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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第39回   第一章 第七話 【花火】8
 他愛もない会話がこんなにも苦しいと思ったのは初めてだった。あくまでさっぱりとしていて普段と変わりない様子の椿希に、葵生は初めて胸が潰れそうなほどに悶え苦しんでいた。椿希は何も変わらなくて、普段と同じように話をして笑って見てくれているというのに、何故自分だけがこのように変わってしまったのかと、思うようにならない心の行方を笑顔の裏で嘆いてもいた。
 空はすっかり暗くなり、花火が打ち上がるのを今か今かと人々は待ち構えている。もう時間も程よいころになったからか、河川敷をうろうろと歩く人も少なくなっていた。
 時間ちょうどに打ち上がることはあまりないと聞いていたから、少々過ぎるのかもしれないが、葵生にとっては花火が打ち上がることでこの霧がかったもやついた気持ちを払拭出来るかもしれないと期待しているので、祈るような気持ちでいた。
 「ねえ、葵生くん。誘ってくれてありがとう。来て良かった」
 えっ、と葵生が椿希の顔を見ようと身を動かすと、指先が椿希のそれに触れた。どくんと撥ね上がる鼓動と共に、葵生の指が伸びて椿希にまた触れようとする。
 ちょうどその時に、どんと大きな音がして最初の五色の花火が打ち上げられ、そこかしこから歓声が上がり、ぱちぱちと手を叩く音も聞こえた。葵生が空を見上げると、花開いた花火が夜空をさっと箒で掃いた跡のような残像を残して散っていくのが見えると、急に物思いで鬱々としていたものまでも綺麗さっぱり取り除かれたようであった。
 「拒否権発動させなくて良かった」
と、独りごちて言う椿希は次々と打ち上げられていく花火を見詰め、その照らされた顔は花火の色によって次々と変わっていく。葵生は、影の部分と光の当たる部分とがはっきりとしている整った横顔の美しさを惚れ惚れと眺めていた。
 「ねえ、あの夜を思い出さないか。流れ星を見つけたこととか、それについて話をしたこと」
と言いながら身を寄せて、ほんの少し椿希との間の距離を詰めた。
 「そうね、葵生くんの身長が伸びますようにっていう話をした」
 歌うようにさらっと椿希が言った。
 「一応、俺の方が高いんだからな。それにまだ成長期真っ只中なんだから、きっとまだまだ伸びて行くはず」
 わざとむっとしたように言うと、椿希がふふと笑った。どうしてさっきまで、こういう風に笑ってくれているのさえ不平に思ったのだろう、と葵生は移ろいの速い自分自身の心に少し戸惑ったが、もう肩と肩の触れ合いそうなくらい近くにいながら、心の距離を詰められないのがもどかしくてならない。そんなもどかしさも、花火を見続けているうちに少しずつ消されていくのだった。
 「花火って、なんとなく流れ星みたいじゃない。消えていく様が、まさにそんな感じ」
と、椿希が言った。こういった場所のせいか、何気ない一言も趣が一層感じられる。
 「ああ、確かに」
 葵生は輝きを放って消えていく花火の花弁が、流れ星に見立てられることに納得して、ならば祈ってみようかという気になって、
 「椿希の身長が、もうこれ以上伸びませんように」
と口に出して言った。普段は言わないような冗談も、こういう折だからかすっと言えてしまう。
 「酷い」
 すかさず抗議の声を上げたが、もちろん冗談で言っているのが分かるので、葵生にはそれが可愛らしいと思うのだった。高校でも塾でも周囲からはプリンスと呼ばれるように、皆は椿希のことを強くて勇ましいように思っているようだけれど、可愛いという感覚で彼女を思っているのは、妥子と自分だけかもしれないと思うと、なんとなく優越感が得られたようでぶるりと体が震えた。
 椿希は葵生が笑みを浮かべているのを見ながら、一瞬躊躇ったようだがしばらくの間を置いて言った。
 「ねえ、気付いてないかもしれないけど、実は葵生くんが私のことを名前で呼んだのは初めてだったんだよ。だから、今少しびっくりしているの。皆からは色々な呼び方で呼んでもらっているけれど、そういえば葵生くんからは私のことを名前で呼ばれたことはなかったと思っていたんだよ」
 葵生の顔を見ながら言うのが気恥ずかしくて、視線は次から次へと打ち上げられていく色とりどりの花火に向けたまま何気ない風にしていた。葵生は照れくさくて頬に熱が帯びていくのを感じ、椿希を見ていられないので葵生も花火に視線を遣っていたが、気はそぞろであった。
 椿希本人に対して名前で呼んだことがなかったのは、葵生が意図していたことなので当然分かっていたが、それを椿希が気付いていたのを流石だと感心ながらも、心の中を見通されていたのではないかと動揺もしていた。そもそも葵生は異性に対しては名前で呼ぶことはほとんどないのだが、それはほとんどが下の名前で呼べるほど親しくないと思っているからであって、これといった理由があるわけではなかった。だが椿希の場合は、まだはっきりとしない中途半端な二人の間柄だと葵生は思っているので、名前で呼びたいけれど呼びかけるのが照れくさいのと、せめて自分の思いを知ってもらってからにしようと思っていたので、出会ってからもう一年あまりを過ぎても、彼女に「椿希」と呼びかけることが出来なかったのだった。
 口を突いて出てしまった言葉はもう取り返せるはずもなく、しかし以前から名前で呼びたいと思っていた願望が叶ったことでほっとしたのか、心の中で何度も「椿希」と呼びながら花火を見詰めていた。そして、
 「そういえば確かにそうだったかもしれないな。異性を名前で呼ぶのは勇気の要ることだから。人によっては気軽に呼べるかもしれないけど、俺には高い壁だった。ごめん」
と、最後の一言を言うときだけ彼女の横顔を見詰めながら、低く言った。椿希は葵生の視線を感じながらも、少しの間花火を見ていた。少し花火が上がるのに時間が空いたときに、椿希は葵生の方を向いた。
 「じゃあ、身長があと七センチ伸びたら許してあげましょうか」
 そう言いながら座っている葵生の頭頂部をちらっと見る素振りを見せた。座っているので正確な背丈の差は分からないものの、出会った頃より視線を少し上に向けて話さなければならなくなった、と椿希は思い返すと、差が開いたらしいことが少しばかりだが悔しいのであった。
 「正確にはあと六.五センチだ。四月でそれだけだから、さらに伸びているかもしれないけどな。とにかく、それだけ伸びればプリンスの称号ももらえるんだったよな、確か。とぼけても無駄だよ、俺はしっかり覚えているから」
と言いながら、こういった他愛もない遣り取りが出来るのが嬉しくて、笑顔というよりはにやにやとしてしまっているので、葵生は内心つい顔がだらしなく緩んでいないかと気掛かりではあったが、太陽や蛍光灯が煌々と照らしているわけではないので、はっきりと分からないだろうと思ってさりげなくまた少し椿希との間を詰めた。あと僅かで密着するというところまで来ているが、椿希もこれ以上横に動くと敷物からはみ出してしまうし、葵生のことを嫌がっているように思われはしないかと、少し身じろぎをしただけで間を開けようとしなかった。
 「そんなこと言ったっけ。なんて、言いたいところだけどね。確かに葵生くんの方がプリンスっていう感じがするものね。プリンスか若殿か、そんな感じ」
と、椿希は楽しそうに言った。
 「言ったよ、間違いなく。絶対にもらうから覚悟しておいて。それに、俺の方が似合っている気がするのなら、大人しくその日が来るのを待っていてよ」
 下らない話だけれど、こういう会話がごく自然に出来るのが嬉しい。
 また打ち上げられる花火の音がして空を見上げると、あと少しで花火の打ち上げも終わりなのだろうか、最後の一仕事と言わんばかりに今までになく連続して花開いては消えていく。流れ星のようと言ってからは、花開くところよりも消えていくところを見てしまうのだが、中には落ちて消える間際に煌くものがあって、それを見るたびに何故か少し共感を得るものがあるように思えて、しんみりとした心地にさせられた。
 何度か「これが最後だろうか」と思わせるような花火の派手な打ち上げを見た後、ついに爆発するかのようにばちばちと音がして、黒い空に白い煙が棚引いているのが名残惜しむように残って見えたので、本当に終わったらしい。少しその場で待っていたが、もう打ち上がる様子もないので、皆はぞろぞろと一斉に立ち上がって動き出そうとしていた。
 周りを見渡しても人ばかりであるので、河川敷をすぐに動いたところで電車は満員であるのには変わらないだろうし、今日くらいはそれほど急いで帰ることもないだろうと思って、椿希に、
 「俺としてはもう少しゆっくり帰りたいところなんだけど、椿希はどうかな。椿希が帰りたいっていうのならもう帰っても構わないけど、この人だかりはちょっと辛いよな」
と言った。名前で呼ぶことには今回もまだ少し抵抗があったが、この機会に慣らしてしまおうと思ったのだろうか、敢えて彼女の名前を続けて呼んだ。そのせいか、また心臓がどきどきと激しく動いている。なんと忙しないことか。
 「そうね、確かにこれはうんざりしてしまうから、時間でも潰しましょうか」
と内心うんざりしていた椿希も賛成したので、途中までは警察が誘導して人が流れるままに歩いたが、駅へ向かう途中で道を反れて違う通りへと入った。それまでの間もはぐれるといけないからと、葵生は椿希の手を取ったのだが、それがいつになく自然であったのと、本当にそうしていないと見失いそうだったので、椿希も初めはあまり気にしていなかった。だが道を反れてもなおしっかり繋がれたままでいるので我に返り、椿希は握っていた手をふっと緩めて外した。葵生はまさに今離れた手をじっと見詰め、椿希の手が先ほどまであったことを確かめるかのように、ゆっくりと指を動かして握る形を作った。そして少し先を歩きはじめた椿希の後を歩き始めたが、葵生は胸がしくしくと痛いような感じがしていた。こんなに近くにいるのに、やはり二人の心には大きな隔たりがあるようで、葵生は切なくて彼女の背を見詰めながらあれこれと考えるのだった。
 椿希は背からひしひしと訴えられているような何かを感じながら、彼女も胸が痛くて心の中で泣いていた。こんなに優しく自分を思ってくれている人に対して、ありのままに返せないのが申し訳なくて、椿希はもう、葵生に優しくされればされるほど思い詰めてしまいそうな様子である。
 「椿希、体は大丈夫なの。無理させてないかな」
 しばし続いた無言を打ち消す言葉を放ち、葵生は椿希の返事を待った。
 「うん、平気。葵生くんこそ疲れてないの。勉強のしすぎで体力ないんじゃないの」
と、冗談めかして言った。葵生は椿希の隣に並んで横を見ると、口元は笑っているが伏せ目でほんの少しだが、寂しそうに見えたのは気のせいだったのだろうか。
 「俺は男だし、十分すぎるくらい体力は有り余ってるよ」
 葵生が笑うと、椿希も軽く笑った。
 葵生はあれほど自分の気持ちを知ってもらいたいと思い悩んでいたのに、こんなに心が通い合ったようなのにまだ椿希の気持ちがこちらに向いていないようだと思うと、とても思い切って言い出すことが出来そうにない。今が絶好の機会なのだと心は急いていても、理性が先へ進めさせない。遠慮せずに言ってしまおうかと思っているが、狭い塾内で気まずくなってしまって友人として話をすることすら難しくなってしまうというのは、とても耐えられそうにない。
 「椿希、ちょっと寄り道しようか」
 そう言って、葵生は商店街の中へ入って行く。こんなところに商店街があったとは気付かなかった椿希は、アーケードを潜るときょろきょろと周りを見渡していた。暗い道から明かりのついた商店街へ来たためか、少し目には眩しく映ったのか一瞬目を細めている。
 「偶然見つけただけで、俺もよくこの辺りのことは知らないんだけど、当てもなくふらふら歩いてると危ないから、商店街に入ったんだ。商店街だと明るいし駅の方向に向かって伸びてるから迷わずに帰れるだろう。少し遠回りだけれど、構わないかな」
 商店街の中は明るく人々の往来があり、これから飲み会にでも行くのだろうか、会社員たちが群れを成しているのが見える。店を既に閉めているところもあったが、飲食店関係はまだまだ昼間と変わらぬ様子で人が出入りしているので、確かに商店街の中の方が安全だろうと思われる。
 椿希が頷いたので、葵生は商店街の中を少しゆっくりと歩いた。もう既に閉店してしまっている店でも「ここは何屋」「あそこは何々をするところで」などと見つけて、「このあたりに住めば何でも揃うし便利、それにちょっとしたついでにふらっと店に立ち寄れるだろうから楽しいだろうな」と、話し合っているうちに、物思いも薄らいで行ったようであった。普段夜遊びに慣れていない二人は、少しだけ心に後ろめたいものを感じていたが、今日が久しぶりに夜を自由に動きまわることの出来る日なのだと思うと、日頃の高校生らしい真面目な行いに免じて運も許してくれるだろう。
 葵生はゲームセンターが少し離れたところに見えると、それに誘き寄せられるようにすっと足が向けられた。椿希が驚いているようなのを見て、葵生がふっと笑うと、
 「大丈夫。店には入らないよ」
と、彼女が不安がっている理由をすぐに悟って言った。こういった場所は慣れていないのだろうか、あるいは育ちの良さからゲームセンターにたむろしているのは不良が多いとでも思っているのだろうか、少し警戒したような様子の椿希にそう声を掛けてやると、葵生は財布を取り出して機械にお金を入れた。
 椿希は少し離れたところにいたが、葵生が真剣な顔付きで機械を操作して縫いぐるみを取ろうとしているのが、いつもの澄ましたような顔とは違い、なんだか妙に滑稽に見えて、笑い声を抑えながら近づいた。軽快な電子音と共に機械の腕が伸び、狙いを定めて手を広げて縫いぐるみを掴む。しかし、人間の動きに似ているようで似つかないぎこちなさが、もどかしいように思える。だから意外と見ているよりもずっと操作が難しくて、欲しい景品を取ることが出来ないものなのだ。
 椿希は、幼い頃に初詣の帰りに家族でゲームセンターで少しだけ遊んだときのことを思い出して、少し切ない思いが過ぎっていた。一目見て気に入った熊の縫いぐるみが欲しいと駄々をこねて両親を困らせ、三回までという条件で獲得するのに挑戦したけれど、全て上手く行かなくて泣いたのだった。どうしても欲しかったのか、それともうまく操作出来なかったのが悔しかったのか。大きな声で泣き喚くことはない椿希だったけれど、ひくひくと小さな体を痙攣させて、何度も小さな手で赤く腫らした目をごしごしと擦っていた。両親が宥めているところへ、いつの間にか兄が同じ縫いぐるみを別の機械から取って来て、椿希に「はい」と言って渡したのだった。当時は兄が縫いぐるみを持ってきてくれたことがただ嬉しくて、素直に「ありがとう」と言って頑是無い笑顔で言うと、兄も嬉しそうに笑っていた。どうやって手に入れたのかを気にするようになったのはそれから何年も経ってからのことで、母に聞いてみると、どうやら貰ったばかりのお年玉を崩していたらしく、兄は一体いくらあの安っぽい縫いぐるみのためにお金を費やしたのだろうと、申し訳なく思ったものだった。
 ぼうっとしていたところへ、葵生が椿希の手に何かを乗せたので見ると、ふわふわした熊の縫いぐるみが置いてあった。つぶらな瞳でこちらを見詰めているような熊の愛らしい表情に、椿希の表情が緩み、葵生もそれを見て微笑んだ。
 「こういうのが好きじゃなかったら悪いと思ったけど、折角取れたから記念にあげるよ」
 椿希は何度もその縫いぐるみを指で触れ、過去のことと現在の思いとが交じり合い、不思議に心が温められていくのが優しく、この上なく幸せなことのように思えていた。
 葵生はそんな椿希を見て自分も欲しくなったのか、再び機械にお金を投入して操作を始めた。体を屈めて距離感や取りやすさなどを真剣な顔付きで見定めている姿は、ほんの遊びに過ぎないのにと思うと、椿希は可笑しくて笑ってしまった。葵生はあまり物事に深く関心を持つように見えなかっただけに、こんなことに集中しているとはそれまで想像もつかなかった。
 「やった、取れた」
 そう言って声を上げて無邪気に喜んでいるのもまた、塾生たちが見ればさぞかし驚くことだろう。
 葵生は椿希に、取れたばかりの縫いぐるみを見せた。
 「椿希のと同じ種類だけど、色違いだな」
 快活に笑いながら言う葵生を見ながら、本当にこの人のことはよく分からない、と椿希は苦笑した。
 それから二人は家路に着き、自宅に着いたときには夜の十時を回っていた。葵生はあらかじめ母親には帰りが遅くなるとは言っていたとはいえ、色々聞かれるのが鬱陶しく思んhえ、すぐに風呂に入って部屋に籠もったのだった。いや、鬱陶しいからだけではない。あともう少しだけ、余韻に浸っていたかっただけなのかもしれない。葵生は、そういう夢見がちなところのある少年だったから。


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