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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第15回   第一章 第四話 【彼方】1
 暮れも押し迫り、まだ厳しいとは言えないものの寒さを身にしみて感じるようになる頃から、徐々に塾生たちは自分たちの進路について考えるようになり、光塾では二年生に進級するのに、文系理系と授業が分かれることとなったため、誰が文系で誰が理系か、など口々に話し合ったり噂し合ったりしていた。このところの会話といえば専らそういった、文系理系についてばかりで、興味を持てないでいる茉莉は欠伸が尽きず、そんなことよりクリスマスや年末年始の予定の方が大事だと言って、ぎらぎらと光る銀色の手帳を開いて、指で指したり何かを書き込んだりしていた。
 葵生は当然理系コースに進むつもりで、秋口から始まっていた塾の希望調査書にはそう記入していた。その後も何度か同様の調査があったが、気持ちが文系か理系かで揺れ動くものの中には、毎回異なる回答をして講師たちを困らせていたのだとか。
 学校では試験の結果によって希望通りとなることが出来ないこともあるが、葵生の成績は染井の学生の中にいても申し分なく、理系進学のクラスに進むことが決まっていた。よって、塾でも当然理系へと進むことが出来るだろうとして、そのつもりでいた。まあ、思い込みとは言っても、常時総合成績一位であるから、誰が見ても葵生の希望が通らないはずがなかったのだけれど。
 椿希はそういった話には積極的に加わることはなかったけれど、得意科目といえば断然英語なのだが、次に化学、生物と続き、世界史はあまり得意ではないと公言していたので、理系に進むのだろうと多くの塾生たちは考えていた。葵生と違って、椿希は得手不得手がはっきりしており、総合的に見ても彼女は理系の方が得意であるため、葵生はすっかり彼女も理系に進むものだと思って心積もりをして、共に机を並べられる時間が増えることを期待しているのだった。
 光塾内では、総合成績では誰にも負けない葵生が、どうしても単科目英語だけは椿希に負けてしまうのは、いくら勉強をしたところで決して追いつかないのではないかと諦めの気持ちを起こさせるほど、歴然とした差があった。英語の成績も順調に伸びていた葵生は、塾内でも常に上位に位置しているものの平均点の低い難しい試験になると、それに相応して葵生の得点も低くなる。だが、それを嘲笑うかのように、椿希だけはその影響を全く受けず、全ての試験で九割以上を簡単に取ってしまうのだから憎らしいとは思うけれど、もちろん心底恨んでいるわけではなく、そんな手強い彼女だからこそこんなにも自分の心が惹き付けられているので、惚れた弱味だからこういうのは仕方がないと苦笑するばかりだった。
 いつかはきっと、と思っているけれど、こんな現状もまた葵生としてはなかなか楽しいように感じるので、ずっと彼女が葵生の興味を引き付けるような良き競争相手であって欲しいとも思うのだった。わがままなことかもしれない、とは自分自身でも思っているようだけれど。

 一月になって寒さもさらに一段と厳しくなり、頬を刺す冷たい風が叩きつけるように吹き付けてごうごうと窓を揺らしている。部屋の中の暖かさと外の寒さの差に体がついていかず、風邪を引いて塾を休む学生もちらほらといるという。塾生の中にインフルエンザに感染したといって休んだ者はまだないものの、今年の風邪はやけにしぶといらしく、センター試験を受けた三年生たちは、体調不良のため頭がぼんやりとしていたり、体がだるくて実力を発揮することが出来ず、十分な結果を出せなかった者も数名いたというからなんとも気の毒なことである。
 その風邪の影響を椿希は受けてしまっていて、このところは熱のために顔が赤く火照り、節々が痛いと言って服を何枚も重ね着していた。元々ほっそりとした体型の人なので厚着をしてもそれほど着膨れしていないところが、華奢ではないのに本当にたおやかで、しかし痩せ過ぎていないのが触れてみたいようなので、薄着のときよりもかえってどきどきと緊張させられてしまう。
 やけに長いこと続く体調不良が日に日に椿希の体力を奪っていくようで、見ていると儚く消え行く露のようなのが恐ろしくて、葵生は以前にも増して彼女のことを注意深く見るようになった。あまり顔色には出さない椿希だからこそ、無理しているのではないかと気が気でないのだ。とうとう堪らず、
 「随分と長い風邪だな。無理して勉強して、俺に英語の成績を追いつかせまいと毎晩遅くまで必死なんだろうけど、そんなに根詰めなくてもそう易々とは追い抜けないよ」
と言った口振りが、どうもからかっているようなものでしかないのが、素直に気持ちを表せないためなので、言いながらも情けなさに呆れるばかりであった。椿希は、
 「そんなことを言うなら、葵生くんに伝染しちゃおうかな」
と冗談で返すのが愛らしく思えて、一体彼女のどこに不足があろうかと思える。
 気が付けばもう一ヶ月ほどずっと、ぐずぐずと風邪のような症状が出続けているので、流石に体の調子が悪いのを隠しきれず、塾が終わって建物の外に出たときに皆はしばらくの間立ち話をしていることがあるのだが、椿希は話に加わらず、誰にも気付かれないようさっと先に帰ることが多くなっていた。表情には出さなくても、椿希のことをよく見ていれば分かることなので、それを葵生に気付かれてしまっていたことが決まり悪く、椿希は恥ずかしそうに困ったような笑みを浮かべた。
 「おかげさまで聖歌隊にも参加出来ずにいるから、本当に困ったこと。早く良くなればいいのに」
と、ぼやきながら辛そうに言うのが心を捉えて離さないので、葵生もまた頬を赤らめて視線を逸らした。

 その日もまだ体調が戻らない椿希は、塾が終わると誰よりも早く教室を出て、目立たぬように先に帰ってしまった。椿希が出て行く後姿を見送りながら、あのとき大きな溜め息が思わず漏れてしまった。こんなにもずっと見詰めているのに、それを無碍にするかのようなあんまりなつれない態度が悲しくも切なくて、目を伏せるのだった。
 桂佑は塾生の中でもとても如才ない人柄で、葵生がどうやら椿希に気があるらしいことには気付いていたので、わざと、
 「切ないな、こんな類稀なる男前から思いを寄せられていても冷たく返す女がいるなんてな。本当に見る目がないよな。まあ、椿希も相当な美形だから意外と綺麗な男は好みではないのかもしれないな」
と言ってやると、葵生は顔を赤らめながらわざとさりげないふりをしている。やはりそうだったのか、と当て推量が当たったことに桂佑は少し呆れてしまっていた。色恋沙汰には疎すぎるぐらいの葵生を見ていると、歯がゆくて色々と口出しをしたいところではあるが、それはあまりにもでしゃばりすぎだろう。そうではあるけれど、もじもじとしていてこのままだと一向に進展しないのもまた葵生にとっては苦痛だろうと思って、
 「葵生がその気になれば椿希だって靡くと思うんだ。ただ葵生の気持ちがどこまで椿希に通じていることか。葵生がいくら思っていても、葵生は態度にもほとんど出さないし口ぶりもただ友達をからかっているだけにしか見えないから、椿希は葵生の好意に気付いてないかもしれないなあ。同じことなら、桔梗の方がずっと分かりやすいから桔梗のには気付いてるかもしれないけれど」
と、少し厳しいかもしれないがそのように言ってみると、葵生は顔には出さないものの、やはり堪えたのか視線が定まらず、目を伏せながらあれこれと考えているようであった。
 「俺はそんなに複雑に考えて接しているつもりはないけれど」
と、葵生は思わぬ指摘を受けて頭が混乱してしまったようだった。人が相手となると自分の我侭だけを通すわけにはいかないし、相手を思い遣らねば良い関係は築けない、と考えている葵生は余計なことを口出さないことこそ椿希への思いを示す術としていたので、桂佑にそのようなことを言われるのは心外なことだった。とはいえ、桂佑の言っていることも分からないでもないので、時間が経つにつれ気が重くなってきて、気持ちはすっかり塞ぎこんでしまったのだった。
 そう言われれば確かに椿希は誰に対しても同じように笑顔を向け、分け隔てせずに会話をしているので、それに気付かず椿希の傍にいて話すことが出来るだけで舞い上がってしまっていたのが、なんと愚かなことだろうと嘆息せずにはいられない。そうこうしているうちに、また長い曇り空の日が続いていた。

 椿希の体調は少しずつ戻ってきたらしく、一月の終わり頃になると笑顔も柔らかいものになり、塾が終わってからの談話会にも参加するようになったので、ひとまず葵生は安心といったところなのだが、こんなに心配していたことを椿希は少しも気付いていないのだろうかと思うと、遣る瀬無い気持ちは持ち直しそうにない。
 さらに椿希が光塾において、二年次には文系に進むことが明らかになったため、葵生を一層塞ぎこませるようなことになり、脈などないのではないかと心を煩わせてしまった。こうい同じ進路を取ると思い込んでいたのは葵生であって、椿希は一度も理系に進むと宣言したことがなかったので、恨むなどお門違いなのだが、何故それを言ってくれなかったのかと残念で悔しくてならない。桂佑に言われたにも関わらず、こんな一方的なことばかり考えるのはなんとも幼いようである。
 葵生のほか、笙馬も同じように思っていたらしく、
 「意外だったよ。理系に進むんだと思ってたから。でも、これで妥子も安心するだろうね。いつもは男勝りに強がっているけど、やっぱり椿希ちゃんのことは一番の友達だと思ってるみたいだから」
と言っていたのだが、笙馬の言うことと葵生の言うことでは目線も彼女への感情の持ち方も違うのだから。桔梗は、
 「だけどやりたいことがあるなら、友達のことはともかくとして、そっちに行った方が断然いいよな。まあ、英語の授業は成績別になるみたいだから、俺は英語だけでもせめて同じで、というつもりでいるけどね」
と、さも椿希が文系に進むのを先に知っていたかのような口ぶりであったので、葵生は桂佑の言うとおりで、椿希は葵生よりも桔梗に心を開いて何もかも相談しているのではないかと、僅かながら嫉妬心も芽生えてきたようであった。
 そんな葵生を見て、桔梗や笙馬が葵生から離れて二人で何やかやと話を始めたので、妥子が頃合を見計らったように葵生のところへ来た。様子を窺うようにしていたが、葵生がぼんやりと椿希を見詰めたまま立ち尽くしているので、妥子も見兼ねて、
 「桔梗くんの言うとおり、英語は成績順に振り分けられるから、葵生くんは文句なしに同じ授業を受けられるよ。いや、そんなことは関係ないよね。問題にしてるのはそんなことじゃないよね。
 私は椿希が文系に行くことは知っていたけど、葵生くんだけじゃなくてほかの誰にもそのことは言わなかったはずよ。さっき桔梗くんが言ったとおり、やりたいことがあるからって文系に進んだわけだけど、あの子もあの子なりに思い悩んでいたみたいだから、誰かに口出しをされて自分の意思が見えなくなるのを恐れたのかもしれないし、文系に行くと決まりそうなときに決心を揺るがすようなことを言われたらたまらないと思ったのかもしれないね。本当のところはどうだか分からないけれど」
と、苦笑いしながら言った。椿希を自然と庇うような口振りになってしまったのを気にして、葵生は嘆息しながら、
 「やっぱり君には言っていたのか。理系は男子が多いし彼女は人気があるから、皆が引き止めるかもしれないのは確かに杞憂ではないと思うけれど。それにしても、何もかも決まった事後に言われるのと、事前に言われるのとではこんなにも気持ちの持ちようが変わるなんて思いもよらなかった」
と、驚き呆れながら、さも心から恨んでいるかのように言った。葵生は桔梗も知らなかったらしいというところには少し安心したものの、それでも不満は心に深く根付いてしまっていて取り除けないでいる。妥子は、放っておけばいくらでも異性は寄って来て困ることのないであろう容姿と、この年齢ながら妖しくも艶やかな声色や仕草などから感じられる、何かに魅入られたように心が惹きつけられそうになるような独特の雰囲気を持つこの目の前の男が、ほかの女子には目もくれず、ただひたすら椿希のことだけを求めて止まないというのが、物珍しくてならなかった。
 「この際だから言ってしまうけど、これから話すことはしばらく言わないで欲しいの」
と、前置きをした妥子を不審に思って、葵生は横目で椿希を見ると、妥子と向き合って頷いた。
 「実は来月から椿希は一ヶ月ほど、アメリカに行くの。語学研修として行くことになるんだけど、学校からの補助金が出るからって、毎年希望者が殺到するの。面接と英語の成績が考慮されて派遣者が決まるわけだけど、当然椿希はそれに選ばれたわけ。場合によっては数週間延長するかもしれないから、最低一ヶ月という言い方の方が正しいかな」
 葵生は思わず「アメリカ」と叫ぶような大きな声で言ってしまったが、それを「しっ」と妥子が鋭く制したので、誰にも気付かれずに済んだらしい。妥子の目が「気をつけて」と無言で訴えている。
 「誰も『行くな』とは言わないと思うけど、椿希が外国に行くことでやっかむ人たちもいるでしょう。そういった雑音を耳に入れたくなかったのかもしれないね。そういう負のことは滅多に口にしない子だから、椿希がそう言ったわけじゃないんだけど、私はそうじゃないかと思ってる。昔から不言実行型だから、気が付いたら着々と準備していたことが多かったんだけど、さすがに私には付き合いが長いからか、思っていることもこうしようという心積もりをしていることも話してくれるようになってね。今まであの子が押し黙っていたのは、雑音を聞くことで自分の気持ちにぶれが出ないようにということだったんじゃないかと思うの」
 葵生はそれを聞いて、自分が椿希にとってその他大勢の存在でしかないのだろうかと、胸も潰れるような思いでいた。葵生はそう思っているけれど、それはあくまでも葵生の主観であって、椿希にしてみればやはり葵生もただの塾の友達、という程度にしか思っていないのであれば、決して薄情なわけではないだろう。だが葵生はそこまで考えが及ぶほど、恋愛のいろはを知っているわけがないのだから、今まで自分の一人相撲だったのかと情けなく思うのだった。
 口止めされていたことをこんな風にあっさりと話してしまうなんて、もしかしたら自分も気付かぬうちに葵生に魅了されていた一人なのだろうか、と妥子は後悔した。恋ではないとはっきりと分かってはいるけれど、彼の肩を持って同情してしまうなんてやりすぎだっただろうかと、葵生がうっかり口を滑らせて椿希にそのことを言い出さないだろうかと心配になる。

 冬の厳しい寒さが体の芯にまで突き刺さるように感じられ、白い吐息が浮かんではすぐに消えていくのを見て、しんみりと沈んだ気持ちのままぼんやりと椿希のことを思っていた。秋も切なさや様々な情趣を感じながら、恋とはこういうものなのだろうかとしみじみと思うことがあったけれど、冬になると枯れ葉さえ辺りにはなく、いっそ雪でも降ってくれれば心がいくらか慰められるだろうに、曇りがちの天気では何もかもの色が灰色に見えて寂しく、心までも外に出たがらず、塞ぎこんでしまいそうであった。
 人前ではいつもどおりにしているけれど、気持ちは今日の天気のように晴れ晴れとせず、憂鬱なのだが、椿希が自分から語学研修に行くのだと言わない限りは葵生もそれについて話をすることもできず、何度も何度も溜め息を吐いているのだった。
 元々葵生は口数が少なく、あれこれとでしゃばって喋る性質ではなかったので、そういった葵生の小さな変化になど気がつく者などいそうにないのだが、椿希がある日に、
 「どうしたの、葵生くん。最近元気ないよね」
と心配そうに声を掛けてきたのだった。それがなんと嬉しいことかと、単純なもので、たちまち心の澱みが消え去り、顔にも自然に笑みが零れた。
 「そうか。そういう風に見えただけじゃないか。俺はいつもと変わらないよ」
 相変わらず言葉はぎこちないけれど、椿希と久しぶりに会話出来たことも嬉しさの方が勝っていた。葵生は思い悩んでいたことを椿希が気付いてくれていたのは嬉しい反面、椿希に心の中まで見通されていたのではないかと思うと、なんとも恥ずかしいので顔を赤らめながらさりげなく視線を他所に遣った。
 こうしたことがあってからというものの、それまでは葵生は椿希との関係については、ただ傍にいて友達同士でも話が出来たらいいと思っていたのに、次第に彼女を独占したいという思いが膨れ上がり、些細なことでもいいから他の男よりも椿希に見てもらいたいと強く願うようになった。いっそ告白でもしてしまえば、椿希の心には葵生の存在が植えつけられるのだろうが、それによって良好な関係がぎこちないものになってしまうのが辛くてたまらず、葵生は深い溜め息と共に、さてどうしようかと思い悩むのだった。
 そうこうしているうちにも日は経ち、椿希はアメリカへ発つ数日前の塾の日になって、ようやく皆に語学研修に行くことを告げた。もちろん皆驚いて、興味深々な様子であれこれと質問をしたり応援する者もいたが、中には語学研修に行って付け焼刃の会話力を身につけたところで何になるのか、一年ぐらい行かなければ意味がないのではないかと意地悪なことを言う者もいたりしたので、そんなことを耳にするにつけ、葵生は椿希が頑なに直前まで語ろうとしなかったのももっともだと、椿希に変わって反論してやろうかと何度も口を開きかけたが、椿希が聞かぬふりをして水に流そうとしているので、差し出がましいことはするべきではないとして押し黙っている。葵生は妥子から聞いていたけれど、もし妥子から何も聞かず、ほかの塾生たちと同様に今になって初めてそのことを聞いたのならば、さて、どういった態度であっただろうか。


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