その日、桔梗は誰よりも早く教室に着いて、他の塾生たちがやって来るのを待っていた。ちょうど彼らと出会って一年が経ったことを思うと、情が厚く、少しのことでも同情したり感慨深く物思いに耽る性質の桔梗は、どうしてもあのときのことを振り返らずにはいられなかった。 誰よりも早く来てしまって手持ち無沙汰だったこと、しばらくして何人か来た中に見知った顔があったこと。 綾部笙馬は同じクラスで、入学式の日に出席番号が前後だったこともあって、挨拶して軽く自己紹介を互いにして、とりとめのない話をしているうちに意気投合して一緒に下校した、高校生活始まって最初の友人となったこと、などを思い返すと、これからもこの友人たちと一緒に大学受験の時を迎えたいものだとしみじみと思うのだった。 そう、あれから笙馬が来て、ほかにも何人か来て、葵生がものすごく無愛想な顔で入ってきたのだった。初めて見たときから、他人を寄せ付けないような鋭利な雰囲気を醸し出しているにも関わらず、なんという眉目秀麗な美少年かとはっと息を呑み、同性だというのに思わず惹きこまれそうになるほどの妖しい魅力を備えている、と思って目を奪われた。あんなに衝撃的な印象に残る人物と出会ったのは初めてで、「そんじょそこらを歩いている二枚目たちとは、役者が違う」と思った。だから声を掛けるのにも勇気が要って、たどたどしく「自由席らしい」とだけ告げたのだ、と記憶している。 あのときはただただ葵生の容姿に驚くばかりで、はっきりとしたことは覚えていない。葵生の群を抜いた容姿について、誰も語らなかったけれど、きっとあの場にいた者たちは皆、桔梗と同じように思っていたに違いないと桔梗は思っている。葵生が教室に入ってきただけで、さっと空気が変わったのを「人より少し鈍い」と言われている桔梗ですら感じ取っていたからだ。それまでは、男同士で他愛もない話をしたり、なんとなく時間を潰しているだけだったのが、葵生が来てから俄かに緊張感が走り、そして葵生が教室から出て行った後は香水でも振り撒いていったかのように、一変したのだった。実際には香水などつけていなかった、というのを確かめたほどだった。 緊張は興奮へと変わり、ああいう奴もいるんだな、と興味を持っていると、女子高生が二人は入ってきた。友人同士だろうか、と思ってぼんやりと見ていると、そのうちの一人にまたも桔梗は驚かされることとなったのだった。 髪は肩より少し長い程度で、艶々と光を受けて黒髪が輝いている。肌理細やかな肌に、ほんのりと赤い唇、天井から糸で吊られているかのようにぴんと伸びた背筋、すらりとした背丈、手足も長くて何より腰の位置が高い。その日本人離れした体型に目を見張った。黒目がちのやや大きい目、鼻も高く、顎にかけての輪郭がほっそりと綺麗な卵型の線を描いていて、美人とはこういう人のことを言うのだろうと、桔梗はそのとき初めてはっきりと思った。まるで虚構の物語か映画から抜け出てきたかのような椿希は、先ほどの葵生を見た衝撃にも負けず劣らず、強烈な印象を桔梗に与えたのだった。 葵生が陰ならば椿希は陽の美人、といったところだろうか。そんな風に誰かが評していた。二人はそのことを知らなかっただろうけれど、上手いこと言ったものである。 あの時は本当に二回も連続して『美人』というものに出会ってしまったためか、授業中もちらちらと二人を見比べてばかりいたものだった。あれからだんだん慣れてきて、二人を前にしても緊張することはなくなったけれど、あのとき受けた驚きと心のざわめきは忘れたくないものだ、と桔梗は笑みを作りながら思っていた。
しばらくして、がらり、と扉を開ける音がしたのでぼんやりと外を眺めていた桔梗は振り返った。入ってきたのは、あの時のように無愛想な顔をしている葵生だった。こんなに見とれるほどの艶麗な人なのに、表情のせいで近寄りがたいのが残念だが、それがかえって塾の女子学生たちからは人気なようなので、分からないものだと桔梗は思っている。葵生はそこにいるのが桔梗だと気付くと、表情を柔らかくする。 「なんだ、みんな来てないのか」 葵生は時間ぎりぎりに塾に来ることが多い。それは学校から塾までが遠いというのもあるが、同様の理由を女学院出身である椿希が言わないことを見ると、おそらく塾の始まる時間まで毎回どこかで時間を潰しているのだろう、というのを女子たちが噂していた。授業の始まるぎりぎりの時間に、最後に教室に入ってくるのがいかにも真打登場といったような感じがして、余計に女子塾生たちの心をざわめかせているとは、葵生は思いもしないことだろう。 「今日は珍しいな、早く来るなんて」 そう言いながらも理由の検討ぐらいはついている。自分と同じで、彼女に会いたいからだろう、と。そんなところで以心伝心したくないものだが、同じ思いを抱く者として、考えることは同じなのだなと、内心では思っていた。 「プリンセスのお迎えかな」 わざと茶化して言うと、葵生は荷物を机の横に引っ掛けながら薄く笑った。 「プリンス、だろ。別に出迎えに来たわけじゃないけど。そういうの、好きじゃなさそうだろう」 出迎えされるのが好きではないと分かっていて早く来た、とういことはただ単に早く彼女に会いたいがために来たということなのだが、葵生は素直にそれを口にすることが出来ない。照れ隠しなのか、それとも相手が桔梗だからなのか。 一年前の余所余所しさは当然のことながら全くないけれど、葵生は相変わらず必要以上のことは喋らないし、いつも落ち着きを払っていて動揺することがない。だからこそ、激高したときのあの様子に皆が圧倒されてしまって、あの時の状況については誰も一言も語ろうとしなかったのだった。 そんなことを思い返していると、再び扉が開いた。二人ははっとそちらへ目を向けたが、入ってきたのは妥子と笙馬だった。 「あら、お二人さんお久しぶり」 妥子は、二人があからさまにがっかりとした様子を茶化すように言った。だからだろう、妥子と笙馬が二人揃って入ってきても、葵生も桔梗もそのことについて言及することなと考えが及びもしなかったのだ。 「椿希はどこ。一緒に来るんじゃないのか」 笙馬の後ろにでもいるのだろうか、と思って探すように体を動かしたものだから、妥子はわざとむっとしたような表情をして、 「来て早々、『椿希はどこ』だなんて、私じゃ相当ご不満のようね。失礼しちゃう」 と、軽く怒ったような口振りで言った。すると、少しばつの悪そうな顔をして桔梗が「ごめんごめん」と言うと、妥子はくすっと笑った。 「椿希なら、そこで薬を飲んでるよ。風邪引いちゃったみたいでね、ちょっと最近だるそうにはしてたんだけど、今はもう良くなったみたいよ」 薬を飲んでいる、と言ったときの葵生の顔色がさっと変わったのを察して、今はもう良くなったと付け加えたのだが、小さく「またか」と唇が動いたのに妥子は気付いていた。葵生自身気付いているのかどうだか分からないけれど、あれほど表情を変えない葵生が無意識のうちに0動揺してしまうほど、相当椿希のことで深みに嵌っていっているのだろう、と笙馬に気付かれないよう苦笑いした。 そんな遣り取りがあってから、すぐに椿希が入ってきた。 「みんなのお待ちかね、我が光塾のトップスター、冬麻椿希さんの登場です」 なんて、放送するかのように声色も口調も変えて妥子が茶化すものだから、椿希は一瞬たじろいたが、妥子を見ると心得たようにすぐに畏まったような顔付きになって、右足をさっと横に広げて爪先を付け、制服のスカートの裾を片方だけ摘んで、もう片方の手を水平に泳がすように上げて、顔を上げるときに口元をきゅっと上げて笑みを作り、優雅な挨拶をした。それが、普段の凛とした佇まいも少々含みながらも、上品で女性らしい仕草だったこともあって、あまりの端麗さと瑞々しさに、その場にいた者たちは目と心を奪われた。それは、あの一途な笙馬でさえも、だったのだから。笙馬は妥子がこの場にいるのに、と罪悪感に駆られたが、どきどきと胸をときめかせずにはいられないほど、とても世にも珍しく洗練されたものだった。 妥子は男たちが皆、一様に椿希に見とれてしまっているのを見ると、上手くいったことに満足した様子でにやり、と笑った。 それから椿希は語学研修のことで桔梗や笙馬から質問攻めにあい、また後から教室に入ってきた塾生たちも、土産話を聞こうと久しぶりに塾に来た彼女を囲んでいくので、あっという間に葵生は蚊帳の外へと放り出されてしまった。こういうときに興味のない振りをして、囲みから外れてしまうというのは、天邪鬼になってしまう素直でない葵生にとってはいつものことだったが、やはり内心では味気なく外からその様子を聞き耳を立てて眺めている。 「どうしたの、葵生くん。そんなに久しぶりの椿希が気になるなら、輪の中に入っていけばいいのに」 笑いながら妥子が言った。先ほどからちらちらと、椿希のいる方向を見ているにもかかわらず、典型的な優等生らしい、低俗なものには近寄らないという超然としたような態度でいるのが、妥子にとっては、我慢しているだろうに意地っ張りだと、おかしくて仕方がない。 葵生は妥子に指摘されたことが恥ずかしくて、顔を赤らめながらもそんな言葉も聞こえなかった振りをして、無表情のまま、外の景色を眺めている。だがやはり気になって、 「本当に体調は大丈夫なのか。明るく振舞ってるけど、俺には結構、風邪が辛そうに見えるんだけど。頬もなんとなく赤いし、あれは熱があるから火照って赤いっていうよりは発疹のようにも見えるし、なんとなくぎこちないんだよな、動きも」 さてはそこまで見抜いていたかと、先ほどまでからかうような口調を続けていた妥子も顔色を変えて、 「やっぱりそう思うんだ。実は私も、ずっと気になってたんだけどね」 ひそひそと、小声でほかに聞かれたくない様子で話すので、葵生も視線を妥子に移した。頬杖を突いていたのを止めて、体も妥子へ向ける。 「実はアメリカから帰国して、ずっと調子が悪いみたいなのね。ううん、アメリカにいたときでもちょっと調子は悪かったんだって。帰国して二三日はずっと寝込んでたみたいで、念のため風邪薬は飲んでるけど大して効いていないみたいで。学校でもみんなのいる前ではあんな風に元気にしてるんだけどね、やっぱり無理してるみたいで帰り際には辛いのか、生返事が多くなってるもの」 そう言って、軽く溜め息を吐いた。少し離れたところで笑いながら応対しているけれど、本当はそんなことをするよりも座って、楽にしておきたいだろうにと、あわれに思う。 「それって、前もそういうことなかったか。去年のキャンプのときだったと思うけど、あのときも本人は風邪だと言って、あの後しばらくは辛そうだった時期があった」 葵生は眉を顰めた。風邪を引くときは引くものだから、そんなに大層に扱うことでもないのだろうけれど、妥子が葵生にわざわざ学校での様子を打ち明けるということは、まさかのことがあるのではと、嫌な予感がしないわけでもない。そんな予感を振り払いたくて訊ねてみたものの、医者でもない妥子がどうして椿希の状態を正確に知っているだろうか。妥子ももどかしいようである。 「椿希は今までも学校は休んだことはなかったし、体が弱いっていう印象がなかっただけに、今回みたいに辛そうなのを見るのは初めてでびっくりしてるの。辛いのを表に出さないようにしているみたいだけど」 茉莉が貧血で倒れたときの迅速で冷静な処置は、なんと鮮やかなことかとはっきりと記憶している。いくら女性で軽いとはいえ、茉莉を担いだということを思えば、風邪などに負けない体力と根性を持っている強い人なのだと信じているが、気がかりなのがどうしても拭えない。むしろ、次々と思い浮かんできて、本当にただ風邪を得やすい体質なのだと思い込みたいほどだ。 「偶然と思いたいけど、どこかへ行った後で体調を崩しているんだよな、前も。それを思うと、もしかしたら外国ということで気が張り詰めていたのかもしれない」 緊張が解けた瞬間、ふっと疲労を感じることはよくあることだからと、決して気に病むことではないのだからと、自分に言い聞かせるように言った。椿希の姿が人垣でちらちらとしか見えないけれど、僅かに見えた彼女の横顔がにこにこと笑っているものだったのを見て、思い合わせるようなことが次々あるのを抑えつけて、きっと大丈夫だと頷いた。 「まあ、笑っていられるっていうことはいいことだよな。免疫力も上がるっていうし、すぐに良くなるだろう」 あまり長くしんみりと話すと、もう悪いことばかりが考え付いてしまって落ち込みそうだからと、わざと突き放すように言ったのが、照れ屋の葵生が示す精一杯の気持ちなのだろうと、表し切れない愛情を感じて妥子は微笑んだ。 「大層な台詞じゃないんだけど、葵生くんがそう言うなら、って思ってしまうのよね。妙に説得力があるというのか、流石『俺様』っていう感じがして」 妥子は苦笑した。塾内でも大人びているというか、余計なことを喋らない葵生がもっともらしいことを言うと、そうかもしれないと考えさせられる。実は詐欺師に向いてるんじゃないか、と妥子は思ったがそれは言わないでおくことにした。 それにつけても、葵生がこんな風に椿希のことを気を付けて観察しているのは頼もしいことだった。学校では、誰からも明朗で聡明だとして憧れの的の椿希は、どこにいても凛としているのだけれど、それで気の休まる時はあったのだろうかと常々案じていた妥子は、この光塾にいる間は凛とした中にも本来の年齢相応の少女らしい天真爛漫さが見て取れて、そんな評価と内面との差を葵生が気付いて、そういうところに惹かれているということから、ますます葵生と椿希との関係がよい方向へ向かうようにどうにかしたい、とひそかに思っているのだった。
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