妥子は一人、学校からの帰りの電車に乗っていた。いつもは椿希と一緒に帰るのだが、聖歌隊のクリスマス公演が近いので、朝の登校前と昼休みの練習に加えて、授業が早く終わる水曜と土曜の放課後も練習が追加されたためだった。朝が苦手な者にとってはとても辛い練習に違いないが、学生たちが次々と登校する時間帯に、煉瓦造りの礼拝堂の方から美しい合唱が、朝の霧がかったしんみりとした木々の間を縫うようにして風に運ばれて聴こえて来るのが、緑の多い学校の敷地内にいると、まるで静寂の深々とした森の中にいるように思え、そしてこの上もなく清らかで心も洗われるようであった。 授業が午前中で終わり、塾のない土曜日はほんの少しの解放感からか、放課後は何をしようかと計画を練るので朝からそわそわと落ち着かないのだが、いつもはとてもしっかりとした妥子ですらそう思うのだから、さぞかし多くの塾生がそう思っていることだろう。 決して塾が嫌いで渋々通っているわけではないけれど、勉強をしに行っているのだと思うと、僅かながらに気が重くなるのだ。連れ、もとい椿希が一緒にいれば、たまには一緒にお昼御飯でも食べに行こうかと、生活指導の教師にばれないよう、こっそりと話し合ってうきうきとさせるのだが、生憎と相方はこれから数週間ほどは、放課後の予定はみっちりと埋まってしまっていて、なんだか恋人と疎遠になってしまったような切ない気分である。 電車に乗りながら、本当ならば途中で大型書店に寄りたいけれど、お気に入りのその書店は街中にあるので、大抵は生活指導の教師が監視に回っているらしく、寄り付かないほうが無難だと思い、家の近くの本屋にでも行こうとしていた。
県境を越えた駅で、妥子は下車した。最寄り駅ではないけれど、ここの本屋は比較的大きな方で、気になるものや流行りの本が置いてあるので、しばしば覗いていたのだった。 女性や年頃の少女の好きそうなファッション雑誌や恋愛本などには、妥子は興味がなく目もくれなかった。そのようなものを読むよりは、歴史小説や文学全集を読破することの方が意義があるように思えたし、知識もぐっと増えるので身のためになると、好んで呼んでいた。中学時代に流行った『燃えよ剣』は小学生の時に既に読み終えていたし、それ以後すっかり司馬遼太郎に嵌ってしまったので、昼夜問わず本の虫になって読み耽ったものだった。 さすがに中学受験を控えた頃には、趣味の読書も一時中断となったものの、中学入学後は行動範囲が広くなったこともあって、お気に入りの本屋を次々と発掘しては、興味深い新刊や既刊を探すのが楽しみだったのだ。古本屋に行けば、真新しい本ばかり並ぶ一般書店とは異なり、古い書物や少し黄ばんで年代を感じさせるものと本の匂いに囲まれるのが、本好きな妥子にとっては格別の趣を感じられて、わくわくとさせられる。 いつものように店に入り、まずは新刊から、そして次に出版社別に並べられた本棚を、じっくり吟味するように見詰める。すると、すっと背後に人の気配がしたと思ったら、「妥子」と声を掛けられた。男の声だったので、誰だろうと思って振り返ると、そこにいたのは綾部笙馬であった。笙馬は驚いたようにこちらをじっと見詰め、 「どうしてここに。妥子の学校も家の最寄りも、ここじゃないだろう」 と言った。驚いた様子ではあるが、ほんのりと頬を赤く染め、口元には微かな笑みが形作られていて、嬉しい偶然といったところだろうか。黒の学生服姿で着崩さず、ボタンも上から下まで留めてあるのが、いかにも中学時代に生徒会の副会長を務めた笙馬らしい真面目なところである。流石に首元のホックだけは、苦しいからなのか開けていたけれど。妥子からも、くすり、と笑みが零れる。 「私は中学時代からここの常連だよ。綾部くんは、ああ、そうか。高校が最寄りだったね」 今まで会うことがなかっただけで、二人ともこの本屋に足繁く通っていたのだと分かると、なんだか妙な縁があるように思えて、急に親近感が湧いてくるようであった。 「妥子はいかにも本をよく読んでいるっていう印象があるけれど、そんなによく読んでるの」 国語の成績はそういえば、いつも上位にいて、一位争いをしていたっけ、と思い出しながら笙馬は言った。 「うん。図書館にもよく行くけど、本当に気に入ったものはちゃんと買うの。手元に置いて、何度も読み返したいからね」 本当に読書が好きなのだろう、そのように語る妥子は一見普段と変わらないように見えるが、活き活きと話すのが珍しく、笙馬はもっと妥子のことをよく知りたいと思い、 「実は僕も本を最近読み始めたんだ。妥子に言われたことはもっともだと思って」 と言って、鞄の中から本を出して見せようとしたが、万引きしたと間違われては困るので、本棚の中から本を指差した。 「ああ、『二十四の瞳』ね。綾部くんのことだから泣くと思うわ。きっと」 そう言ってにやりと笑うのが、どうやら妥子は既にこの本を読んでいたらしく、笙馬は少し恥ずかしそうに身を竦めた。 光塾の男子だけなのかもしれないが、葵生も桔梗も柊一も桂佑も、その他の塾の友人たちも、皆自我が芽生える頃なのか、それとも自分の力量を誇示したくなるのか、あまり自分の劣る面を曝け出そうとしない。葵生の場合は無意識のうちにそうしているようだし、桔梗や桂佑は都合の悪いことは、臭いものに蓋をするかの如く、話題を変えるなり『なかったこと』にするなりしていた。 だから、素直で飾らず、自分の至らないところを認めて恥ずかしそうにしている笙馬が新鮮に思え、妥子は久しぶりにゆったりとした心で会話することが出来て、そのたびに安心感に包まれるようであった。 二人は話し込みだすと長くなりそうだったので、結局何も買わずに本屋を後にして、近くの公園に入って行った。夕暮時なので、水色の空の下からほんのりと橙色に染まる太陽が沈もうとしているのが、きらきらと目に眩しくて、赤く染まる頬も橙の光で消えてしまいそうなほどの輝きようであった。 公園のベンチに座り、自動販売機で先ほど購入したばかりのジュースを飲みながら、他愛のない話をとりとめなく続けていた。塾でいつもよく会うのに、周りに人がたくさんいるせいか、気兼ねしてなかなか話すことの出来なかったことを、つまびらかに思っていることや感じていることを話すのが、気持ちが開放されたせいだろうか、多少の言い過ぎたところもお互いにあったようである。勉強のこと以外でこれほどたくさん話す機会は、今までありそうでなかったことなので、同じ塾に通っている者同士でありながら、あまりにもお互いのことを知らなかったことが浮き彫りになり、いかに気を許していなかったことかと気付かされたのだった。 心を縛っていた紐を解いて、好きなことややってみたいことなどを語り合ううちに、実はずっと前から芽生えていたものが今日のことでさらに成長して大きくなり、笙馬は喉のところまで来ている思いを打ち明けようかと思い始めた。 腕時計を見ると、いつの間にやら、かなりの時間が経過しているのに気付いた。そういえばもうすっかり太陽が沈みかけていて、辺りの電灯が光り始めたのだから、相当の時間が経っているはずなのに、それすら視界に入っていても無意識のうちに流してしまうほど、話に夢中になってしまっていたようだった。 もうそろそろ帰らなければならない、ということに気付いてしまったのがなんとなく残念で、そのことが笙馬の気持ちを後押しした。口を開いて言葉にならずに躊躇い、しかしやはりこの機会にでもさっぱりとしてしまいたいので、 「もっともっと、本当は妥子のことを知りたいと思うよ。ずっと、そう願ってたことが思いがけず叶って、もう帰らなきゃならないっていうのが残念だよ」 と、気持ちを仄めかすと、察しのいい妥子がそれに気付かぬわけがなく、笙馬を見詰めながら、次の言葉を待っていた。もう帰ろうかとベンチから立っているけれど、こうして見ると、葵生がよく小柄だと言われているけれど、笙馬の方がさらに小柄のようである。葵生と笙馬だと、葵生の方が顔が小さいからなのか、並ばない限りは小さく見えるが、こうして初めて笙馬と向かい合ってみると、椿希にすら背丈は及ばないのではないかと思うほど小柄であった。 仮にも男性である笙馬に『可愛い』と言うのは失礼かもしれないが、妥子は今の笙馬を形容するならばどの言葉が一番相応しいかと思うと、その言葉が最もしっくりくるように思え、ほんのりと心も惹かれるようであった。 「僕が知りたいと思うのは妥子のことだけであって、だから、その、上手くは言えないけれど、僕はずっと妥子に憧れていて。だから」 しどろもどろになりながらも、どうにか言葉を繋げて伝えようとしているのが、笙馬の誠実な気持ちが手に取るように分かる。笙馬のそんな人柄は、あの葵生よりも遥かに勝るのではないかと思えるほど生真面目で、妥子はこういう人が自分には合っていいのかもしれないと思っていた。 「だから、僕と付き合って欲しい」 日本語としての文法がどこかおかしいような気がしたけれど、どうにか言い切れたことの安堵感と、もっと自然に言いたかったと足掻く気持ちとの両方が、笙馬の心の中に存在していた。とても大人びていてしっかりとした観念の持ち主である妥子が、身も心も子供っぽいところがあるといつも自嘲して止まない自分を受け入れてくれるだろうか、と笙馬は不安だった。笙馬は、もし妥子が受け入れてくれるのならば、妥子に相応しい男になれるよう努力は惜しまないつもりでいるので、祈るような気持ちで堅く手を握り締めて、何秒かの時間が何時間にも思えるほど、強く何度も繰り返し念じた。 妥子の体が少し動いて、じゃり、と公園の土の音が耳に入った。それと共に笙馬の体を金縛りのように縛っていたものが解け、笙馬は妥子の顔を見詰めた。 「私たちは高校生に過ぎない、ということをお互いに弁えられるのなら」 あんなに緊張しながらようようのことで言葉を発した笙馬に反し、妥子の声はとても落ち着いていて自然なものだったので、ますます笙馬は恥ずかしくなったが、妥子の言葉が耳から入ってゆっくりと頭に達すると、ようやく意味が理解出来て笙馬の口はぽかんと開いた。 「こちらこそ、よろしくお願いします」 その言葉が間違いなく自分を受け入れてくれるものだったので、笙馬は笑っているのか嬉しくて泣き出しそうになっているのか、自分の顔のことなのにそれすらも分からないほどくしゃくしゃにさせながら、妥子に抱きついた。 「ありがとう」 ほかのことはもう何も考えたくなくて、笙馬は何度もその言葉を繰り返しては、心の中で誓ったとおり、これからは生まれ変わるような気持ちで、妥子に相応しい男になろうと思っていた。妥子は、こんなに純粋で擦れたところのない笙馬を守ってあげたいと、笙馬の背をあやすように撫でていた。こうしていても、色めいたというよりは子供が母親に抱きついているだけのように思えて、妥子は少しそれが不思議な感覚に思えたけれど、葵生のような気の張る相手と付き合うよりは、遥かに笙馬の方が地に足のついた交際が出来るような気がして、これはまたとない良い相手かもしれないと密かに思っていた。 二人の姿は人気のない公園の中、夕暮に染まる淡い光に照らされていた。うっすらとした頼りない光で足元が危うくなりそうなのを、電灯が遠くから白く照らして守っている。笙馬はそっと手を差し出すと、妥子が重ね合わせ、繋いだ状態のまま、互いの最寄り駅まで離すことはなかったのだった。
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