20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第16回   第一章 第四話 【彼方】2
 椿希が日本を離れてからというものの、しばらくの間彼女の顔を見ることが出来ないという寂しさからなのか、どことなく心が乾いてひび割れ穴が出来たようで、隙間を埋めるように何か欲しかったけれど、今生の別れというわけでもないし、彼女が帰ってきたら色々な話を聞かせてもらおう、こちらからも塾で何があったかを話そうなどと思うと、恋しくて待ち遠しい中にも楽しみがあるのだった。椿希がいない一ヶ月ほどの間に急激に身長が伸びたらいいのに、と現実には起こりそうにないことも考えると、我ながらなんと馬鹿馬鹿しいことを思うのかと一人で笑ってしまった。そんな風なことをするのも葵生は全くなかったことなので、少し落ち着いたところで自分が今さっき一人で笑っていたことに気付いて驚いていた。
 葵生と同じ学校に通う柊一にとってみれば、葵生が光塾に通うようになってから、少しずつ変わってきたようなのを感じていた。同じ部活仲間やごく親しい友人としかほとんど接することがなく、会話しているところを遠巻きに見ていたのが、相変わらず周りに比べては無口な方ではあるとはいえ、最近では輪の中に加わっていることがあり、声を上げて笑うことはなくてもくすくすと小さく笑っているので、なんとなく次第に自分の知らない葵生が現れてくるのが不快で胸がむかむかとしてくるのであった。
 特に葵生が笑顔を向けている相手が椿希だと最近気付くと、あの瑰麗な顔を醜く汚してやりたいと思うほどに、初心な葵生の心を惹き付けて奪うような彼女が憎らしかった。椿希が海外に行くと知ったときにはもう二度と戻って来なければいいのにと吐き捨ててやりたいほどで、そんなことばかりが近頃は思い浮かび、とても忌々しいことであった。

 柊一は椿希のいない間に少しでも葵生と親しくなりたいと思い、本当は特に質問などないのだが、葵生に「英語が分からないから」と教えて欲しいと言って近づいた。何も知らない葵生は、柊一と話したのが珍しかったので少し驚いた様子ではあったが、「いいよ」と言って、柊一が持ってきた教科書とノートを見た。
 女性にしてもさぞかし麗しいであろう目元が伏せ目になると、葵生の長い睫がはっきりと分かってなんとも艶やかで美しい。普段見る角度とは異なるからか、鼻筋がすっと通っているのがはっきりと分かる。それだけではなく、説明をするときの低い声も聞き手の心を蕩けさせるような甘さがあり、本当に思慮の浅い者ならばすぐにでも恋に堕ちてしまいそうな魅力を感じられた。
 そう思えば思うほど、葵生がどうやら椿希に思いを寄せているらしいのに、友人に相対するような反応以上を返さない椿希が本当に憎らしくて堪らない。せめて椿希が葵生に対しまんざらでもないような態度を取ってくれているなら、まだ柊一も心がいくらか救われようものだが、報われない気持ちのやり場がないのが自分までも馬鹿にされているような気がして、むかむかと腹が立ってくるのだった。
 葵生が何を言っていたかもほとんど覚えていないけれど、一通り説明が終わると、葵生はふうと安堵の溜め息を吐いた。
 「英語は俺もそんなに得意じゃないから、ちゃんと説明出来るかどうか不安だった」
と、微かな笑みを浮かべながら言う。
 「珍しいな、同じ学校なのに葵生と柊一の組み合わせが一緒っていうのは本当に珍しい。今までそういうのがなかったっていうのが不思議なものだよな」
と桔梗が驚いたように言うと、二人の間を割って入るように椅子に座った。
 「謙遜してるけど、葵生のその成績で得意じゃないとは聞き捨てならないよな」
と笙馬が笑って言った。
 「彼女だと、きっともっと上手に説明が出来たんだろうけどな」
 葵生がそう言うと、「確かにそうかもしれない」と、桔梗も笙馬も笑った。彼女、と聞いて柊一は体をぴくりと動かした。
 「いいな、葵生くんに英語を教えてもらってたんだ。私もそれなら教えてもらえばよかった」
と、男ばかり四人が集まっているところに茉莉とゆり子がやって来て、机の上の教科書を覗き込んだ。常に誰かから教えてもらってばかりの茉莉の言うことは、おそらく半分は冗談なのだろうけれど、それでも柊一は少し気分が悪くなって顔を強張らせている。
 「そんなのとんでもない。二人に教えてもらうだなんて、恐れ多いよ」
 ゆり子が大袈裟に手を振って、それは駄目だという仕草をすると、柊一は、
 「二人って誰のこと」
と、眉を顰め、機嫌を損ねたままの調子で言った。だが皆が一様に笑っている状態なので、柊一の様子に気付くこともなく、茉莉がにこやかに言った。
 「もちろん葵生くんと椿希ちゃんのことに決まってるじゃない」
 当然そうでしょう、と言わんばかりに答えた。皆が揃いも揃って椿希のことを褒め称えるようなのが、更に腹立たしい。
 「嬉しいな。英語について彼女と一緒にしてもらえるなんて光栄だ」
 あれほど苦手だというのを態度に出していた葵生が、茉莉の言葉を受けて発言するなんてと、柊一は喉元がかっと熱くなるのを感じながら、恋に目覚めてしまった葵生に絶望したようになり、
 「椿希、椿希って皆でそんなことばかり言っているけど、一体彼女のどこがいいんだよ」
と、努めて冷めた口振りで言うと、どうしてかしんと静まり返ってしまって皆の耳に聞こえてしまい、それまでの和やかな雰囲気は一瞬にして何やら只ならぬものに変わった。驚き呆れた様子の茉莉とゆり子の隣から、桂佑がにじり出て来て、
 「何をそんなに怒っているんだか分からないな。椿希に妬いてるのか」
と言うのが止めを刺したのか、柊一の怒りや憎しみなどの負の感情がとめどなく溢れ出し、目に涙を浮かべながら顔を赤くさせ、握り締めた手がわなわなと震えだしたので、周りの者は互いに顔を見合わせた。
 「プリンスだか王子だか知らないけど、あんな大柄な女のどこがいいのか、僕にはさっぱり分からないね。プリンスも王子も、結局は男のことじゃないか。女は女らしくしていればいいのに、なんであんな風に気障に格好つけるかな。それに英語しか取り得がないような奴を、なんで皆こぞって褒め称えるんだろうね。どうせ顔がいいからそういう風に言うんでしょ」
 勢い余って余計なことまでべらべらと口にしてしまった柊一は、声を上ずらせて震わせていた。喉が絞られるようでとても苦しいようである。それからも、まださらに続けて罵る言葉をつらつらと並べ立て述べ連ねるので、葵生は聞きながら表情を堅くさせていたが、最後まで聞き終えると静かに目を瞑った。少し間をおいて深く息を吸い吐きして呼吸を整えたが、その後すぐに柊一がまた何やら言い始めたので、
 「駄目だ、もう抑え切れそうにない」
と、低く独り言のように呟くと、その直後に大きな物音がして、ばさばさと机の上のものが散乱したのだった。教室にいたほかの塾生らがそれに気付いて振り向くと、柊一が床に座り込んで頬を押さえており、その傍らには美しい貴公子のような顔を引きつらせ、鬼のような形相で柊一を鋭く睨みつける葵生が立っていた。
 柊一の目から涙がすっと零れ落ちると、それからは止まることなく泉の湧き出るように、ぼろぼろと溢れ出した。ひくひくと体を震わせながら、恥ずかしいながらも涙することでしか今は自分の気持ちを抑えることは出来ないので、柊一は何も言えずに俯いていた。少し間を置いて、
 「俺も、葵生が手を出さなければ殴っていたと思う」
と、桔梗でさえも冷たく言い放ち、ここには柊一の味方になるような者は誰一人いないので、一層惨めさで柊一は逃げ出したくなった。桔梗は、「それにしても、普段はとても冷静で感情を露にすることのない葵生があの言葉に激高するなんて、らしくないことだ」と思っていた。言葉数が少ないからこそ感じられる静かな怒りが近くの物をも震わせるようで、せめて自分だけは鎮めなければと冷静な口振りに自然となってしまったのだろうと思うと、普段とは立場が逆になったことがなんとも不思議であった。
 妥子が何かを言おうと柊一のいるところへ前に出て行こうとすると、笙馬がそれを遮って、
 「柊一、こういうのは理屈じゃないんだよ」
と言うと、ほかに何やかや言おうとしていた者たちは皆、それ以上に付け加えることなく言葉を呑み込んだ。妙な緊張感は少しずつ緩和されていったが、柊一は授業を受けていても集中することなど出来ず、次第に後悔ばかりが募ってきて唇を噛んでいた。

 その出来事があってから一週間ほど経って、桔梗は家族と共に海外旅行に行くため空港にいた。出発まで時間が有り余るほどなので何もすることがなく手持無沙汰で、特に買いたいものもなく、買わなければならないものもなかったに免税店をうろうろと歩き回っていたが、それも一通り見終えてしまうとまたつれづれなる時を迎えることになってしまい、椅子に座ってぼんやりと人の行き交う様子を眺めていた。
 天井高い吹き抜けと、普段決して見ることのない背丈の何倍もある大きな窓から差し込む光が目に眩しく、飛行機が離陸するのや着陸するのを見ていると、いよいよ心は広大な空の海へ思いを馳せて行く。出国手続きを済ませてしまえばそこはもう日本国内ではない、と言われたがなんとも言い得て妙であって、これから旅立つ人の胸の高揚や浮足立つような表情、流れるアナウンスも母国語以外にいくつもの言葉が流れているので、まだ飛行機に搭乗していないというのに海の向こうの国が思い浮かべられるようである。いつまでもこの場の空気を感じていたいものである。
 空港という外国への玄関口にいる場所柄のせいなのか、アメリカにいる椿希のことが自然に思い出され、今頃さてどうしているだろうかと思い遣る。彼女には内緒にしていることだが、椿希と最寄り駅で待ち合わせて途中まで一緒に電車に乗るところを高校の友人に目撃されたとき、思わず、
 「彼女だから、誰も手を出すなよ」
と笑いながら見栄を張ってしまったことがあったことから、それから椿希は友人達からは『美人の彼女』として時々話題にのぼることがあったのだが、そのたびに照れながらもあれこれと話していたのだった。しかしそんな嘘を吐いてしまったのに今更「あれは嘘だった」と言うわけにもいかず、そのまま通している。言霊というぐらいだから、きっとそのうちそういう間柄になれるだろうと思っているので、桔梗はのんびりと構えていた。
 長身の二人は遠くから見るとそれはとても見栄えが良く、本当にお似合いなのだ。桔梗は塾生の男子の、ほかの何人か椿希に好意を持っているらしいけれど、このように塾以外の場所で椿希と多く接しているのだから、他の男たちよりも何歩も彼女との距離は近いはずだと確信していた。ついこの前にあった、柊一と葵生の一件から、塾生たちは葵生はどうやら椿希に好意を抱いているらしいと悟ったけれど、それでも桔梗の心は動じなかった。あの葵生よりも会話している量も質もきっと上のはずだと思うと、せめて恋では勝ちたいものだと、桔梗は椿希のために色々と心を砕いて気を遣うのだった。
 今からでも、土産物は彼女のために特別に何か別のものを買って来ようというつもりでいて、そのことについても考え出すと、彼女が笑うのが思い出されて桔梗もまた顔がにやにやと惚けたようなものになった。
 「何してるのよ、気持ち悪い」
 妹が桔梗の顔を覗き込むようにして言うと、オーストラリア行きの便が搭乗出来るようになったので、立ち上がった。
 「思い出し笑い。ああ、楽しみだなオーストラリア」
 免税店をちらりと見て、さて土産物は何がいいだろうかと考えながら列に並んでいた。椿希には装飾品がいいだろうけれど、何かいいものはあるだろうかと思い巡らせるのは、本当に二人が彼氏彼女の関係にあるかのようで、少し突っ走りすぎではないだろうか。妄想も行きつくところまで行くと、現実と取り違えてしまうことは、ままあることなのだけれど。
 笙馬と出会ってすぐに、大学生になったらしたいことを語り合ったことがあった。軽音楽のサークルに入ってバンドを組むということ、それが今は彼女のために曲を作りたいというものにまで発展した。そしてライブをするときには恋人を呼び、彼女を見詰めながら歌うなり演奏するなりするのが夢になった。
 椿希がアメリカで着実に将来のための布石を築き上げていると思うと、共にこれから同じ未来を歩くことを想像し、わくわくするような思いを抱きながら、桔梗は飛行機の中で深い眠りに就いたのだった。

 目立つ二人である桔梗も椿希も海外に行っているためか、少し塾内の雰囲気もいつもよりもいくらか静かであるようなので、葵生はそんな光景を見ながらなんとなく物寂しさを感じていた。くるくると表情を変えて、時に大声で笑い、時に皆の注目を集めて話を始める桔梗のことは、時々は喧しい奴だと思うこともあったし恋の競争相手であるはずなのに、やはり人の良い性格から心許せる友人だからか、いなければそれなりに物足りないと感じるものなのだなと、一層無口になるのだった。
 どんどん日が経てば椿希の帰国が近づくというのに、椿希が帰国してもすぐに別々の授業に分け隔てられてしまうためか、心がすっきりしないままやはり顔には出さずに過ごしている。だから、他人から見れば葵生が何を考えているかなど分かるはずもなく、あの柊一の一件で初めて椿希への思いが露見したぐらいで、これといった先々の悩みなどなさそうに見えるのだった。
 桂佑にしてみれば、いっそのこと成績が良いか悪いかのどちらかはっきりしていれば、選択肢も自ずと決められてしまうから進学のことも悩まなくて済むのに、と二年生が近づいて文系理系と授業が分けられるのを実感するにつれて辛く思っていた。
 桂佑の通う中央高校は程度としては中堅で、卒業生の進路といえば最も多いのが専門学校進学で、次いで短期大学、大学と続く。就職する者もいるけれど、ここのところ不況が続いているためか家業を継ぐ以外の理由で望んで就職しようという者などおらず、結局は進学という道を選ぶのがほとんどだった。
 進学を選ぶにしても、中途半端だから、これといった目的意識もないまま進学したところで何か得られるだろうか、と真面目に考えると頭が痛くなりそうだった。真剣に考えて文系に進むか理系にするかを決めていたのならいいけれど、なんとなく理系は挫折する人が多いからという理由で文系にしてしまったけれど、果たしてそれで良かったのだろうかと、桂佑はここのところそのことばかり考えていた。
 葵生のような成績優秀者に話を聞いたところで何の参考にもならないかもしれないけれど、まあエリートの話を聞いてみるのもいいかもしれないと思って、桂佑は、
 「葵生はなんで大学に行きたいのか知りたいんだけど、いいか。正直なところ、俺は文系を選んでしまったのが良かったのか、今更になって不安になってきたんだ。せめて文系理系がはっきりしていれば、大学に進学するか専門学校にするかを決めることも簡単なのにって思うと、どうにも最近そればかり考えていて進まないんだ」
と、思いを正直に吐露すると、
 「まあ、医者になるには医学部に進むしかないからな。だから必然的に理系に進んで大学進学っていうことになるんだけど」
と、葵生が苦笑いしながら言った。これしか方法がないのだ、あまり良い回答者になれなくてすまない、という思いがあったのだろうか、申し訳なさそうにしている。桂佑は、ただ漠然と理系に進むと決めたわけではないところが、いかにも周到な葵生らしいなと思って笑った。
 「俺みたいな半端な奴の方がかえって、進路を決めろと言われたときに思考回路が右往左往するものみたいだな。欲を出せばもっと上を狙えるような気がするし、ここでいいと妥協すればいくらでも選ぶことが出来るような気もするし」
 改めて口にすると、なんとも些細なことで悩んでいるような気もするし、葵生はこれを聞いて何と思っただろうと思うと、なんだか恥ずかしい気もする。
 「俺は本当は、医者以外だったら音楽やってみたかったんだ。今、流行りだろう、バンド。すぐに流行り物に飛びつくみたいな感じがするし、うちの母親がそれを許さないだろうから、そんなこと一度も言ったことはなかったけどな。医者になりたいと思ったのとはまた別で、好きなだけ好きな音楽をやってられたらなって思った。音楽で食べていくだけの強く揺るぎない決意があるなら、親がどう言おうと貫き通しても良かったんだけど、やるなら音楽は趣味でいいやと思ってしまったから、俺は結局大学進学って言ってるんだよな。要は妥協してしまったということになるかもしれない。それに、実は俺、凄く歌が下手なんだ」
 思わぬ秘密を知らされて微笑してしまったけれど、進路の悩みっていうのは優等生にもあるものなのだなと気付き、一人で被害者のように考えていたのが情けなくなって、桂佑は嘆息した。何もかもが順風満帆に行く人なんているのだろうか、傍から見てそのように進んでいるように見える人は、どこかで妥協して満足そうな顔付きでいるだけかもしれないと、難しいことばかり考えているうちに、桂佑はこのままだと哲学の世界に足を踏み入れてしまいそうに感じて、
 「もうあまりくよくよと考えないようにしよう。あの葵生でさえも色々と抱えているものはあるみたいだし、俺だけが迷っているわけでもなさそうだし」
と、きっぱりと考えることを辞めてしまったのだった。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 38846