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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第17回   第一章 第四話 【彼方】3
 さて遥か遠くの海を隔てた異国の地で、椿希は時折一人部屋に佇んで日本を思い出しながらも充実した毎日を過ごしていた。椿希は筆記や読解力といった、いわゆる『受験英語』のみならず、高校の授業で週に二度行われている英会話の授業においても極めて優秀であったため、意思疎通の面についても大きな問題はなかったらしい。音感の優れている人は語学が得意になるらしいと聞くけれど、彼女もその例に入る一人であるらしく、初めは慣れなかった発音やスラングも聞いているうちに自分のものにしていった。ホームステイ先のホストファミリーとの相性も良く、息子しかいなかったその家庭では東洋人の娘を養子にもらったような気分になったらしく、あれこれと世話を焼いてくれるのが嬉しいとも思うし、気が引けるように思うのだった。しかし、それこそがまさに文化の違いというものだろうか、気兼ねして引っ込み思案でいる方がかえって失礼であるので、椿希もここでは思っていることは胸に秘めることなく、素直に言葉にして表情もいつもよりも大袈裟に見せている。
 母国や故郷の良さというものは、そこを離れてみなければ分からないと言うが、それをしみじみと実感しながら、さっぱりとした醤油味の日本食や、木造の何百年前から建っている古刹などが当たり前のように身の回りにあるというのが、いかにこの国においては珍しく神秘的なことかというのを思い知らされることとなった。
 だからだろうか、よく家族から日本の文化や歴史などについて訊ねられ、学校で習った程度には電子辞書に頼りながらもどうにか答えて行ったのだが、中には日本人であっても知るであろうかというような古典文学や伝統的なものの考え方について及ぶと、なんという見識の甘さであるだろうと勉強不足を恥じた。妥子の教養の高さと、自分の語学力がいい具合に混ざっていれば、きっとすらすらと答えられて、もっとより深く繋がることが出来るだろうにと悔しく、帰国後には一層椿希は教養を身に付けようと、勉学だけではなく読書などにも励んだのだとか。
 だが、母国にはない雄大な自然と森の多さに感動し、そしてそこかしこを縦横無尽に走り回る自転車や路上駐車や路上駐輪が街中には少なく、歩くのもゆったりとした気持ちで、ふと目に留まったものを見つけたら気軽に寄り道が出来る気安さがそこにはあった。こういうところが羨ましく思う。お行儀が良いと言えないかもしれないが、取り繕わない人々を見ていると、今まで何かと抑えていた物思いも吹き飛びそうなほど気持ち良かった。
 建物と建物の間の道路は広く、風に乗って運ばれる坂の上の教会の鐘の音に誘われて歩いて行く親子、そして夫婦。街並みこそテーマパークにでも行けば再現されているだろうけれど、赤や青、黄色などの色鮮やかな屋根と、窓のたもとに咲く可憐な菫の花、子供のふくよかな朱の頬や、マウンテンバイクに大きな荷物を背負って走る若者などを見かけると、やはり実際目にしなければ分からない趣があって、とても開放感に包まれ過ごしやすい。
 平日の日中はハイスクールへ通うがもちろん聴講としてなので単位には全く響くことがなく、真剣に聞く必要はないのだが、生の英語を聞く機会などそれまでなかったものだから、椿希は日常会話では使わないような単語がたくさん出て来て、どれほど理解出来ているかも怪しいところだけれど、英語の発音に慣れるだけ慣れたいと、真面目に板書を写したり聞いたりしているのだった。そうしているうちに、やはり四六時中英語に囲まれているためか、物を考えるときも英語がまず出てきたり、徐々に勘が鋭くなり慣れてきたりしたらしく、学校で新たに出来た友人たちに出会っても、会話の輪の中に加わっては時折突っ込んで訊ねることが出来るようになっていた。
 そして夜になると、家で団欒の時を家族で過ごすこともあれば、日によってはパーティーがあるからと言って連れて行ってくれることもあった。まだ高校生で米国へ短期間とはいえ留学している学生は少なかったこともあってか、大層珍しがられていたため、よく声を掛けられては日本のことについてや彼女自身の身の上のことなどを聞かれていた。特に漫画や時代劇について訊ねられると、そういったことには生憎と疎かった椿希は答えようがなかったけれど、逆に彼らの方がよく知っていて教えてくれるのをにこにこしながら聴いていた。元来朗らかで好奇心旺盛な椿希はそういったことについて快く応答し、また逆に尋ね返すことも多く、また素直に感情を見せるので、
 「日本人は恥ずかしがり屋が多くて、何か訊いてももじもじしているばかりだと聞いていたけれど、カミーリアは控えめながらも答えるところはしっかりと答えてくれる」
と評判であった。また、
 「カミーリアは本当に日本人なの。本当はアメリカやヨーロッパの血が混じっているんじゃないかしら」
というようなことを時々母にも言われたし、パーティー会場で出会った人達にも頻繁にそう言われた。彼女自身は紛れもなく日本人の両親の間に生まれたのだが、色白の瓜実顔で程よく大きな二重の目と長い睫毛、薄い茶色の瞳、鼻筋がすっきり通って高いため、そう言われるのかもしれない。顔のつくりというよりも、東洋人と聞いてすぐに連想する姿かたちではなかったのにも驚いているようだった。そして彼女は背も高いから。
 「日本の女の子が来ると聞いて、流石に小柄な僕でも勝てるだろうと思って、今日はシークレットブーツを履いて来なかったんだ。全く、カミーリアがそんなに高いなんて聞いてないよ」
 冗談を飛ばしながら豪快に笑う恰幅のいい中年の男性は、先ほどからしきりに椿希にレモネードを勧めるが、あまりに甘ったるいその味にそろそろ飽きてきたので、椿希はきっぱりと断って、代わりにコーヒーをもらった。日本にいるときなら、やんわりと断るのだけれど、と思うと椿希はかなり順応性が高いらしい。
 そんな風にずっと忙しくしていたためか、日本にいる人たちのことをゆっくり思い返すゆとりもなく、故郷恋しさで切なさに涙くれることもなく、意外と米国での生活を楽しんでいた。時々、実家へ電話をしたり手紙を書いているが、「もっとここに留まりたい」とばかり話していた。帰国の日まであと何日と数えていく方が余程心が寂しくなってしまうことだろう。

 日曜日になって、椿希は家族と共に湖畔へドライブに来ていた。元々椿希は寝起きは良い方で、休日であろうと昼まで寝ていることもなく、ほとんどいつもと変わらない時間に起きるので、その日も先に着替えて家族が目覚めるのを待つつもりでいた。しかしその日一番早く行動を始めたのは母で、扉をこんこんと叩いて、
 「今日は湖に行くわよ。カミーリア、起きて」
と、とても起きたばかりとは言えないような、家中に響き渡るのではないかと思えるほどの大きな声で言う。その後で息子を起こしに行ったようで、息子よりも先に椿希を起こしたというのがなんとも可笑しくて、椿希はくすくすと笑いながら支度をした。今日は教会へは行かないらしい。
 それにしてもたかだか十六歳で運転免許を取れるとはいえ、同い年の少年が車を動かしているというのがなんとも奇妙な感覚であった。同い年のアイヴィは助手席に椿希が乗るよう指名したのだが、「本当に大丈夫だろうか。無事に帰って来れるだろうか」と普段は考えもせぬ心配をしてしまう。ハイウェイを走っているときなど、普段父や母が運転しているときは信号がなく走り続けるので爽快感が得られるものを、今はなんとなくまだ運転慣れしていないのか時折危うい面もあって、落ち着かない気持ちでいた。
 ハイウェイが町と町を繋いでいるためか、走っている間の周りの景色は森や林、あるいは田園風景が見渡す限り広がっていて、日本ならば高速道路で田舎のあたりを走っていてもどこかに民家や建物が見えたりするものだから、悠然とした風景を見ていると心までが大らかで朗らかになるようである。
 次第にアイヴィの運転も技術はまだまだ未熟ではあるが、あまり気に病んでいてもそのうち辿り着くだろうと考え、身構えていたのをくつろがせ、移り行く景色を眺めながら外国ならではの広大な景色を楽しむことにした。こんな日常に慣れてしまったら、日本のことをどう思うだろうか。椿希は、きっとあまりの忙しなさや騒々しさに呆れてしまうだろうと、すっかり心が外国人になったような気分でいた。容姿はもちろんのこと、本当は生粋の日本人ではないのかというようなことを思いつくものだから、なんだか不思議なことだとぼんやりと思っていた。
 湖の近くに車を停めて降り立ち、湖から吹く涼しい風を浴びながら、喧騒のない緑豊かな絵画で描かれたような景色を見詰めて大きく胸いっぱいに息を吸い込むと、体の中に知らぬ間に溜め込んでいたわだかまりや良からぬ考えが浄化されていくようで、とても清々しいのだった。
 ほかにも何組かが湖へ来ていて、中には湖の上にボートを浮かべたり、幼い子供たちは水を掛け合って遊んでいたり、バーベキューの準備をして石炭に火を点けていたりと、静かな湖畔でそれぞれが楽しそうに笑っているのが、見ているこちらまで幸せな気分になれる。こんな風景を以前見たことがあったと思い返せば、そういえば去年の光塾のキャンプがまさしくこんな風だったと思い当たり、椿希は突然懐かしさが込み上げてきて、一人一人の顔を思い浮かべては思い出を辿って行く。
 「今度、ローズが家に行きたいって言ってるんだけど、いいかな」
 アイヴィが言った。
 「もちろん」
 ローズと言えば、洋画や文芸作品の影響で思い浮かべやすい典型的なアメリカの少女、といった表現が相応しいような風貌の、明るくはきはきとした人だった。とても同い年とは思えないほど大人びていて、顔立ちももう二十歳ほどではないかと思えるほど完成しつつあり、化粧に使用する色もまた彼女だからこそ似合うのではないだろうかと思えるほど、原色に近いはっきりとした色を好んで選んでいた。
 ローズは椿希と初めて出会ったときから、とても初めてとは思えないほどの友好的な態度で迎えてくれて、こっそりと、
 「アイヴィはまあ奥手だから、カミーリアに何かすることはないと思うけど、困ったことがあったらいつでも言ってね」
と耳打ちをしたものだった。あっけらかんとしていて、開けっ広げなのがだらしなく品がないとは思わせない、この大らかさを椿希はとても気に入っていて、ハイスクールでも時々一緒にお昼を共にするようになっていたのだった。
 「ところで、カミーリアは今、ボーイフレンドいるの」
 椿希は笑みを形作ったままで、少しばかりどのように返答しようかと思い巡らせた。
 「うん、いるよ」
 アイヴィは微笑んだ。彼は何を思ったのか、足元にあった石を手に取って湖に向かって投げ込んだ。楽しいよ、と言って椿希にもいくつか石を渡す。
 椿希はアイヴィに嘘を吐いたことを心の中で詫びながらも、そういえば本当にそういう人が心の中に思い浮かんでこないのだなということに気付いた。
 「上手だね」
 石は何度か水面を跳ねて、やがて湖底へと沈んだ。
 こうして石を投げて遊ぶのに紛らわせて、久しぶりに日本のことをあれこれと思い遣ると、そういえば今頃きっと梅の花が咲いているのだろうか、帰国する頃には桜の花が出迎えるようにして咲いているのだろうかと、湖の周りに一面の桜が咲くのを想像して、懐かしくも切ない気持ちが溢れてくる。桜、というところでふと思い当たるものがあったけれど、さてこの今の思いをどのように表現しようかと考えて、
 「彼方より春のうららに誘はれて
染井吉野に逢ふ日待つ人」
と、口を突いて出てしまったのは短歌だった。何度か口ずさんでいるうちに、アイヴィが怪訝そうな顔をしてこちらを見ているのに気付いた。突然訳の分からない日本語を口ずさめば、そういう顔になるのだろうが、それが思っていることがあからさまに現れているようで、椿希はくすくすと笑った。
 「独り言よ。気にしないで」
 椿希はまた石を掴んで湖に投げた。
 遠くから親二人がこちらを見て手を振り、呼んでいるのが見える。陽気な歌でも歌いながら、きっとランチの準備でもしていたんだろうなと思うと、椿希は光塾のキャンプの時に感じたときとはまた少し違う、満ち足りた思いを感じてとても幸せな気分であった。いつまでもこんな時が流れればいいのに、と心からそう思う反面、どうせなら日本にいる友人たちと共にそのような風に過ごしたいとも思う。
 妥子は笙馬と上手くやっているだろうか、藤悟は大学受験に合格しただろうか、海外旅行に行くと言っていた桔梗はもう帰国したころだろうか、葵生は相変わらず成績は一位を維持したままなのだろうか、などと思っているうちに、急に現実が目の前に浮かんできたようであった。
 「ローズが来るのが楽しみ。今度会ったら、色々話し合っておかなくちゃね」
 取り繕うようにして、わざと声を上げて言うと、アイヴィは椿希の思っていることに気付かなかったのか、嬉しそうにそのことについて色々と話しかけてくる。アイヴィに悪いと思いながら、せっかく湖畔に来てすっきりとた気持ちで楽しめると思っていたのに、急に懐かしい人たちを思い出して切なくなるだなんてと、椿希は心の中で大きな溜め息を吐いていた。

 日本では気候も少しずつ暖かくなり、花がそろそろ咲き始め、陽が沈むのも少しずつ遅くなってきたのが、季節が春に向かっているのがよく分かる。寒かったのが、ある日を境に突然暖かくなりはじめたので、体がその変化についていかずにまた体調を崩す者もいたのだとかいうが、幸いなことに葵生はそういった変化には対応出来たらしく、またこの季節になると多くの人を悩ませる花粉症も今のところ発症しておらず、外のうららかな様相を愛でるように眺めるのだった。
 三月も終わる頃になっても、まだ椿希は帰国しなかった。元々そのつもりでいたのか、はたまた外国が気に入って延長したのか定かではないけれど、三月上旬には帰ってくると聞いていたのに、どうやら春休みいっぱいまでということになったらしく、妥子が苦笑いしながらそう言っていた。
 彼女がいなくて寂しい思いをしているのは確かだが、必ず帰って来ると分かっているからこそこうして気長に待てるのだから、葵生はあと少しくらいはもうどうってことないと、どっしりと構えて待つつもりでいた。

 掲示板に張り出された大学合格者の張り紙に、春成藤悟の名前があった。第一希望の国立大学工学部のところにあるその名前を見ながら、二年後にはここに張り出されているのだろうかと、期待するような少し不安になるようなところである。
 葵生が掲示板の前でじっと見詰めていると、背後から声を掛けられた。それはまさしく藤悟であって、表情もにこやかで柔らかくすっきりとしている。高校も卒業して少し髪を染めたらしく、蛍光灯の光でほんのりと茶色がかっているのが、より一層藤悟を大人びて見せた。
 「先輩、合格おめでとうございます」
と、祝いの言葉を向けると、少し照れながら「ありがとう」と言った。それは当然嬉しいことだろう。今日は合格後初めて塾に報告に来たらしいのだが、もう受験勉強から解放されたためなのか、軽装で身軽な姿なのが羨ましく思われる。服装も少し洒落た今風のものになっていて、それが急に大人びたように見える。
 「今日は新二年生の授業があるって聞いたから、その日を狙って来たんだ。頑張れよ。特に可愛がっている後輩と幼馴染みが同じ大学を目指していて、もし無事合格したなら、これほど自慢になることはないから」
 藤悟がにやにやと笑いながら言うので、意図するところを察して葵生は顔を赤らめて俯いたが、「今のは椿希が俺と同じ大学を目指しているということなのだろうか。そうだとしたら」と、思わぬことを聞いて胸がどきどきと大きく鼓動を打つ。
 「これが俺の連絡先。携帯電話っていう便利なものを買ったんでね。何かあったら連絡してくれよ。先輩の言うことは、聞くものだろ」
 紙切れを渡されて見ると、そこには電話番号とメールアドレスが丁寧な文字で書かれてあり、葵生はそれを見て、
 「いいなあ、羨ましいです。携帯欲しい」
と、溜め息混じりに言った。まだ携帯電話を持っているのはほとんどが社会人であるのだから、母親に欲しいと言ったところで「子供にはまだ早い」と言われるところだろう。ポケットベルですら、子供が持つものではないと持っていなかった。これは、そういえば周りの誰も持っていなかったと記憶しているけれど。
 藤悟が帰った後、葵生は紙切れを筆箱の中に直した。大学に入れば、母親に許可を得ることもなく、あのこともこのことも出来るようになるのだろうか、と思うと待ち遠しくてならない。葵生はこの十六年間、よくもまあ息苦しい生活を続けていたものだと、自分のことながら感心しているのだった。


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