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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第28回   第一章 第六話 【星屑】2
 炊事場に戻ると、飯盒の具合が気になったため、急いでそちらへ向かうと、ぱたぱたと一年生が団扇で扇いで火を調節していた。
 「代わるよ。少し休んだらいい」
 そう言って一年生から団扇を受け取ると、火ばさみで薪を移し変えたり新たに入れたりして、弱くなっていた火をもう一度熾してみる。
 さも率先して一年生を気遣って交代したかのように見えるが、実のところ隣で椿希が自分たちの班の飯盒の様子を見に来ていたのが気になっただけである。こういう計算も出来るようになったのは、まだ初心者な葵生にとって大きな進歩ではあるのだが、そこから発展させる術を知らないので心の内では、さて次はどうしようかと困って、ひたすら作業に没頭するふりをして、隣をちらちらと窺っている。
少し前までは傍にいられるだけで十分だったのだけれど、どうにか思いを寄せていることだけでも知って欲しい思いが強い分、何かにかこつけて彼女と接触出来たらと機会を探している。好意を寄せる相手を目の前にどうしていいのか分からないときには本能に従えばいいのだ、と染井の友人が言っていたが、そんなことをすると椿希に呆れられそうだし性急な行動に走るのは見えている。なんと言ってもまもなく十七になる年頃の葵生はまだ不馴れなので、人の噂する恋話を鵜呑みにして、関心のある分状況さえ調えば椿希のことなど思い遣らないかもしれないと心配されるのだ。
 「そろそろじゃない」
 椿希が薪をくべっていた学生に言うと、その学生は長い棒で飯盒を吊るし、コンクリートの上に何枚も重ねて敷いた新聞紙の上に乗せた。一班につき与えられた二つの飯盒を下ろし終えると、二年生の男子学生が軍手で蓋を掴んで開けようとするが、硬くなった蓋はなかなか開かず、ぐいぐいと何度か引っ張っているうちにようやく開いた。
 「うん、いい出来栄え」
 二つとも丁度良い具合に出来上がり、立ち上がる湯気にまで美味しそうな香りが漂ってきそうな気がして、近くにいた者たちはうっとりとそれを味わっている。日常生活で使っている炊飯釜に慣れきっていたが、飯盒を作るのはとても難しいことなのだと去年の経験で悟った彼らは、今回の出来具合に嬉々として班員同士で無邪気にはしゃぎ回っている。
 「おいしそうだな」
 椿希の肩越しに覗いた葵生が言うと、
 「そろそろ葵生くんの班もいい頃じゃない。私たちの班と同じくらいに炊き始めたから」
と椿希が言った。そこで同じようにして二つの飯盒を取り上げて新聞紙の上に乗せ、やや緊張しながら飯盒を見つめた。
 さて、いよいよ開けようと二年生の男子学生が蓋に手を掛けて力を入れてぐっと開けると、そこに現れたのは焦げだらけで、一部は炭のように真っ黒になった、一見するととても食べ物とは思えないものだった。匂いもまた香ばしいというか何か燃えたような鼻につんとくるような匂いで、蓋を開けた男子が煤を吸い込んで思わず咳き込んでいる。
 「まあ、お焦げは美味しいからな」
 葵生が苦し紛れに言って、しゃもじで中をかき混ぜ確かめたが、水分が見事に失われてぱさぱさと乾燥しており、米粒も硬そうでとても食べられそうにない。
 落胆しながら開けた最後の望みのもう一つの飯盒はというと、水っぽくなっていて、これもまた到底美味しそうに見えないので、周囲にいた班員たちは苦笑いするしかなく、班員でない者たちはけたけたと可笑しさに体を震わせながら笑っている。
 「これも、思い出だな」
 テーブルへと運び出された飯盒を見送りながら、葵生が呟いた。思い出には残るだろうが、やはり残念といえば残念で、一度くらい飯盒の美味しく炊き上がった米を食べたいと思い、ちらと椿希を見遣ると、飯盒が運び出された後に残った薪を元の場所に戻そうと、そこの辺りに散らばっていたのを自分の班の窯だけではなく、ほかのところの分も回って集めていた。椿希は本当にこういうとき、表立って目立つことよりも、裏でそれとなく気付いたことをてきぱきと行っているのが、なんとも好ましく思えて胸がときめくように高鳴った。
 肩より少し長い髪を後頭部で一つに纏めているのは、あの聖歌隊の歌姫のときの髪型と同じなのだが、作業中に額や横顔にぱらぱらと落ちてきた髪にわずかに浮いた玉のような汗がなんとも言えず艶めかしく、はっきりとした稜線を描く輪郭を辿ると見える首のうなじが、まるで男を誘っているように見える。ジーンズを履いているのは珍しくはないのだが、こうして全身を離れて見ていると、その手足の長さがはっきりと見て取れる。はらはらしながら椿希を見ていると、自身の中の男の心がくすぐったそうに騒ぎ始めて、時と場所の条件さえ揃っていれば、我が物にしてしまいたいような、抱き締めたいような気持ちになってくる。
 「ご愁傷様」
 葵生の視線に気付いた椿希が、悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。今日はなんだか椿希に負けている気がすると葵生は思ったが、それもまた殊更愛しい思い出の一つに加えられそうな気がしていた。こんな意地悪を言う椿希もまた可愛らしく思えて、
 「じゃあ、こんな哀れな俺のためにご飯を分けてくれないかな」
と言ってしまうのも、つい椿希に甘えたい気持ちから出た言葉であった。
 「駄目。食べ物は大切になさい」
 椿希がまるで先生が子供を諭すような口ぶりで言ったので、葵生は顔を破顔して笑った。そんな葵生につられるようにして椿希も笑った。
 椿希が拾い上げた薪を重たそうに持って行こうとしたので、葵生は椿希が持っていた薪のほとんどを渡すように言うと、椿希が遠慮して渡そうとしないので、
 「プリンスって言ったって、本当に男じゃないんだから無理するなよ。俺の方が力あるんだから」
と言って、無理矢理奪い取るように全部椿希の手から取ってしまったが、はたと気付いて二つ三つほど薪を椿希に渡した。あまりにも勝手な行動に、椿希が唖然としていると、葵生が「来て」と言う。
 「さあ、返しに行こうか」
 全ての薪を葵生が持っていってしまうと、椿希は自分の班に戻ってしまうから、と今度は押し付けるように薪を渡して、薪置き場について来るよう促したのは、なんともおかしな行動だったことか。そんな強引で身勝手な葵生に対して椿希は、気持ちが開放的になっていくらか子供に返ったからだろうか、こういう葵生を見るのもまたなかなかある機会ではないから、後でからかいの種になるので記憶に留めておこう、と思って苦笑いしながらついて行った。
 ほんの少しの時間でも長く好きな人と一緒にいたい気持ちは、男女共に同じなのだろうか、こういうことはよく女性に聞かれることなのだが、葵生は機会があるうちは椿希を傍に留め置きたく思っていた。椿希がそれを嫌がる様子なら葵生も考え直さねばならないけれど、そうでもなさそうなので、もう少し押しても良いだろうかと、頬から顎を伝う汗をくすぐったく感じながら考えていた。

 夕食を摂るにはまだ随分と時間が早かったけれど、山の中では光が街中に比べてとても少なくなるので、暗くなる前に夕食の片づけまでを済ませることになっていた。炊事場には明かりがあるとはいえ、それでも蛍光灯の明るさに慣れてしまっていると、とてもその明かりも頼りないものに思えたものだと、葵生は思い返していた。
 それでも、準備の時に比べると片付けとなると時間に余裕があることもあって、皆のんびりと駄弁りながらの作業だったので、とても時間がかかっていた。それに片付けと言っても、それほどの人数が必要ではないので、手の空いてしまった塾生たちは、もう高校生だというのに誰が言い出したのか鬼ごっこを始めたり、砂地を利用して落書きを始めたりと、皆童心に戻って声を上げて無邪気に遊ぶのが、とても珍しい光景であった。
 空の薄い青色に浮かぶ白い雲がところどころにたなびき、森の木々が風が吹くたびにさやさやと揺れる。一年ぶりに聞く葉と葉が擦れて鳴る音や小鳥の仄かなさえずりは、いつからかの記憶に刻まれた自然を愛する心が求めているような気がしてならず、飽きることなく耳を済ませて、遠くを眺めながらしんみりと浸っていた。
 ふと目を遣れば、木々の向こうで声を上げて走り回る小さな子供たちらしい影が見える。そして近くではもうすっかり大人と変わらない高校生が、子供たちと変わらぬような幼い笑顔でそこらを駆け回っている。実に平和だと、葵生は穏やかな空気に包まれて、うつらうつらと眠ってしまいそうになっていた。
 目を閉じようとしたときに、視界の端に皆が騒いでいる中を、もうすぐ肝試しの打ち合わせが始まろうというのに、そっと抜け出すように山道を下っていく見慣れた影が見えたので、葵生はついていた頬杖を外すと、炊事場で洗い物をしている誰かに声を掛けられないよう周囲に注意し、何か用のあるふりをして後を追いかけた。
 ある程度炊事場から離れたところで、葵生は走って追いつくと、息を整えながら言った。
 「どうした。今さっき出て行くのが見えたから追いかけてきたんだけれど、この道だとテントに戻るわけでもなさそうだから気になって」
 振り向いた椿希は、追って来たのが葵生だと知って安心したような表情をしている。一瞬躊躇うような素振りを見せたが、顔を上げて葵生を見ると、また少し迷いながらではあったが、
 「実は少し具合が悪くて。朝は調子が良かったんだけど、だんだん体が気だるくなって堪らないの。なんだか節々が痛くて、嫌な感じがするから管理棟に行こうと思って」
と、打ち明けた。そう言われてみれば少し顔に赤みがかっていて、うっすらと笑ってはいるが、それもどこかぎこちないように見える。
 椿希が手首を摩った時に見えた指のところどころの赤さが、なんとも異様な物に見えて、葵生はそれをじっと見詰めた。そして、椿希の手を取って手を広げさせてみると、その赤い物は指や掌などに何箇所にも存在していて、そっと触れてみるとそこがなんとなく盛り上がっているようにも思えた。腫れている、と言えるのだろうか。
 「これは、もしかして湿疹というものなのかな。それにしては、俺の思っているものとは違うような気がするんだけど」
 訝しいと思いながら葵生が言うと、
 「去年もこういうのが出来ていたから、もしかしたら知らない間に虫にでも刺されたのかもしれない」
と、椿希が言った。
 「虫刺されにしてはなんとなく妙な感じがするよな。赤い斑点がなんだか気になってならないんだけど、よく見たらところどころ紫色になっていて、内出血にしては範囲がやけに広いようにも見えるし」
 素人目に見ても、不自然な腫れ方をしているので、葵生は気になって仕方がない。痛いわけではないらしく、触ってみても顔をしかめることもなく、葵生はもしかするとアレルギーでこういうのが出来るのかもしれないと、少ない知識で色々考えた。頭の片隅では、医者だったらこういうのもすぐに検討がつけられるのだろうか、ともぼんやりと考えている。
 「帰ったら皮膚科行きだな。なんとなく、市販の薬でも塗っておけばいいってものじゃなさそうな気がするから」
 体の不調とこの皮膚の湿疹が何か関係があるのかもしれないと思うと、滅多にないことと思いたいが、嫌な予感がぞっとしてきて、そら恐ろしくてとても心配でならない。ましてや明朗な椿希が、このように辛そうにしているなんて信じられず、傍についていてやりたいと葵生は思いながら椿希の手を優しく握った。初めて彼女の手に触れた喜びよりも、彼女の不安を取り除けたらという願いの方が大きくて、何かしてやれることはないかと様々に考えを巡らせている。
 椿希は葵生がそのようにしてくれているのが嬉しくて、体のだるさは消えないけれど、関節の痛みは少し治まったような気がして、微笑んだ。そのようなものは大したことないと言って、笑って済ませて流してしまうような人だったら、きっと思い切って訴えなかっただろうと思うと、椿希も葵生のことを気の許せる人だと認識しているようである。
 「ありがとう。もし今、特に用事がないのなら管理棟に行くのも付き添ってくれるかな」
 珍しく他人を頼ろうとする椿希に驚きながらも、葵生がそれを断るわけがなく、優しい笑みを湛えながら頷いた。木漏れ日の僅かに差し込む光を整った横顔に受けて、椿希がありがとうと小さく言うのが堪らなく愛しくてならず、そっと抱き締めてやりたい気持ちである。
 本当は、あともうしばらくしたら肝試しの準備に取り掛かるのだろうけれど、それなら桔梗が上手く進めるだろうし、笙馬がそれを補佐するだろうから何の心配も要らないだろう。後でどこへ行っていたのかと訊ねられるだろうけれど、なんとか誤魔化せる言い訳を考えておかなければならない、と思いながら椿希より少し前を歩いていた。
 木の葉を踏むたびにさくさくと音が鳴って、湿った土は歩きなれたアスファルトの道路と違って柔らかくて少し歩きにくく、昼間なのに木々が茂みを作って太陽の光を遮るので薄暗く、影を作っているので少しひんやりとしていて肌に染みる。互いに声を発することなく、無言のままこの道を行くけれど、それぞれ二人の間に去来する思いは一体どういったものだったのだろうか。
 あともう少しで管理棟に着くというところで、椿希が、
 「そういえば葵生くん、身長伸びたね」
と思い出したように言ったので、葵生は立ち止まって椿希を見た。そう言われてみれば、去年はほとんど差がなかったのに、椿希がわずかに顔を見上げるようにしているので、今になってようやく背丈が少し伸びたらしいと気付いた。
 「睡眠不足になって、成長が止まらないことを祈っててくれ。いや、それよりそっちの身長が止まることも大事だな。俺だって決して小柄じゃないんだから」
 葵生の言うことももっともだけれど、それをおどけたように言うので、椿希はくすくすと笑った。見慣れているはずの椿希の笑顔だけれど、先ほどから辛そうにしていたためか、随分久しぶりにこのような曇りのないものを見たような気がして、葵生もほっとして笑みを浮かべた。
 「そうね、それでは葵生くんの身長が一八〇センチまで伸びたら、『プリンス』の称号は譲ってあげることにしましょうか」
 大体このくらいだろうかと、椿希が手で高さを示そうとするけれど、このあたりだ、いやもう少し低いだのと言い合っているうちに、また自然と笑い声が出てしまい、やはり居心地が良くてありのままの自分でいられるのは椿希の前だけなのだと、葵生は思い知らされた。
 「よし、分かった。その言葉をよく覚えておけよ。絶対に伸びてその称号を貰い受けるから、後悔しても知らないからな。プリンスと呼ばれて持てはやされるのも、あと少しの時間だと肝に銘じておくように」
と、悪戯っぽく笑うのが憎らしいと椿希は思うが、普段の葵生とは違う、このような子供っぽい面を時折見せるようになったのが、葵生の心にある真実の部分が垣間見えるようで、好ましく感じている。
 葵生は、一年前はあまりにも恥ずかしがって、到底このような冗談を言い合える関係になるとは思いもしなかったけれど、時間をかけてようやくこのような位置につけることが出来て、心からこの縁を大切にしなければならないと思っている。初めてこの上なく人に恋したと実感じ、葵生は手を伸ばせば触れられる距離にある椿希の手を取りたいのだが、そうこうしているうちに管理棟に着いてしまったのだった。


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