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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第22回   第一章 第五話 【歌姫】5
 女子校に入ることの出来る機会はそうそう滅多にない、と駅を降り立ってから落ち着かない様子の桔梗や笙馬は、見ている限り待ち合わせの場所から学校までの間、ずっとそわそわと興奮した状態でいた。あっちをきょろきょろ、こっちを見ては「ほぅ」と小さく溜め息を吐いたりと、素直に何もかもが珍しく思えて、まるで田舎から出てきたばかりのような態度で示す。建物からして瀟洒でいかにも品のある風情が感じられるので、はしゃいだり大きな声を出すのははしたないと自制しているのだろうけれど、落ち着かない様子を見ていると初めて女子校に踏み入れたことで、なんだか侵してはならないところに来てしまったようで、場違いだとでも思っているのだろうか。今回の音楽会の公演は招待制とはいえ、学校関係者以外に対しても広く門戸が開かれていたのだから、周りにはもちろん男性もちらちらと見られたのだが、それはそうと自分がこうして普段いるはずのないところにいる、というのが感慨深くてならないらしい。
 案内役の妥子は、そんな予想通りの反応を表す二人と、普段と変わらぬ冷静とも無愛想ともつかぬ表情をしている葵生とを比較して、同級生で高校生に過ぎないのに、こうも違うのかと思って見ていた。葵生の態度に対しては少しばかり不満を持っていて、こういう場合は、嘘でもいいから少しくらい嬉しそうな興奮しているような素振りを見せてくれた方が面白いのに、と相変わらず表情のない仮面を被った様子をそっと胸の内で批判した。
 葵生は学校の中に入ってからは、ずっと建物や景色を眺めていた。おそらくどの学校でも、多少の違いはあれど、そう特別に変わったものはないのだから新たな発見があるようには思えないが、葵生はほかの誰よりも細々としたところまで見詰めていた。葵生の学校もまた敷地内にチャペルがあるということも共通しているのだが、同じように見えて少しずつ細工が異なっているのを見つけては、人もそういうものなのだろうかと、やけにいつも以上に考えを深くして、椿希がここを毎日通って歩いている姿を思い浮かべた。
 女学院は全体的にゆったりとしたつくりになっていて、規模としては染井と同じく決して大きな学校ではないのだが、建物と建物の間が少し広く作られているのが、少しも圧迫感や窮屈さを感じさせない。木々に囲まれているが、それが鬱陶しくないよう手入れされており、木漏れ日に照らされた花壇の花々が明るく可愛らしく咲いているのが、いかにも皆の憧れる女子校に相応しいだけの演出を果たしていた。無機質な建物だというのに、そこはかとなく感じられる上品さは、椿希から普段感じていたのと同じような気がして、彼女はこの学校で伸びやかに育ったのだと、胸をじんわりと温かくさせた。
 「そんなにわが校が気になるかしら」
 悪戯っぽく言った妥子は、まるで恋に堕ちて心を奪われてしまったような葵生を見ながら、葵生こそ、この学校の閑静な佇まいに合っているような気がして微笑んだ。
 「せっかく女子校に来れたんだから、楽しもうと思って」
 今回は吹奏楽部と聖歌隊、そして卒業生たちによる音楽会ということで、様々な年齢層、老若男女問わず見受けられたが、やはり女学院の学生の姿が目立っていた。中学生の頃から男子校に通う葵生にとっては、それはとても新鮮なものだったのだろう。それに、祖母・母・子の母娘三代でこの学校に通う者がいるというくらい古くからある学校なのだが、そんな歴史ある学校の聖歌隊で独唱の場面があるというのは、なんという名誉なことだろうかと、まだ公演の始まる前だというのに心が感じ入ってしまっている。
 「はい」
 妥子は突然持っていた花束を、葵生に渡した。
 「これ、葵生くんが持ってて」
 胸の前に突然現れた花束から、ほんのりと甘い香りが漂い始めて、くらくらとした感覚に襲われる。狼狽する葵生に、妥子はにっこり笑って強引に押し付けるようにした。そして、そのまま妥子は葵生から離れて、茉莉やゆり子たちのところへ逃げるように行ってしまった。参ったな、と呟きながらも葵生は花束を託された意味をすぐさま理解すると、ほんの少し顔を赤く染めた。花を鼻に向けると甘い蜜の芳しい香りがして、それがより一層、花の彩豊かな色のように葵生の心を掻き乱していく。
 「茉莉ちゃん、ゆりちゃん、見て」
 妥子が葵生に視線を遣ると、茉莉とゆり子は妥子の視線の先を見て、はっと息を呑んで顔を見合わせた。
若葉の萌える木々を背景にして、赤や青、黄などの色とりどりの花の束を持つ彼の姿は、どう感想を述べていいのか言葉が見つからない。一年前より精悍さが増して大人の男になったと評判になっていた葵生だが、それをこうして見ると、ますますその通りだと実感させられるのだ。少し背丈が伸びて体格もがっしりとしたためか逞しく見え、少年から大人の男性へと近づいた姿が、乙女たちの心を激しくときめかせてしまう。髪がつやつやと艶やかに太陽の光に照らされており、動くたびに僅かに揺れるのが妖しくも美しく惹かれてしまう。
 まるで一枚の絵画を見ているかのようなその場面は、もうほかに何も付け加えることがない。じっとその様子を見ていると、ゆり子も妥子までも、うっとりとして話すのも忘れてしまう。
 ただ茉莉だけは、そんな姿を見て切なく胸が締め付けられる思いでいた。いつも教室で見ていた葵生が、外の空気に触れた途端、遥か遠くの世界の人のように思えてしまった。元々自分には不釣合いだと思っていたが、ますますその差を感じさせられたようで、茉莉は何故か泣き出したいような胸の小さな痙攣に耐えていた。

 会場となっていたチャペルの前方を椿希が確保していてくれたため、集団ではあったが全員が近くの席に座ることが出来た。もう随分と人が入っており、時間になれば満席になっているかもしれない。学生の家族や、この学校を受験しようとする小学生や中学生、友人知人が多くいることだろう。また、この学校の伝統ある吹奏楽部や聖歌隊のファンもいて、そういう人は毎年のように訪れていると聞いたから驚かされる。葵生はそんなところにいることが、夢心地のように思えてならなかった。
 「妥子、隣に座ってもいいかな」
と、訊ねた笙馬に、断る理由などないのに、と妥子は思いながら「どうぞ」と言った。
 笙馬と妥子の関係は付き合い始めてからも、それほど劇的に変化はしなかったものの、二人で一緒にいるときは、爽やかでゆったりとした空気がそこを流れ、学校や塾、勉強などでなかなか会えない僅かな時間を慈しむような交際が続いていた。二年生に進級してからは、同じ文系を選択したこともあって、会う時間が減ったわけでもなく、むしろ増えているのだ。休みの日になれば、一緒に出かけることもあれば、勉強をしていることもあり、なんにしても共に過ごす時間が足りないと感じたことはなかったはずなのだ。
 今日の笙馬は様子がおかしい、というのに妥子は会場に入る少し前から気付いていたが、いくら思案してもその原因だけは分からなかった。体調が悪いようにも、誰かと仲違いして拗ねているようにも見えないし、喧嘩したわけでもなく心当たりがない。しばらく様子を見よう、と決めて訊ねないことにした。

 吹奏楽部によるクラシック曲から最近のヒットソングや映画のテーマ曲などの演奏などを経て、プログラムが進んで聖歌隊が登場したとき、その人数に驚いた。せいぜい二十名程度だろうと踏んでいたのが、七十〜八十人はいるだろうか。中等部との合同とはいえ、これほどとは思ってもおらず、これほどの人数が揃うとその規模にまず圧倒される。
 最前列の一番端、一番最後に舞台に現れた椿希は髪を後頭部で一つに束ね、髪を下ろしているときよりも凛々しさが増していた。おそらく椿希がいる方から順に、ソプラノ、メゾソプラノ、アルトと配されているのだろう。 
 男声がないので、実質アルトがテナーの役割を担い、メゾソプラノがアルトを担当する、と妥子が解説した。
 こうして全体を見ていても、可愛らしいと思う子は他にも何人かいるし、特に聖歌隊のメンバーは全体的に清楚な感じを持っているのが好感を持てる。全員が同じ灰色に紺のリボンの制服を着ているのが、照明に照らされると清らかさを増して美しい。中でもすらりと細身で身長が高く、一際目を惹く華やかな容姿と凛とした存在感を持つ椿希は、端にいながらにして他の女子高生にはない異彩を放っており、やはり立ち姿の美しさや顔立ちの上品さなどを見ていると、彼女が一番綺麗だと思った。こうして見ると、とうに見慣れているはずの制服がとても洗練されたもののように思え、椿希のことしか目に映らない。
 聖歌隊の曲は学校で時折行事の一環として行われる礼拝のときに聴いていたこともあり、全く知らない世界ではなかったが、葵生にとってはそれが女子学生だけで構成された聖歌隊は初めてだったので、異なった趣をしみじみと感じていた。全てが賛美歌で構成されているわけではなく、ゴスペルや映画やミュージカルのテーマソングも歌うのだと、事前に椿希から聞いていたが、明るく軽快な楽曲もあったため、聴衆まで緊張させられるような厳かなものでなく、皆楽しみながら聴いていた。
 椿希は指揮者の方を向いているので、こちらがずっと視線を送っているのには気付いていないようだった。当然こちらを見てくれるはずもないのだが、ちらりとでも視線を遣ってくれると嬉しいからと、葵生はどきどきして目が離せない。桔梗は隣で、まるで心を奪われたかのように見入っている葵生に気付いていたが、それも当然のことと思い成していた。

 アルトの独唱、メゾソプラノの独唱と進んで、いよいよソプラノの独唱となるのだろうか、椿希が一歩前へ進んだ。少し横へ移動するときに輪郭がはっきりと見え、涼しげで開放された首元が照明によって明るく照らされ、視線は自ずとそこへと向かった。まるで天井から吊られたかのように背筋の通った彼女は、独唱するに相応しいだけの器量と度胸を持っているようだった。髪を纏めた紺色のリボンは、制服の胸元の紺のリボンに合わせており、女子高生らしい若々しさと純粋さがさらに増して感じられた。
 舞台中央に立ち、椿希が大きく息を吸い込んだ。椿希以外の光が消え、彼女だけに照明を当てる。静かにピアノの音が流れ出す。
 「あなた、私を想ってね 別れを告げた日を思い出して」
 メゾピアノの弱音から始まった曲は、どこかで聴き覚えがあるものの、それを歌っているのがほかならぬ彼女だと思うと、過去の記憶は塗り替えられていった。葵生にとっては、それはまるで椿希のために作られた曲であるかのような錯覚がして、完全に舞台上の椿希に心は奪われてしまっていた。可憐で繊細な旋律に合わせて、か細くも切ない声に、人々は聴き入っていた。
 「二人の愛は決して変わりはしないと 誓わなかったけれど思い出して」
 葵生は、唇の上に言葉を乗せて歌う椿希に見入っている。
 「一日も忘れない、二人の日々」
 そしていよいよ盛り上がるというとき、彼女のソプラノは最高潮の広がりを見せた。それまでの愛らしい乙女の歌声は、狂おしさをもって、その曲を劇的かつ壮大な物語へと変えた。高音域でも決して揺らぐことのない芯のあるソプラノでありながら、時に切なく、時に遣る瀬無く何かを求めるように、そのときそのときで色を変えていく。
 まるで歌うために生まれてきたかのような清らかな姿に、本当に見慣れたあの椿希なのだろうかと疑ってしまう。
 「どうか忘れないで、二人の」
 葵生には、その歌詞の部分だけがやけに深く心に刻まれたようだった。曲の歌詞の内容は、別れた幼馴染みであり、恋人でもある初恋の相手だったらしい人に向けて、今もなお思い続けているというものだったので、自分の身に置き換えることは出来ないけれど、それがどういう気持ちなのだろうと想像しながら、椿希の声に合わせて思いを馳せていた。だけど、その最後のところだけは何故か、同じように聴いていたはずなのにずきりと胸を差し込まれるような痛みを伴って、葵生はそっと胸を押さえた。
 「愛」
 オペラ調の歌い方はさぞかし相当な技術が必要なのだろう。声楽に専念すれば、もっと椿希は素晴らしい歌手になれるに違いない、と素人ながらに感嘆するばかりだった。忘れかけていたけれど、彼女は本業の歌手ではない、ただの高校生なのだ。
 誰もが胸を震わせて感動し、この日一番の拍手が舞台上の彼女に送られた。誰かが席を立ち、また一人と、椅子から立ち上がって歌姫に最大の賛辞を送る。光を一身に浴びながら、歌姫は笑みを湛えながら会場を見回して、その賛辞に答えるように深々と礼をした。それがまたとなく優美である。
 先に独唱を歌っていたアルトやメゾソプラノの女子高生の歌唱力も、流石に選抜されるだけあって見事だったが、椿希の立ち姿の美しさや人を惹きつける言い尽くせない魅力を加味すると、彼女には到底及ばないと、その場にいた友人たちは誰も誰もが思っていた。目が滲んで、はっきりと彼女の顔が見えないのは自分だけだろうかと、気恥ずかしくて友人たちと感想を述べることが出来ない。そして、椿希が最も素晴らしい歌手だったということは、決して友人だからという贔屓目だけではない。周囲の観客たちから漏れ聞こえた感想からも、それは明らかだった。



*椿希の歌ったソロの曲… 
アンドリュー・ロイド=ウェバー「オペラ座の怪人」よりThink of Me

以下、椿希が歌った歌詞です。(星屑の詩用に作成したもので、四季版とは異なります)

 あなた 私を想ってね
 別れを告げた日を 思い出して
 あの日の心 
 今も取り戻したいなら
 時々でもいいから 思い出して

 二人の愛は決して変わりはしないと
 誓わなかったけれど思い出して
 分かち合った思い出に
 出来なかったことを悔やまないで

 わたし 暗闇の中、独り
 あなたを忘れようともがいてるの
 叶わぬ望み今も 思い出と共に
 一日も忘れない、二人の日々

 花も果実も枯れ、季節は過ぎ行く
 どうか忘れないで、二人の…愛!


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