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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第26回   第一章 第五話 【歌姫】 9
 男子校であるがゆえに、どうしても異性との接触がなくて憧れの気持ちから、恋愛のこととなると興味が一層湧くものらしく、彼女が出来たという学生に対しては、どのようにして告白してそのような間柄になれたのか、女はどういうものに弱く、どういう態度を好むのかなどという恋の経緯や恋のやり方が気になって仕方がない。中には小学生の頃の初恋の相手がいて、まだその相手が気になっているという者もいたけれど、小学生の頃は中学受験のための勉強が大変で、とてもそちらに目を向けていられなかった者からすれば、あまり参考になる話ではない。
 高校生になって塾や予備校で出会ったのが今の彼女だという友人の話は、これからも見込みがあるからか、皆こぞって聞きたがる。それぞれに片思いの相手がいるのか、それともまだ好きな相手はいないけれど後学のためと思っているのか、身を乗り出して聞く。
 葵生は、ほかの学生に比べればあまり積極的な風を見せなかったけれど、それでも関心があるので体を起して胡坐をかき、笑いながら時に更に情報を聞き出そうとあれこれと尋ねたり、からかったりして楽しんでいる。柊一は、そんな柔らかく微笑みながら相槌を打っている葵生を見ながら、一つ一つ発する言葉の中に彼女のことを考えているのが分かって、少しだけ悔しかった。彼女を侮辱する者は許さないという、感情を普段は表に決して出すことのない葵生の態度に、柊一はあのときはただ、彼女に負けたのだという敗北感と、塾生をはじめ葵生の心も捉えて離さない彼女への嫉妬から、憎くて憎くて堪らなかったものだった。
 そんな少し昔のことを思いながら、少しずつ椿希への泥が渦巻いた捻くれた感情が薄らいでいるのを、柊一は感じていた。椿希は一度も柊一のことを蔑むようなことを言わなかったし、ほかの誰かと区別するような態度ではなかった。そんな優等生のような風采こそ気に入らなかったのは確かだけれど、今となってはそんな彼女の心持ちこそがありがたいし、そういう他の女子とは異なる態度や気立てだからこそ葵生が惹かれているのだと思えば、椿希に惚れているというのは見る目があったということだとして、もはや争う気など起きようもなかった。
 話は、いつものように誰かに集中して、からかったり冷やかしたりを繰り返していた。少しずつ眠気が襲ってきて、なんともしがたい気だるさを感じた葵生は欠伸をかみ殺しながら、自動販売機までコーヒーを買いに行くと言って席を立った。
 「葵生、僕も行くよ」
 談話室から少し離れた廊下で、柊一が声を掛けた。葵生は、ちらと目を遣っただけで、歩む足を止めなかった。廊下は談話室から漏れ聞こえる声が響いているだけでひっそりとしていて、明るくはない蛍光灯が少し気味悪く照らしている。星の瞬きはここからは見えないためか、外の闇の色が冴え冴えと、今にもこの辺りを覆い尽くさんばかりにしているのが心を寂しさで埋めようとしていく。
 「悪かったと思っている」
 柊一の声が掠れて判然としない。葵生は気に留めて耳を澄ませた。
 「冬麻さんのこと。謝らなくちゃいけないと、ずっと思っていた。葵生にも、彼女にも」
 それを聞いてようやく葵生は立ち止まって、柊一を見た。睨むわけでなく見据えたその目からは、何を思ったのか察することが出来なかったが、ただ柊一はその惚れ惚れしてしまいそうな整った顔立ちが正面にあるので、顔に熱が集まるのを感じて気恥ずかしくなった。
 葵生は、それに気付いていないのか気付いていても無視しているのか、普段の調子で言った。
 「俺はともかく、椿希はお前を許さないって言うほど、狭い心の子じゃないから」
 椿希が葵生の言うとおり、度量の狭い人間ではなく、むしろ鷹揚な人柄だと知っている。ただ、それを認めてしまえば、自分は到底適わないのだと負けを認めるようで、悔しかっただけだ。でも、もう彼女のことはさっぱり認めてしまおう、彼女を悪役にしたまま思いを重ねて行くのは自分の意に反することだし、苦しむのだからと、そう決めたのだ。そして次第に柊一自身も、椿希と友人になりたいと思うようになっていたのだから。決して、葵生のことは関係がない、と柊一は言い聞かせながら、葵生の言った言葉に頷いた。
 「好きになれそうだよ、彼女のこと。人として」
 心の中で思うだけで到底口に出せそうにないこんなことを葵生の前で言えるなんて、我が事ながら意外だ、こんなに素直に言えるのならどうして最初からそう出来なかったのだろうと、自分でさえ持て余していた心の動きがようやく平安を得られて、柊一の表情は軟らかかった。
葵生は変わらず無表情のままで自動販売機の前に着いて、小銭を取り出してホットコーヒーを買った。ガタン、という音が談話室から離れた静かな廊下に響く。その音がやけに耳に響いて、今話したことが葵生の癇に障ったのだろうかと、恐る恐る顔を見るけれど、やはり空恐ろしいまでに整った美しさは、いつまでも見ていたいものである。
 「お前はどうする」
 コーヒーを取り出しながら、葵生はぶっきらぼうではあったけれど、柊一に尋ねた。
 「僕も、同じのを」
 そう言って、財布をポケットから取り出すと、先に葵生が小銭を入れてしまった。驚いて柊一が顔を上げると、何食わぬ顔で葵生は同じコーヒーを買ってしまっていた。そして、無言のまま出てきたコーヒーを柊一に手渡す。温かい缶コーヒーを受け取り、何か物言いたげな柊一に葵生は、
 「椿希の友達なら、俺にとっても友達だろう。俺も行き過ぎたところがあったから、その詫びに」
 そう言って、柊一からお金を全く受け取ろうとしなかった。冷たいかと思えばこんな風に不器用ながらも優しいところがある、それが魅力的だと同好の士たちで話をしていたことだった。
 コーヒーのカフェインは時々全く効果がないときもあるけれど、今回はどういうわけか効果てきめんだったらしく、目が冴え冴えとしてきた。睡魔だけが襲っていたので、それさえなくなってしまえば若い体は、まだまだ夜でも十分に活動が出来る体力を備えていた。
 周りは少しずつ人もまばらになり、それぞれ自分たちの部屋に戻っていったらしい。中には談話室で横になったまま、寝息を立てている者もいる。大柄の筑紫も花札君も目がうつろになっていて舟を漕ぐような様なので、葵生はそこには戻らず、そのまま二階のテラスに出ることにした。柊一は葵生の後ろを遠慮がちに数歩遅れて歩く。それまで葵生は口には出さなかったが、柊一が付き纏うのを嫌がって、近寄るなという空気を醸し出していたのが、今は刺々しい雰囲気が失せてしまっていた。まだ少し態度を急に変えるのに躊躇いがあるのか、ぶっきらぼうにしているけれど、それでももう近寄り難さは消え失せていた。
 テラスに出ると、ちらちらと街の灯かりが遠くに見える。夜景と言えるほどのものではないかもしれないが、遠くで漁火が見えるといかにも非日常という感じがして、それでも十分に満足が出来るものだった。夕方見たときよりも数が増えていて、海に星が煌めくようで、漣など近くにいるわけでもないのに見えるようで、その趣を感じられるだけですっと心が開かれるような風情である。
 「もうじきキャンプだね」
 柊一は風に言葉を乗せるように言った。葵生は手すりに腕をもたせかけ、髪を風になびかせて遠くを眺めている。
 「冬麻さんの歌を聴きに行ったんだよね。どうだった」
 葵生は少し間を置いた。そのときの光景を波打つ海を背景に思い浮かべると、目を細めながらとても大切な思い出を語るように、
 「流石だと思った。圧倒的な歌唱力に驚き、綺麗な歌声と姿に夢心地になった」
と優しい声になるのも、自然のことだったのだろう。葵生がそう思っているらしいことは察していても、言葉にするとはまさか思いもせずとても意外で、それほどまでに彼女のことを思っているのかと痛感させられ、聞いている側が面映ゆく感じられる。
 葵生は今にも聴こえてきそうな椿希の歌声に耳を傾けようとしているかのように、瞼を閉じて静かに息を吸い、ゆっくりと吐いている。
 「御馳走様」
 柊一は言った。いつも皮肉ばかり言っているから、葵生がそう思いやしないかと、言った直後に後悔したけれど、葵生は表情を少しも変えることなく天を仰いだ。
 「星か。天体観測を思い出すな」
 空には星が瞬いているけれど、遠くの街の灯やこのあたりの電灯が、星の数を減らしてしまっている。とはいえ、住んでいる都会の中では見ることのできない星座を見つけて、心は一年前のキャンプ場での天体観測のときのことに向かっていく。
 「もうじきキャンプだもんね」
 年に一度の、塾で行われるキャンプのことを思い出すと、今年はどうなるのだろうと、数週間先のことが楽しみであった。芝生の上で寝転がり、空を見上げた先の満天の星たち。ずっと眺めていると、この広い宇宙の中で自分がたった一人きりになってしまったような寂しさと心細さを感じたこと、流れ星を見つけたこと、椿希が隣にいることで緊張してしまっていたことなどが、鮮やかに蘇る。
 「告白するいい機会じゃないの」
 星屑の天井の下は黒衣のような闇が静寂を縫うように広がり、ざわめく風に遊ばれる木々や葉が少し気味悪く思える。妖しく掻き乱されるような心を察しながら、彼女にそっと胸の内の思いを伝えることは難しいことではないのでは、と柊一は思っていた。
 「今は玉砕すると分かっていて、飛び込める勇気は、まだ持ってないな」
 葵生は自嘲するように言った。そう言った後になって、もし本気で口説こうという気があるのならば、結果のことなど構わずに思い切るものなのではと思い始めて、自分の心がますます分からなくなっていた。迷宮に入り込んで抜け出せない、冷静なようで平静じゃないからこんなに、自分の心理状態でさえどうにもままならないことになってしまっているのだろうと、北の地にいてひどく寂しさと切なさを、いつもよりも敏感に感じてしまう。
 柊一はもどかしくなった。
 「同情するよ、冬麻さんに」
 すると、葵生がほとんど目も合わせなかったのに、柊一の顔を見て驚いている。
 「そんなに曖昧だと、いつか傷つくよ。葵生も、彼女も」
 そんなことを言う柊一が、急に大人びて見えた。葵生は目を逸らして、再び顔を天に向けた。どういうことなのかと聞こうとしたが、柊一はきっと答えないだろう、と確信めいたものを思った。
 「ああ、数学の公式のようなものでもあればいいのにな」
 ぼやくように言う葵生を見て、柊一は微笑した。全く、こういうことには不得手な葵生だからこそ他人がとやかく口を出したくなるものなのだ。

 翌朝、駅から坂道を下って運河へ向かっていた。写真で見た景色に出会えるのを楽しみにしていたので、葵生は友人たちから少し離れて、目に映る景色を残らず記憶に留めようと歩く。その姿は写真家や画家が喜びそうな端麗な趣があって、このような情緒もある折も折なのでますます艶やかに見える。
 運河の流れは穏やかで、一体どう流れているのかも判別しない。橋の上で観光客たちが連れの写真を撮り合っているのを見ると、やはり例によって彼女が微笑みながら倉庫街を背景に立っているところを想像してしまう。そんな絵画的なのを思い浮かべてほんのり頬を朱に染め、いつか彼女を連れて来れたらいいのにと、高校生という半端な身分がもどかしい。それから曲線を描いた運河の先を眺めながら昔日の賑わいを想像し、まだ何もかもが機械化されていなかった頃はどうだったのだろうかと、人が見向きもしないような細かなところにまで目を見張らせていた。
 「夏苅。写真撮ろうぜ」
 筑紫が叫んだ。そんなに遠くにはいなかったけれど、あんまりにもぼんやりしていたからだろうか、大袈裟に手を振って呼んでいる。
 「ほら、ぼんやりするなって」
 葵生を真ん中に押し遣って、写真に収まろうとする。
 「人力車が気になってさ」
 吐いた嘘から、ふとまた考えが過ぎった。写真をどこからか来た観光客に撮ってもらうと、目が人力車に向いていた。数台停まっていた人力車に観光客が乗り込み、たくましい車夫に引かれていずこかへと去.っていく。人力車は二人乗り、ということに気付くと、修学旅行でここにいるのが返す返す惜しい気がする。こんな異国情緒のある街になんだって男だらけで来なくてはいけないのかと、呆れて溜め息が出てしまう。なんにせよ、自分が車夫になってでもいいから、彼女を引いて当てもなく歩きながら他愛もない会話を楽しみたい、などと退屈そうに考えてしまうのは友人たちに対して、失礼というものではあるけれど。
 あんまり人力車を見つめていたからか、
 「お兄さん、どう、リキシャは」
 などと声をかけられ、思わず顔を赤らめながら、
 「いいえ、結構です」
と答える様子は、薄々葵生の考えを察していた柊一にとっては、微苦笑を漏らさずにはいられなかった。
 「どこか行きたいところがあったら、そこへ行こう。俺もあんまりよく分からないから、行きたいところがある奴についていこうと思うんだ」
 筑紫は言った。しかし、運河以外にどこへ行けばいいのか分からなくて、皆困ったように顔を見合わせた。誰一人旅行雑誌など持っていなかったのだから声が上がらず、やれやれと当てもなく歩き出そうとすると、
 「北一硝子に行ってみたい」
 葵生が言った。
 「有名なんだ。ずっと気になってて」
 遠慮がちではあるものの、ほかの友人たちは北一硝子とはなんだと分からない様子である。他に誰からも声が上がらなかったので、そこへ向かうこととなり、葵生は少し強張らせていた顔を緩め、ほっとしたようにうっすらと笑った。
 港を遠くに眺めながら、左手の海から吹く風を心地よく感じた。あの丘の向こうに山があって、その山の頂に向かうケーブルカーがあったはずだ、とバスに乗って来た道のりを思い出した。あの頂上に立って眺める夜景はさぞかし、かの星屑を眺めたときのことと重ね合わせられるだろうと思いを馳せる。
 北の地の落ち着いた街並みを歩けば、しみじみとした気持ちが体の芯から徐々に膨らんでいくようで、胸に秘めた胡蝶のようなあの人への恋心を友人たちに語り尽くしたい思いが今にも溢れ出しそうであった。時折擦れ違う、どこからか来た同い年ほどの女子高生を見掛ければ、やはり興味があって彼女たちのことを観察してしまうのだけれど、ほんのちょっとした所作や表情を見ていても、颯爽とした外見なのに優美で品を感じられる奥ゆかしい彼女の方が、葵生にとっては遥かに物珍しく、愛しい人だ、と思いは増幅していく。
 北一と書かれた倉庫のような建物が、葵生の目指していた店だった。中に入ってみると、硝子製品が所狭しと並べられているが、その陳列の仕方も騒々しくなく訪れた人々の目を楽しませようと、あれこれ工夫しているのが見て取れ、葵生のみならず同行した友人たちも、きらきらと照明の光を受けて輝く様を興味深げに手に取って見ていた。通路向かいの、同じ建物の中の喫茶店の前を通れば珈琲の芳しくも香ばしい匂いがする。
 そのまま二階に上がった葵生は装飾品の売り場に向かって行った。男一人でここにいるのは自分くらいで、あとは夫婦だったり恋人同士だったりで、なんだか場違いのような気がして気が引けたが、葵生はそれでも興味の方が勝ってこちらでじっと製品を眺めている。
 宝石の輝きにも負けないのではと思うほど、きらきらと硝子が輝いている。あまり装飾品に接する機会のない葵生にしてみれば、どれも同じだと思っていたのが恥ずかしく思えるほど、形や色、組み合わせや長さなどに差異があることに気づき、新鮮だった。時に手にとって角度を変えてみたり、目を細めてみたり、それはとても真剣な様子である。
 店の人も、最初は年頃の少年が一人でやって来たことで躊躇い、声を掛けられなかったようだったが、葵生の様子を見て、
 「お土産ですか。よろしければ見繕い致しますが」
と、葵生が警戒しないよう柔和な笑みで言った。葵生は少し驚いた顔をして、さてどう言おうかと一瞬考えたようだったが、
 「いえ、大丈夫です。なんとか自分で」
と断ってしまった。椿希という名だから椿の花を象ったもの、緋色が似合いそうだからそういうものや、あるいは胡蝶と呼んでいるので蝶の形でも良いかもしれないと探し回る。どれもこれも精巧な作りには溜め息も尽きず、ひとつに絞って選ぶことなどとても難しいことである。一度全てを一通り見比べてみたけれど、ひとつ選んで、残り選べなかったものが出来てしまうというのが惜しい。そう思っても詮無いことなので、やはり彼女のことを第一に思ってどれが一番似合い、喜んでくれそうかと考えていると、雪の結晶の形をしたものが見つかって、それに惹かれて手に取った。光の反射によって目も眩むばかりの輝きを放ち、大きさも程よいのが品があって彼女に似合うように思われる。
 あまりゆっくりしていては、葵生の姿をしばらく見ないと言って探しに来た友人たちに見つかり、後で何を言われるか知れたことではないので、すぐにそれを購入して鞄の底に入れて落とさぬようにすると、素早く階下に降りて何事もなかったように友人たちと合流したのだった。あの目ざとい柊一ですら全く気付かなかったのだから、ここへ来たのはただ名産品を見に来たのだという程度にしか、皆は思っていなかったようである。何人かは、もちろん土産として購入したようである。葵生もまた、自分のためにと買ったものがあったようであるが、それが何だったかは伝わっていないので書き記すことが出来ない。
 さて、その椿希のための土産だが、どうやらその時は渡せなかったようである。元々照れくさくて、早く買ってしまわねば友人たちに冷やかされると思って慌てて購入したものなので、そのうちに忘れるともなく忘れてしまって、長い間葵生の机の引き出しの中に入れたままだったのだとか。


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