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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第29回   第一章 第六話 【星屑】3
 管理棟の簡素な救護室にて熱を測ると、三七度四分と微熱があり、しばらく安静にしておいた方が良いだろうと言われたので、椿希は横になった。与えられた市販の鎮痛剤を飲むと、椿希は軽く溜め息を吐いた。
 「ごめんね、葵生くん。こんなところまで付き添ってもらって。もう戻ってもいいよ。そろそろ肝試しの打ち合わせが始まる頃でしょう。ありがとう、すごく助かったよ」
と、申し訳なさそうに言うのだが、横たえている辛そうな姿がなんともそそられる心地がする。改めてこうして上から見下ろすと、枕から流れ落ちる豊かな髪と、その肌の肌理細やかさが艶めかしく、美しさもいつもより勝って見えて、思わず近づいて触れてみたいという良からぬ心が立ち始めた。
 「せっかくお供して来たのだから、もう少しここに居させてくれてもいいでしょう。こうして控えているだけだから、後で誰かに何か言われたって疚しいことは何もないと言い切れる自信はあるよ。もう少し話をしたいと思っているんだけどもいいかな。体の調子が悪くてどうしてもというのなら、そのまま眠ってしまっても構わないけれど」
と、優しく慈しむように言うのが、初めて見せる葵生の感情表現だったので、椿希は驚いてしまってなんと返事をすれば良いのか思いつかない。それに言葉通りに受け止めていいのか、それとも別の意味も含んでいるように思えるから、そのつもりでいるべきなのかと、椿希は少し身を強張らせて困ったことになったと思っている。
 葵生はあくまでも笑みを浮かべているだけで、本当に何もする様子はないのだが、その笑みがまたうっとりするほどの優美さで、こちらが気後れしてしまいそうなほどなので、椿希はこのまま葵生と二人でいたことが誰かに知れると、きっと周りからあれこれとないことを吹聴されてしまうのではないかと、これから起こり得ることを想像しては気を揉んでいた。前々から葵生が喋ったり飲み込んだりするときに動く喉仏がとても艶かしくて、いつも色気があると思っていたけれど、こうして見上げているとそれがより一層強調されて見えて、とてもどきどきと惑乱するので見ていられず、せっかく考えたことも途切れがちになってしまっている。
 一方の葵生はというと、このまたとない機会に自分の心の内を少しでも知ってもらえたらと思っているので、後で周りに何を言われてもうまく返してやろうという気で、長居しようと決めている。椿希は整った顔立ちであるのに親しみやすい美しさで、それでいて凛としているのが爽やかで好ましいのだが、こうして繕わないでいるのがとてもしっとりとしていて、とてもこのままあっさりと戻ってしまうのは惜しくてならないと、葵生は触れられぬ指先に代わって目でそっと彼女の頬を撫でた。椿希が少し警戒したような様子を見せるので、
 「俺が軽はずみなことをするような男ではないということくらい、もう一年と少し付き合っているのだからよく知っているでしょう。そんなに信用ならないのならすぐにでも出て行くけれど、そうでないのなら少しくらい噂が立ったところで何を気に病むことがあるものか。こういう噂が出るのもまた、なかなか面白いものだと思って、笑ってどんと大きく構えていればいいんだよ」
と、さも周りのことをよく知ったかのように言った。
 「さあ、男の人は口ではいくらでもそういった誠意のあるようなことを言えるけれど、いざという時には、とても当てにならないことが多いと聞くから、葵生くんだって不意に変わってしまうかもしれないし、噂が立っても平気でいられるか分からないでしょう」
と、冗談めいて返すあたり、椿希も少し心の縛りを解いたらしく、いつも通りに戻ったように見えたので、
 「そうそう、そういうのでいいんだよ。そういう風に言えるのなら、大丈夫だろう」
と、全く帰る気配を見せない。葵生がにっこりと笑うのがまた艶やかで、やっぱりこの人も頼りにしては危ないかもしれないと、椿希はひそやかに思った。うっかり眠ってしまえば、口先だけの約束など反故にされかねない。
 入り口が分かれてあるだけで、仕切り一枚で事務室と隔てられた救護室で何か困ったことを仕出かすことはないだろうが、言いようのないほどの艶やかな妖しさで見詰めてくる葵生を、どうやって穏やかに引き下がってもらおうかと、定まらぬ心のままに色々と考えている。目を瞑って眠った振りをすれば、それこそ葵生を刺激してしまわないかと、とても落ち着いていられないが、とにかく目を合わせないよう視線を逸らすことばかり考えていた。
 そうしているうちに、救護室の扉ががらりと開いたので見ると、妥子がひょっこりと顔を覗かせていた。二人の姿を認めると、わざと驚いた風にして口元を押さえながら、
 「あら、もしかしてお邪魔だったかしら」
と言ったが、椿希が妥子を呼ぶのがまた、戻らないでくれと懇願しているように見えたので、妥子はなんとなく状況が飲み込めて、苦笑いしながら中へ入って来た。
 調子はどうかとか、今の炊事場の状況はどうなっているかという報告だとか、色々と妥子が話をしているのを、葵生は二人から少し離れて聞いていた。聞いていたというよりは右から左へ流していたので、声だけが聞こえていただけなのだが、窓の外を見ながら少し拗ねた様子でいるのがまた、なんとも言いようのない艶やかさである。
 葵生は林の木々や草の茂みをぼんやりと見詰め、太陽の光を浴びているので、薄手のそのシャツを通して肌が透けて見えそうな風情である。浮ついた心でひと時ばかりの恋遊びでもしようと思う者ならば、しなを作りながら声を掛けて振り向かせようとするだろう。
 すっかり仲間外れにされてしまったようで機嫌を損ねてしまった葵生は、
 「俺の方こそお邪魔みたいだから、これで下がらせてもらおうかな。もう少し本当は話をしたかったけれど、どうやら俺だとご不満みたいだから」
とわざと不貞腐れたように言って、恨めしそうに出て行こうとするので、
 「葵生くん、本当にありがとう」
と、椿希が感謝の言葉を言った。それがまたとても可憐で愛らしく思えて、やはり葵生はとても椿希のことを憎みきれそうにない。だが、その椿希の言葉に返事をしてしまうのも癪に思えて、顔を赤くしたまま、葵生は彼女に背を向けて頷いたまま、そっと部屋を出て行ったのだった。

 急いで炊事場に戻ってみると、もう打ち合わせが終わった後だったので皆それぞれ解散していて、することのない手持無沙汰な一年生たちがあちこちで座談会を開いたり、鬼ごっこをして遊んでいた。葵生の姿を見つけた一人が、首を伸ばすようにして、
 「あっ、夏苅さん。どこへ行ってたんですか、綾部さんが探してましたよ」
と言った。葵生は少しばかり、まずいことをしたなと思ったものの、微笑を浮かべながら「ありがとう」と言うと、そのまま軽く駆け足で立ち去った。
 声を掛けた学生は、葵生の笑みがあまりに優雅で穏やかなものだったので、顔を思わず赤くさせてしまっていた。以前より随分笑みを見せることが多くなったとはいえ、今でもこういった優しい笑みを見せることは滅多にない葵生は、キャンプに来ている間も椿希以外の前では変わらず、ややぎこちない笑みしか人前では見せていなかったこともあって、その一年生は初めて見た柔らかな笑みにどぎまぎしてしまったのだった。思わぬところで罪作りな男である。
 さて、葵生はというと、言い訳についてはもはやここへ来る間に考えてあったので、頭の中でその確認をしながら歩いていた。「大きなごみが出たのでスタッフに相談したところ、少し離れたところに行くよう言われたので、時間が思いの外かかってしまった」と言うつもりでいたのだ。こんな言い訳も前は苦手だったのにと思うと、恋のためなら嘘も上手になれるものなのだろうか。
 去年キャンドルサービスをしたところだろうかと見当をつけて行ってみると、案の定そこには桔梗や笙馬を始め、数名ほどが小道具を出してきて運んだり、ここで最後の飾りつけをしたりと、忙しなく動き回っている。
 葵生がやって来たのを見ると、桔梗が手招きして、
 「悪いけど、これを三番ポイントにいる桂佑に渡してきてくれないか」
と、慌しく衣装を手渡された。葵生が何か言おうとしたが、桔梗が手を振ってこちらも見ずに早く行けという仕草をするので、小走りにそれを持って走って行った。
 何も言われなかったのは何故だろう、忙しすぎて忘れてしまったのだろうか、と思ったけれど、色々訊かれたら苦手な嘘がばれてしまいそうなので、ちょうど良かったと安心した。あの場所から姿がすっかり姿の見えないところに来て、安堵の溜め息を吐くと、そこからは歩いて行った。
 しばらく歩いて行くと、遠くに背丈の高い男の姿が見えた。桂佑は木に小道具をぶらさげたり、道からそれが見えないよう位置を設定したりして作業に夢中になっていたけれど、葵生が声を掛けると気が付いて笑いかけた。
 「意外だったな。桂佑ってこういう肝試しは下らないとでも言って、あまり熱心に取り組まないように見えるのに」
 桂佑は崖というには低すぎるけれど、少し葵生よりは高いところにいたので道まで飛び降りてくると、
 「こういうの、実は好きなんだな。文化祭も張り切って飾りつけをしてるんだぜ」
と、にやりと笑ってみせた。そうして、葵生から衣装を受け取ると、早速上から重ね着た。白い無地の手作りの衣装に、血液に見立てた赤いマジックをあちこちに塗った単純なものだが、桂佑は見え方が悪くないか、もう少しマジックで塗った方がいいかなどと細かく葵生に訊ねている。
 「本当に好きなんだな。もしかしてドーランも塗るつもりでいるのか。桔梗のことだからやると言えば、快く使わせてくれそうだけど」
 すると、桂佑はまたもにやりと笑って、
 「当然だね。ここまで来たら、とことんやらなきゃ思い出にならないでしょう」
と、最初からその心積もりをしていたようで、大層やる気十分な様子である。
 桂佑も、葵生と同じようにあまり感情を表に出すような性格ではなかったので、こんな風に張り切っているのが不思議なもののように思えてならないので、葵生は思わず声を上げて笑ってしまった。
 「葵生もやれよ。せっかくだし」
と、桂佑が誘うけれど、葵生はぶんぶん首を横に振った。
 「俺はさっきの煤でもう十分皆を楽しませたからいいんだ」
 桂佑は笑って、「不十分だ」と文句を言った。本当に楽しくて仕方ないような様子である。その笑い声に混じって、鳥の鳴く声が森の中から聞こえてきて、爽やかな空気があたりを漂っているようである。新緑の明るい太陽の光もきらきらと降り注ぎ、曇りのない明るさとは、まさにこういった時に表現する言葉なのだろう。
 それから、二人は友人同士でつれづれに取り留めのない話をしばらくしていたのだが、果てさて一体どういう話の内容だったのだろうか。男同士気の置けない間柄の会話は、開放的な場所ということもあって、さぞかし楽しかったことであろう。
 しばらくして、さくさくと木の葉を踏みながら誰かが駆けて来るような気配がしたので、そちらを見てみると、ゆり子がへとへとに息を切らしながらやって来たのだった。
 「ああ、葵生くんに桂ちゃん、ちょうど良かった。茉莉を見掛けなかったかな」
 少し苦しそうに顔を顰めている。大きな手提げをぶらさげたままあちこちを走り回っていたらしく、額から玉のような汗がぽろぽろと浮き出ていた。
 「いや、見掛けなかった。何かあったのか」
 桂佑は、また茉莉が何か仕出かしたのかと思いながら訊くと、
 「もうそろそろドーランを塗って化粧をする時間でしょう。茉莉と私は化粧道具を貸す予定になっているから、茉莉を探しているんだけど」
と、困ったような表情で言った。走ってきたせいか、髪も乱れて二つに分けて結っていたのに、後れ毛がぽろぽろと落ちてきて、額の髪がべっとりと汗で張り付いてしまっている。
 「荷物から拝借するっていうのはどう」
 桂佑が言うと、
 「それはいくら友達同士でも駄目でしょう。気を悪くするわ。私の分だけでも十分化粧は出来るから、いざとなったらそれだけで済ませるっていう手もあるけれど」
と、手提げを空いている方の手できゅっと掴むと、ゆり子は軽く溜め息を吐いた。自分のものだけだと種類が少ないのを懸念しているらしく、ゆり子はなお困った表情でいる。意外としっかりとした観念を持っているのだな、と葵生は内心で感心しながら、ゆり子の頑張りようが椿希のそれと重なって見えて、
 「もう時間だから探している暇はないし、先に行って準備してしまおう。その間に合流出来るかもしれないし。しばらくしても来ないようなら探しに行けばいい」
と、葵生が提案すると、ゆり子ははっとしたように顔を上げて驚いたようにこちらを見ている。
 「ああ、うん、そうだね。葵生くんの言う通り、先に準備を仕上げてしまった方がいいね。茉莉も時間の頃合になったらさすがに気付くだろうから、来ると信じよう」
 ゆり子は緊張のあまり少し声を上ずらせながら、そわそわと落ち着かないような様子で言った。
 「なんだ、急に調子が変だぞ」
 桂佑が訝しそうに言ったが、ゆり子はなんでもないと言って歩き出した。桂佑が葵生を見ると、葵生も首を傾げて、さあという身振りをした。この二人はやはり似ているのかもしれない。女心に鈍感なところだとか、冷淡かと思えば思い遣りのあるところを見せたりと、探し出せばもっと見つかるかもしれない。似ているからこそ、互いに警戒心もなく色々なことを打ち明けられるのかもしれないのだけれど、はてさて二人は自分たちが互いに似ていると思っているのだろうか。

 所定の場所へ行ってみると、茉莉はゆり子と入れ違いで先に桔梗たちのところにいて手伝いをしていたので、三人は呆れたように苦笑いしてしまっていた。茉莉は一人一人の顔を覗き込むようにして見て、ドーランを濃淡のないように均一に広げて調整をしている。
 全員がドーランを塗るようなことを桔梗が言っていたから、葵生はどうにか言い逃れをして逃げようと思っていたのだが、結局ドーランを塗ったのは、自分から「やりたい」と立候補した四人のみであった。言い出した桔梗はもちろんのこと、中には桂佑も含まれていた。
厚く塗ったために眉の消えた顔を見て、皆一様に大笑いして転げ回り、続きの化粧が出来ないくらいああだこうだと言って盛り上がってしまった。あちこちでからかう声がして、いつの間にやら我も我もと、自ら手が汚れるのも構わずドーランを塗り始めた者もいたのだから、お祭り騒ぎのような状態である。ドーランを塗った四人も、互いの顔を見ては涙が出そうなほど笑っているので、茉莉はせっかく塗ったのに崩れはしないかと、
 「爆笑するのはいいけど、涙はやめてよね」
と、厳しく注意しているが、茉莉も本気で怒っているわけではないし、むしろ涙で崩れた方がかえって面白いかもしれないと思っている。四人はそれぞれターバンやピンで前髪を上げているので、なんだかその姿も滑稽に見えて、皆の笑いを誘っていた。
 「さて、ここからが本番ね。腕が鳴るわ」
と、不適に笑う茉莉が今日はやけに輝いて見えて、外野は頼もしく思いながら、げらげらと笑ってその様子を見守ることにした。それにしても、今日は本当に笑いが絶えない日である。慣れた手つきで茉莉とゆり子が二人で化粧を施していく。
 茉莉は大雑把に大きな刷毛で頬紅の粉を取ると、大きく弧を描くように頬に擦りつけ、朱色の線がくっきりと入った。そして真っ赤な口紅を取り出すと、本人の唇以上に分厚く直接塗りたくったので、それはもう見る者全てが噴出さずにはいられないほど可笑しいものだった。本来の肝試しの目的からは大いに逸脱してしまっているけれど、これはこれで夜道に見てしまうと、とんでもない化け物のように見えてそら恐ろしいのではないかと思われるが、外野はもう笑わずにはいられなくて、笑いすぎて腹筋を痛めてしまった者もいたほどだった。
 ゆり子は鉛筆で眉の形を縁取って中を塗り潰していくと、能面の引き眉のようになった。そして目を瞑らせると、青紫色のアイシャドウを濃淡巧みにつけて行く。うっすらと頬紅を丁寧に広げて塗って行くと、最後に口紅を塗るのに筆で取り、唇よりも小さくおちょぼ口になるようにすると、こちらもまた可笑しくて堪らず、涙目になりながらも笑いが止まる気配がない。
 完成したのでそれを鏡で本人たちに見せてやると、自分の顔なのにあまりにもへんてこだから、とんでもない物を見てしまった、とても自分とは思えないと、腹を抱えて笑っていた。
 馬鹿馬鹿しいことだけれど、茉莉の作った大胆で色遣いも原色を惜しむことなく多用してあるものは、そのあまりに衝撃的な仕上がりで見る者に強烈な印象を与え、ゆり子の作った細かな色遣いと筆遣いで作られたものは、まるで舞台化粧のようで、何度見ても笑いの渦へ巻き込んだ。二人それぞれの個性が際立った『芸術作品』を、今日一日しか拝めないというのはなんだか勿体ない気がする。
 あまりにもその笑い声が響いていたのか、卒業生たちが数名ほど様子を見に来たのだが、彼らの姿を見た瞬間に真面目くさった顔が豹変して崩れ出し、声を上げて笑い出した。お腹が痛い、と言いながらも笑うのを止められない。
 茉莉とゆり子は上手く行ったと、互いに顔を見合わせてにんまりと笑っていた。そうして、折角だからと、カメラを向けて記念撮影をしようと言った。普段はカメラを向けられるのが苦手で避けていた者も、今回ばかりは皆こぞって写真に収まろうと、押し合っている。そうして後で現像して出来上がった写真を見たとき、あまりにも楽しそうで、ドーランを塗った四人の顔を思い出して、また噴出してしまったのだとか。何年経っても塾生の間で語り継がれそうなほどの、強烈な思い出になったことは間違いなかったようである。


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