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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第38回   第一章 第七話 【花火】7
 夏の空は夕方の時間になってもまだ澄んだ淡い青色の空のままで、時計に注意していなければ、うっかりそのまま喫茶店で花火が打ち上がる時間まで、葵生と椿希は夢中になって話し込んでしまいそうであった。一体どういう話をしたのか、ということを長々と書き連ねても仕様のないことなので省略するとしても、あの会話することがとても苦手だという葵生が、終始笑みを絶やすことなく喋り続けていたということからも、大方他愛もない話が続けられていて、くるくると変わる椿希の表情に見とれていたのだろうことは容易に想像がつくことだ。
 少しずつ、気の早い人たちは喫茶店を後にし始め、葵生も椿希に訊ねると了解したような素振りを見せたので、二人は立ち上がって店を出た。
 席を立つ前に口元を紙ナプキンで軽く押し当てる仕草や、椿希が葵生に鞄を渡すときに、革鞄の取っ手の方を向けて葵生が取りやすいようにした所作や、店員と擦れ違うときに「ごちそうさまでした」と言ったことなど、本当にさりげないことなのだが瀟洒な美人とはかくあるものなのだろうかと、行き届いた心映えを胸に刻み込んだ。あまり完璧すぎると面白味がないし息が詰まるのだが、彼女は時々抜けているところがあって、全てをこなしたようで何か一つ忘れていることがあるのが欠点のはずなのにそうは映らず、ご愛嬌で済まされてしまう。
 葵生はそんなことを思い返しながら、ふふ、と笑った。妥子が椿希のことを「プリンスと言われているけれど、本当はとても可愛らしい性格」と評していたのも分かる気がして、葵生にとっては少しも王子などではないのだった。
 会場の近くにいたので、もうここからはそれほど歩くことはないけれど、椿希がコンビニエンスストアの前で用事があると言って新聞を買いに走った。何か気になる記事でもあったのだろうかと思いながら、葵生は外で椿希が買うまでの姿を遠くから見詰めていた。こんな風に塾内で行っている動作とは違うことをしている非日常の世界が珍しくて、あのキャンプの日のことを思い出して懐かしい心地がする。
 はらりと風が髪を一房靡かせて通り去った。ほんのりと暗くなり始めた空だが、まだ花火が打ち上がるには早すぎる。半袖が丁度良い暑さだった日中に比べて少しひんやりとした空気が漂うものの、人の群れのせいで寒いとは感じない。まだ大混雑とまではいかないものの、少しずつ人が集まり始めているので歩く速さも自然とゆっくりになっていく。人の声が右でも左でも前からも後ろからも聞こえて来て、時折それに混じって露天商の客引きの声が張り上げられている。
 木と木の間をロープで繋ぎ、提灯をぶら下げて道を照らしている。街灯はまだ明かりが点いていないが、提灯は風情を出すためなのだろうか、早くも赤い光を放って存在感を強調している。
 河川敷へと向かう行列の中に溶け込んだ葵生と椿希は、初めのうちは会話も途切れ途切れに出来たが、周りの声が次第に大きくなり、前を歩く人をかわしながら歩いているうちに、やがて声を発しなくなった。話をしている場合ではないというのもあるけれど、葵生は椿希にだけ聞いて欲しい話が、全くの無関係の人たちにまで聞かれてしまうというのは内容云々関わらず、気分の良いものではない。ただ、代わりということなのだろうか、葵生はすっと無言で手を差し出して椿希のそれに重ね合わせたので、椿希ははっとして葵生の顔を見ると、葵生は真っ直ぐ見たまま少し口元を上げている。椿希をちらとでも見ないのは照れを隠しているのだろうが、頬が赤いように見えるのは夕陽や提灯の明かりのせいだけではないはずである。
 椿希は葵生が初めて取った大胆な行動に戸惑わずにはいられなかった。幸い無言の時がゆっくりと流れているので思考を纏めるのには十分なのだが、左手はしっかりと葵生の指が絡めてしまっているので、掌から伝わるぬくもりが、椿希があれこれと考えさせるのを妨げようとしている。
 葵生に隠し事をしているのが疚しいことがあるようで、これがなければ胸をときめかせられただろうか、と我が身の拙さを思い遣る。いや、それでも川の瀬のなすがままに漂う笹舟のように、簡単には葵生に靡かなかったかもしれないと思うのは、幼い頃から馴れ親しんでいた藤悟とのことも少しは心に留めていたためなのだろう。
 葵生の好意には前々から気付いていたが、それも葵生ははっきりと口にもしないし、いつだってさりげない態度ばかりだったので気付かぬ振りをしていたのだが、花火に誘われて今こうして並んで歩いているにも関わらず、知らぬ存ぜぬのままで通すのはあまりにも薄情で情けのないことのように思えるので、そろそろ覚悟を決めて葵生の気持ちを受け入れるか否かをはっきりさせなければならないと、椿希は俯き加減になりながら気を揉んでいる。もしかすると今夜にでも葵生が好意を口にするものならば、どう返事すれば良いものか、一度保留にするにしても失礼のないようにするにはどう言おうか、などと祭りの浮かれきった賑わいに反して椿希の心の中は重たく湖の底にでも沈みこみそうであった。それにつけても、やはり隠し事が深く椿希の心に根ざしているので、これがなければどうなっているだろうと思って途方に暮れてしまう。
 そうとは知らない葵生であったが、隣を歩く椿希が少し険しい表情をしているので、
 「どうしたの。気分でも悪くなってしまったの。今日は一駅も歩かせてしまって体力を使ってしまったから、疲れてしまったとか。ごめんな」
と、右手をきゅっと一瞬強く握った。あくまでも優しさだけを抱えて見詰める葵生を見ながら、こんなにも心が惑乱して素直に葵生の思いに応えられないでいることが申し訳なくて、恥ずかしそうに視線を逸らしている。葵生は、もしかするとこの手を繋いでいることに照れているのだろうかという気もしていたが、手を放すつもりはないため、わざと気付かない振りをして、
 「あと少しで河川敷に着くよ。息の詰まりそうな混雑振りだけど、あそこに着けば少しはましになるだろうか。我慢が出来なかったら言って。脇で休もうか」
と、独り言とも語りかけたとも取れる口振りで言った。言葉そのものは曖昧だけど、そこには限りない愛情が込められていて、普段は口下手で優しさを滲み出させるような言葉も態度も人前で見せることのない葵生が、こんなにも椿希に対しては気を遣っていることに、何事もなければ心から嬉しく胸をときめかせるだろうけれど、高校生の間は病気のことを秘して語らずのつもりでいる椿希は首を振って、
 「大丈夫。ちょっと考え事をしていただけだから」
と、葵生の思いを無駄にしないよう微かに笑みを浮かべながら言った。
 人々のほとんどは浴衣を着て涼しげであった。または、会社帰りなのでスーツ姿もちらほらと見受けられる。だが制服姿というのは見渡す限りは自分たち二人だけらしく、それがこの上なく特別な存在のように思えて、葵生の心は高揚していた。
 浴衣を着て団扇を持ちながら歩くのは、とても風情ありげで、一度はやってみたいと思わせられる。若者の中には髪を金や茶に染め、髪も蓬髪で、とても身なりを整えたように見えない風采で浴衣を着ている人たちもいて、とても似合っているとは言えないだろう。帯も緩く結んでいるのか、たまに胸元がはだけそうになっている女性も見られる。ところどころ見られる外国人たちも浴衣を着ていたが、彼らが着ているのを見ると、意外にもしっくりとしていて、なかなか似合っているように思えた。浴衣に似合う似合わないは髪の色は問題ではないようである。ただ着こなしの問題だろうか、と葵生は思いながら見ていた。
 椿希が浴衣を着たところも見てみたいものだ、と興味がそそられるが、それは大学に進学するまでの辛抱だろうかと葵生は思っていた。どんな色のどんな柄が似合うだろうかと思い巡らせ、浴衣や着物は着た人の品性をはっきりと映し出すようだから、きっと椿希の器量ならばそれに負けることはないだろうと、周りの浴衣を着た女性たちを見比べながら想像していた。椿希なら、はっきりとした鮮やかな色合いのものを着た方が魅力を引き出しそうなので、緋色地に胡蝶が飛ぶ柄のものや、濃紺地に赤紫色の朝顔が咲いているものなどが特に似合いそうに見える。あるいは、白地に大輪の花が咲いた柄というのも、気高く品があって良いかもしれない。

 河川敷に下り、もう手を離しても良いほどに席を取るため人がばらけてあちらこちらへと散っていくのを、葵生はそれでもしっかりと椿希を捕まえたまま離そうとしない。先ほどから胸が痛くて堪らない椿希は、いかにも大切で、何があっても必ず守るという態度の葵生に対し、かえって気が引けてしまっている。やはりこういう一途な人だからこそ、きっと自身のことを省みず、椿希の病気にばかりかまけて、大切であるはずの大学受験の勉強を疎かにしてしまうのではないかと、そればかりが心配で、
 「私のために先々のことを無駄にするのはとんでもないこと。このような溢れんばかりの優しさをくれる人だからこそ、どうか幸せになって欲しいのに。大学受験を終えるまでは黙っていなければと決めたけど、とても鋭く聡明な人だから、いつか気付いてしまうのではないだろうか。今のところは薬がうまく効いていてくれているから、これといった副作用もなく過ごせているけれど、いつか薬が増量になったり新たに追加されてしまったら、とても隠し果せる自信がない」
と、気が滅入りそうなほど悩んでしまっているのだった。元来椿希は鷹揚としていて、何事につけても身の処し方も角を立てることなく、自分を卑下することもなく、大らかに振舞うというのに、これほど悩むのは初めてのことだった。もしかすると、病を告知された時やそれに伴って今後のことを考えたときよりも、ずっと深く悩んでいるかもしれない。
 「大丈夫か。本当はすごく辛いのを我慢しているんじゃないの。俺、鈍感だから今ごろになって気付いて、ごめん。帰ろうか」
 葵生は立ち止まって、椿希の顔を心配そうに見詰めていた。ああ、こんなにもこの人は優しいのだ、と椿希はぐっと込み上げてきたものを押さえ込んだ。
 「帰るなんてとんでもない。私、すごく楽しみにしていたんだよ。少し暗くなってきて足元がおぼつかなくなってきたから、慎重になっていただけよ」
 屈託なく笑う椿希は名女優だった。そして葵生の手を離して先へ進もうと先を歩くのだから、葵生は椿希の言ったことを少しも疑うことなく、
 「確かにこんなに人で溢れていて歩きにくかったら、足元を見るのに俯いてしまうよな」
と思って納得していた。河川敷に下り立って、人があちこちに分散したので椿希が花火が良く見えそうな、空いているところを探してうろうろと歩き回るのを見ても、本当に体調が悪いわけではないようだと思われるので、葵生は安堵して椿希が招く方へ歩いて行った。そして、笑顔が漏れる。
 このあたりだろうか、と二人の意見が一致した場所に鞄を置いた。椿希は先ほど買った新聞紙を広げ、葵生にもその上に座るように言った。
 「新聞紙はもしかしてこのためだったの」
 感心しながら葵生は言った。周りを見ればレジャーシートを広げていたり、そうでなければ直接砂地の上に座っている人もいたりとまちまちであったが、おそらく通勤途上で買ったであろうスポーツ新聞を広げている会社員の集団もいたりして、新聞紙を敷くというのも有り得るのだということに初めて葵生は気付いた。
 「新聞紙の上だと、たまにインクが服についてしまうことがあるから気になるところだけど、今回はレジャーシートを用意してなかったからこれで代用ね。それに、もうシートは売り切れていたみたいなの。何もないよりはずっといいでしょう」
と、椿希が言った。
 二人はしばらくの間新聞紙の上に座って、また語らい始めた。葵生は二人きりで話すことの出来るまたとない機会だと思い、椿希は心の底に蓋をして封じ、気の重くなるような思いを忘れようとしていた。それぞれ全く異なる思いの上に、会話を次々と紡ぎ出しているのを知るのは、あの天体観測の時と変わらぬ空ばかりであろうか。しかしそれでも、あの時と違って星はほとんど見えない。詩も聞こえそうにない騒々しい場所にいながら、二人は尽きることのない会話に興じていた。
 空は濃い紺色に少しずつ変わり行くのだが、ずっとその下にいるとその変化にも鈍くなってしまうらしく、時が随分流れていたことにも気付かなかった。あまりに夢中になっていたので、周りの人が急に増えたように思えて、葵生はふと時計を見遣ると時計の文字盤も見えにくいほどにいつの間にか陽は落ちてしまっていたらしい。我に返ったせいだろうか、急に空腹も覚えた。
 「お腹は空いてない。俺、ちょっと買ってくるよ。好きなものは何かな」
 すっかり会話に慣れてしまったのか、言葉遣いも柔らかく、声色も低く優しく響かせながら、椿希に微笑みかけて言った。
 「じゃあ、お願いするわ。屋台のものは大体好きなんだけど、特にたこ焼きとか焼きそばとかが好きかな。ついでにお茶も買ってきてくれたら助かる」
 こういうことにおいて、椿希は決して人任せにしない性質なのだが、珍しく葵生にあっさりと一任したので、葵生はおやと思ったが、場所を誰かが確保していなければ、この混雑だから取られてしまうからだろうか、とすぐに思い直して納得した。それと同時にこのように頼ってくれたのも嬉しくて、葵生はにっこりと笑って「行って来るよ」と、まるで恋人の家から仕事に行くような口振りで言った。そんな感覚も自分で感じていた葵生は、屋台の立ち並ぶ通りへと向かう間にも、にやにやとした笑みが治まりそうになかった。
 椿希はもう押し殺した思いを蘇らせるつもりはなく、ぼんやりと対岸を眺めていた。いや、蘇りそうになるのをどうにかして抑えようとしていたのかもしれない。
 花火も見る場所によればさぞかし情緒溢れる夏の風物詩として、童心に返るような懐かしい気持ちを運んでくれるに違いない。だが、さらさらと流れる川は夜になるとその流れもどこか不気味で、本当にそこにあるのかと思われるほど、すっかり黒ずんだ色に染まっている。振り向けば屋台や提灯、街灯などの光が目に付くけれど、正面を向くと夏で浮かれたような周囲の様子に反して、何故か心寂しいような風景が広がる。あらゆるものが影となって黒くそびえているのを、一人で見詰めていると吸い込まれてしまいそうな気がして空恐ろしく感じる。
 視界を少し移してみるとぎらぎらと存在を主張するかのように明かりが見えたが、それがいわゆる『連れ込み宿』のものだと気付くと自然と溜め息が漏れた。花火が打ち上がる場所はその方向ではないのが幸いだったけれど、川沿いに建つそれは明らかに景観を損ねるものだった。
 葵生が買い出しから帰って来ると、椿希がぼんやりと何かを見詰めているのでその方向を見遣ると、葵生は小さく「あっ」と呟いて急に胸を高鳴らせた。一寸あの夢のことが鮮やかに蘇り、顔がかっと熱くなっていくのを感じると、慌てて新聞紙の敷物の上に座って買い出して来たものを見せた。椿希はおっとりとした様子で「ありがとう」と言った。葵生は、
 「あれ以外に見るものはなかったはずだけど、あれを見ていたのではないのだろうか」
と思ったのは、椿希があまりにも落ち着いて何も感じていないという様だったからだ。それと同時に、
 「俺がこんなに傍にいてどきどきとときめかせているというのに、彼女は落ち着きを払っている。なんと切ない気分だろう。俺ってそんなに魅力がないのだろうか。彼女は俺のことを一体どう思っているのだろう」
という気持ちが目を覚まし始めたが、パックのゴムを外したりごみ袋を作ったりしながら紛らわせていた。わざとがさがさと雑音を立て、買い出しに行った時の様子などを饒舌に話した。椿希はそんな葵生の話にただ相槌を打つばかりではなく、笑い声を上げ、時には話を膨らませようと気の利いた返事を返す。だがこういうことは恐らく恋人同士でなくて、友達同士であってもごく自然に椿希ならすることだろう、分け隔てなく誰に対しても接する性質だから、と焼きそばを黙々と食べながら心は自嘲しているのだった。本当に切ない恋心ばかりが募って、なんとも哀れな様子であるが、こればかりは椿希にも事情があるので致し方ないことなのだけれど。


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