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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第35回   第一章 第七話 【花火】4
 大学病院へ検査結果を聞くため、椿希は学校を早退して行った。いっそのこと学校を休んでしまえば楽なのだが、こういうときでもちゃんと学校へ行こうとするのは椿希らしいところである。
 予約時間も押し迫った頃に、どうにか間に合った椿希は、息を切らしながら待合の長椅子に腰掛けた。一人制服を着ているのがどことなく恥ずかしく、周囲を見渡すと色々な人たちがこちらに目を合わさぬよう、制服のあたりを見ているので、やはり浮いてしまっているのだと小さく溜め息を吐いた。気のせいだと思いたいが、その視線が「その若さで可哀相に」といった哀れみが含まれているようで、自分は決してそんなに柔ではないのだと、心を強くしているのに、他人からそんなに大袈裟に見られてしまうとは心外だと、椿希は真っ直ぐ視線を遠くに遣って、堂々と座っていようと姿勢を正した。こういう場でも椿希の輝きがくすむわけがなく、ましてや気を張らせているのだから、より気高く美しい様相で、とても診察室に呼ばれるのは、とても待っている患者とは思えない雰囲気であった。
 診察室に入るよう言われて、扉を二度叩いて「失礼します」と言って入ると、
 「冬麻さん、こんにちは。どうぞお掛けください」
と、とても親しみやすい笑顔の女性医師がこちらを見て言った。その柔和な雰囲気は、あの教授の持っていた冷たいものとは正反対で、診察室に一歩入った瞬間からどことなく気持ちを落ち着かせ、張り詰めていたものを融和させ、椿希も表情を和らげた。微笑みながら、「よろしくお願いします」と言い、椅子に座ると、新しい主治医は微笑んだまま、一息吐いたのを見計らって言った。
 「今日はお一人で来られたんですね。紹介状によると、どうやらもうお母様は事情をご存知のようですから、私からは冬麻さんにお母様に既にお話してある内容と、この大学病院で先日行った各種検査の結果と、そしてその結果から冬麻さんの状態と今後についてお話しなければいけません」
と、机の上の紹介状と検査結果表を見ながら、椿希を見ると、覚悟していたかのように深く頷いている。
 「申し遅れました。私、これから冬麻さんの主治医となる、向日あかりです。これから長いお付き合いになると思いますが、どうぞよろしくお願いしますね」
 首からぶら下げた名札を見せながら、自己紹介をした向日医師に、椿希は好感を抱いた。確かに若くて、椿希からすると姉のように見えるほどなのだが、その丁寧な口調と親しみやすく思い遣りのある言葉に、椿希は初対面ではあったが、もうこの医師を信頼しても良いような気がして、
 「こちらこそよろしくお願いします」
と、深く頭を下げた。年齢的にもあまりにも若いので、あまり現実的な話をし過ぎてはいけないような気がしていたが、向日医師は高校生ながらに肝が据わっていて泰然とした椿希を見て、この分だと、ちゃんと話をして気持ちを前向きに立て直すことが出来るだろうと感じ、予め用意していた考えを改めた。
 「以前の診療所での血液検査の結果表のコピーがこちらですね。ある程度この地点でも冬麻さんの体が今どういう状態にあるのかを知ることが出来ましたが、それだけだと診断するのに決定打に欠けるので、大学病院では追加で検査を行って絞り込みをしました。まずは検査結果からお伝えしましょうか。
 以前の分と今回の分とを見ていただきたいのですが、『高値』に印のついている検査項目が複数ありますが、こちらとこちらの数値は炎症があることを示しています。風邪を引いても炎症は起きますが、風邪にしては少し高いかと思われます。そして次、こちらを見ますと、それほど程度としては酷くはないのですが貧血の傾向があるのが分かります。まあ、女性ならば貧血の人は多いのですが、冬麻さんの場合は貧血に加えてそのほかの項目でも異常値が出ていますので、見逃せないところですね」
 椿希は前もって調べていたので、向日医師の説明も分かりやすく納得しながら、じっと真剣に聞いている。
 「それで、今回の血液検査で見逃せないところが陽性と出てしまっているんです。具体的には」
と、医師は椿希がしっかりと言うことを一つ一つ聞き入れているのを察し、言葉を続けた。二週間前に行った検査で、陽性の部分と陰性の部分との別を説明し、この場合はどういう状態なのかと、事細かに丁寧に話す向日医師は、椿希の反応を見ながら、年齢以上に芯のしっかりとした聡明な子のようだと思ったので、この話の流れのままに確定した病名までを話したのだった。
 椿希は流石にはっきりと明らかになった病名を聞いて、はっとして目を少し閉じて息を整えたが、やはりそうだったかと思い当たったので、静かに「そうでしたか」と言って小さく溜め息を吐いた。およそ自分でも医学の本を読んでこうだろうかと思って心積もりをしていたとはいえ、やはり医師の口からそれを告げられると、呆然として物を思うこともままならなくなった。それでも気丈に、どうということのない振りをして、今はただ向日医師の話すことにだけ集中しようと、あちらこちらから芽生えようとする先行きの曇った不安な思いを押さえ込んで、椿希はひたすらに襲ってくる戦慄から耐えているのだった。
 そんな椿希を見ながら、向日医師はやはり一度に言い過ぎただろうかと悔やむ気持ちもあったが、しかしこれからずっと付き纏う問題なのだからいずれは必ず知ることになる、と思うと、同じことならば今のうちに嘆いて、気を取り戻して闘う気持ちを奮い立たせてくれればと願っていた。
 「先ほどお話したように、これから冬麻さんには手続きを踏んでいただくことがあります。お体が優れないのに、このような面倒なことをしなければならないのは辛いでしょうが、これからのことを思えば、どうか我慢してください」
と言って、向日医師は手続きの方法を説明して行く。医師は若いなりにも様々な患者を診てきているので、このような手続きを踏める段階ではない、またはそれに該当する病気ではないので毎月高い医療費を払い続けている患者のことを思うと、椿希が僅かな検査ですぐに診断がつけられたのは、不幸中の幸いであったかと思っていた。若い身空でこのような境遇になってしまったことは哀れでいたわしくてならない、と普段は患者の前ではあまり感情を入れないように努めてはいるものの、椿希の年齢や気丈さから、つい同情して他人事ながら涙も出て来てしまいそうであった。

 椿希は大学病院を後にして、はたと我に返ってみると、本当に辛くて、泣けるものならば他人に見咎められても構わないから涙の出る限り泣き尽くしてしまいたいと思うけれど、涙すら溢れ出てくれないのが切なくて悲しくて堪らなかった。
 夏の空は澄み渡っていて、白い雲が浮かぶのがとても爽やかなのが、少しずつ曇っていた心の濁りも溶かされていくようで、椿希は深呼吸をしながら大学の敷地内へと入って行った。制服姿のままなので、大学内を歩いていると学生たちからの視線を頻繁に感じていたが、椿希は建物の中には入らず、構うことなくちらちらと見学するつもりで歩いていたのだった。
 女学院の中学高校と違って、流石に大学の敷地というのはゆったりと作られていて、広々としている。女学院も緑が豊かで、花々が競うように春になると咲き乱れて美しいのだが、この大学は並木道が有名なので、秋になればさぞかし黄葉が美しく情趣溢れる景色になることであろうと想像しながら、椿希は歩いていた。
 今は夏なので、芽ぶいた緑も鮮やかに葉を広げ、太陽の光をいっぱいに浴びてまだまだ大きくなろうとするのが、きらきらと眩しく目に映る。真っ白の半袖のブラウスに紺色のリボンのネクタイを上品に付け、薄い灰色のスカートの裾が膝の辺りで動くたびにゆらゆらと揺れているのも、その美しい景色の中にある、美しい物のひとつとして数えられそうな優雅さであった。立ち止まって木を見上げる椿希の姿は、近くで見ればその整った顔立ちの美しさに目を奪われ、遠くから眺めれば、すらりと細身で背丈が高く手足の長い容姿に加え、立ち姿も背筋がしなやかに通っていて、真っ直ぐに癖のない黒髪が艶々と光を受けて白く輝いて肩にさらりと流れているのが、はっと息を呑むようなほど艶冶なものであった。
 椿希は、まだ気持ちは完全には晴れやかにすっきりとはしないものの、いくらかは落ち着いて、色々と気も回せるようになったようなので、昼も過ぎて少し涼しくなったのをいいことに、日陰のベンチに座ってこれからのことを考えることにした。
 書類をもらっているので手続きをすることはもちろんのこと、帰ったら親もある程度は知っているとはいえ、確定したものをちゃんと伝えねばならない。前もって知らされていることだけれど、こうと決まったことを改めて伝えるのは気が重く、特に母親がどれほど嘆くことかと、このような病を得てしまったことを申し訳なくも情けなく思うのだった。そうなっても、自分がしっかりと元気な風にしていれば親不孝さも少しは救いようのあるものになってくれるだろうか、と奮い立たせるのがなんとも健気なことである。
 そして事情を気にして、必ず結果を教えるようにと、何度も繰り返していた妥子にもありのままを話そうと思っている。
 「一時的なもので、何度か通院すれば済むようなものならいいんだけど、どうやら血液検査の結果も思わしくなくて、大学病院で改めて診断をつけるために検査をするらしいの。だからはっきりと今は分からなくて」
とだけ今のところは伝えていたので、妥子も椿希の病気が一体どういったものなのかは全く知る由もない。妥子は気にして、もっと詳細に教えて欲しいと言ったのだが、もしかすると誤診で実はなんでもなかったということがあるかもしれないから、と詳しくは敢えて伝えなかったのである。それも、今にして思えば思い遣りのないことだったと、椿希は心の底から妥子に詫びたい思いであった。
 椿希は藤悟にもこのことを話そうと決め、そういえば医学部附属病院は理系学部のキャンパスからほど近いところにあるので、もしかすると藤悟がこの辺りを通りがかるのではないかと、通りがかる学生たちを気にしながら、思案を続けることにした。
 藤悟はこのことを全く知らないでいるので、藤悟に話をする時には慎重に言葉を選ばなければならないだろうと思っていた。葵生の言葉がなければ皮膚科に通うこともなく、こうして治療を始めることもなかっただろうが、事の経緯を話すにあたって葵生のことを表に出すのがどことなく気恥ずかしく、またいらぬ誤解もされるのではないかと思い、葵生のことは出さないでおこうというつもりでいる。
 そして先ほど、ちらと出た葵生に対することであったが、これが椿希にとって最も気の置けることで、どのようにすれば葵生にとって負担のかからないように伝えられるだろうかということばかり考えていた。決して重大で深刻な状態ではないけれど、椿希は葵生の思いに気付いているだけに、真実を伝えることでひたむきな恋心を突き放すことになりはしないか、傷つけはしないかと、そればかりをしきりに気にしているのであった。かと言って、全く何事もなかったかのように隠してしまうのもまた、思い遣りのないことだと思え、心配してくれている葵生の気遣いを打ち捨てるような薄情なことだけはしたくないと、考えも纏まらぬまま時間は過ぎていった。

 藤悟には結局会うことも出来なかったが、あまり期待していなかったことであるし、空も少し橙色がまさって金色の光が目に眩しくなったので、椿希は自宅へと帰って行った。病名を告知され、様々なことを思い巡らせていたためか、今日という一日が一月のように長く思え、椿希は帰ってくるなり疲れを覚え、父親が帰宅するまでの間、しばらく横になって深い眠りに就いてしまった。
 その晩、椿希は家族が揃ったところで病院での出来事を、事細かに話した。既にそれらしいと聞いていた病名の本を集めていた両親は最悪の事態も考えていたため、思ったほどの深刻な状況ではないことを知って安堵したようであった。今後のことは予測出来るはずもなく、楽観出来るわけではないが、それでも現状では少量の薬で体調を維持することが出来るだろうということが、両親を喜ばせた。椿希は耐え難く辛いことの中にも、こんな喜びもあるのかと、家族が目の端に溜まった涙を押し拭うのを見て、心が軽くなったように思え、これから先も心だけは強く持っていようと、強く思うのであった。
 長い目で見れば然したることではないのかもしれないが、まだ十六歳の椿希が抱え込むにはあまりにも大きく重過ぎて、気強く保つのは酷であった。

 椿希は家族に話をし終えると、後は自分の部屋に戻って塾の宿題や学校の予習など、一通り普段通りに勉強をしていた。先ほど横になったことで、目も冴えてすっきりとしているので、特にどこかに苦しむこともなく、夜もそれほど遅くならないうちに全ての予定を終えたのだった。
 向日医師より、「体調が良いときでも決して無理をしないように」と言われているので、本当はもう少し頑張ろうかと思っていたけれど、明日何も手がつかなくなってはいけないからと、歯を磨いて横になろうとした。明かりを消して、薄手のタオルケットの中に入り込んだときには少し肌寒く感じ、少し暑いかもしれないけれど布団を被ろうかと、布団をクローゼットから引っ張り出してきて、その中に入ると丁度良い感じであった。まだ朝になると時折ひんやりとした、落ち着かない気候の頃なので、朝になっても布団をしっかりと被ったままかもしれない。
 夜もしんしんと更けて、椿希は横になりながら目を瞑ると瞼の上に現れたのが、どうして何もかもすっかり打ち明けてくれないのかと恨み言を言う葵生の姿だった。眠っている間も、布団の重さのせいなのだろうか、夢に現れた葵生が椿希を抱き締めて離さないので寝苦しく、布団を跳ね除けようとするが体が冷えて、また布団を被る。そうしては葵生の腕の中にいるような奇妙な感覚に陥り、ほとんど熟睡も出来ないまま朝を迎えたのだった。


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