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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第37回   第一章 第七話 【花火】6
 朝はいつもよりも少し早く目が覚めたが、支度を寝る前に行っていたため、髪形や制服の着こなしなどに対して気遣う時間が増えた。整髪料を少し指先でつまんで取り、掌で馴染ませて髪全体にしっとりとつけて髪を少し立たせるようにした。短くないのでつんつんと尖がるようなものではないけれど、頭頂部が盛り上がることで少しだけ長身に見えるようにする。
 夏の朝は早くて日差しも眩しく、部屋の中にきらきらと入り込む光に目を細めながら、制服の乱れや髪の整い具合を姿見で確認する。どうせ学校を出るときにまた、しつこく鏡を見ることになるだろうが、場合によっては授業が長引いて、時間も押した状態で待ち合わせ場所へ向かわねばならないことも想定すると、やはり今の時間のある時に整えるところは整えておきたいというのが葵生の心情だろうか。
 蒸し暑い日もあればそうでない日もあって、今日は湿気が少なく過ごしやすい爽やかな気候のようだった。部屋の窓から見える緑の葉が空の色に一段とよく映え、うっすらと漂う白い雲が今にも溶けてしまいそうなほど淡く見える。蝉の鳴く声はまだそれほど煩くもなく、遠くから微かに聞こえるのが、このような情緒とは無縁の住宅地の中でもそれなりに夏の風情を感じられて良いものであった。
 うきうきと心が弾んでつい顔も笑みを形作ってしまいそうになるのを、せめて母親の前だけは抑えなければならない。予め母親には塾で補習授業がある、その後自習をするかもしれないから遅くなると言ってある。葵生の成績の良いのを知って、ここのところ機嫌の良い母は、
 「分かったわ。しっかり勉強してらっしゃい。くれぐれも夜道は気をつけるのよ。明日にはお父さんが帰ってくるんだから、心配かけさせないでよ」
と、軽く念を押す程度に留めて愛息が学校へ行くのを見送った。制服を着ているので学校へ行くのは間違いないし、夜も人に咎められるようなことはするまいと、すっかり信じきっている。冬は濃紺の学生服で詰襟のところに校章を付け、夏は上は白のカッターシャツだが独特の形状をしており、胸元のポケットのところに紺色の糸で品良く刺繍を施されているのが、染井の学校の学生だと一目で分かるのを見て、母は誇らしげで満足そうである。この辺りでは珍しい紺の詰襟は一際目立つので下手な振る舞いをすれば恥になるという意識がある限り、大目に見ようという風にでも思っているのだろうか。
 わが息子ながらに惚れ惚れとしてしまうような容姿は一体誰に似たのだろうか、と母は常々思う。夫である葵生の父親は確かに若い頃は美男として、それなりに持てはやされていたとはいえ、こうまで妖艶ではなく器量もそれほどでもなかったというのに、年頃になるにつれて艶やかさも加わって、葵生が順風満帆に進むはずの人生を揺るがし妨げるような、母親にとって憎むべきファム・ファタールのような魔性の女に引っ掛かるのではないかという懸念もまた日々増していく。
 母は葵生が出て行った後で自分の顔を鏡に映して見たが、やはり自分にもあまり似ているとは思えない。細かなところを見ていけば、どことなく似ている気もしないでもないが、葵生の姉が年を経るごとに母親に似てきたのに比べると、本当に同じお腹を痛めて産んだ子なのだろうかと思うほどの端麗さ、そしてその他のことでもあまりにも器量が良すぎる。だからこそ娘よりも息子に対しては、より一層掌中の宝玉のように慈しんできたのだ。
 葵生を男子校に進ませて良かった、と母は心の底から思った。単身赴任で家を空けたままの夫が明日一時的に帰宅するが、その時に改めてそれぞれの容貌を比べてみると、さぞかし心は若返って久しぶりに気分も晴れ晴れとするのではないかと楽しみな様子である。

 学校の夏期講習の授業において、葵生はいつもよりも冴えた頭で集中して聞いており、顔つきも真面目で、模範にしたいような態度であった。物思いに耽ることもなく、時間が淡々と過ぎていくのを待っているだけというのも味気なく勿体ないので、自然とそうなったのだろう。
 夏期講習なのでいつもの授業と違って夕方も遅くならないうちに終了すると、少し待ち合わせには余裕のある時間だったが、葵生は随分と長い間ここに留め置きをされたように思っていたので、すぐさま教室を後にしようとしている。それを友人の一人が、
 「夏苅、今日の花火大会だけど何人かもう声を掛けてあるんだが、一緒に行かないか。折角のついでだから」
と誘ったのだが、教室を今にも飛び出して出て行こうとしていた葵生は振り返って、
 「悪いな。男と花火を見る趣味はないんだ」
と、大層爽やかな笑顔で言って、嵐が辺りを吹き巻くようにして慌しく去って行ったので、皆はきょとんと顔を互いに見合わせながら、一体どういうことなのかと囁き合っている。言葉どおりの意味だとするならば、今日の花火は誰か意中の人と見るということなのだろうか、そうだとするとどんな子なのだろう、などと興味がそそられてあれこれと勝手に想像をした。こういったことには全くといっていいほど、葵生は無関心を貫いてきたので、一大事だと言わんばかりに周りは騒然としているのだった。
 葵生はあっという間に昇降口から校門を通り抜け、そこからは早足で駅へと向かった。きっと教室内では口さがない友人たちが噂を立て合っているだろうが、一向に構うものかと自信もたっぷりである。
 街路樹によって出来た影のところを歩きながら、車や人々が行き交う大通りはいつもよりも少し人も少ないように見受けられるのは、夏休みになって学生が学校に通わなくなったからだろうかと思われる。この近辺は中学や高校が多く集まっており、登下校の時間になるとこの広い通りも人で溢れているのだが、このように歩きやすく人と擦れ違うことも少ないというのはなかなか新鮮なものである。
 花火大会といっても、それまでは少し離れたところにある友人の家から見ていたので、今回のように間近から見るというのは葵生にとって初めてのことである。会場の場所を間違えないよう、忍ばせておいた地図を電車に乗りながら何度も確認し、頭の中で何度かあらゆる場面を想像しておく。電車がかたんかたんと揺れるのが体にはとても馴染んで、あれこれ考えていたいのを眠気の方へと意識を持っていこうとする。今日一日、あまりに気が張り詰めていた葵生はうとうとと眠り始め、一駅ごとに目を覚ましてはまだ目的地に着かないのを確認していたので、どうにか寝過ごしてしまうことなく無事に駅に降り立つことが出来たのだった。
 時計はまだ三時を少し過ぎたところであった。三時半の待ち合わせ時間には十分すぎる余裕があるので、電車の中で少し寝たことで気分も目もすっきりとしさせながら、改札口を出て駅から少し離れ、道筋を確かめに歩いた。まだ大会に行くには早すぎる時間であり、この駅が会場からの最寄り駅ではなく一駅離れたところにあるものだったので、誰一人会場に向かうらしい者はおらず、人の歩く方向を当てに出来ないので前もって確かめておかなければと思ったのだった。少し歩いて方角と方向を確かめると、この分だと花火が打ち上げられるまでの間に十分椿希と二人きりの時間を過ごせそうだと思い、葵生はにわかに緊張し始めた。
 思えば今日ほどに椿希と二人きりで過ごす時間の長いことは初めてなのだ。会話というものはその時々に感じたことや見たものによって自然と生まれてくるものだと思うけれど、人一倍口下手で、ましてや異性と口を利くこと自体が滅多にない男子校で長らく過ごしているのだから、何をどう話せばいいのかと不安が襲ってくるようであった。差し障りのないことを言っているだけではつまらない人間だと思われそうだし、かと言ってあまりにも開けっ広げに話し過ぎるのもまただらしなくみっともないようで、その中庸を取るのがとても難しく気が重くなって、葵生は溜め息が自然と漏れてしまった。
 そうこうしているうちに時間が経ち、改札口の向こうから階段を下りてくる灰色の制服の姿が見えたので、葵生の口元は上がり、目元を細めて考えるのを止めた。約束の時間にはまだ少し早いのだが、葵生が待っている姿を見て、椿希は申し訳ないと思った。
 「ごめんね、遅くなっちゃって」
と言って葵生の近くに来た椿希はもうすっかり見慣れた夏の制服姿のはずなのに、いつも見ている蛍光灯に照らされた教室の中ではなく、昼の明るさの中で見ているからなのか、ありのままの美しさが一段と引き立てられ、凛としていて侵しがたい一輪の花のような美貌も、今は艶やかでしっとりとした女性らしさが際立っている。葵生は呆けたような顔をして椿希を見詰め、あの夢のこともまた今に再現されそうなほど妖しく胸がときめかされていた。
 呆然としていると、椿希が訝しげにこちらを見詰めている。葵生は笑顔を作り、「行こう」と促し、それから二人は並んで歩き出した。葵生から言い出したことなので、葵生が予定を全て決めてあるのだが、椿希にそれでいいかと訊ねると、
 「私には最初から拒否権なんてないんじゃなかったっけ」
と冗談めかして言った。
 「そんなことは冗談でも言うものじゃないよ。俺のことを信頼してくれるのは嬉しいけど、俺だって一応男なんだから」
と、それとなく仄めかしてみると、椿希は目を逸らして顔を赤く染めた。それがとても嫋々としていて可憐なのである。
 椿希は塾生たちからは、「そんじょそこらの男子よりもずっと頼りになるし紳士的な優しさがあって、本当に彼女が男子だったらいいのに」と言われているのだが、彼女がその塾の女子学生たちの誰よりもたおやかであることかを皆は気付いていないのだろうか。そういえば妥子は前に、
 「葵生くんは人前で見せる椿希ではない部分に気付いているような気がするから、私は他の誰でもなく葵生くんと椿希がいい関係になるようにと思っているんだよ。あの子は本当はおっとりとしていて、可愛らしいのにね」
と言っていた。彼女の所作や口振りは少しも荒々しさがなく、慎ましやかで気品に溢れているけれど、そういうところをしなやかで優しいと感じるか、物語に出てくる王子のようだと思うかの違いなのかもしれない。ただ椿希が少し背丈が女性にしては高く、端正で中性的な顔立ちをしているだけなのに。
 椿希のことをしっかりと知る者の一人なのだというのが誇りに思え、葵生はあれほど気にしていた会話の中身も椿希が上手く返してくれているお陰で、夢中になって話を続けていた。もう一人の自分が「今日はやけに饒舌だな」と苦笑しているが構うことはない。
 わざわざ一駅遠くから歩いているのは、このように景色を楽しみながらゆっくりと喋りたいという思いからだった。この辺りは初めて来るのだが、街中に学校がある二人にとっては商店街の中を歩くというのは物珍しく、主婦がスーパーマーケットではなくこういった商店で野菜や果物といった食料品を買い、近くの店の主人同士が世間話をしているのを見ては、二人であれやこれやと言って笑い合った。こうして肩を寄せ合いながら歩いていると、本当に仲睦まじく微笑ましい似合いの恋人同士にしか見えないのだが。
 「少し休憩でもしようか。コーヒーは好きだっけ」
 葵生が訊ねると、
 「そうね。私、コーヒーは大好き。ブラックでいつも飲んでいるくらいよ」
と言って笑った。椿希は普段からよく笑うけれど、こんなに曇りのない笑顔を明るい空の下で見ることが出来るのはなんて幸せなんだろうと、葵生は思った。こうして見てみると、椿希は目が際立って大きいわけではないが、黒目勝ちなのが特徴的でその瞳に吸い込まれそうになるほど印象に残る。その黒目が自分をどのように映しているのだろうと思うと、葵生はどきどきと心臓が高鳴り始めて大きく息を吸い込んだ。
 「ブラックが好きなの。意外だな。俺も挑戦してみようか。苦手だと思って、今までは砂糖は入れなかったけどミルクだけはたっぷり入れて飲んでいたから」
 そういえば葵生は甘いものが苦手なんだっけと、椿希は思った。それにしても葵生がコーヒーをミルクをたっぷり入れて飲むなんて想像も出来なかったから、椿希はふふと笑みを漏らした。すると葵生は軽くむくれた顔をして、
 「そんなに俺のしていたことが面白かったんだ。ああ、そう。じゃあ今回は何が何でも、何も入れずに飲むから」
と、むきになって言うのが、普段の沈着冷静な葵生と違って子供っぽいので一層椿希を笑わせた。葵生はそれでも椿希が笑ってくれるのが嬉しくて、失敬だと文句を言いたい気持ちもすっかり失せて微笑んでいる。椿希のこととなると、何もかも許してしまいそうな葵生であった。
 喫茶店の中は平日の昼間ではあったが、花火大会のある日ということもあって適度な人の入りで、特に若者が多くいた。ジャズの心地良い軽快な音楽が流れ、香ばしい匂いが店内を漂い、ゆったりと作られた店の内装は少し薄暗いけれど、明るすぎないのがかえってコーヒーの苦味に合うようで、とても洒落ている。調度品もこげ茶色で統一されていて小物は少なく、控えめにそっと窓際に花が活けられているのが洋風の中にも情趣を漂わせて好ましい。
 葵生は椿希を奥のソファに座るよう勧めると、彼女は躊躇しながらも「ありがとう」と言って鞄を置いて座った。そして葵生の鞄も受け取って自分の鞄の隣に並べた。
 喫茶店に入ってカウンターでコーヒーを注文して精算する間は会話が一度途切れたので、話は改めて切り出すことになる。こうしてテーブルを挟んで真正面から向かい合いながら話すというのは全くの初めてのことで、葵生はまたも待っていたときのように緊張が走るが、思い切って口にした。
 「俺が花火大会に行こうと誘ったけど、俺は断られるのを覚悟してたんだけどな。正直、玉砕覚悟だったからすごく嬉しくて。『私には拒否権は初めからなかったのでしょう』って書いてたけど、本当に嫌なら無理強いするつもりはなかったんだ。だから、本当はどう思っているのか知りたくて。今もまだもしかしたら俺がしつこい性格だからって渋々付き合ってくれているのかと思うと、すごく申し訳ない思いでいるんだ」
 こんなことをここまで来て言う必要があるのだろうかと思いながらも、どうしてもそこが引っ掛かっていたので訊ねてしまった。葵生は、最近は自分こそが椿希に最も近しい人間なのだと増長して、失礼なことをしてしまったがためにここのところ避けられているのだろうか、と思っていたので気になって仕方がなかっただけなのだが、椿希は自分の病気のことを感づいているわけではないらしいと悟り、安堵したような表情になった。
 「私はちっとも嫌じゃないわ。むしろ葵生くんに嫌われるんじゃないかと思っていたくらいよ。私、ここの花火大会は初めてだからすごく楽しみにしていたんだから」
 そう言う椿希が嘘を吐いているとは到底思えないほど、明るく溌剌と言うので、葵生も胸を撫で下ろしながら、
 「それは良かった。少し胸のつかえが取れたみたいだ」
と嬉しそうにしている。何より、椿希もまた葵生に嫌われるのではと恐れていたというのが、こちらの一方的な思いばかりではないような気がするのだ。椿希は、葵生がコーヒーを宣言どおり何も入れずに飲んでいるので、口に含むとやはり苦いと感じているのか顔を顰めているのを見ながら、やはり自分のことは脇に置いて事情を告白するのは止めようと改めて思った。その矢先に、
 「それはそうと、ちゃんとあれから医者には診てもらったの」
と、唐突に訊ねるので椿希は少し言いよどんだが、予め考えておいた内容を脳裏の隅の方から手繰り寄せて、
 「うん。ちゃんと皮膚科に行って塗り薬を処方してもらった」
と答えた。あまり詳しく話すと心配して色々と訊ねるだろうから、簡潔に言葉を纏めた。これは決して嘘ではなく本当なのだ。ただ隠していることがとても多いだけで。
 葵生は「それは良かった。気にしてたんだ」と言いながら、またコーヒーを口に含んだ。飲みながら、「やっぱりこれは苦いな」「でも慣れてきたからか、美味しいような気もしてきた」などと言っている葵生から目を伏せると、椿希は隠し事をしている後ろめたさから心の中で真実を言えないことを深々と詫びていたのだった。


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