春もうららと言っているうちに、いつの間にやら桜もすっかり散ってしまい、若葉萌ゆる季節というところなのだろうか、しかし夏というにはまだ早い暖かな気候である。うっかりすると授業中に気持ちよくて眠ってしまいそうなほど、体にはとても心地良く包まれるようで、青々と校庭に茂る草花がそよ風に吹かれてなびく様子がまた、穏やかでのんびりとした平安を感じさせ、ふわあと欠伸も出てしまう。 歩いていても眠気を誘う陽気に、ついだらしなく何度も欠伸を繰り返してしまう桔梗は、目から涙がわずかに見える。本当に一時限目の英語の授業は眠ってしまいそうだから、教室で荷物を置いたらすぐに机に突っ伏して寝よう、と決めたが、靴箱でクラスメートに声を掛けられてしまい、その計画は呆気なく崩れ去った。 結局そのまま教室まで駄弁っているうちに眠気もどこへ飛んだのやら、すっかり元通りの明るく少しお調子者の桔梗に戻り、友人たちが桔梗の姿を認めると、おお、と声を上げる。 「よう、今日もいたな、美人の彼女」 にやにやと笑いながら冷やかされた。眠さのあまり、ゆっくりだらだらと歩いていたからか、同じ電車に乗っていたらしいが随分先に着いてしまっていたらしい友人が、『美人の彼女』のことについて、どうやら仲間内に広めて回っていたようだ。桔梗はそんな風にからかわれても、それほど本気で反論することもなく、それがましてや思いを寄せる相手の噂となれば、むしろ色々聞かれるのを楽しんでいるので、仕方のない人である。時に話を振ってくれと言わんばかりに、わざと誰かをからかうこともあり、それとなくこちらの方へ話題を持ってくるのが、桔梗はとても得意としていた。 「秋定って、彼女いたの」 二年生になって初めて同じクラスになった友人が言った。 「そうそう、これがまたとびきりの美人でさ、すらっとしていて女優かモデルか、そんな感じ」 桔梗を囲むように、何人か友人たちが集まって来ると、少し得意げに笑うのがまた憎らしいと皆は思うものの、本気で妬くこともない。 桔梗が特に語ることがなくても、周囲が勝手に誤解して話を膨らませて行くのを、桔梗は歓迎しているかのように、笑みを湛えている。時折調子に乗って話を付け加えたり、詳細を語っていくうちに、本当に自分の彼女のような気がしてきたので、何でも知っていると言わんばかりに色々その特徴や癖なども語り尽くす。なんともまあ、悪い男だと自分でも思うが、嘘から出たまこと、という言葉もあるくらいだから、これくらいはどうってことはないだろうと、桔梗は得意気である。 「背丈高いよな、俺たちと同じくらいか、少し足りないかもしれないけど女子の中では高い方だよな」 駅で見掛けた姿を思い浮かべながら、友人が言った。皆は一様に、興味深そうに身を乗り出してくる。 「いや、それにしても本当に街中に置いておくのがもったいないくらいだよな。惜しむらくは、せめてあと五センチ身長が低ければと思うんだけど」 その友人は、はあ、と大きな溜め息を吐いて言った。確かに光塾の女子の中では身長は一番高く、笙馬をはじめとする何人かの男子よりも高いのだから、いくら美人で好ましく思っていても、もう少し低ければと思ってしまうのも仕方のないことだ。ただ、その分手足が長くて、特にジーンズを履いているときの彼女は、惜しみなく足の長さを披露していて、何度見ていても同じことで溜め息が漏れてしまいそうになるのだ。 「まあ、俺はそのままでいいと思っているけどな」 椿希よりさらに十センチほども長身の桔梗にとってみれば、確かにあまり気にすることでもないのかもしれないが、それにしてもなんとも自信たっぷりなこと。その桔梗の発言に、なるほど二人が並べば大層見栄えがするものな、と二人が一緒にいるところを見たことのある数名は思っていた。 「どこの学校に通っているの」 初めて聞いた友人の一人が訊ねた。 「女学院。中学からの内部進学だけど」 そう言うと、ほうと溜め息が聞こえた。 「女学院とはまた、お嬢様学校じゃないか。しかも難関だし、きっと才色兼備なんだろうなあ。羨ましい」 と、誰かが言うので周りもそれに同調している。どんどんと想像の中で美化されていくけれど、それでも実際に会ってみてがっかりすることはないだろうと思うので、桔梗は自分が褒められたような気分になって、にこにこと笑っている。 うちの学校も県立高校の中では最難関と言われているんだぞ、と心の中で呟いたが、すっかり上機嫌になってしまっている桔梗は、そのことすら拘る様子もなく、ただ緩みきった頬で口々に噂されているのを喜んで聞いていた。本当はそういう色恋の関係ではなく、彼女に無断で付き合っていることになっている、などという罪悪感は友人たちから言ってもらえる羨望の声ですっかり洗い流されてしまっていたため、もしこの嘘が塾生の誰かに知れることとなったら、ということは全く考えにもないことであった。 「一高と女学院なら釣り合わないこともないかな」 などと言って、女学院の学生を紹介して欲しいと浮気な心で言ってくる者もいたが、そんな友人には桔梗は曖昧に答えてはぐらかしていたのだった。
ところが先日、生徒会の委員になった笙馬が、桔梗たちのクラスの生徒会委員と打ち合わせに来ていたとき、偶然桔梗の彼女についての話を聞いて、どういうことなのか問い詰めた。笙馬が驚くのも無理はなく、あくまでも桔梗の片恋なのだと思っていたから、一体いつの間にそういう関係に発展していたのかと思ったことや、先日の妥子との遣り取りのことも思うと、真偽のほどを確かめられずにはいられなかったのである。 笙馬には思いの丈を何度となく話していたから、彼女として扱いたいという思いを分かってくれるだろうと、桔梗は期待しながら、 「本当は付き合っているわけじゃないんだけど、そうでありたいという思いから、つい話を膨らませてしまった」 と言ったのだが、その様子がまた大して悪びれる様子もなく、むしろ笙馬なら同情してくれるだろうと、窺っているように見えるのが、なんとも浅い思慮であることか。呆れてしまって、「妥子の言う通りだった。桔梗は想像を膨らませすぎて、そのうち椿希ちゃんに迷惑を掛けかねない」と、溜め息も漏れる。 「本当に付き合ってるわけじゃないんだね」 と念を押す笙馬は、まるで桔梗のその態度を責めているようで、俄かに不穏な空気が流れ始めた。桔梗の眉がぴくりと動き、笙馬をじっと見据えるが、笙馬はつんとした態度で桔梗の返事を待っている。 「ああ」 観念して桔梗が言うと、笙馬は「そう」と言い、深い溜め息を吐いた。その笙馬の表情からは何を思っているのか読み取ることは出来ないが、ついこの間まで桔梗の恋愛話を、あまりにぞっこん惚れ抜いていることに、半ば呆れながらも応援してくれているようだったのに、どうしてそんな風につれない態度なのかと、桔梗は不思議に思っている。 やがて、そんな顔をさせているのが申し訳ない気持ちになり、自然と桔梗の表情は苦笑いになった。 「悪いな。せっかく色々相談乗ってもらってるのに、まだ告白出来てないなんて」 言っているうちに、笙馬が怪訝そうな顔をしているのはこういうことが原因ではない、と気付いたものの、一度出た言葉を元に戻せるわけもなく、内心はしまったと思ったため語尾に少しばかり力がなくなっている。 「一緒に登校している以上、付き合っていると思いたい気持ちも分からないでもないけどね」 妥子と交際するようになってから、笙馬は桔梗にとって恋愛話を忌憚なく話せる友人だったこともあり、こんなことで桔梗との距離の持ちようを考えるつもりはないものの、あまりにも幼稚だと感じ、溜め息は尽きない。あまりつまらないことで見栄を張って、後でそのことが本人に知れたら軽蔑されるかもしれないのに、と思うと妥子が桔梗ではなく葵生の肩を持つのも分かる気がした。 桔梗もつい少し前までは笙馬の悩み事を聞いていたもので、切なく苦しめる恋の辛さをつらつらと語っていた笙馬に対して、桔梗ならではの強気な助言をしたものだった。だが、何をするにつけても楽天的で朗らかな気性の桔梗とは違い、妥子に一歩も二歩も引けを取ると思っている笙馬からすれば、そんな友人の励ましを聞きながら、桔梗のそういう性質を羨ましく思っていた。 勉強でも、心ばえでも、あらゆる面で妥子の方が優れていると思っている笙馬は、地道な努力を続けて、妥子に相応しい男になろうと、優しいだけの男からの脱却をしようと、桔梗の長所を見習いたいと、心の持ちようを変えるべく苦心してきた。中学時代に学級委員となり、クラスメートに半ばこき使われていたような風もあったため、そういった委員会にはもう属すまいと思っていた笙馬が、高校生になって自ら進んで生徒会に手を上げたのも、桔梗のように精力的でありたいという思いからであった。 だがどうしたことだろうか、桔梗が椿希のことを、さも恋人であるかのように友人たちに触れ回るようになったのを聞いて、失望にも似た侘しい気持ちになった笙馬は、思わず桔梗に冷淡な態度を取ってしまったのだった。もしかしたら桔梗は既に椿希の心を得たと思い込んでいるのかもしれないが、それは妄想であって現実ではないのであるから、性質が悪い。 友人だからと、ありのままの桔梗を見ることが出来なかったと悔しいけれど、それでも笙馬は桔梗を心底嫌い抜くことは出来なさそうだと思っていた。 一方桔梗は、確かに椿希のことは好きは好きだけれど、例の葵生の起こした騒ぎから、あの二人こそ本当に似合いの仲のような気がして、決して本気で彼女に入れ込むつもりなどなかったのだった。あんな彼女が本当に自分の恋人だったらいいのに、という軽い程度であったのだが、それを真剣になって笙馬が訊ねて来たのだから、これからは盛り上げすぎないよう控えようとは思うけれど、なんとも真面目一途の優等生らしい笙馬の振る舞いに、 「まあ、こういうところが俺には足りないから」 として、のんびりと考えていたのだとか。
「桔梗くんが椿希のことを、大切に、幸せにしてあげられるのなら私は構わないんだけど」 公園のベンチに腰を下ろしながら、妥子が言った。土曜の午後、塾の始まるまでのわずかな間ではあったが、笙馬は昨日の出来事を妥子に話していた。このことを聞いて妥子がどう言うか気になったこともあったが、笙馬自身も桔梗に対して、やや興ざめした思いを抱いていたため、つい話を打ち明けてしまったのだった。 「でも、妥子は椿希ちゃんには葵生がいいと思ってるんでしょ」 椿希の相手には桔梗でも構わないと言ったので、つい意地悪っぽくそのことを訊ねてみたら、妥子は躊躇うことなく言った。 「椿希には、葵生くんみたいに、ちょっと気障でうぶだけど、いざという時にすごく頼りになる人が合っていると思うから」 本当はそれだけじゃないのだけれど、上手く説明出来そうにないので妥子は次の言葉を言うのを止めた。笙馬と桔梗の間の友情から、きっと悪気なく、今こうして話していることもいずれは桔梗に伝わるのではないかと思うと、つい出掛かった言葉も呑み込んでしまう。 「桔梗じゃ駄目なの」 笙馬が諦めにも似た声を出すのが、なんとも情けないような気がする。 「駄目じゃないよ。ただ」 妥子は言いよどんだが、こういうときは何か問題を既に見つけているときで、適当な言葉を探しているのだ、と付き合うようになって笙馬が知った妥子の癖だった。さやさやと春風が吹いて二人の髪を撫でていくと、近くの草花も可愛らしく揺れて、まるでそれらまでが妥子の言葉の続きを待っているように見える。公園のそこかしこで無邪気に遊ぶ子供たちの声が、この二人の間の繊細な雰囲気と遠くかけ離れた世界のもののように思えるほどで、逆に言えばこの二人の会話がいかほどに公園の雰囲気にそぐわないことか。 少し長い間のように感じられたが、おそらく数秒の間を経て妥子が言った。 「桔梗くんが椿希のことを、ちゃんと理解出来ているかが分からない。表向きのあの子だけを捉えているようだから、それが私には不満でね」 妥子には、本当はもっと言いたいことがほかにあったはずで、曖昧に包んだその言葉に含まれた本当の意味を、笙馬は薄々ではあるが悟っていた。一体いつからこんなに気の置ける付き合いになったのだろう。 「ひとつ聞いていい」 決して高くない背丈の笙馬だが、それよりもまた少しだけ小さな妥子がこちらを見上げると、笙馬はふわりと微笑んだ。普段は姉のようにしっかりとした妥子だが、首を僅かに上げてこちらを見つめる仕草をすると、堪らなく愛しく思えてならない。 「どうしてそんなに椿希ちゃんを守ろうとするの。そんなに特別な訳があると思えないけれど、妥子の様子を見ているとどうも、何かから盾になっているような気がして不自然だよ」 どちらかというと、椿希が妥子を守る方が想像しやすいのだが、この前の聖歌隊での清らかな美少女ぶりを目の当たりにして、笙馬も少しばかり考えを改めたのだが、あまりにも甲斐甲斐しく椿希に付きまつわるのだけは疑問であった。見た目は本当に颯爽とした椿希で、言動は中性的である。だが、内面に関して言えば、男勝りなのは妥子の方ではないかと思うようになった。だが、こうして傍にいると、やはり少女らしさを感じられて、守ってやりたいという気持ちが沸き起こってくるのは、男として自然の成り行きである。 一方の妥子はというと、あまりにも素直な質問に対し、どうしても答えなくちゃいけないかな、と困ったような顔をして考えている。 「あの子はひとり立ち出来るようで、誰かが支えてあげなくちゃいけないの。すっかり馴れ親しんだ仲になったからといって、椿希を放ってふらふらとどこかへ行くような男は駄目」 そう言われると、確かに桔梗は椿希には相応しくないのかもしれないと思う。だがそれでも、疑問は消えない。ますます深まる様相を見せる謎に、笙馬は頭の整理が追いつかず、眩暈がしそうになった。だがこれ以上訊ねるというのも無粋な気がして諦めざるを得ず、なんとなく含むような言い方をした妥子の言葉の裏の意味を、ゆっくり考え直さねばと思っていた。 ボールがぽんぽんと何度かバウンドして妥子の足元に来たので、妥子は笑って投げ返してやると、「ありがとうございます」と可愛らしく男の子が返事をした。緑の木立によって出来た影が話をしている間に動いてしまって、太陽の光がすっかり二人を照らすようになってしまった。 「そろそろ行こうか」 そうして二人は公園を後にした。あとほんの少し、何か話したいことがあったはずなのだが、そのうちに思い出すだろうと、大して気にも留めずに塾へ向かった。二人が並んで歩く姿は、本当にお似合いで、何一つわだかまりなどないように見え、実に好ましいものであった。 塾で椿希を見るなり、友人同士の会話を始めた妥子を見て、やはりわだかまりなど消えていなかったと気付き、笙馬はもっと妥子に甘えたい気持ちを抑えて、自分も桔梗との会話に興じることにしたのだった。
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