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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第23回   第一章 第五話 【歌姫】6
 椿希の独唱の後、全員で最後に一曲「アメイジング・グレイス」を歌うと、出番が終わってしまい、もう少し見ていたいという名残惜しさと心を浄化させるような余韻を観客の心に残しながら、聖歌隊は、舞台袖へと引き上げていく。
 「葵生くん」
 妥子に促され、慌てて花束を持って共に舞台下へと急ぐ。夢心地でいた葵生は、俄かに緊張が走って、さぞかし滑稽な姿で舞台へ向かっているだろうと思うと、顔に熱が帯びていくようである。
 「椿希」
 妥子が声を掛けると、椿希はそれに気付いて隊列を外れて舞台下で待つ妥子と葵生のところへ来た。顔が少し紅潮しているのは、まだ緊張が完全に解けていないからだろう。妥子の隣に葵生がいたことに驚いたのか、あっと口を僅かに開いた。普段化粧などしない椿希だが、珍しく唇に薄く淡い色の口紅かリップグロスを塗っているらしく、それが清らかながらも仄かな色香を感じさせられ、あまりに近くで見て葵生はどきどきと胸を高鳴らせた。独唱を聴いた後で改めて見て、こんな細い体のどこにあれだけの力があるのだろうと思いながら、少しの間ぼんやりとしていると、後ろから妥子に背中を軽く叩かれた。
 「良かったよ。ありがとう」
 葵生は顔をさらに赤くしながら、数段階段を上がり、花束を掲げ、照れて惚けたようになってしまっている自分の顔を見えないようにして、椿希の手に渡した。あくまでも恥ずかしがりやでうぶな様子の葵生を、妥子は、はがゆくも初々しく、まるで弟の初恋を間近で見ているような気持ちになって、思わず笑ってしまった。
 椿希が花束を受け取ろうと屈んだとき、ペンダントが滑り落ちて花束に当たったので、椿希はペンダントを手で胸に押さえた。そのとき安定を失って彼女の体が少しぐらりと崩れそうになったので、葵生は思わず彼女の体が倒れないよう肩を支えるのに手を差し伸べたのだが、思いがけぬことで椿希の体に初めて触れてしまい、葵生はもはや頭で今の状態を考えることが出来ないほど、どぎまぎしてしまっていた。
 「ありがとう。綺麗ね。妥子、葵生くん、みんなにありがとうって伝えておいて」
 葵生の緊張ぶりなど露ほども知らぬ椿希は、花束を左手と胸で抱えるようにし、空いた右手で妥子と握手をして、そしてそのまま葵生に手を差し出した。葵生が何も考えられないほどに困惑しきっているというのに、無垢な笑顔を向けるとは、天使の顔をした小悪魔のように椿希が見えてくる。
 葵生は無意識のうちに彼女の手をきゅっ握り締めると、お返しにと軽く彼女は葵生の手を握り返した。名残惜しくて、初めて触れた彼女の手を離したくないと思ったが、そういうわけもいかず、もう去らねばならないからと椿希の指がするりと葵生の掌から抜けると、彼女は蝶が飛んでいくように、袖へと去って行ってしまった。
 妥子と共に席に戻った後も、夢心地のようでふわふわと浮いたような感覚が残り、椿希への思いをこれでもかと蒸し返す一方、冷静な自分が「これは重病だ、浮遊感があるだなんて本当に病気かもしれないぞ」と冗談めいて諭すのだが、相変わらず葵生はそういった考えをいくらしていても顔には出ないものだから、誰一人葵生が葛藤しているとは思いもしないのであった。

 一方で、椿希に花束を渡す妥子と葵生の姿を、笙馬は複雑な表情で見ていた。二人が同時に席を立ったときから、眉を寄せしかめ面をしていたのだが、花束を渡すために壇上へ上がる階段を数歩上がったところで、葵生の背をぽんと叩いたのを見たとき、そこに妙な親密さを感じてしまい、あまりの光景に口元が僅かに開いてしまった。名前を呼びかけようとしても、拍手の音で掻き消され、手を伸ばそうにも届くわけがなく、震える心が平常心を失わせていく。
 近頃、時折笙馬の心がきゅっと掴まれたように痛くなる。まるで女のようだと自嘲し、気にしないように念じていたが、胸の痛みと醜い疑惑は少しずつ蓄積されていき、あと少しで限界に達しようとしていた。
 思えば妥子との交際は去年の秋から始まり、もう半年以上を経過しているが、特にこれといった喧嘩も波乱もなく、安定した関係を築くことが出来ていた。あまり公にすると冷やかされて、後々面倒なことが起きるかもしれないと、当面の間は二人にとってごく親しい友人にのみそれを話していたため、温かく見守られこそすれ、決して他人からの嫉妬や羨望の目で見られることなく、順調な交際が続けられていた。
 二年生になっても同じクラスに入ることが出来ればと、成績の良い妥子に負けないようにと、勉強に力を入れ、時にそれは深夜遅くまでひたむきに続けられた。結果、見事二年生になって同じ文系のクラスに入ることが出来、受験する大学も同じところを見据えて、計画的に準備をして行こうと決めていた。それもこれも優秀な彼女を持ったことで、自分も釣り合わねばと努力することを定めたためだったのだ。
 だが、葵生と打ち合わせして花束を渡すことにしていたなんて、あんまりではないかと笙馬は妥子を責めることなど出来ないのに憤っていた。
 「妥子は、僕のこと好きじゃないでしょ」
 帰り道、いじけた子供のように言う笙馬は、我ながらみっともないと思うのだが、どうしても言っておきたかった。
 「何を言い出すの、突然」
 わざと驚いた振りをしたが、笙馬が機嫌を悪くしているのは、とうに察していたため、妥子はあくまでも落ち着いていた。対照的に、どうしても問い詰めねばならないと焦る気持ちでいる笙馬は、掴みかからんばかりの剣幕でいる。妥子があまりにいつもと変わらないので、一人粋がっていては同い年なのに年下のようだと、どうにか逸る気持ちを抑えつけてはいたけれど。
 「妥子、本当は葵生の方が好きなんでしょ」
 ああ、子供っぽいことと妥子は内心呆れたが、こういうところがあるとはとうに承知していて、そういうのもまた可愛いと思って付き合っているため、憎らしいとは露ほども思わない。それでもあまり度を過ぎれば煩わしくも思えてくる。
 「どういう見方したらそうなるのか見当もつかないわ。どうしてそう思ったのか私の方が知りたい」
 妥子は笙馬の不機嫌な理由が分かって少し安堵したが、そんな様子は微塵も見せず、全くの潔白だとして溜め息を吐きながら言った。葵生との仲だなんて何もあるわけがないのに、そのことで怒っているのなら、誤解を解くのは、事実を並べ立てて淡々と説明していけば、容易いことだと思い、妥子は喋りながらどういう対応をしようかと頭でまとめている。
 「僕といるときより、葵生といるときの方がずっと楽しそうだし、それに最近よく喋っているだろ。今日だって、何か二人でひそひそ話していたし、花束だってなんで葵生と二人で渡すの。妥子が椿希ちゃんの友達なんだから、一人ですれば良かったのに」
 本当に高校二年生の男子かと思うほどに幼い様子である笙馬は、妥子を見つめるその面持ちもまだ少年らしくあどけないので、このように嫉妬しているのも許してしまいたくなるほどだった。ただ、葵生と比べるとどうしても幼さの方が目立ってしまうのは、少々いただけないところで、風采もさることながら、これが椿希と葵生を近づけるためのお節介事であるということに気付かないのかと、少し情けなくもなる。仕方なく、妥子は言った。
 「葵生くんをからかうのは楽しいから、それだけよ」
 いくら可愛い嫉妬だとはいってもここまであからさまに妬いているのを見せられると、あまり刺激して事態をややこしくするよりは、何か言われるたびに片っ端から否定していった方が、早く解決出来るだろうか、と妥子は考えた。
 「からかうって、なんで」
 もしやこのお坊ちゃんは全く気付いていないのだろうか、と妥子は目を丸くして驚き呆れた。光塾内の恋愛事情について全て知っていなくても、沈着冷静で成績優秀、それまで少しも異性への恋の様子を見せなかった夏苅葵生の思い人が誰なのかは、公然の秘密として皆知っているものだとばかり思っていた。あの葵生が感情をあからさまにしたとき、笙馬はそういえば何か言っていなかっただろうか、あのときのあの台詞は一体なんだったのだろうか、と思わず仰け反りそうになりながら、妥子は乱れかけた調子を元に戻そうと、少し間を空けて息を整えてから、声の調子を低くして言った。
 「葵生くんが、あの時柊一くんに手を上げたとき、気づいてなかったの。『理屈じゃない』っていうのは、どういう意味だったの」
 妥子は溜め息が出そうになるのを抑えながら、言った。
 「桔梗は椿希ちゃんのことが好きだから、僕はそれに同意しただけで」
 そう言いながらも何か思い出したのか、笙馬ははっと表情を変えた。
 「もしかして、葵生もそうなのか」
 今更気付いたとは、なんとも注意力の浅いことと嘆息も漏れてしまいそうだけれど、ともあれ妥子は桔梗が椿希のことを気に掛けているらしいことは、以前から気付いていたので、納得いかないこともない。
 ただ、妥子が葵生に肩入れするのと同じように、笙馬も桔梗の相談に乗っていたのかと思うと、なんだか椿希に申し訳ない気持ちになってくる。椿希は純粋に、妥子と笙馬のことを応援してくれているというのに、葵生のために椿希とのことを取り持とうと躍起になって、笙馬がまさか桔梗の恋心に同情しているのに気付かなかったことが口惜しく、妥子は唇を噛んだ。
 「桔梗は海外旅行の土産を椿希ちゃんに渡せたことを喜んでいたよ」
 笙馬がそう言ったのに、妥子は怪訝そうに顔を顰めた。
 「それって、何か食べ物なの」
 皆にチョコレートの箱を見せて、休憩時間に摘まんだのとは別に、妥子にそっと桔梗が渡したものは、クッキーの詰め合わせだった。窺うような目で笙馬を見ると、笙馬は妥子とは目を合わせようともせず、
 「確か、十字架のペンダントだって言ってた。聖歌隊に属している椿希ちゃんに、ちょうどいいからって」
と、ぽつりと言うのが、叱られた後の子供のようである。妥子はふと何かが引っ掛かって記憶を辿っていくと、そういえば今日の音楽会で椿希が身に着けていたということに思い至り、花束を受け取る椿希が屈んだときに、胸元からさらりと零れるように落ちたのが、まさかそうではないかと気付くと、はっと口元を押さえた。葵生もあの場にいたし、決して鈍ではない葵生があのペンダントに気付かないわけがないだろう。聖歌隊として登場し、だから身に着けていたのだとしても全くおかしくはないけれど、あれが桔梗からの贈り物だとするならば、葵生には絶対に知られたくないことだと妥子は忌々しいような気持ちになった。
 桔梗からの土産を受け取った次の日、高校で、
 「私たちだけ特別にあんないいものをくれるだなんて、桔梗くんったら太っ腹だね」
と、二人で言い合っていたのを思い出すと、うまく桔梗に騙されたような気がして、妥子は腹立たしくて仕方なかった。椿希が今日、十字架のペンダントを身に着けたのは、きっと妥子も同じものを持っていると思っていたからであって、もし椿希だけに贈られたものだと知っていたら、絶対にその場に相応しいものであっても身に着けることはしないだろう。椿希は口癖のように、「私は主体性のない女性にはなりたくない」と言っていたことを思うと、まだ葵生とも桔梗とも気持ちを定めていないのに、色めいた気持ちの籠もったものを身に着けることは断じてないだろう、と妥子は信じていた。妥子が同じものを持っていないと知ったら、椿希はそれをどうするだろうか。
 「それにしても、なんという前途多難な恋なのだろう。何もかも兼ね備えているかのような葵生くんだけれど、駆け引きにおいては桔梗くんの方が一枚も二枚も上手のようだ。肝心の椿希はというと、二人のことをどう思っているかというと、はっきりさせないというのではなく関心がないようにも見えるから、やっぱりどう考えても葵生くんにとっては前途多難でしかないような気がする。物を押し付けたり無理矢理振り向かせようとするような荒々しいことをしないで、魂を揺さぶるような刺激を与えられるようになるほど、恋に思い詰めて欲しいというのは、葵生くんに対して大きな注文というものだろうか」
 そう思うのは本当に身勝手なことだからと、妥子は口にはしない。
 笙馬が先ほどから、思い詰めた妥子の顔色を窺っているので、
 「桔梗くんもいい人だっていうのは分かっているけど、私には十字架か花束のどちらを椿希が好むかなんて、さっぱり想像がつかないわ」
とだけ答えておいた。
 笙馬には、いずれは椿希のことで色々と相談したいこともあったけれど、桔梗との友情が思いのほか厚いものだからと、今後はますます水臭くなってしまうというのが、妥子には残念でならなかった。

 葵生は音楽会からの帰り、真っ直ぐに家路に着く気にはなれず、ぼんやりと物思いに耽りたいと思い、近くの公園に寄ることにした。心の中にぞっとするほど妖しくざわめく余韻は、体の中を駆け巡ってほかのことなどとても考える余裕を与えない。
 東の空にぼんやりと夕陽と入れ違いに浮かび始めた月が、紅く輝いているのを見ると、心の内を見透かされたようで恥ずかしくなる。そして、そんな春の夕方の朱に彩られた公園の中で、一人憂いを含みながらどこを見詰めるともなくしている葵生の姿もまた、格別に妖しげでこの上なく美しいのであった。
 尽きせぬ悩みを人に語ることも出来ず、一人めくるめく慕情を持て余しながら、葵生は気の済むまでここにいるつもりだった。
 雲が流れ、少しずつ朱色の空も藍色がかって、夜の明かりがちらほらと家々や電灯から点り始めると、心も少しずつ落ち着いてきたのか、ようやく葵生は組んでいた手を解いて立ち上がった。
 公園の入り口まで歩いて、何を思ったのか空を仰いで星を探したけれど、街から少し外れた住宅地の中とはいえ、まだまだ辺りは明るく、そして人工の光が星の光を遮るようにしているので、飛行機らしい光が動いているのしか見ることが出来なかった。やれやれという溜め息も自然と漏れ、葵生は遅ればせながら家路に着いたのだった。


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