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作品名:果てしなき清流のように 作者:藤田

第1回   自分が光を失うとき 
◆ 詩小説 ◆

[題名]  果てしなき清流のように


    序章 自分が光を失うとき 
 

 ◇ 如月の夜に眉毛が垂れさがった ◇ 

それはある如月の夜のことだった。
突然眉毛が垂れさがったのだ。
これはおかしい。
だが
いくら確かめてみても
現前には、なにも垂れてない。
念のため
机のひきだしから手鏡をとりだした。
手鏡をかざしてみても
眉毛はどこにも垂れてないのだ。
なぜかと 首をかしげる。
右指のハラで眉毛を逆なでしてみる。
逆なでして垂れた眉毛を
一本ずつ丁寧に毛抜きで抜きとった。
それでもなお
眉毛は垂れさがるのだった。
オレの目はいかれた。
これだけ確かめてもおかしのだ。
眼はいかれたというしかない。
眼に異常が起こると
蚊が飛ぶようなサインがでるという。
法律屋のオレもそれだけは識ってた。
書斎の電燈を めいっぱい明るくした。
書斎は 真昼のように明るくなった。
太陽光線に近似した照度になっていた。
その照度のなかで自己観察をはじめる。
鏡を覗いて 眼球を左右に移動する。
すると 三匹の蚊が飛んだ。
なんどもなんどもテストしてみる。
だが なんどテストしてみても
左目から鼻の方向に蚊が飛ぶのだ。
鏡をデスクのうえに置いて
壁のカレンダーに視線を転じる。
すると
カレンダーの数字の配列が波打ってる。
ほんのわずかだが、たしかに波打つのだ。
微かに、上下に波打ってるのだった。
でも ほんとに目はいかれたのだろうか。
そんなこと あるはずがない。
だが
もし ほんとにいかれたのならどうしよう。
そうだ。
テストの方法を変えてみよう。
ぼおうっと部屋全体を見つめてみる。
やはり眉毛は垂れさがってる。
もはや
このシチューエーションから逃れることは
できないかもしれない。
不安感が重苦しくのしかかってきた。
どんなに
もがき喚いても逃れられないのかもしれない。
そうだとすれば
この厳しい現実を受けとめるしかない。
突然! こみあげてきた。
オレとしたことが、なんてさまだ。
デスクに向かい目を閉じる。
十年前のイメージが眼底に浮かびあがる。
実は、十年ほど前にも
書物の活字が躍ったことがあった。
そのときは
大学病院でM博士の診断を受けた。
M博士の所見は
中心性網脈絡膜炎という結論だった。
そこで薬の投与をうけた。
処方された薬を服用しているうちに
書物の文字は踊らなくなった。
これでもう
完全に治癒したんだろう。
オレはそう錯覚してしまった。
もう
治癒したもんと錯覚してしまった。
M博士の許可もないまま大学病院に通院しなくなった。
いまになってみれば
その当時
完全に治癒しておくべきだった。
いまの目の異常は
それを放置した結果の自己責任なのだ。
自分の愚かさに、歯軋りするばかり。
眼の前科者が再犯を犯したのだろう。
十年後の再発は、立派な再犯だ。
いずれにしても
眼がいかれたことは厳しい現実なんだ。
もはや回避することができない厳しい現実なんだ。
もういちど、大学病院にいくしかない。

   ◇ DRの所見は新生血管黄斑症 ◇

如月の寒風に晒されながら
オレは
ふたたび、大学病院の眼科で受診した。
担当医はH教授になっていた。
すでにM教授の時代は終わっていたのだった。
教授も代替わりするほど風雪は流れていたのだ。
この永い風雪を休むことなく
オレは絶えずこの目を扱きつかってきたのだ。
けっして
オレは 目にやさしくはなかった。
一日に数千字いや、数万字をワープロにたたきこんでた。
外出するときもサングラスをかけない。
そうした無神経さが あだになって
どおっとその歪が襲いかかってきたにちがいない。
広いスペースの外来フロントで待つこと2時間あまり。
ナースに呼ばれて5番の診察室にはいる。
「さあどうぞ、先生」
胸に黄金の弁護士バッジを佩用していたせいか。
教授は わしを先生呼ばわりした。
美人の女教授に促され、診察デスクを挟んで腰かけた。
「どなさいました」
 教授はオレと視線をあわせる。
「はい。眼の前で蚊が飛びました」
「ほかに自覚症状はあります?」
「はい。書物の文字が踊ります」
「わかりました。先生の眼を拝見します」
女教授は
ペダルを踏んで診察台をうしろに倒した。
オレは豪華な診察台にふんぞりかえった。
ライトを消した暗室のなかで
教授はレンズを通してオレの眼を覗きこむ。
まず左目の検診、ついで右目を検診する。
眼を覗きながら
「はい。右を見て」
「今度は左をみてください」
教授は オレに眼球を左右に移動させながら検診する。
オレはロボットのように
教授の命令に服従するしかない。
わしは教授の指示どおり眼球を左右上下に移動させた。
時間をかけて
レンズを通して可視できる眼球の
すべてを克明に検診してゆく。
やがて 検診を終えると
診察室のライトが点灯く。
「どうぞ。椅子に戻って楽になさってください」
わしは教授の指示にしたがってからだを浮かせ椅子にもどる。
「ええと。左目は心配ありません。ただ硝子体剥離がみられます」
「硝子体剥離とはなんですか」
わしは教授と視線をあわせる。
「これは眼球の硝子体のゼリー状の部分が水分の欠乏によって剥離される
症状をいいます」
「そうですか。これを手当てによって原状に回復することはできますか」
「いえ。原状に戻すことはできません」
「すると、一生涯このままですか」
「ええ、まあ。蚊が飛んだのはそのためです。これを飛蚊症といいます」
「すると、一生涯、蚊が飛び交う飛蚊症ですか」
「はい。残念ながら治療法は見つかっていません」
「それでは痒くてたまらない、なんて駄洒落をいってはいられませんね」
「でも、黒いサインが多少じゃまになるだけで、順応すれば気にならなく
なります」
「なるほど。心理学でいう順応ですか。すると右目はどうですか」
「右目も、左目とおなじように硝子体剥離がみられます」
「そうですか」
「問題は右目の眼底出血です」
「なに、眼底出血ですって?!」
「そうです。網膜に出血がみられます。それも網膜の黄斑部ですね」
「黄斑部ですか。それで手当はできますか」
「ええ。通常は光凝固で対処するのですが。先生の場合は出血の箇所が悪く、
この光凝固はできません」
「その光凝固ってなんですか」
「ええ。特殊な装置でレーザー光線を患部に照射しながら焼いて凝固させ、
出血を阻止するという療法です」
「なるほど。レーザー光線ですか」
「しかし先生の場合は、出血箇所が中心部のため危険率が高いのです」
「眼を潰されてはたまりませんな」
「というわけで光凝固はできません」
「するとどういうことになりますか。このまま放置するんですか」
「いえ。直接療法はできませんが、薬による間接療法になります」
「そうですか。そもそも網膜の病名はなんですか」
「眼底検査をしてみなければ断定はできません」
「そうですか。新生とは新たに生まれるというあの新生ですか」
「はい。そうです。そもそも不要な血管が眼底に新生して勝手に切れて
出血するという、あの新生血管黄斑症でしょう」
「網膜ですから失明することもありますか」
オレは教授と視線をあわせた。
「いえ。網膜剥離とは異なりますから、失明するとはかぎりません」
教授はデスクに視線を移しなにかを書きはじめた。
でも 眼底検査をしたらば網膜剥離といわれるかもしれない。
もし
網膜剥離ならばどうしよう。
一夜明けたら明界から暗界に転落していた。
そんなことになるかもしれないおだ。
もしも
そんなことになったらば、オレはどうする。
暗黒の闇の世界で生きていけるのか。
いや オレは気がフレてしまうかもしれない。
オレは鳥肌だち、身の毛がよだった。
「お待たせしました。処方箋ができました。取り敢えず、お薬をお飲みに
なってください。眼底検査の予約はナースのほうでおやりください」
「ありがとうございました」
深々と頭をさげて診察室をでた。
シルクハットのナースと眼底検査の予約を済ませてフロントにでると、
処方箋の中身を確かめる。
止血剤のアドナ(Adona)
血管強壮剤のエラスチーム(Elaszym)
毛細血管止血用のシナール(Cinal)
オレは3種類の薬飲みになってしまった。
大学病院をでると
オレは院外薬局に向かった。
如月の風が冷たかった。


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