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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第20回   第一章 第五話 【歌姫】3
 四月になって進級して、塾は希望進路別にクラスが分かれることとなったのだが、私立文系希望者と国公立理系希望者が、それぞれ教室は異なるが、同じ曜日、同じ時間帯に授業が行われることとなっていた。残りの私立理系コースと国公立文系コースが同じ、という按配なので、葵生としては国公立文系コースに進んでしまった椿希とは、成績順に振り分けられた英語の授業以外では顔を合わせることがなくなってしまうというのが、内心ではひどく残念であった。
 一年生の間は成績順ではなく、入塾の段階で何曜日に受講するかを決めていたので、同じ教室で授業を受けていても成績もばらばら、希望進路もばらばらだったのが、流石に二年生になるにあたってはそのままやり過ごすわけにも行かず、希望進路別で授業が分かれることと決められていた。もちろん、本人がいくら希望しても成績が伴っていなければ希望通りにはいかなかったようなのだが。
 そういうわけなので、初めて同じ授業を受ける者も多かったのだが、理系に進学したいという者は男子学生が多いので、女子学生に囲まれて色々根掘り葉掘り聞かれるのにうんざりしていた葵生にとっては、大層気が楽であったようだ。
 三科目総合、科目別の成績上位者を張り出す光塾においては、一年生の間において、顔は知らないが成績上位の常連の塾生の名前を知っていたので、葵生は「ああ、数学の得意だった」だとか、「確か国語も得意だったような」と思い出しては、好敵手たちの名前と顔を覚えていった。いい刺激を受けられそうだ、と思うとわくわくと心が高揚してくるようである。
 理系進学希望者の教室は男子だらけで、女子学生がいたとしても教室の隅の方でぽつんと寂しそうに会話しているだけなので、なんだか可哀想にも思えるが、かといって女好きでいので興味も湧かない葵生にはどうすることも出来ないし、下手に声を掛けるのも気のあるようで勘違いもされそうなので、気に留める程度にしているようだった。
 それに対して隣の私立大文系コースの教室はというと、女子学生の割合が多いためか、華やかでとても明るく楽しそうな声が聞こえてくる。やけに間近に聞こえる、と思っていると葵生のいる理系クラスの教室の入り口あたりに何人かの女子学生が、嬌声を上げながら中を覗いているのが見えた。葵生が声のした方を向くと、一斉に色めきだって何か騒いでいる様子なので、桔梗が呆れたように笑いながら、
 「本当に相変わらず女子からは人気だよなぁ。分けて欲しいよ」
と冗談めかして言った。葵生はいつものように愛想のない顔をしていたが、桔梗がそう言ったので、
 「いくらでもどうぞ。桔梗の方が絶対に優しくしてくれるだろうし、まめまめしいし、本当に頼りになるいい奴なのにな。ちょっと相手してきたらどうだ」
と、わざとけしかけるように言うと、本当にどうしてこんな詰らない男が女子から人気なのか分からなくて笑ってしまう。だけど、それも無理のないほど、一年経って精悍さを増したいい男ぶりなのだから、と生まれついたその眉目秀麗な容姿ばかりはどうしようもなく、同性ながら桔梗は感心するばかりだった。
 「それは困るな。それより、なんか、葵生のことを『染井の君』だとか言ってる子がいたみたいだけど」
と、入り口のあたりをちらちらと見た。誰だっけ、と探していたけれど顔を見ていないので分かるはずがない。そうしていると、茉莉やゆり子、桂佑の三人組がこちらを見て、にやり、と笑ったので、桔梗は満面の笑みで三人を手招きして呼んだ。
 葵生はその桔梗の行動に少したじろいたが、まだ去年同じクラスにいたこともあって、名前も知らない女子学生を相手するよりは余程気が楽だと思い直して、微かな笑みを浮かべた。桂佑と会うのも久しぶりで、彼が「よう」と言って葵生に笑いかけたときには、一瞬心が三人を嫌がったのもすっかり吹き飛んでしまったようだった。
 「これはこれは染井の君、相変わらずの美男ぶりですなぁ」
と、いつものようにからかうように桂佑が笑いながら言った。桂佑が言ったからなのか、不思議とほかの女子が言うのよりも容易く受け入れられたらしく、
 「それはどうも。それで、『染井の君』って何のこと」
と、素直に疑問に思ったことを訊いた。自分に関する噂は耳に入れようともせず、自分の評価が実際よりも遥か上のところにあるようなことに嫌悪感を抱いている様子だったので、桂佑は葵生本人が由来を知らないことも当然だと思って言った。
 「ほら、古典でよく『なんとかの君』って出てくるだろ。葵生っていう名前で呼ぶのは恐れ多い、だとか誰かが言い出して、それじゃあ染井に通っているから『染井の君』でいいんじゃないかってことになったらしいぞ」
 なるほど、と感心した様子で桔梗が唸った。
 「私は変わらず、葵生くんって呼ばせてもらうけどね」
 茉莉が得意気に言った。名前で呼べることに少しばかりの優越感があるのだろうか、勝気な笑みを入り口の女子学生がたくさんいるところに向けた。葵生は「ご自由にどうぞ」と言わんばかりに、何も答えず密かに溜め息を吐いたが、ほかの知らぬ女子に馴れ馴れしく下の名前で呼ばれることを思えば、そういう綽名も悪くはないように思える。
 「ほら、みんな葵生くんと仲良くなりたいのよ。でも、お近づきになりたいけど出来ない、だからせめて遠くから見守っていたい、っていう気持ちなのかもね」
 ゆり子が言った。
 「遠慮せず近づけばいいのに。もたもたしてたら、抜け駆けする奴に葵生を持っていかれるんじゃないの。あるいは、葵生の意思で誰か違う人のところに行ってしまうとか」
と、桂佑が何か含みを持たせながら、葵生の表情を観察するように言った。葵生は微かに笑みを浮かべていた。
 「近づけないのは乙女心だよ。そういう微妙なところを理解出来ないと、桂ちゃんも彼女出来ないか、出来たとしてもすぐに逃げられちゃうよ。とにかく、葵生くんのことは憧れていても、機会があったら仲良くなりたい、でも自分から声を掛けるなんてもっての外、と思ってるみたいよ。それが名前で呼ぶことも遠慮して、『染井の君』って呼ぶようになった理由じゃないかな」
 きっぱりとそう言ったゆり子を見て、葵生は案外しっかりとしていて周りのこともよく見ているんだな、と驚いた。茉莉の友人として控え目で、何かにつけても目立たない方であったのだが、なるほど的を射たことを言う、と葵生は納得していた。
 「乙女心なんて、俺にはさっぱり分からないな。だけど、まあ、肝に銘じておきますわ」
 桂佑も降参したのか、葵生を見ながら苦笑いして言った。葵生も苦笑した表情を桂佑に返した。
 「私にとっては、葵生くんは『染井の君』なんかじゃないのになぁ」
と、呟くように言った茉莉の言葉に、その場にいた誰が気付いていただろうか。

 あまりにも染井の君、染井の君などと女子学生が騒ぎ立てるものだから、内心やっかむような心を抱く男子もいたものの、容姿だけならば嫉妬のあまり憎らしく思っていることも本人に漏れ伝わるだろうけれど、葵生の塾内での圧倒的な成績を見て納得せざるを得ないというので、良からぬ感情を抱いていても認めるしかなく、そのため椿希への女子からの風当たりに比べればまし、というところだろうか。それにしても葵生にとっては迷惑千万で、近寄らず入り口で顔だけ覗かせて代わる代わる見ていくというのは、まるで見世物のようで気分の良いものではない。ますます無愛想になるばかりだった。
 ゆり子も茉莉も、去年葵生と授業を共にしていたということで、女子学生から葵生について、どんな感じの人なのかだとか、どういうものが好きなのかなどと、尋問に近いような押しで色々と迫られていた。ゆり子はそれに対して、得意気になればそれこそ妬みの的になりかねないので慎重に言葉を選びながら、しかし嫌な顔はせず、ぽろぽろと控えめに話をしていた。だが、茉莉は浮ついた女たちに囲まれているゆり子を軽蔑した目で見て、色々と尋ねられても、
 「分かんない。自分で確かめたらどう」
と、冷たく返していたので、そのうち女子学生たちからも浮いた存在になっていた。葵生にまつわる話をしていると、どうにもこうにもむかむかとする気持ちを抑えられなくて、あからさまに嫌悪感を顔に出してしまうので、茉莉は席を外して教室を出て、階段を下り、建物の外に飛び出した。
 「そんなに葵生が女たちにもてるのを聞きたくない、っていうのか」
 いつの間にか追いかけてきたらしい桂佑が、溜め息混じりに言った。背後から不意に聞こえた低い声に、茉莉は桂佑だと分かっていたが、わざと驚いた素振りを見せながら振り向いた。
 「そんなんじゃないよ。ああいう、肝心なところを自分で調べもせずに、人から聞いて、さも葵生くんのことを知った風に装ってるのが嫌いなだけ。ゆり子もゆり子だよ。なんでああいうのに手を貸すんだか」
 呆れたように怒ったように言うので、桂佑は苦笑いした。それを見て茉莉は、むっと腹を立てる。
 「葵生くんには椿希ちゃんがいるでしょう。なのに、なんでゆり子ったら、ぺらぺらと喋るんだか分かんない。あの二人のこと気に掛けてるんなら、なんで話すのって」
 そういうことか、と桂佑はようやく納得した。それにしてもこんなに素直に思っていることを顔にも態度にも出すなんて、その分敵も多いだろうし、今まで一体どれほど損をして生きてきたんだろう、とも思った。
 「葵生はともかくとしても、別に今まで椿希が葵生のことどう思っているかなんて、一度も聞いたことないよな、俺たち。案外、椿希は別に葵生のことを友達以外には何とも思っちゃいないかもしれないし。今のところ、分かっているのは葵生の片思いっていうところだけだ」
 ずばり、と遠慮することなくあっさりと桂佑が言うので、聞いている茉莉が顔を赤らめてしまった。そして、桂佑の言っていることはその通りなのだ、と自覚すると、ますます茉莉はむきになって、
 「だけど、椿希ちゃんのことがあるから葵生くんだって気分を悪くしてるんじゃないの。だったら、ゆり子のやってることって、葵生くんにとっては腹立たしいことじゃないの」
と、声を荒げて言った。桂佑は空を仰ぎながら、しばし考え込んだ様子だった。
 「そうでもないんじゃないか、と俺は思う。葵生が椿希を思うのと、葵生が女子からもてるのとは、また別の話なんじゃないの。それに、葵生のことが好きで憧れて、遠くからでも見守っていたいっていうのは自由だろう。それに葵生が周りに簡単に靡くような奴じゃないのと、あれが頑固で融通が利かないから二股なんてかけられないのくらい、お前だって分かるだろう。だから、ゆり子もあいつらに話をしているわけで。ゆり子が得意気に話している様子なんて見たことないぞ。あくまで、聞かれたことだけ話してる、っていう感じだな。椿希のことなんて話にも出さないし、聞かれてもはぐらかしているだけだし」
 興奮している茉莉とは対照的に、落ち着いた様子の桂佑は、茉莉からくるりと背を向けて、教室へと帰って行こうとする。茉莉が、桂佑はゆり子のことを庇っているのか、と疑う気持ちを芽生えさせるのは、茉莉に支持をもらえなかったことへのやっかみからだろうか。
 「私はただ、葵生くんと椿希ちゃんのことを心配しているだけで」
 意図しないのに声が震えていくのが、なんだか悔しくてならなかった。桂佑はその声を聞いたのか聞いていないのか分からないが、たんたんと階段を上っていく靴音を立てていた。もうすぐ授業が再開される、と思っていたけれど、このまま教室に戻って泣き顔を見られると何があったのか、噂好きの女子たちが同情したふりをして尋ねてくるだろうと思うと耐えられなかったので、腹痛ということにしておこう、と決めた。
 事務員に「お腹痛いので、休ませてください」と言うと、事務室の隅に用意されてあった簡易ベッドへと案内された。うっすらと目に涙を溜めて、思いつめたような表情の茉莉を見ていると、本当に辛いのだろうと思い込んだ事務員は、
 「お腹が痛いのが治ったら、家に帰ったらいいよ」
と言って、授業の始まるチャイムの鳴る前に、荷物をまとめて持ってきてくれていた。嘘を吐いて、それを事務員が信じきっていることに内心申し訳なくて侘びつつも、これで誰にも顔を合わせることなく帰宅出来ると、茉莉はほっとしていた。
 事務室の入り口あたりからゆり子らしい声が聞こえたけれど、事務員が対応して帰したらしい。今は、ゆり子に会いたくない、と思っていたこともあって、硬直させた体をふっと緩めた。
 それから十五分ほどして、茉莉はもそもそとベッドから起き上がり、
 「もう良くなりました。ありがとうございます」
と、嘘を吐いて休ませてもらったことの心苦しさから、丁寧に深々と頭を下げて言った。明るい茶色に染髪して、化粧を施して目の周りを黒々と縁取るように塗っている、つまり目を際立たせているのだが、涙のせいで滲んで落ちてしまっている。それを見た事務員が、「あらあら」と言いながらティッシュペーパーで茉莉の目の下から頬にかけて、汚れを取っていった。
 「高校で化粧は校則違反じゃないの」
 優しく事務員が訊いた。
 「校則違反です。あと、髪染めるのも、携帯電話を持つのも」
 ぼそぼそと言うと、あまりの正直さに事務員は笑って言った。
 「この年頃は、いかに生活指導の教師に注意されても違反し続けるか、っていうことに意義を見出していたからね、私も。化粧は担任が女性だったから出来なかったけど、こっそりポケベルを持って友達と遣り取りをしていたなあ」
 昔を懐かしむように事務員が言った。時間が経って落ち着きを取り戻していた茉莉は、先ほどまでまるで自分以外の皆が敵のように思えていただけに、事務員の優しさがくすぐったくて、顔を赤く染めた。
 「たまには授業をさぼってもいいから、何かあったら相談してね」
 帰り際にそう言った事務員に、茉莉は驚いた顔をした。何もかも見透かされていたことの恥ずかしさと、それでも匿ってくれていたことへの感謝との気持ちが混ざって、また泣いてしまいそうだった。
 「本当に、ありがとうございました」
 それだけ言って、茉莉は深く頭を下げた。派手な外見で、とても礼儀など知っていそうにないと何度もその容姿について、見知らぬ大人から揶揄されたこともあったけれど、こうして深々と心を込めて頭を下げているのを見ていると、やはり外見だけで人は判断出来ないものだ。しかし、それで損をしていることもたくさんあるのだから、ある程度は常識的に振舞っておくのが良いのかもしれない、と茉莉は思った。

 翌朝、会いたくないと思っていたけれど学校で嫌でも会ってしまったゆり子に、「話がある」と言われてベランダに誘われた。今まで茉莉にちょこちょこと後ろについて来ていたゆり子なのに、その口振りが急に大人びているようなので、生意気なと言いたいところだが後ろめたさから渋々従った。
 春の風が優しくそよそよと吹いていて、ベランダから見える校庭では次の授業で体育があるらしい学生たちが、グラウンドの整備をしたり体育用具を出したりと、早くもせっせと仕事をしているのが見える。また、別の教室の前では学生たちが会話を楽しんでいたり、時に冗談を言っているのか笑い声も上がったりして、のどかな春に馴染んでいた。
 そんな爽やかな風景に反して、ゆり子は問い詰めるような表情をして茉莉の前に立っていた。自分一人では何も決められないような、頼りなかったゆり子が何か物言いたげにしているので、茉莉は馬鹿馬鹿しい、昨日のことだろうけれどこちらから何も言うことはないから、さっさと話を終わらせてしまおうと決め込んで、相手にするつもりはないと態度で示した。
 「腹痛は大丈夫なの。急に帰ったって聞いたからびっくりしたんだよ」
 優等生の言いそうなことを言う、と鼻で笑った茉莉は、
 「大丈夫、大丈夫。そんなのいちいち気にしてたらさ、あんたストレス溜まるよ」
と言って、話を止めさせようとする。
 「最近、機嫌悪いでしょ、茉莉。葵生くんのことになると、そういうあからさまな態度出すから、ずっと気になっていたんだけど」
 ゆり子が自分に反抗しているとでも思ったのだろうか、茉莉はきっと睨みつけるように表情を変えてゆり子に言った。
 「もしかして、桂佑に聞いたの」
 桂佑の顔を思い浮かべながら、ちっと舌打ちをした。着崩した制服のブラウスのボタンをもう一つ外して、わざとだらしなく振舞うのを見ると、ゆり子は眉を顰めた。昨日の事務員への思いから態度を少しは改めようとしていたのが、一気にゆり子に言われたことでやる気が失せてしまったのだった。
 「桂ちゃんは関係ないよ。私がそう思っただけ。それより、茉莉、そういう態度良くないと思う」
 そう言って、つらつらと茉莉の不貞腐れた態度を改めるように言うものだから、茉莉はあさっての方を見て、喧しい蝉が鳴いているとでもいうかのように、ゆり子の説教が終わるのを待った。それにしても、今までずっと茉莉の後をついて回るようなゆり子だったのに、何故こんなに偉そうに色々言われなくてはいけないのか、と思うと腹も立つしますます意固地になってしまいそうだった。高校受験のときだって、志望校をどこにするか迷いに迷って、結局茉莉と同じ大学附属校に通うようになったのではないか、今ここに通っていられるのも自分のお陰じゃないか、と思うと茉莉はあれこれと言うゆり子が生意気だと思ったのだった。
 「もう、止めときなよ。あんな風だと、茉莉が孤立するだけなんだからね」
 ようやく話が終わったのだろうか、それらしくゆり子が言ったので、茉莉は盛大に溜め息を吐いた。
 「あんた、生意気だよ。そんで、煩い」
 冷たく言い放った茉莉は、あからさまな嫌悪感を滲み出した顔付きだった。他の女子にこういうことを言うと、大抵は喧嘩になって次第に掴み合いになるので、茉莉もそれを承知の上でいたのだが、ゆり子は悲しそうにも同情しているようにも見えるような表情のまま、怒る様子もない。
 「茉莉、本当は葵生くんのことが好きなんでしょ」
 じっと茉莉を見据えたまま動こうとしないゆり子を見て、茉莉はびくっと顔と体を強張らせた。茉莉はそのままゆり子が何か言うのだろうかと思って、視線を外しながらしばらく待ったが、ゆり子は何も言わずに、ただ茉莉の様子を窺っているようだった。
 茉莉は心の中を駆け巡るものを持て余していて、どうしようもなく困惑してしまっていた。ゆり子の顔をまともに見ることが出来ないけれど、視線を何度も変えて落ち着かせようとしていた。また、あの時のように息が荒くなってきそうで、思い出して口元を手で覆って息を吸ったり吐いたりした。そのときに、以前過呼吸を心配してくれた椿希の顔が思い浮かんでくると、今、葵生のことを話題にしているだけに一層胸も苦しくなるばかりである。
 ゆり子はそんな風に茉莉の様子が一変したのを見て、やはりそうだったかと思い、そっと溜め息を吐いて、曇りなく澄み渡った青空を見上げて、様々な思いを馳せていた。茉莉がもう少し素直で我儘を押さえられるようになれば、葵生も茉莉のことを少しは見てくれるだろうと思ってはいるけれど、それを伝えるのはおせっかいなようで、ゆり子は押し黙っているだけだった。


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