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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第33回   第一章 第七話 【花火】2
 葵生がそんな風に悶々と過ごしていると、ある日、ふと夢の中に肩より少し長い髪を揺らした女性が現れた。柔らかな光の差し込む部屋の壁は白く、まるで新築の家のように何も置いていないので殺風景なのだが、それでも淡い橙色の光のためなのか、冷たいだとか寂しいだとかいう印象はなかった。薄桃色の唇がとても可愛らしく、穏やかな微笑みを湛えながら、女性はこちらを見詰めていた。彼女に惹かれて、思わず二、三歩ほど歩み寄ると、顔ははっきりとしないものの、どことなく面差しが椿希に似ているような気がして、どきりと心臓が跳ね上がったようであった。
 じっくり見詰めようとするが、肝心の顔立ちまでは分からない。しかしながら、化粧をしているらしく、その口元には紅が色鮮やかにしっとりと塗られているのが目を引く。その部分以外はこれといって目立つようなところはないのだが、唇だけがいやに強調されているので、その唇を奪いたくなるような気持ちが沸き起こって、それをどうにか抑えようと必死に目を逸らそうとするが、目はその唇をしっかりと焼き付けてしまっていて、理性と本能の間を意識が激しく動き回っていた。
 葵生はごくりと唾を飲み込みながら、そのまま視線を下に下ろして顎から首に目を遣ると、くっきりと浮かぶ鎖骨のところで一度目の動きが止まった。白い衣からは肌までが透けて見えそうで、このままだと理性が負けてしまうと思いながらも、見てしまうのを止められない。椿希は露出する服装を、真夏であってもほとんどすることがなかったのだが、目の前にいる女性は大胆に胸元を開けていて、くっきりとした体の線が分かるので、これが椿希だとすると葵生は夢だと分かっていても、嬉しいような幸せなような、でも現実ではないのが寂しいような、現実では有り得ないことだ、などと一瞬のうちに様々に思いが浮かんでいく。夢だと分かっているから、こんなに見ることが出来るのだろうけれど、と今このようにしているだけでもひどく恥ずかしくもなる。
 「ねえ、私のこと、好きなの」
と、少し掠れた声で言うのは、どことなくやはり椿希に似ているような気もする。二人の他に誰も居ない部屋にいるというのが、葵生の心を縛っていた箍(たが)を、じりじりと緩ませていた。あちらこちらと激しく動き回ってきたメトロノームのような心が、少しずつ不気味なほどに鎮まっていった。上目遣いでこちらを見詰めるのが分かる。
 「俺の気持ちなんて、君ほど聡明な人ならとっくに分かっているだろう。俺はもう一年以上もずっと、君のことを」
 言い終わらないうちに、とうとう堰が切れて流れ出した本能によって、腕が伸びて彼女を強引に自分の元へ引き寄せ、腕の中に閉じ込めたのだった。ほっそりとした体なのに女性らしい柔らかい温もりがあり、鼻腔をくすぐるような良い香りが漂い、くらくらと眩暈がしそうである。もうほとんど自分でも何をしているのか分からないほど、視界も脳裏も朝の霧がかったような状態のまま、体だけはまともな状態だととても出来ないことを、荒々しくやってのけている。酔うとこんな感じなのだろうか、とぼんやりと僅かに残った正常な部分が考えていた。
 それに対して彼女は、驚くような様子も拒む様子も見せず、かと言って受け入れようという意思があるようにも見えず、人形のようで手応えがまるでない。
 次の動作に入ろうとしたとき、射抜くような彼女の視線に囚われた。
 「私のことを本当に好きなら、ちゃんとそう言って」
 狂おしく花びらが嵐の中を舞い散るような甘い蜜の香りの中で、葵生の全身を強い金縛りが襲い、そのままの状態のまま動かない。もう互いの吐息まではっきりと分かるような距離にいるのに、ぴくりとも動こうとしない体がもどかしく、そして喜怒哀楽といった感情の一切を感じられない彼女の表情がやけに不気味で、葵生は顔からさっと血の気が引いていくのが分かった。夢の中でも、そういう風に感じられるものなのだろうか、とやけに冷静な自分もいたり、彼女に嫌われてしまったのだろうかと、ひどく傷ついた自分もいたりと、葵生はめくるめく思いの中で疲れ果ててしまい、ふっつり意識を失ったのだった。
 朝目覚めると、寝巻きは汗でびっしょりと濡れ、なおも背中から出たのか、つつと流れ落ちる滴がいやに冷たく、ぞくっと体を振るわせた。葵生は頭を掻き毟り、ぶんぶんと振った。
 「椿希、ごめん。俺は、俺は」
と、夢の中での出来事であっても、なんていうことをしてしまったのかと、背徳ではないもののそういうことをしてしまったような気分で堪らず、体に纏わりつく蔓のような服を脱ぎ捨てた。部屋の全身鏡に映る自分の体を見ていると、夢の中で女性がか細い指先でそっと触れた、胸板や腕、腰、頬などが、また触れられたかのようにびくびくと反応して、かっと熱がそのあたりに集まってくるようであった。これ以上見ていられないと、葵生は制服に着替える間も鏡で自分の体を映すことなく、背を向けたままでいたのだった。
 その日は何度も夢の出来事が忘れられず、学校で授業を受けていても体育の授業で体を動かしていても、時折女性の手が葵生の体をそっと触れているような感触がして、ぶるりと全身が震えるので、顔色も青ざめて、友人たちからも、
 「今日は体の調子でも悪いんじゃないのか。もう帰ったらどうだ」
と、気遣う声があるけれど、まさか真相を話すわけにもいかず、葵生は「大丈夫」と言って、やつれた様子でいるのだった。恋にやつれて憂いを含ませて、気怠そうにぼうっと窓の外の景色を見詰めている姿も、写真に写してしまいたいような美しさである。葵生の体調が悪いのは滅多にないことだが、そんな少し元気のない様子もまた、見ごたえがあると友人たちは思っていた。本当に、男子校にいるのが勿体なく、共学校にいて女子が胸をときめかせ、噂をし合う様子を見てみたいものだと、口にも出していたのだった。
 葵生はあまりにぼんやりとしていたため、授業も夢心地で、何度か教師に頭を小突かれてようやく我に返ることもあったほどで、普段は何があっても何食わぬ顔をしているのに、心ここにあらずというのは実に珍しいことであった。葵生は深い溜め息を吐きながら、今日の獅子座の運勢は、きっと十二星座中最悪だったに違いないと思って、うんざりとした。しかも、昨日、塾に定期券を忘れてきてしまっていたため、今朝は学校まで自腹を切ったところだった。高校生の僅かな小遣いで学校までの電車運賃を払うだなんて、余計な出費はとても痛い。こういうことも含めて、本当に今日は厄日だと葵生は思っていた。
 学校が終わって、今日は塾のない日であったが、光塾へと向かった。そういえば今日は国公立大文系進学希望組の授業の日ではなかったか、と電車の中で気付くと、ふとこの日初めての笑みが零れた。だがすぐさま、今日は椿希と顔を合わせてしまうと平然としてはいられないように思え、やはり時間をずらそうかと考えを改める。夢の中とはいえ、椿希らしき女性に対して、してしまったことを思えば、情けないやら申し訳ないやら、加えてありありと夢の出来事が思い出されそうで、とても顔を合わせる気にはなれなかった。
 夏はなかなか夜の闇は迫ってくることがなく、暖色灯が照らしているかのような、未だ明るい街並みを歩いていると、夢か現かの間を彷徨っているようで、葵生は夕陽をほんのりと頬に照らして、眩しく目を細めていた。翠緑の葉を厚く纏った木々が橙色の太陽の光に当たって、緑の陰の部分と朱色の輝いている部分とが、はっきりではないけれどなんとなく色が区別されているのが、自分の表の顔と裏の顔を表しているように思えて、ふと足を止めて見上げていた。
 時間はゆっくりと歩いていたので、塾に辿り着くと塾の授業が始まる少し前という頃合になっていた。時間には余裕を持って行動している椿希はもうおそらく中にいるだろうと思って、授業が始まるのを見計らって塾に入ろうと、建物の近くでぼんやりと、家路を急ぐ会社員や学生たち、車の往来を観察することにした。
 建物から少し離れたところに立っていた葵生は、元来た道の方面から、二人の学生が小走りでこちらに向かっているのが見えた。その人影から察すると男女らしいが、顔までは見えず、おそらく塾生だろうと思って見ているが、誰かは分からない。
 「間に合ったかな。ごめんよ、走らせてしまって」
と、男子学生が息を切らしながら、女子学生に謝っている。聞き覚えのある声なので、やはり塾生だろうと思った葵生は、身を隠して二人が建物の中に入ってくれないかと待っていた。だが、二人は走ってきたばかりなので、息を整えているのか、建物の入り口のところで立ち止まったまま、なかなか入ろうとしないでいる。
 「もう、本当にずっと私は改札のところで待っていたのに。あんなに改札を出たところで待ち合わせと言っていたでしょう。なのに、どうして駅のホームで待っているの。行き違いになるかもしれないからと言っていたのに」
と、女子学生もなかなか整わない呼吸のためか、ところどころ言葉が途切れがちになりながら、男子学生に文句を言っていた。葵生はもしやと思い、ちらりと壁から僅かに顔を出して見ると、やはり思った通り、女子学生は妥子だった。椿希と一緒に来ているのではないか、と思った葵生は興味がそそられ、身を潜めながら趣味が悪いと思いながらも、じっと立ち聞きをしている。
 「ごめんごめん。迎えに行こうと思っていたんだよ。喜んでくれたらいいなと思って」
 言い訳を取り繕うように言って宥めているあたりから、なんとなく力の差があるようである。葵生は色々と推理し、桔梗か笙馬あたりだろうかと目星をつけたが、今日は桔梗がいるはずがないので、笙馬なのだろうかと考えを纏めた。
 「私が先に行くから、後で来るのよ。いいね」
と、慌しく階段を駆け上がっていく音がすると、葵生は小さく溜め息を吐いた。まさか妥子と笙馬がそういう仲になっているとは思いも寄らず、しかし思い返せば思い当たる節もいくらか見つかるので、納得のいく点もあるのだった。妥子のようなしっかり者には、桔梗のような明るく社交的な纏め役のような人がいいのだろうかと思っていたが、笙馬のような柔和で穏やか、誠実な人柄もまた存外うまくしっくりいくのかもしれない。そういえば確かこの前の天体観測の時、自分は椿希と共にいられる嬉しさのあまりに気に留めなかったけれど、妥子は笙馬に誘われてどこかへ行ったのだった、と思い出すと自分のこと以外にはすっかり鈍感になってしまっていることに苦笑した。
 それならば、と振り返るのが自分と椿希の相性についてだが、果たしてどれほどのものなのだろうか。自分で勝手にこう、と思い込むのは容易いが、他人から見てどうなのだろうかと、ほんの僅かに不安が過ぎる。時折藤悟と椿希の妙に親しげな様子に嫉妬を焼くこともあったが、以前、妥子に「椿希には葵生くんが合うと思う」と言ってもらえたのを頼みに、どうにか諦めてしまいそうな心を強くして、椿希への思いを寸分違えずに、いや日を追うごとに増すばかりにして、よくぞ今まで来たものだと、自分のことながらに感心をしてしまう。だからこそ、思いを胸の内に留め置く許容量を超過してしまって、あのような夢を見てしまったのだろうか、と胸も潰れそうなほど思い詰めているのだった。その様子は、椿希にこそ見せてやりたいほど悩ましげで、なんとも言えず優艶なのであった。
 笙馬が去ってから五分ほど経って、葵生は塾に顔を覗かせた。受付の事務員から定期券を受け取ると、教室を覗いて椿希の姿を一目でも見たい気持ちであったが、教室への扉を目の前にして止めてしまった。硝子の向こうを覗けば椿希がいるのだが、気持ちの落ち着かぬ今は止めておくべきだろうと思ったのであった。
 帰る道すがら、葵生はふと振り返って光塾の方向を向くと、やはり横顔でも後姿でも良いから見ておけばよかったと惜しい気持ちから後悔していた。少し風が吹いて肌に触れるのがあの感覚に似ていて、またも夢のことを思い出させるのだが、あの夢の女性が本当に椿希だったのだろうかと確かめておけば、今夜もし夢の続きを見たとしても惑わされることなく、きっと自分の思うままに出来るだろうにと、椿希の顔を朧月に重ねるように思い浮かべ、雲が幽玄に空を漂うのを切なく見詰めていたのだった。


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