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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第21回   第一章 第五話 【歌姫】4
 さて、大学生になって家庭教師のアルバイトを始めた藤悟は、夜遅くになって、ようやく帰宅することが出来たので、程良い疲れに満足気な様子である。教えている相手は中学生で、決して進学校に通いたいわけではなく、成績さえ伸びればそれでいいという親の要望により、藤悟も懇切丁寧に教えることにした。成績の良い子供よりも、こういう風に素直に指導について来てくれる子供の方が教え甲斐があるし、子供が理解できなかった部分を完璧に呑み込めたときの反応には、心から感動させられる。一緒に喜び、悩み、解決していくという過程を楽しんでいられるのだから、これは天職かもしれない、とさえ思うほどだった。
 そういうわけで、藤悟の最近は非常に充実していた。大学では教職課程を履修しなかったが、教師というのもまた良いかもしれない、と少しばかり思ってしまった。アルバイトと本職にするのとは訳が違うだろうと思い直すと、やはりそれを職業にする気にはなれないのだけれど。
 今宵は十六夜月で、闇の中に一際目立つ金色に存在感を示すように輝いているのが、棚引く雲の合間から現れる風情もあいまって幻想的で美しい。あんなに綺麗な月はなかなか見ることが出来ないけれど、光塾のキャンプのときは決まって星も月も、本当はこんなに輝いているものなのかと驚きながら、心をそれらに持っていかれたように飽きることなく見上げ続けたものだった。
 そういえばもうじき光塾のキャンプではないか、と思い出すと、より一層懐かしさが込み上げる。街中で皓々と光るネオンに気圧されて、控えめに空にその存在を示す月が、あの場所ではその本来の美しさを惜しむことなく披露するのだ。そして満天の星屑たちが、夜空からまるで自分たちを見守っているかのように仄かに光を放つ。
 あの情景を思い出すと、藤悟は高校生に戻りたい気持ちに駆られる。いや、出来るものならばあの旧友も一緒に、あの空を眺めたいものだと思う。この季節になると自然と思い出されるのは、あの空のことばかりではなく、既に失ってしまった旧友のこともあって、そのことで人知れず毎年胸が痛み、藤悟を苦しめる。もうじき、その友人は十九の誕生日を迎えるはずなのだ。

 癖のようになってしまっているのだが、ぼんやりと昔のことを思い返していると、制服姿のまま夜道を急ぐ椿希を見かけた。随分と長い間学校にいたんだな、と思いながら駆けて行って声を掛けると、警戒したのか一瞬顔を強張らせたが、藤悟と分かると椿希は微笑んだ。
 「お疲れ様」
 優しく労いの言葉を掛けると、椿希は「ありがとう」と言った。街灯に照らされたその顔は笑みを作っているけれど、その声にはどことなく力がないようで、いつもの凛とした姿がぼやけて見えた。
 「相当お疲れだな。あんまり無理するなよ」
 そう言っても、椿希の性格柄、手を抜くことなく一度決めたことはやり貫くのだろうけれど、と藤悟は思っていた。
 「つい、頑張っちゃうの。もうじき聖歌隊のコンサートだから」
 そう言って強がっているけれど、貧血のようで少し足元がふらついてじっと立っていられないようだから、藤悟はそっと手を差し出して支えてやった。顔色までは電灯の明かりだけでははっきりとは分からないものの、心なしか頬のあたりが少し痩せたように見えるのが気がかりで、藤悟は少し怒ったような口調になった。
 「だからって、そんな辛い状態でステージに立って倒れたら、元も子もないだろう」
 普段はとても穏やかなのに、こういうことに関しては過去に何度も口煩く嗜められてきた椿希は、苦笑していた。
 「分かったな」
 念を押すように藤悟が言った。しつこいぐらいに言っておかないと、椿希は倒れそうになるぎりぎりまで動き続ける。小学校の時の運動会の準備だとか、地域の行事の準備だとか、他の子供たちがそんな忙しさの中、はしゃぎ、遊びまわるのに対し、大人以上に率先して働き、手伝おうとする椿希を見ていると、本番よりも準備の方を楽しんでいるのではないかと藤悟は本気で思ったものだ。今になってみれば、これが椿希の性分なのかもしれないけれど、相変わらずの頑張り屋な椿希も、体調を崩すほどのこととなると、話は変わってくる。
 年頃からすると、兄のよう、と形容するのが正しいのかもしれないが、椿希は「父のよう」と思ってまた苦笑いした。
 「はい、承知しました」
 少し歩くのを止めて休んだからか、もうふらつきはなくなって、椿希は藤悟の手をそっと離した。
 「椿希が聖歌隊を頑張っているのはよく分かっているけど、一日ぐらい休んだっていいじゃないか。
体は資本だろう」
 元の優しく穏やかな藤悟に戻ると、ゆっくりと椿希に合わせて歩き出した。
 「そうはいかないのよ。今度の音楽会は一般公開するって言ったら、光塾の友達が来てくれるって。それに私、ソロパートをもらえたから、なんとしても成功させたくて」
 熱血とまではいかないけれど、一つの目標を見つけたら、それをかならず達成させようと努力するあたりはなんとも椿希らしいところだった。彼女が怠け者だというならば、この世界は怠け者だらけになってしまうだろうとさえ思う。
 こんな風に励んでいるところは、人目にはあまり晒されていないだろうけれど、こうした普段の心掛けの結果が、他人には晴れ晴れしく颯爽として映るのだろうと思うと、椿希が女子校で人気を博しているのも分かる気がする。
 「残念だな。俺も行きたかった」
 妹のように思っていた幼馴染みが、何十人もの聖歌隊を背後にして、独唱するだなんて、そんな光景は想像するより遥かに感動することだろうが、やはり一人で女子校に入ることは非常に勇気の要ることなのだ。
 「一人で女子校に入るのは勇気が要る、とかそういう理由だったら、葵生くんと一緒に行けばいいよ。葵生くんも来てくれるから。それに、チケットなら用意出来るよ」
 流石、考えていることを見事に見破った椿希に、藤悟は残念そうに笑った。
 「いや、多分家庭教師のバイトと重なっているから」
 そう言うと、「じゃあ、仕方ないね」と呟いた。 
 春の夜はまだ少し寒くて、上着を着ていても少し物足りないようである。歩いているうちに体が温まってくるかと思えば、太陽がもう沈んでしまっている夜なのでそれほど温もることも出来ず、藤悟はジャケットのポケットに手を突っ込んでいた。
 「教会には、今もまだ通っているの」
 椿希が訊いた。
 「ああ、うん。一応、親について行ってるよ。受験生だった一年間は行けなかったからな、久しぶりにこの前から行き始めた。そうしたら、早速昔馴染みの小母さんに言われたよ。『いつ洗礼受けるんだ』って。笑ってごまかしたけどね」
 椿希が本当に言いたいのはそんなことじゃない、と知りながらも藤悟はわざと話題をずらそうとした。明るい声で、少しも椿希の思惑には気付いていない振りをしているのが卑怯のようで、心がちくりと痛んだ。
 「初めて聴いた賛美歌の優しくて心が洗われるような調べ。私は、あの頃あまりにも幼すぎてその歌詞の意味も聖書の言葉もさっぱり分からなかったけれど、ただあの旋律にすごく心惹かれていった。藤悟くんに教会に連れて行ってもらって、心が慰められて」
 しんみりとしているけれど核心を突くことを言わないのは、また強がっているからなのだろうか。藤悟は何も返すことが出来ない。そんな藤悟に気付くことなく、椿希はさっぱりと、爽やかな風を気持ちよさそうに浴びているのが花のように愛らしく見え、彼女は歌うように思い出を口にした。藤悟は、
 「大切な中学受験が待っていたんだ。いつまでも引き摺ってちゃいけないと思って、無理矢理にも連れ出して正解だったよな」
と、椿希に合わせて核心を外したまま言った。
街灯の光が眩しくて、夜空の星たちは見えないけれど、あの星たちが夜空から二人を見守ってくれているからだろうか、ひどく切なくあわれな風情に心が鳴くようであるけれど、やけに二人の間を漂う空気は落ち着いていて、漣のような鼓動だけが体に響いている。
 「そうね。藤悟くんがいなかったら、私は女学院には通っていなかったと思う。今の私があるのは藤悟くんのお陰。そう思って、本当に感謝しているの」
 椿希がそう、藤悟に素直に打ち明けられたのは何年ぶりだろうか。心の中では何度も思っていて、口には到底出すことのない辛い思いや悩みがあっても、自分は多くの人の助けを得てここまで来れているのだと言い聞かせてきた。それを胸の内にずっとしまっていたけれど、ようやく解き放ったことで、いくらか心は軽くなったようである。
 藤悟は突然の告白に驚き、椿希のその言葉にどう返せばいいのか戸惑ったが、
 「そうだな。女学院に行かなかったら、妥子ちゃんにも会えなかったもんな」
と、言った。すると、椿希はにっこりと笑って頷いた。
 「藤悟くんに教会に誘われて、初めて賛美歌を聴いて聖歌隊に入りたいと思って。そうしたら藤悟くん、『女学院は聖歌隊で有名な学校だよ』って教えてくれたよね。だから私はあのとき、くよくよしていた気持ちを奮い立たせて、猛勉強してなんとか合格出来た。それで、妥子という素晴らしい親友を得て高校生になり、藤悟くんに紹介してもらって光塾にいる。光塾で出会った頼もしいライバルたちのお陰で、勉強と聖歌隊を両立させることが出来ている。妥子や、ほかの友達にも支えられているって実感しているけど、やっぱり、何かと今の私を作り上げるのにあたって、道しるべを示してくれたのは藤悟くんだったと思うから、誰よりもまず感謝したいの」
 そんなことをさらっと淀みなく言うものだから、藤悟は顔を赤らめていた。もう少し椿希も照れながら、言葉を詰まらせてくれればこれほど照れくさくならないのにと、勿体ないことだけれどそれだけが恨めしい。藤悟自身としては、ただ、自分は妹のように思っていた椿希が困っているようなのを助けたつもりだっただけなのに、そんなにまで感謝されるだなんてと、しどろもどろになって体中がくすぐったい。
「葵生のことも頼むな。あいつは根はいい奴なんだけど、不器用過ぎてつっけんどんな態度を取ってしまうから、誤解されやすいんだ」
 そう言って誤魔化しながら藤悟が言うと、
 「そういうところが女子から人気なのよ。クールで格好いい、素敵って」
 椿希が最後のところは誰かを真似たのか、いつも以上に声も高く黄色い声のように発したので、藤悟は可笑しくて笑い声を上げた。
 「へぇ、そうなんだ。あいつ、男子校なのに妙にもてるからなぁ。その気があるのかどうなのかって、そんな下らないことで盛り上がっていたときもあったけど」
 いつの間にか葵生の話題になって、藤悟自身を褒め奉られることから逃れられて、急に活き活きしたように話しだした。それから、と色々と中学高校時代のことを思い出しては椿希に語ろうとするのだから、人の悪いところもあるものだ。椿希も椿希で、学校での葵生のことなんて想像もつかなかったから、藤悟から色々と聞き出しているのが楽しくて仕方ない様子である。笑い声が夜の暗い道にこだまして、もしかすると近所の家に響き聞こえているのではないかとも思われたけれど、どうしても笑うのを止められなくて、抑え気味にしているけれど、つい声が漏れてしまう。
 「それで、結局葵生くんはその告白の返事をしたの。どう言ったんだろう。冗談で返すような性格じゃないものね」
 笑いすぎで声が震えてしまって、椿希はそれがまた可笑しくて堪えきれない笑いの渦に入ってしまっていた。藤悟もあまりに興奮してしまって、まるで酔ったかのようになっていたので、
 「一説によると真面目に『俺は興味ない』と言ったとか。まあ、そもそもその告白も本当にあったのかどうか怪しいところだけどな。面白がって作った話かもしれないし。まあ、あいつがそれだけ男子からも狙われていたっていうことかな」
 などと調子に乗って余計なことまで言ってしまうのは、いただけないことであるけれど、普段真面目な藤悟のことだから、これくらいのことは許されるのだろう。葵生がそのことを聞けば、さてどんな反応をすることやら。
 「こんな風にいない人のことで盛り上がるなんて、なんだか葵生くんに申し訳ないね。だけど、意外な一面も聞けて、なんだかこれから塾で顔を合わせたら笑ってしまいそうな気がする」
 そんな風にじゃれ合うようにしていると、十代の初々しい二人のようにも見えるけれど、そこに流れるものはまるで兄妹のような自然な雰囲気であって、どこにも色めいたものは見当たらない。気の置けない仲だからこそ、二人は久しぶりに短い夜道を長い時間をかけてゆっくりと歩いて帰り、会話を楽しんだのだった。


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