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作品名:星屑の詩 作者:柳原奈生

第11回   第一章 第三話 【夕暮】1
 その年の夏は、例年にも増して、何もせずにじっとしていても汗の滲む蒸し暑さで、すぐに衣服は湿り、冷房の部屋に行くと冷気によってその濡れた服がひんやりと冷たく、外と内の温度差に体がついていけず、体調を崩す者も多くいたものだった。冷房病といって、あまりにも長時間冷房の効いた部屋にいたがために、真冬でもないのに冷え性の女子塾生がぶるぶると震えだし、分厚い上着を何枚も羽織って授業を受けていた光景が、葵生には物珍しく思えたのだった。
 女性は総じてこういった冷えに弱いのだと聞いていたし、そういえば家族を見ていてもそうだったと思うと、こういう時でも真っ先に気掛かりなのは椿希がどうなのかということで、彼女の様子をちらと見ると、椿希もまた何枚も重ね着をしているわけではなかったが、やはり上着を羽織って授業を受けていたので、やはり彼女も寒いのだろうかと、人知れず案じずにはいられない。
 結局椿希は葵生が心配したとおり、夏の終わり頃に風邪を引いて、特に鼻の通りが悪くなったのと喉が乾燥していがいがしているらしく、何度もくしゃみを繰り返していたのだった。
 「この分だと歌も歌えない」
と、悔しそうにしているのが可哀相で、早く治らないかと葵生は祈りながら見守るしかない。夏風邪は長引くというように、一旦良くなったように見えてもまたすぐに元通りになってしまうことを繰り返していたので、すっきりとしないまま、椿希は喉だけはなんとしても治さねばと、生姜湯を飲んだりのど飴を舐めたりと、彼女なりに努力はしているようだった。
 そんなことをしている椿希に代わって自分に伝染(うつ)ってくれればいいのに、と思うほど、葵生はもうすっかり椿希への思いを強くさせてしまっていて、寝ても覚めても片時も彼女のことを忘れようともしない。それどころか、夏期講習が終わって通常授業でも週に二度は会うことが出来るというのに、「明後日まで会えないなんて」だの「今日はあまり話が出来なかった」などと、思い詰め過ぎて心が塞がったようにも思える心地で日々を過ごしているのである。

 そうやって思いを溜め込んでいるうちに、知らず季節は秋へと移り変わり、あの猛暑も一体どこへ行ったのやら、気付けば衣服も長袖になっていて過ごしやすい気候になり、うららかな空の下に、色づく少し前の銀杏の木がすっと立っているのが風情ありげに見える。人の格好も、軽すぎず重々しくもなく、春の浮かれたような気分にさせられる柄ではなく、落ち着いた色合いのものでこざっぱりとしているのが、品良く見えて感じの良いように見受けられる。
 葵生は制服を早くも学生服に切り替えていた。学校にいるときはちゃんと着ているか、脱いでいるかのどちらかなのだが、塾に制服のまま行くときには学生服を少し着崩して、ボタンを全て外して中に着ている物をわざとさりげなく見せるようにしたり、上だけいくつか外して少しだけ中が見えるようにしたりと、学生服で洒落たことをするのだから、女子塾生たちからはまたも葵生を見詰める視線が熱くなってしまうのだった。
 それがわざとなのかそうでないのか、周りからは分からない。ただほとんどが塾に来てから葵生がそのように着崩していることを思えば、まあ彼女に見てもらいたいのだろうということが察せられるが、ボタンを外すのがどういった時かというところまで目ざとくしている者もいなかったのだけれど。
 そんな風になんとか彼女の気を惹こうとしている葵生だが、これ以上踏み込んだ関係になるよりは、いっそのことこのままの関係を続けていこうかという思いが出てきたので、自ら積極的に彼女に恋心を抱いていることを悟ってもらおうと努力はしないでいた。面倒だからというのではなく、この関係が気楽で丁度良い距離感で心地良いからだった。それに、何より椿希が女子校に通っているということで、やきもきさせる相手が現れる様子はないし、そう容易く彼女が男の誘いに靡くような浅はかな人間ではないということも、心を尽くして語り合ううちに分かっていたので、葵生はすっかり安心しきっていたのである。
 葵生が光塾で得た初めての感情は、間違いなく恋というものだと葵生自身も気付いているけれど、さてその扱いようはどうすればいいのかと思っているうちに、どうやら高校の友人に恋人が出来たらしく、その話で持ちきりになったことがあったのだった。
 その子の容貌や学校、性格、どうやって口説き落としたのかなど、この年頃の男子が興味を持って当然のことを誰彼ともなく質問攻めにしていた。それはまるで尋問のようで、顔を真っ赤にさせて思わず耳を塞ぎたくなるような、大変際どい質問も中にはあったのだとか言うけれど、その彼も上手く曖昧にさせながらも、未だほとんどが味わったことのない甘い思いを吐き出していて、周りの友人たちを羨ましがらせていたのだった。
 葵生も面白がって二、三ほどからかうように何か言ったようだけど、さて普段は生真面目に振舞っている人が一体どんなことを聞いたのだろうか。ただ自身も初めて彼と同じように、身を焦がすような思いを経験しているだけに、きっととても的を射た鋭いことを訊ねたのであろう。
 葵生は訊ねているうちに、今までの人間関係がいかに淡白なものだったかと気付いて、少し反省しなければならないと、密かに思っていた。
 「そういえば、夏苅も塾に通っていなかったっけ」
 誰かがそう言うと、そういえばそうだったと他の者までが思い出して言い出した。
 「夏苅なら楽勝でしょう、彼女作るのくらい。いや、女に対しては口下手で無愛想だから無理かもなあ。そういえば三組の奴が『彼女いないんなら立候補しようかな』とか言ってたはずだけど、冗談なのか本気なのか分からないよなあ」
と雄弁に話すのを聞いて、葵生はうんざりするような抗議したいような気持ちに一寸なったのだが、女という言葉を聞いて椿希のことを思い出すと、心も鎮まるようであった。冷静に葵生は周りがあれやこれやと囃し立てるのを、楽しむことにして、腕と足を組んで椅子の背もたれにもたれかかり、悠然としていた。
 「ほら、そうやって座って足を組んでいるだけでも、十分に絵になるじゃないか。夏苅から言わなくても、女の方から言い寄ってくるだろうよ」
と、にんまりと笑いながら、さも色めいたことの経験がある様子で、別の友人が言った。それなら椿希がそうしてくれるのなら、どんなにか嬉しいことだろうと、葵生は何やら色々と思い浮かべてはにこにこと微笑んでいる。
 「追っかけの女子高生たちの中に、ほら、髪を一つに括った可愛らしい子がいただろう。俺なんてあの子みたいな子が追いかけてくれたら、喜んで返事して、すぐに付き合っちゃうだろうなあ」
 このように夢見がちに言う者もいたりと、皆それぞれに思うことが、自分の環境の応じて違うのであった。それにしても、先ほどまでのあの恋人の出来たという話がすっかり飛んでしまって、なんとなく哀れに思えるが、それよりもまさしく美少年と言うに相応しい葵生の恋の話となると、前の話を差し置いてでも盛り上げたくなるのであった。
 放って傍観していると異様な盛り上がりを見せ始めたので、流石に葵生も抑えなければと思って、
 「おいおい、ファンに手を出すなんて最低だぞ。そんなことをするまでもないと、皆が信じてくれてるようだから、俺もそうでありたいと思うね」
と言うと、「流石スターは違うね」と、ますます冷やかされてしまった。
 「そんなことより、実際のところどうなんだよ。お前に彼女がいないとなると、俺たちの高校生活での恋愛事は絶望的なんだが」
 真剣な顔でそう言うので、葵生も少々面食らったようになり、
 「そんなに深刻になられても困るけど」
と、言葉を詰まらせたが、すぐさま恋というものの甘い蜜の味を、少しばかり知っているので、葵生は優越感が滲み出てきて、どうにか友人たちを煙に巻いてやろう、という悪戯な心が芽生え始めたのだった。
 「そうだなあ、艶かしくない関係もなかなかいいもんだよ」
 初心(うぶ)な男子校育ちの友人たちは、互いに視線を合わせて、これはどういう意味なのか、推し量ろうとするけれど、これといった答えが思い浮かびそうになく、こればかりはいかに学力が優秀であってもどうにもならないことであった。ただ一つ言えるのは、どうやら葵生には親しい女子の友人が出来たらしいということぐらいであろうか。それぞれ思ったことはあったけれど、口々に言い合えず互いに顔を見合せるばかりであった。
 
 さてこんな遣り取りをすっかり聞いてしまった柊一は、どうしてもそのことを葵生に突っ込んで訊ねずにはいられなくなり、そっと待ち伏せをして一緒に塾へ行くよう図ったのだった。ここのところ葵生がどうも避けているのか、時間を後にずらしているように見えるので、連れ立って塾に行くことはない。二人きりで話をしようと思えば、塾内では到底出来そうにないので、この時くらいしか機会がないだろうと思ったのである。
 葵生が校門から出た後ですぐに、偶然を装って柊一は姿を現した。すっかり柊一が先に出たものとばかり思っていた葵生は、心外な顔をした。待ち伏せされるのも重苦しくて、自分の行動をまるでよく見られていたようで、良い心地がするものではない。偶然のようにしているけれど、そうではないことくらい、とうに見抜いていた葵生は、柊一があれこれ話すことに素っ気無い生返事ばかりをしていたが、休み時間の恋人がどうこうといった話に及んだ時になって、眉間に皺を寄せて不快感をあらわにしたのだった。
 「あの時、僕も友達のところに遊びに来てたから偶然聞いてしまったんだけど、嫌な奴になったものだね。皆、葵生に彼女が出来ていたらいいなと思っているのに、わざと言ったでしょう」
と、あの台詞まで聞かれていたのかと思うと、呆れ果てて言葉を交わすのも億劫になってしまいそうであった。
 「随分と余裕ぶっているように見えたけど、もしかして彼女はもう自分のものだと思って、安心してるのかな。だったら、それは間違いだと言いたいね」
 先ほどからぺらぺらと語り続ける柊一だが、葵生は憮然とした表情で聞いているのか聞いていないのか、さっさと足早に駅に向かっていた。手早く定期券を用意して改札を通るが、その間もつらつらと演説するのが、口さがない女子高生が傍にいるようで、いい加減に静かにして欲しいと思うのだった。時間も時間だったので、ちょうど少し退社時間の早い会社員や他校の学生らの下校時間と重なり、改札を通ってホームへ行くまでも二人きりでいたというわけではないのに、見知らぬ他人にこんな身内話を聞かれることは、葵生にとってはとても耐えられそうになく、
 「ちょっと声が大きいだろう。周りにたくさん人がいるのに、聞かれたくないことも聞かれてしまうのはすごく嫌なんだけど」
と抗議したが、声を潜めるようにしただけで、話は一向に止みそうになかった。
 「僕は、彼女には葵生のような奥手の人間ではなく、桔梗のように明るく社交的で、皆を引っ張る纏め役のような人がいいと」
と言いさして、はっと隣に気付くと葵生が鋭い目でこちらを睨み付けているのであった。その眼力の強さに、ぴたりと柊一は口を動かすのを止める。びくっと体が震えて、何か言い訳しようとしたが、それすらも許さないと言わんばかりの表情であった。
 「日向、黙れ」
 声も低く響くもので、葵生が静かに怒りを込めているのは明らかであった。柊一はもはやそれ以上語ることも出来ず、気まずく口を噤んだまま、葵生の機嫌を損ねさせてしまったことに、すっかり動揺していた。こういった他人を不快にさせるようなお喋りが、一番葵生の嫌うことであることを、柊一はまだ知らなかったのであった。
 葵生は塾へ行くまでの電車の中、時間をずらすにしても後ろにずらすと、待ち伏せをされてしまうかもしれないと考え、これからは柊一よりも早く出るなり、出たふりをするなりしようか、と色々と考えていた。もちろん、その日は柊一とは一言も会話をすることはなかった。こんな詰らないことで悩ませている場合ではないのに、と心の中で嘆息を吐いて憂鬱な気分になってしまい、堪らなく彼女のことが恋しくなったのだった。


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