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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第2回   第一章 第一話 【染井】1
 桜の咲く季節といえば、学生たちにとっては学年が一つ上がったり、進学したり就職したりと何かと節目にあたる。そこには各々の様々な思いがあり、決して節目だから気分一新しようという清々しいものに限らず、希望通りの進路ではなく、渋々歩いている者もいるのだということを忘れてはならない。ただ、そういった負の思いに関しては、見事に桜の美しい色と景色によって曖昧にぼかされている。誰もが幸せに包まれているかのような錯覚に陥らせる。
 そんな学生たちの思いなど知る由もなく、桜は今年も人々に見せ付けるように見事に咲き誇っていた。その学校に咲く桜は、特に染井吉野が美しいと評判だったから、『染井の学校』との愛称が付けられていて、通り行く人々の目を楽しませているのだった。

 その染井の学校の高等部に進学したばかりの夏苅葵生(なつかり・あおい)は、遠くから見る自分の学校の桜の美しさに、ほぅとため息をついた。中等部から在籍して、もう四回目になるこの桜だが、初めて学生として見た中学一年生のときには、狭き門を潜り抜けてこの学校に学生になれた喜びで感無量だったものだ。今ではすっかりこの学校の学生として染まりきってしまったが、それでもなお、やはり年に一度のこの季節限定で咲く桜を見るたびに美しいと感じる。こういうことだけは、慣れたくないものだと葵生は思っていた。
 校門に近づくと、その木陰に四人の女子学生がいるのが、そわそわと落ち着かない様子でいるのが見えた。葵生はそれに気付いていたが、あくまでも気付かぬ振りをして、桜を愛でながらゆくりと校門を通り去った。桜がはらはらと上品に舞い散るのを通り過ぎていく葵生の姿は、本当に桜の中に溶けていくようで美しく、その後姿を見送りながら、女子学生たちは届かぬ恋心に胸をときめかせながら、悲鳴とも感想を叫んでいるともつかぬ甲高い声を上げていた。彼女らは葵生が中学生の頃から、第二、第四土曜の公立学校の休みの時になると、いつの頃からか現れるようになった。さすがに彼女らが受験の時には、その頻度は減ったものの、高校に進学したとあって、再び久々に姿を現したのだった。
 そんな彼女らの目的が自分だと気付いてはいたものの、葵生は至って平静で、そういったことにはまるで興味がないといった風情でいる。男子校で異性との接触のない同級生たちにとっては、例え会話が出来なくとも羨ましい限りであり、せっかく相手から近づいてくれているのに、なんて勿体ないという声も少なくないのだが、女子と交わるなど煩わしいとしか思えない葵生には、ただの雑音にしか聴こえないのだった。

 そういうこともあって、葵生は実はこの学校に恋人がいるのだという噂が、まことしやかに流れたことがあった。染井の学校は男子校なので、その噂が本当ならば相手は男子学生ということになる。噂はあくまで噂であるけれど、学校でも目立つ美貌を持つ葵生のことを知る学生は、学年を隔てても大層多く、そのため真偽のほどを確かめようと、物好きな学生が探偵のように調べ尽くしたらしい。噂の内容は、高等部の誰それが告白したらしい、襲おうと計画している、だのといったものばかりで、何一つ確証を得られるものはなく、具体的にどうだったのかを知る術もなく、探偵たちは結局自然解散となってしまったらしい。ただ明確なのは、葵生の妖艶な美貌に惚れ込んで、秘めた思いを持つ者たちが時々集まっては、そういう『ただならぬ思い』を吐露し合っている、ということだけだった。
 葵生はそういうこともあったからだろうか、男女問わず恋愛にまつわることには係わり合いになろうとしなかった。彼が決まって友人に選ぶのは、体を動かすのが好きであったり、大きな野心など持っていないような、はっきりとした性格の者ばかりだった。

 葵生は、高校進学したことによって塾に通うことになった。進学校に在籍していようと、学校の授業だけで大学に進学しようという者は少なく、遅かれ早かれいずれ塾や予備校に通う者が多かった。早い者は中学生のときから、既に大学進学を見通して家庭教師がついているほどだから、決して葵生も早すぎるとは思っていなかった。
 それに、中等部の頃、葵生の成績が伸び悩んでいたというのも原因のひとつだった。決して怠けていたのではないが、小学生の頃、まだ幼く遊びたい盛りにもかかわらず、多くの受験生がそうであるように受験勉強で閉鎖的な生活を過ごしてきた葵生は、中学生になってからは解放感からか、外の世界にも目を向けるようになっていた。染井進学までは塾は母親の車で送り迎えをしてもらっていたため、塾と小学校と家の世界しか知らなかったのが、電車通学になり、そして都会の物珍しい景色や人々に触れるにつれ、急に目の覚める思いがして、葵生も遊びというものを覚えるようになったのだった。
 母親があまりにも教育熱心で口やかましいものだから、一応家ではちゃんと勉強はしていたが、期待以上に伸びていないことを懸念した母親は、とうとう高校進学を機に、葵生をある進学塾に入れることにしたのだった。
 その進学塾というのは、口コミでしか知られていない少数精鋭がモットーの塾だった。曜日ごとにクラスが設定されていて、高校二年生になると文理別、進学先別にクラス分けがなされ、決め細やかな指導がされているともっぱらの噂だった。稀に通りがかった人が知って、入塾してくることもあるそうだが、広告を出したりビラを配ったりと大っぴらにしていないから、まさに知る人ぞ知るという表現が相応しいような塾だった。
 元々は、葵生の中学時代の部活の先輩である、春成藤悟(はるなり・とうご)がそこに通っていることを知り、母親にそれをちらりと話をしたことがきっかけだった。母親もあちこちの塾や予備校を探し、資料を取り寄せていたが、葵生の先輩からの紹介という、その塾について調べたところ、そこが一番適しているのではないかということになり、通塾することになったのだった。もっとも母親からすれば、葵生自ら塾に行くことを志願してくれたようで、とても嬉しかったのだけれど。実際のところは何気なしに葵生が呟いただけで、塾に通うつもりなど毛頭なかったのだが、いつの間にか母親は手続きも済ませていて、使用する教科書なども既に取り揃えていたのだから、葵生は「また、いつもの暴走が始まった」とうんざりしていた。
 とは言え、決して成績は悪くはないのだが、医学部に進学したいという目標がある葵生にとっては、このままの成績だとそれは厳しい、ということは自分自身自覚していた。だから、いくら目の上のたんこぶである母親の勧めであっても、今回は素直に従うことにした。いや、従うという感覚はなく、信頼している藤悟の紹介だからこそ行くというところが大きかった。
 母は素直に葵生が塾に行くことを承諾したことを喜んでいた。葵生の心の中では、医学部に進学するのにこのままではいけない、という思いがあったのだけれど、医学部進学希望だと言えば、きっと大騒ぎして「家庭教師もつけましょう」「医学部進学予備校にも通いましょう」などと言い出すに決まっているから、自分の目標については一切話さないことにしていた。ただ、「国立大学に行きたい」とは言っているだけで、それは多くの染井の学生たちの目標であった。
 あまり多くの塾や予備校に通って、息も詰まりそうなほど勉強に打ち込むなんて嫌だ、と葵生は思っていた。にもかかわらず、医学部に進学したいと思っているとは、なんともおかしな話なのかもしれないけれど。

 母は頑として今回も小学生の頃と同様送り迎えをすると言ったのだが、さすがに高校生になったのだからと葵生は断った。断ったという言い方をすれば穏やかだが、実際のところは『突っぱねた』という表現の方が正しい。学校帰りに直接行って、帰りも一応終了時刻が定められているとはいえ、自習室に残りたいときもあるだろう、親の存在を気にかけて集中できないのは本末転倒、などと、もっともらしい理由をつければ、納得したようだった。
 願わくば、良いクラスメートに恵まれますように、というのが葵生の本音だった。同じ勉強でも、楽しく出来るのならそれに越したことはないのだから。あの母親からの魔の手から逃れられる、とっておきの場所であれば良い、と思っていた。

 塾の入り口の受付で名前を名乗り、教室に案内された。塾といってもさすが少人数制というだけあって、決して教室は広くない。中学受験のときに通っていた大手進学塾は、ビル一棟が塾の建物だったけれど、今回の光塾はというと、オフィスビルの中にテナントとして入っていた。オフィスビルなのだから、一応給湯室があり、フロアそのものは決して狭くはないのだが、教室として仕切られている都合上、全体的に狭いように感じられた。
 案内された教室には既に何人かの学生がいた。制服だったり、私服だったりとまちまちだったが、これがクラスメートなのだろう。
 「自由席、だって」
 少しはにかんだように体格のいい少年が言った。
 「どうも」
 大学に入ればアメフトやラグビーに誘われそうだな、と葵生は思った。まだ初対面同士ということもあり、互いに会話がなく、緊張した空気が流れていた。互いに互いを探るような居心地の悪い空間が、葵生はとても苦手であったけれど、時間が経って欲しいときに限って、流れはゆっくりになるものだ。最初は教科書を出し、ノートを出し、ぱらぱらと捲ったり、シャープペンに芯を入れたりと、なにやかやと用事を作っていたが、それもなくなると、急に気まずくなった。
 その場から逃げ出すように、葵生は席を離れた。時間潰しがてら、この塾内に掲示されてあるものを眺めることにした。
 壁には、模擬試験の成績優秀者の名前が書かれてあるページのコピーが掲示されてあり、光塾内に該当者がいれば、そこにマーカーが引かれてあった。また、おそらく今年大学に合格したのだろう、大学名、学部名とその合格者の名前がずらりと並んでいた。葵生は自分の志望する大学の医学部に合格している人物を見つけ、少し安堵した。大手予備校に行かなくても、ここでも十分医学部は狙えるということか、と思うと希望が持てるようであった。
 国語、数学、英語の各教科の成績上位者の名前が張り出してあったので、次は先輩の春成藤悟の名前を探そうかと、その場を動いたときだった。少女の声が、不意に耳に入り込んできた。
 「すみません、通してもらえますか」
 葵生は自分が通路を塞いでいたことに気付いて、慌てて端に寄った。何せ狭い廊下なのだ。
 「すみません」
 葵生が壁際にぴたりと背をくっつけながら相手を見ると、それはこれからクラスメートになるであろう女子高生たちだった。今までに感じたことのない、ふわりと柔らかな空気が流れて、葵生は妙な感覚に捕らわれていた。同じ制服を着た二人が通っていったが、そのうち葵生に声をかけた方、つまり葵生が返事をした方の少女を見た瞬間、息が詰まりそうになって俄かに心がざわめいた。彼女の顔に何かついていたのだろうか、それとも人とは思えぬ般若の顔をしていたとか。いや、いずれでもなかった。
 その場に残された葵生が、ただ呆然と彼女の後姿を眺めている姿が、教室の扉の硝子にぼんやりと映っていた。かつて見たことのない人種、とでも言おうか。葵生はごくりと唾を飲み込み、一瞬のうちに感じた奇妙な感覚の正体を探っていた。

 互いに自己紹介をして、英語の授業が始まった。今ひとつ授業に集中できないでいるのは、緊張のせいだけではない。皆が冷静にしているのが不思議に思えるほどに、葵生は落ち着かない心地でいた。
 自己紹介をしたといっても、一度に全員の名前を覚えられるわけがなく、まずは顔を覚えることにした。何人か過ぎて、同じ学校同士が重なっていることが分かり、誰と誰が同じ高校だというグループ別に覚えることにした。効率のいい覚え方だったのか、意外とすぐに覚えられそうだった。
 また、葵生自身も学校の同級生とクラスメートになった。日向柊一(ひゅうが・しゅういち)とは同じ染井の学校で互いに面識はあったが、一度も会話したことがなかった。従って知人とすら言えるかどうかも定かではないほどだった。初めて簡単に挨拶を交し合ったといってもいいほどだったのだが、その日向柊一が自己紹介のときに、
 「そこにいる、夏苅葵生くんとは同じ中学・高校の同級生です。彼は学校でも評判の人で、僕は足元にも及ばず、彼を目標にしています」
と言ったものだから、そのときに教室の空気が変わった。友人同士で少しざわつく声も聞こえた。その声色にはどこかしら妖しげなものを含んでいるような気がして、ぶるりと全身に戦慄が走った。気のせいだと思いたいが、台詞の字面だけを追ってみても、やはりただの関係ではない、と何も知らぬ他人が思うのも無理からぬことではないだろうか。葵生が戸惑いの顔で見上げたとき、日向柊一が目を細めてにっこりと、それも艶然という言葉が相当するような表情で笑ったものだから、葵生の全身は悪寒が走った。
 そんな葵生の様子に気付いているのか気付いていないのか、次の葵生の自己紹介の順番を促しながら、日向柊一は着席した。あんな自己紹介をされたら、こういうときはどう言えばいいのだろうと、いつになく冷静な判断ができないでいた。
 「夏苅葵生です。日向くんと同じ高校ですが」
 同じ高校ですが、話したことがないので、これを機に話すようになりたい、と言おうとして口をつぐんだ。それを言うと、また面倒なことにならないかと、もう一人の自分が警告するので、
「クラスメートになったみんなとも、仲良くやっていきたいと思います。どうぞ、よろしく」
と、もしかしたら声が上ずっていたかもしれないが、どうにか無難なことを言った。だから、及第点だろう、と葵生は密かに安堵の溜め息をついた。自己紹介『ごとき』で、こんなに気を遣ったのは初めてだった。椅子に着席すると、葵生はそっと安堵の溜め息を漏らした。
 ところがほっとしたのも束の間、次はいよいよ例の、葵生が妙な感覚を覚えた少女の出番だった。収まりかけていた心の音が再び拍数を増やし始める。彼女はすっと立ち上がり、長い睫を開くと、黒目がちの目で皆を見渡した。
「冬麻椿希(とうま・つばき)です。相楽妥子(さがら・やすこ)さんと同じ高校で、友人です。学校の聖歌隊のメンバーですが、勉強と両立できるよう頑張ります。よろしくお願いします」
 端整な顔立ちが印象的な彼女は、目鼻口などのそれぞれが小さすぎず大きすぎず、上品に揃っていた。ただ美人というだけではなく、髪が短ければ少年と間違えられかねない、凛とした態度、張りのある声を持った、美貌の少女だった。
 廊下で初めて彼女を見たとき、気品のあるその顔立ちや雰囲気に、葵生はすっかり目を奪われてしまっていた。そして、声を聞いて態度を見た。ああ、なるほど、ただの綺麗な娘ではないから思わず惹かれてしまったのだと、葵生は思うにつけ、どうにも隣の彼女の存在が気になって仕方がなかった。


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