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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第18回   第一章 第五話 【歌姫】1
 今年も染井の学校では染井吉野が春を待ちわびていたかのように、人の噂に上る以上に例年にも増して見事な花を咲かせた。見上げれば一面の桜色の天井が広がり、散歩コースにしている近隣の人たちが歩いてその花々を愛でて、感嘆の溜め息を吐きながらあれこれと感想を口にしながら通り過ぎていく。校門の中へは立ち入ることが出来ないので、外から眺めてたり、塀の外に枝が突き出ているのを見ているだけだが、それでも十分に堪能出来るので多くの人がこの頃になると学校の周りに集まってくる。情趣などまだ理解も出来なさそうな幼い子供たちも、それらを見て無邪気に歓声を上げるので、この学校の学生であることを誇りに思う気持ちがまた、一層強くなるのであった。
 この季節になると雨が降らないで欲しいと思う。雨が花を撒き散らして地面に花びらが濡れているのを見ると、酷く残念な気持ちにさせられる。桜なぞ、名所に行けばいくらでも存分に見ることは出来るだろうが、自分の学校で咲くというところが、この桜たちは自分のもののような気がして、特別なのだ。ささやかな贅沢である。
 登校するときに、わざと校門を過ぎるあたりから歩をゆっくり進めるのが、この頃の葵生の癖だった。今までは毎年、それを一人で堪能するのだったが、今年はそれを誰かと分かち合いたいと思っているのだから、葵生は不思議なものだと思っていた。一人で味わうのが好きだったはずなのに、と苦笑しながら芽生えた思いを包み込むように、胸に手を遣った。こんな物思いをするのが、とても心地良いと思う。今までの硬化したような心に新しい風が吹きぬけるような、爽やかな感覚がとても気持ち良かった。疼くような心のざわめきが体中を駆け巡り、葵生は今までになく清々しい春を迎えていた。
 葵生にとってはこの桜を眺めるのは五度目だったが、あともう一年しか眺められないのだと思うと、この儚く頼りない花が少しでも長く咲いてくれればと思う。最愛の人を亡くした源氏に、幼い匂宮は几帳で桜の木を覆ってしまえば桜の花が散らずに済むと言っていた。そんなことをしなくても、散るときは散るものなのにと、こんな風につい現実的に考えてしまうのが、昔の様々な趣に囲まれて生きてきた人たちよりも、かえって劣っているように思えてならなかった。
 はらはらと、風のほんの悪戯のような薙ぎに舞い散る桜の花びらを眺めていると、木陰にかの思う人の幻を見たような気がしてはっとする。そして次の瞬間、それほど自分の思いが募っていたのかと我に返って、体の内側からじんわりと温かいものが広がっていく。この桜を共に眺めながら、進路のことや希望、将来のことを語り合いたいし、適うものならば恋心を打ち明けたいものなのに。
 風が吹きすさび、木ごと揺れて桜の花びらはさっと風から逃げるように散っていく。思わず手を伸ばして、散らないでくれと心の声が叫ぶ。まるでこの恋の行方を見たかのように、葵生の顔には今まで誰にも見せたことのない焦燥の色が現れた。
 思わず一言だけ呟いた恋しい人の名は、普段人に感情を見せることのない葵生の目頭を熱くさせるほど、心をざわめかせるただ一人の人だった。厳しい冬に咲く花のように、凛とした彼女。だが、皆が言うほど強いわけではなく、葵生が見る椿希はとても女性らしい優しさと心ばせの出来る人で、気の利いたことを返してくれるような知性も、思わず振り返らずにはいられない美貌でありながら、明朗で親しみやすいようなところも、葵生の知る異性の中でもとりわけ優れているように思えて、そんなところに惹かれたのだった。
 葵生は男性の割に長い睫毛を伏せ、形の良い眉を顰めて二重の目に憂いを帯びさせた。思いを伝えるのが手っ取り早いにせよ、もし彼女に拒まれたらと思うと、そこから先の自分を想像するのが恐ろしかった。恋というだけでも全く初めてのことだったのに、それが成就しなかったときの自分がどうなるのか、耐え難い絶望に陥るのではと、心が勇気を持つことを躊躇するのだった。

 花開く春は、じきに若葉萌えいずる初夏へと移ろいゆく。桜の下を歩く濃紺の詰襟の学生服が少し暑いと思って第一ボタンを外した。昇降口の近くの桜に、灰色のブレザーとスカートに紺のリボンを結んだ制服姿の椿希らしき姿を、またも見た気がした。長身の彼女はスカートを翻してどこかへと去っていく。長い足で走るのは葵生を置き去りにして、自由に飛び去る胡蝶のようだった。出来るならば、この桜の木の中にいて欲しいと、誰もが穏やかな心になれるこの季節でも、あわれに切なく心を震わせるのだった。幻を見るほどに恋しく思う人、近くにいるのに届かぬ人、それが葵生にははちきれんばかりの思いを募らせるけれど、つれづれに日は過ぎていく。

 今日は二年生になって初めての塾だった。文系理系でクラスが分かれてしまったものの、英語だけは文理を問わず成績順に振り分けられ、そのため葵生は椿希と同じクラスになることが出来た。思えば英語を苦手としていた葵生がここまで成績が上がったのも、ひとえに椿希という目標がいたからだった。英語の成績が上昇するのに比例して、その他の教科も順調に伸びていったのだから不思議なものだ。一つのものが調子が良くなると、それに応じて他も影響されて良くなっていくというのは、有り得ないことではないだろうが、彼女のお陰と思えばこそ、ますます心が離れがたくなっていく。
 教室には理系クラスということもあって、案の定男子ばかりが五、六人ほど集まっていた。日頃、男子校で慣れている葵生にとっては、その方が何かとやりやすく好都合なのだが、椿希に毎度毎回会えるわけではないことが寂しく思えた。いつも彼女が座っていた席のあたりを見詰めると、なんだか僅かの間でも会えないことや、会えない間に別の男と親しく話しているのだろうと思うと、胸が掴まれたように苦しくなる。
 隣の教室では二年生の文系私立大進学クラスの学生が来ていて、茉莉やゆり子、桂佑といった、見慣れた面々が、ちらちらと教室の外からこちらを覗き込んでいるのが見える。
 「残念だな。なんで同じ曜日に文系国公立大コースがいないんだろう」
 手を振ってやりながら、桔梗が言った。桔梗とて、葵生と同じく椿希のことを思って言ったのだが、そう言いながら葵生の様子を窺うように見た。
 「全くだ。大人の都合ってやつだな」
 葵生は苦笑した。週に一度の英語の授業でしか会えないというのは、少なすぎると抗議したくもなるけれど、個人的な色恋事で物事が決まるわけがない。だが、前は週に三日は会えたのに、とぼやきたくなるが、そんなのは個人の都合だから聞き入れられるわけがない。
 葵生も同じ思いなのか、と呆れながらも、椿希を巡ってぎすぎすした関係になるのも友情のことを思えば辛いから、椿希のことはあくまで友人として大切にすることにしようと定め、桔梗は葵生ほどには残念そうにしていなかった。葵生が皆の前で感情を露にして以後は、誰もが葵生と椿希の関係の進展具合に注目しようとしていたところを桔梗だけは違う気持ちでいたのだが、それに気付いている者はごく僅かであっただろう。
 葵生は、『二人の志望校が、まさか同じとはなぁ』と藤悟が言っていたことを思い出すと、勇気付けられる気がしていた。将来、同じ大学に進学することを思えば、今のこの寂しさなんてどれほどのものだろうか。大したことではないじゃないか、と自分を励ましている。会えない間に募らせる思いの中に、一つ一つの彼女の言動がはっきりと蘇ってきて、その中にほんの少しでも自分のことを気遣ってくれているようなものを思い出せば、この上ない喜びとなった。だからこそ、葵生は余計に力が湧き出るような思いでいて、殊更熱心に勉強に励んでいる。

 今か今かと待ちわびているうちに英語の授業のある水曜日になって、ようやく会いたかった友人たちに再会することが出来た。再会などと言えば大袈裟なようだが、一日千秋の思いでいた葵生にとってみればそれ以外に表現する術がない。なんと言っても椿希とは留学期間の延長もあって二ヶ月近くも顔を合わせていなかったのだから、楽しみで仕方ないのと同時に、体中を緊張の糸がぴんと張られるようであった。
 だから、もう随分と親しくなっていたはずなのに、まるで初対面の人に会うかのようにどきどきしてしまっていて、学校にいる間、普段あまり見ることのない鏡で、しきりに髪を整えたり顔に何かついていないか確認していたものだった。頬の端に出来たニキビが自分の存在を主張するかのように出っ張っていて、潰してしまおうかそれとも残すべきかで、授業中そのニキビを触りながら迷いに迷っていた。他人からすれば、そんな小さなものなんて気にもならないのだけれど。
 下校前、もう何度目になるかも知れないが、最後の確認をしに手洗い場に行くと、偶然にも柊一と居合わせてしまった。その姿を見るや否や、途端に葵生は少し苦々しく表情を曇らせながらも、自分の用をしに来ただけだから余計なことを考えまいと言い聞かせ、鏡の前に立った。柊一もそんな微妙な雰囲気を感じ取ったのか、そんな葵生と敢えて視線を合わさないようにしている風だった。
 「今日、塾だっけ」
 しばらくして辺りを漂う奇妙な空気にとうとう根負けして、葵生が切り出した。蛇口を捻って僅かな水を指に濡らし、撥ねた髪を整えながらのぶっきらぼうな口調ではあったが、その言葉を受けて一瞬にして柊一の表情が溶けるように微笑みへと変わった。
 「うん。なんとか葵生と同じ、上のクラスに入れたよ」
 興奮したような様子を隠すこともなく、柊一は鏡越しに葵生を見ながら言った。
 「そっか」
 忘れていたわけではない。同じクラスだった塾生の大体の成績は把握している葵生が、柊一の分だけ知らぬはずがない。中等部の学生だった頃は全く会話したこともなかったのだから、柊一の『程度』というものが分からなかったのだが、同じ塾で机を並べているうちにおよそ知ることが出来るようになって、葵生としても柊一が同じクラスになるだろうことは予想していた。だからこそ、本心では憂鬱なのだが、無視するわけにもいかず声を掛けてしまった。
 葵生が理系に進むことは、柊一はとっくに察していたはずなのだが、結局文系に進んでいたことについては、単に理系科目が苦手だったことが理由なのだろう。本当のところ、無理をしてまで追いかけて来るのではないかと構えていたため、少し安堵したものだったが、こういうところはやはり進学校の学生らしいところで、現実的なものだった。
 「『あの子』と会うの、どれくらいぶりだっけ」
 様子を窺うように慎重な口振りで、柊一が言った。未だにはっきりと覚えている、葵生の激高したことを思い出せば自然と身が堅くなるようであったが、それでも好奇心の方が勝り、おずおずと視線を上げて葵生を見遣る。
 葵生は表情を全く変えることなく、
 「さあな。いちいち数えてないから分からないな」
と言って、髪を整えるのを止めようとしない。平然としているようではあったが、手を動かして紛らわせようとしているようなので、やはり本当は彼女に会えるのを待ち望んでいたのだろうと、分かっていたけれど思い知らされて、少し柊一は寂しさを感じていた。
 日を数えていなかったのは本当だったが、実際に流れた月日以上に会っていないような気がして、あの寂しくて切なさに身を焦がした日々のことを思い返すと、ようやく待ち望んだ日がやってきたのだと感慨深い気持ちになる。
 「楽しみだね」
 柊一は自分の顔を鏡で見ていられなくなって、水道の蛇口を捻って水を出しながら言った。手をごしごしと洗って、視線を下に遣りながら葵生に鏡越しで自分の顔を見られないようにした。自分の思いなど報われるはずもないと分かっていたけれど、やはり葵生の彼女への思いというのは葵生が思っている以上にあるのではないかと想像出来るので、本当はもうそれ以上はあまり聞きたくない気分なのだが、ここでぷいと出て行くというのは不自然なような気がして、柊一はまだ鏡の前にいた。
 「日向はもう会っただろう。この前の授業で」
 葵生は努めて冷静さを込めてそう言ったのだが、本当は椿希の様子が知りたくて仕方がなかったのだろう。先ほどから敢えて彼女の名前を出さないようにしていたようなのに、会話が途切れそうになるとつい彼女のことを訊ねるようなことを言ってしまったのだから、思いというものはそう簡単に抑えきれるものではないらしい。
 「うん。会ったよ」
 柊一が少し間を置いてそう言ったのが、二人の間に気まずい空気と緊張した空気とが混じったようであった。柊一はそれに耐えようと唇を噛んだ。一方の葵生はというと、俄かにざわつき初めた心をどうにか抑えて表情に出さないようにしながら、鞄を持って出て行こうとした。
 「綺麗だったよ」
 葵生が柊一の背後を通り過ぎようとしたときに、柊一の口から不意に零れ出た言葉に葵生の肩がぴくりと動いた。柊一も、意図して言った言葉ではなかったので少し自分のことながら驚いたようだったが、素直な気持ちが出たのだろうかと気付くと、あれほど憎らしく思っていたのに不思議なものである。
 柊一があまりにも自然にそう言ったので、葵生も少し進んで立ち止まり、その言葉を心の中で反芻させていた。何度も何ヶ月も会っていない彼女の顔を思い出そうとしたけれど、ぼんやりと思い出せても細々とした部分は案外思い出せないものなのか、はっきりとしないだけに余計に恋しさが募っていた。会うことによって少しでも解き放つことの出来た恋心は、何ヶ月もの間に溜まりに溜まって、ほんのちょっとした情報でさえも嬉しさで心が満たされるようであった。
 「そうか、ありがとう」
 柊一にとってはこの前の出来事があってから、特に葵生の前で椿希の話題をすることは禁忌のような気がしていたが、思い切って話題に出して良かったと思った。全く興味のないように装っていても、何度も鏡の前で自分の身だしなみを確認している葵生の姿は、本当に彼女に会いたくて堪らなかったのだと、愛しく思う気持ちが溢れんばかりだった。何故会いたかったか、それは理屈ではないのだ、と笙馬の言葉を思い返し何度も頭の中で言い聞かせながら、柊一はなんとか男女の恋というものを理解しようと努力していたのだった。
 それよりも、葵生から「ありがとう」と言われたことで少し気持ちが楽になったような気がしていたというのは、やはりなんとも報われない心を抱いたものである。


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