのだった。
 葵生は鼓動が激しく暴れ回り、顔に熱が集まって発火しそうなのを感じながら彼女の顔を見ることもなく、さっと背中を向けて教室へ慌てて戻っていった。彼女どころか他の誰の顔もまともに見ることなど出来ず、席に着くなりあと少ししか時間がないのを承知の上で机に顔を突っ伏して、自分の顔が誰にも見られないようにした。
 桔梗が暢気な声で、
 「おい、葵生。もうじき授業だぞ」
と声を掛けるが、葵生はぴくりとも動かず顔を上げようとしない。何があったのか訳の分からない桔梗が軽く溜め息を吐いたのが聞こえるが、今は誰とも話が出来る気分ではない。どうやら椿希も戻ってきたようだったが、彼女は一体どういった様子であっただろうか。いつものように席を彼女の近くにしてしまったため、嫌でも今日一日は彼女の傍で彼女を感じながら、冒してしまったことを思い出しながら過ごさなければならないのは、自分で招いたこととはいえ辛く切ないことであった。

 その晩はきっとあの夢の続きのようなものを見るに違いないと、身を堅くしていた葵生だったが、結局夢にさえも椿希が姿を現すことはなかったのだった。体から汗が滲み出て、少し寝苦しい夜なので目を瞑っていても眠気はなかなか訪れてくれず、あれこれと考え事ばかり思い浮かんでしまって、とても寝付けそうにない。かと言って今日はもうこれ以上勉強する気にもなれないので、ただひたすらに彼女にしてしまったことへの後悔と、これからどのように接するべきかなどを考え、同じことばかり繰り返し思うので、一向に解決策など思い浮かびそうになかった。あの時ああしていれば、こうしていればと思うと、突発的な思いで彼女に酷いことをしてしまったと、愚かな自分を罵ってやりたい気分である。
 椿希が間違いなく葵生に好意を抱いているというのならまだしも、それすらもはっきりと分からないから葵生はこれほどまでに苦しんでいるのであった。やはり椿希の心の中の最も温かく優しいところにいるのは藤悟なのだろうか、という不安が葵生の心を支配しようとしていた。相手が藤悟なら、葵生は勝ち目はないと思っていたし、何より争う気すら起きない。だけど、そう簡単に身を引いてあっさり忘れられるような恋ではないのだ、ともう戻れないところまで気持ちが進んでしまったことを自覚しているだけに、身を斬られるような思いで葵生は夜具を涙で濡らした。
 こんなことで泣くなんて思いもしなかった。泣く時はもっと男らしく、悔しい時にするものだと思っていた。だけどこんなに胸が苦しくて切なくて、どうすれば良いのか分からずに迷宮に彷徨い込んだかのような不安感を味わったのは初めてだった。
 もはや閾(いき)を越えてしまったような遣る瀬無い思いは、椿希もろとも恋の渦に引き込まなければ気が済まないようなところへ来てしまったのかもしれない。葵生は出来る限り彼女には迷惑をかけたくないと思い続けてきたけれど、一瞬とはいえ胸に秘めていた情熱を伝えてしまったことで、とうとう恋の堰は止め処なく流れ出してしまった。何が正しいのかいけないことなのか、理性がずっと問い掛けて本能のままに行動することを制御していたのに、一体いつまで待てば良いのかと永遠とも思える時を我慢してきたのも忘れて、少しでも早く彼女の心を手に入れたい心があの瞬間一気に支配したことによって、あっさりと燃え滾る血潮のざわめくままに手を伸ばしてしまった。
 申し訳ないことをしたという思いが半分と、いや、あのままもっと彼女を戻って来ることの出来ないほど遠くへと心を攫って行きたかったという思いが半分、とにかく葵生の中でも心が千々に乱れきってしまっているのだ。
 葵生は椿希のこと以外ではとても冷静で、いつもと変わらぬ様子で勉強もするし人とも接するのだが、殊椿希のこととなるととても平静ではいられず、彼女の前では仮面を被っていなければ到底傍にいることなど出来そうにない。普段と変わらず沈着冷静で誰と接するにも冷淡で、椿希を見詰める時には穏やかで優しい目をするのだが、心に仮面を付けることで、わざと彼女のことを色恋の目で愛慕の目で見詰めないようにしていた。
 椿希もまた葵生とは少し距離を置くような素振りを見せるのだが、自分が撒いた種とはいえこのような仕打ちは酷いではないかと、恨み言も言いたくなるとは、なんと葵生も勝手なことか。葵生は、自分自身のことを至って冷静でまともな感性を持っていると思っていたけれど、たった一人の少女のためにこれほど心を取り乱し、時に彼女への独占欲に満ち溢れ、彼女を取り巻く者全てを薙ぎ払いたいとさえ思うとは、まるで怪人のようではないかと葵生は身を震わせながら、我がことながら恐ろしく感じるのだった。


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