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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第13回   第一章 第三話 【夕暮】3
 まだまだ暖かい日が続くのだろうと思っていると、いつの間にか季節は薄茶色の似合うしんみりとした風情の溢れるものに移り変わり、少しずつ色で表すならば寒色が濃くなっていくようであった。昼間はそうでもないけれど、夜になれば上着を羽織っていなければ少しひんやりと肌寒いものになり、人々の感覚時計を置き去りにして移ろい行く季節が、なんとも無情なもののように思えてくるようである。
 気の早い街路樹はもう地面に葉を落とし、その上を歩く人々の靴と葉が擦れ合うたびにかさかさと軽い音が立つのが秋らしさを耳からも感じさせるものである。商店の主たちは日に何度も店前の落ち葉を掃いているが、それも追いつかないほど風が吹くたび葉が舞い落ちるので、常に道には葉が、かさかさとした音と共に絨毯のように敷き詰められているのだった。
 秋晴れの空は春のうららかさとはまた異なっていて、天まで突き抜けるような澄み切った空の色が眩しく、どちらも甲乙付け難いほどに過ごしやすい季節である。昔は断然、色とりどりの花が咲き様々な植物が芽吹く春だと言っていたのだが、少し大人になったからだろうか、葉が色鮮やかに黄色や赤に染め変わり、辺りの景色の色までも変えるような、どこか故郷を思わせるような秋の季節も好きだと思うようになった。だから今ではどちらが好きかと問われても、難しいところだと葵生は思っていた。
 ただ近年は花粉が飛び交うせいだろうか、春の方が好きではないと友人が言っていたが、秋でもその他の花粉で悩んでいる人がいるらしいから、花粉症の人にとっては春も秋も花粉が飛んでいる限りはなんとも言い難いのかもしれないけれど。
 塾が終わって外に出ると、空がもう色を失くして黒々としているのを見ると、ちゃんと授業を聞いて勉強をしていたはずなのに、なんだか無駄な時間を過ごしたような気がして虚しさを感じてしまう。葵生はこの瞬間が好きではなかった。
 「ああ、冬の星は一段と綺麗だからまた天体観測でもしたいなあ。ここからじゃ星もほとんど見えやしない」
 独り言のように呟きながら空を見上げると、空には雲で少し朧になった月と、とりわけ明るい星が僅かに見えるだけだった。あの無数の星たちは一体どこへ行ってしまったのか、本当に空に存在するのだろうかと疑うほどに全く見えないのだ。
 「お前みたいないい子の優等生は、街中を夜遅くまで闊歩したことなんてないんだろうな」
 桂佑がにんまりと笑いながら言った。葵生は黙って頷くと、小さく溜め息を吐いた。
 いくらもう大人と変わらないとはいえ、世間的な年齢はまだ未成年であり、もっと年長の人たちからすればまだまだ青臭い少年に過ぎないと見なされるのだろう。そういった風に見る大人たちに反発するかのように、街中を歩きたむろする高校生がいるのも知っているし、制服も大きく着崩して日焼けして真っ黒に肌を焦がし、髪を茶色や金色に染めて、本当に校則でそれが許されているのかと思うほどの格好をしている高校生がいるのも知っている。そして、そういった高校生たちを取り上げて『今時の高校生』として括られることに憤りを感じながらも、内心はそれを平然とやってのける同世代の学生たちを羨ましいと思っていた。
 「俺だってさ、髪を染めて逆立てて悪ぶってみたいと思うんだけどな」
 ただそんな格好をしている学生が染井にいるはずもなく、思いは憧れに留まるだけなのだが。大体そのようなことをすれば母親から、くどくどと何時間も説教を食らうことは明白だからするつもりはないけれど。
 高校生になって行動範囲はいくらかは広がったようだけど、まだまだ籠の中の鳥のような感覚が否めないためか、大学に入って自由を手に入れたいと葵生が思うのも無理はなかった。小学生の頃からずっと、親の監視下に置かれているような生活を過ごすのは、もう高校生になって様々なことに気を巡らせることが出来るようになった今では、もう耐え難く辛いことのようになってしまったのだ。

 葵生は椿希のことを気にしながらも、一向に進展しない関係をどうにかしたいと思ってはいるが、これといった手を打つことも出来ずに今日もぼうっと彼女の姿を眺めていた。
 椿希は明るく誰とでも気兼ねせずに話すことの出来る性格で、元より備わっている美貌も葵生のような近寄り難いものではなく親しみやすさを感じさせる、ぱっと花が咲いたような華やかさがあり、それに惹かれるようにして周りに塾生たちが集まっているのだった。誰が話しかけても変わらぬ愛嬌のある対応をし、時におどけた口振りや態度を見せるのが彼女の魅力をさらに引き出しているようである。
 「ああ、わざとらしいこと。美人さを鼻にかけているなんて下品も甚だしい」
と、嫉妬する女子塾生が数名ほどいるのを聞くにつけ、葵生はうんざりするような気持ちでわざとらしく溜め息を吐くのだが、そういった悪口も馬耳東風といった様子で流してしまっている椿希の本当の気持ちはいかばかりであっただろうか。
 ある日の会話の中で、歌劇について話が及んだことがあったのだが、歌劇については妥子やゆり子が特に詳しく知っていたためか、この二人を中心に話が進んでいった。幼い頃からよくビデオでミュージカル映画を見ていたという二人は、実に多くの演目について知っていて、普段はあらゆる話において聞き手に回るゆり子が、饒舌に妥子と話し合っているのが実に珍しいことであった。
 「それにしても椿希は本当にそういった歌劇の女優さんになれそうな気がするよね。中学で初めて出会ったときに、第一印象で『あっ、男役が似合いそう』って思ったもの」
 妥子が言うと、ゆり子が何度も頷きながら同意した。
 「そうそう、つーちゃんはこのまま一般人として過ごすのは勿体ないよ。せっかく聖歌隊にも入っているんだし、背丈も高いし手脚も長くてスタイルがいいんだから。音楽学校に入って女優さんを目指せばいいのに」
 以前から思っていたことを妥子も同じように思っていたというのが嬉しくて、ゆり子は少し興奮したように声を上ずらせながら言った。
 「椿希、受けちゃえよ音楽学校。俺も行けるような気がするよ」
 桔梗まで後押しするので、椿希は照れ笑いを浮かべながら「とんでもない」と否定している。その周囲にいた者たちは、皆一様に椿希が舞台の眩い何色もの光を浴びて、歌を歌い軽やかなステップを踏んで踊るところを思い浮かべていた。あまり舞台について詳しく知らない者たちでさえも、容易にその姿が想像出来るほど、椿希が舞台に立っているのは自然なことのように思えたのだった。
 「ありがとう。でもね、私にはやりたいことが別にあるから、そっちには進まないつもり。ごめんね」
 椿希がそうきっぱりと否定したので、皆はがっくりと肩を落としたが、なおも妄想を膨らませては二人で語り合っている者もいたりして、この話題はまだ収まる気配がない。椿希にいくら勧めても本人が心底乗り気でないのを知って、周りもようやく落ち着き始めたけれど、それからは身近なスターのような存在として見なすようになったためか、椿希のことを芸能人のように思う者も現れたのだとか。

 同級生たちからの羨望を集めてきらきらと輝くような椿希を、自分とは格が違うのだと思いながらも、嫉妬にも似た醜い思いを持ってしまうのは致し方ないことだろうか、と思うのは大隈茉莉であった。友人のゆり子までもがすっかり椿希に惚れ込んでしまったらしく、学校でも茉莉に話し掛ける話題がそのことばかりなので、いい加減にうんざりしてしまって、茉莉は拒絶反応のようなものを示すようになってしまっていた。
 ましてや、塾内一の美少年との呼び声も高い葵生までもがどうやら椿希のことが気になっているらしい、と聞けば茉莉の心が憂鬱に塞ぎこんでしまいそうなのも無理のないことであった。
 人間にはどこかに取り得があるものなのに、何かと自分を卑下する癖のある茉莉には、知性でも顔立ちでも性格でも椿希に劣ると思い込んでしまっているから、椿希の姿を見ているだけで辛くなってしまう。また、葵生と椿希が並んだ時にお見事としか言いようのないほど、しっくりと似合っているのが、一層茉莉に劣等感を持たせることとなったのだった。
 「なんで天は二物も三物も与えるんだろう。私なんて一つも与えられているっていう実感がないのに」
 盛大な溜め息と共に愚痴っぽく同じようなことを何度も繰り返すのは、余程今の境遇が気に入らないからなのだろう。せめて頭がもう少し良ければ、せめて顔だけでも可愛らしい女の子のようであれば、と思うのは贅沢なことだろうか。ほんの少し良くなるだけでも、きっと葵生に積極的に話し掛けることも出来るだろうし、椿希に対してもこんなに嫌な思いを抱かなくても済むんじゃないかと思うと、茉莉はやはり自分の哀れな身の上を呪わしく思わずにはいられなかったのだった。
 学校も椿希や妥子の通っている女子校に到底入学出来る程度の学力がなかったため、いくつも程度を落として選んだのが、今通っている大学の附属高校であった。光塾に通うことで学力が伸びれば外部受験をすれば良いし、最低でも内部進学することで大学に上がることが出来るだろうと皮算用をした両親が選んだ学校だから、茉莉も学校に対して思い入れなどなく、ただなんとなく過ごすだけでいたのだった。
 かったるい授業、眠くなる雰囲気の同級生たちとのぬるい会話、塾に行ったところで勉強に真剣に身が入るわけでもない。就職難だのリストラだのと叫ばれている今日この頃だが、事業が上手く行っているらしい茉莉の父親の会社はそんな不況の煽りをほとんど受けていないらしく、万一の時には父親の秘書にでもなって適当に勤めて、お見合い結婚でもして家庭に納まるのだと勝手に思い込んでいる茉莉は、茉莉には甘い両親の考えなどお見通しだったのである。大学に両親が進学させようとしているのも、社長令嬢たる茉莉に箔を付けるためのものであって、結局は放任なのだということを茉莉は随分昔から見抜いていたのだ。だから、高校は卒業出来れば良い、大学も内部進学でそのまま適当なところに行ければいいという甘い考えを持っていたのだった。そのうえ、とても我侭に育ったのであった。
 社長令嬢になんて生まれなくても、美人で頭が良くて多くの人に好かれるような人格を持つ子でありたかった、と茉莉は寂しい気持ちを抱えながら、塾に来るたびに自分を低く貶めるのであった。
 ゆり子が学校で楽しそうに友人たちと話しているいつもと変わらない風景でさえも、その日は一段と機嫌の悪かった茉莉の気を触れさせることになり、苛ついた気持ちが心を占めて吐き出してしまいそうであった。何も知らないゆり子は他愛もない話をしているだけなのだが、積もりに積もった思いが堰を切ったようになって、とうとう、
 「もういい加減にしてよ。私ばっかりどうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの」
と、大声で教室いっぱいに聞こえるように叫んでしまったのだった。何の脈絡もなく突然喚いた茉莉を、同級生たちが怪訝そうな目で一斉に見たので、後に引けなくなった茉莉は顔を真っ赤にさせたままわなわなと腕を震わせて立っていた。
 「どうしたの茉莉、ヒステリーは良くないよ」
 ゆり子がそっと声を掛けると、茉莉はゆり子を睨んだ。ゆり子がびくっと体を小さく震わせて萎縮したのを見ると、茉莉は訳の分からない怒りの感情をぶつけきらなければ引っ込みがつかなくなって、周りの机や椅子を蹴ったり薙ぎ倒したりして暴れたのだった。
 「大隈」と言って男子たちが取り押さえようとするが、ほとんど理性を失っているようにしか見えない茉莉を無理矢理黙らせるにはどうしようかと、おろおろするばかりで皆手をこまねいて見ているしかなかった。
 そのうちに茉莉は体をわなわなと震わせ、視界がふっと黒く暗転したかと思ったら涙が目からぽろぽろと零れ出し、ひくひくと胸が痙攣を始めてその場にぺたりと座り込んだのだった。その様子が、あまりにも常軌を逸した様子だったからか、周りもすぐには体が動かず、呆然と立ち尽くしているばかりであったが、誰よりもいち早く我に返ったゆり子が茉莉の体を摩り、茉莉の名前を叫んでいた。遠ざかる意識の向こうでそのゆり子の叫びが聞こえるが、荒々しく息も整わない中で色々と考えたり見たりすることが出来るはずもなく、茉莉はゆり子に支えられながら自分の体の異変だけを冷静に感じていたのだった。
 塾に来てそんな話を桂佑にすると、
 「よくそんな状態で来たな。今日は休めば良かったのに。大体お前は」
と、くどくどと説教を始めようとするのが鬱陶しくて、茉莉は大袈裟に耳を塞ぐ素振りを見せながら、桂佑にそれ以上喋らせようとしない。茉莉自身も何故あの時大暴れをしてしまったのか自分でも分からないほど、ひどく混乱していたこともあって、出来るだけ思い出したくないと思っているというのに、その時のことを思い出させるようなことを言う桂佑が憎らしかった。
 「ねえ、茉莉ちゃん。それってもしかして過呼吸だったんじゃないの。苦しかったでしょう。ちゃんと紙袋を用意して処置は出来たの」
 椿希が冷静にそう言ったのが救いのように思えて、茉莉は表情を明るく変えると、
 「うん、そうだったみたい。初めてだったからびっくりしちゃったし、みんなもうろたえてばかりで。先生が後で来てくれてどうにかなったし、あたしも過呼吸ならそれほど心配いらないと思って来たんだ」
 まさか過呼吸とは思わない級友たちは救急車を呼ぼうという騒ぎになり、教室内は動揺ばかりが立ち込め、おろおろと教室内を歩き回る者もいれば、他所のクラスからわざわざ野次馬のように見に来る者もいたり、「誰かが倒れたらしい」と噂を吹聴して回る者がいたりして、全く落ち着かない雰囲気になっていた。あの時に椿希がいてくれたら、そんな余計な同情も騒ぎ立てもせず、適切な処置をしてくれて、もっと早くにこの騒ぎを鎮めてくれたかもしれないのに、と茉莉は心底思っていた。
 あんなに椿希のことを目の上のたんこぶよろしく、うざったい存在のように思っていたことも恥ずかしく思え、茉莉は都合良く椿希を扱おうとしているのが情けなくて彼女の顔をまともに見れそうにない。だが、あのように羨望の裏返しで憎らしいと思っていたのだということに気付くと、椿希に対してはただ、憧れの気持ちが増幅して行きそうである。
 「過呼吸は何度も起こるものらしいから、気をつけてね」
 椿希だけがこのように優しい言葉をかけてくれているのだと思うと、自分の醜い心までもが清められるような気がして、茉莉も僅かに目の端に涙を浮かべながら、「ありがとう」と言った。
 「過換気症候群か。これからは紙袋を持ち歩いた方がいいな」
 葵生がぽつりと椿希を見詰めながら言った。茉莉に対して言ったのではないというのが明らかではあったけれど、茉莉は頷いた。自分に対しての言葉ではなくても、自分の過呼吸の話題について葵生が何か喋ってくれたのが嬉しいと思うなんて、一体どれほどそれまで葵生に冷淡に扱われていたかを思い知らされることでもあったが、茉莉は二人の間の会話の中に自分がいるような気がして、その時だけは少し幸せかもしれないと思ったのだった。


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