第9回 男の家庭料理
○ 花園家の庭 花園佐保子が筍を山盛りにした笊(ざる)を抱えて竹林からあらわれる。 佐保子は庭の芝生にはいり勝手口に向かう。 庭の片隅で新芽を延ばしはじめた柘榴(ざくろ)の枝では鶯(ううぐいす)が囀(さえ ず)っている。 ○ 花園家の勝手口 勝手口に辿りついた佐保子は外水道の洗い場の脇に笊を置いてしゃがみ込む。 蛇口を捻り、筍を洗い流してゆく。空になった笊も洗い流してゆく。 佐保子は起ちあがり、いちどううっと背伸びをする。 ふたたびしゃがみ込んだ佐保子は筍の皮を剥きはじめる。 笊のなかには皮を剥かれて黄白色の肌をむきだしにした筍が重ねられてゆく。 ○ 花園家の応接室 花園弁護士はどっしりとしたおおきなデスクに向かいワープロのキーをたたきつづげ る。 ソファーに身を鎮(しず)めた藤原教授が大学ノートに書かれた花園弁護士の日記に読 み耽っている。 藤原教授は背筋を延ばすと日記帳のページを捲る。
# 花園弁護士の日記 #
2008年11月7日
その朝、6時の検温が澄むと洗面器にタオルを入れ廊下にでた。 そのままサービスルームに向かった。 このコーナーではいつでも熱いお湯が使えるようになっていた。 流し台で洗面器にお湯を注ぎ温度を確かめる。指を突っ込んで熱すぎると感じたときは摂氏50度、やや熱いと感じたときが摂氏40度程度だと自宅で確認済みだった。 摂氏40度のお湯で5センチ幅にたたんだタオルを絞り両手で両眼に押し付ける。 これは40度の温湿布を4分間目にあててその手当をするのだった。 就寝中に目の縁にこびりついた油脂質の汚物を融解して拭き取るための手当なのだ。 入院してからこの手当を怠っていた。 40度のお湯で絞りこんだタオルを4分間、瞼におしつける。わたしの呼吸は1分間に18回だった。だからタオルを瞼に押しつけて18回呼吸すれば1分経過したことになる。ここでタオルをお湯に浸して絞り瞼に押し付ける。18回の呼吸をする。 おなじパターンで4回の手当をする。 これは大学病院の眼科で教授に教わった手法だった。 目の手当がおわり、爽やかになった。 胸を張ってベッドにもどった。
朝食は8時。[L術後]の常食になった。米飯のほか、株と油揚げの味噌汁、さつま揚げの野菜煮、キャベツとタクアンのお浸し、鯛みそ、牛乳というメニューだった。ぺろりとたいらげる。 佐保子が届けた自宅の畑で採れた蜜柑をほおばる。 「花園先生、検温です」 ナースがベッドのカーテンをあけた。 わたしは検温器を脇の下に挿入した。 「血圧も」 ナースは血圧計を操作した。 「115の53です。ご安心です」 「体温は」 わたしはナースと視線をあわせた。 「ええと、36度8分です。おだいじに」 ナースはにこりとして立ち去った。 童顔のナースと入れ替わりに十朱幸代型ナースがベッドのカーテンを捲った。 「花園先生。特別サービスです。ストリップになってください」 ナースはわしを引き起こし上半身を丸出しにして蒸しタオルで拭いてくれた。 「どうもありがとう。さっぱりした」 ナースはパジャマをわしに着せた。 「あそこも蒸しタオルサービスしてくれないかね」 わたしは下腹部を指差した。 「まあ、先生ったら。ご冗談を。しりません」 ナースはわしの背中をぱんとたたいてカーテンを締めた。
10時10分、「大名行列」と呼ばれる教授の回診があった。 枕元に起った教授は先日の[内視鏡オペ]のメカニズムについてコメントしてくれた。 「内視鏡オペでメスでの開腹をしていませんから、治癒(なおり)も早く、ももなく退院できます」 「よくわかりました。ありがとうございました」 「おだいじに」 教授は隣のベッドに向かった。中山看護師長はにこりとして教授のあとにつづいた。 6人のベッドの回診をおえて「大名行列」は病室から消えていった。 ざわついていた610号室に静寂(しじま)がもどった。
12時すぎ昼食となった。メニューは家庭食の色濃いラーメン、カボチャとインゲンの煮物、 それにお茶缶だだった。缶入りのお茶は数年ぶりだった。 お腹が膨れたので、自分の手により絆創膏(ばんそうこう)でカテーテルの固定をやりなおした。 うとうとしていると人の気配がした。 ベッドの周辺のカーテンから佐保子が覗いていた。 「アフタのローション持ってきました」 佐保子は資生堂の小瓶を枕元のテーブルに載せた。 「ちょっと歩いてみるか」 わたしはベッドを降りスリッパを履いた。
廊下を30メートルほど歩き、佐保子とふたりでミーテングルームの椅子に座った。 人影はない。 窓外に視線をうつした。 高架式のモノレールがゆっくり走行してゆく。 「あのエリアこそ健常者の暮らす世界なのだ。おれは病院のなかの囚人なんだ」 胸のなかで呟いた。 「あたし、あのモノレールにまだ一度も乗ったことないの」 佐保子は走り去る電車を視線で追う。 「こんど一度、乗ってみよう」 「そうね。乗ってみましょう」 「モノレールに乗った脚で郊外に移転した白門大学のキャンバスでも歩いてみるか」 わたしは起ちあがり病室へ向かった。 「あたし、帰らせてもらうわ」 佐保子は610号室とは逆のエレベーター方向に向かった。 「そいじゃ、そこまで送るか」 ふたりはエレベーターの方向に向かった。 わたしは佐保子をエレベーターまで見送り610号室にもどった。 壁時計の指針は2時35分を指していた。 ベッドにあがり仮眠をとることにした。
人の気配がして目を開けた。 ベッド周辺のカーテンが広く開かれていた。 「勤務交代の時間になりました」 樋口ナースがわたしと視線をあわせた。 「今夜の当直はこちらの斉藤さんです」 男の樋口看護師は瓜実顔の女を紹介した。 「斉藤です。なにかございましたらナースコールなさってください」 斉藤ナースはにこりとした。 「それでは、おだいじに」 ふたりのナースは立ち去った。 壁時計の長針がぴくりとうごき5時になった。
「みなさま、夕食の時間です。動ける人は配膳車までお膳をとりにお越しください」 ナースステーションから電波がながれた。 病室はさわがしくなった。 「廊下の配膳車の周りにはクランケが群がっているにちがいない」 呟きながらわたしは目を瞑った。 夕食のメニューは、白い米飯220g、スキ焼、大根のサラダ、チンゲン菜のお浸し、蜜柑の缶詰だった。
お腹が膨れたら便意に襲われた。 急いでトイレに向かった。 白い便器にかけたが力んでも排出できない。酷い便意があるのに排便できない。 なんども力んでかろうじて硬い便が排出されたもようだ。起ちあがり便器を覗き込むと棒状の太い便が便器の底に沈んでいた。 まだ尿意が残っていた。残尿感のようだった。カテーテルのパイプに手をかけるとパイプ脇から赤い血が滲みだしていた。 「自然の緩い排便を待つのが安全だ」 呟きながら水をながした。 歩くと時々ペニスの亀頭部に痛みがはしる。 ベッドのカーテンを閉め、パイプをいじってみる。うごかすたびにペニスの亀頭部に痛みがはしった。 パイプが縦にうごくときに痛みがはしるらしい。
9時、消灯。 仄暗いエリアとなった610号室は静寂の時間帯になった。 いつのまにかドリームの世界に溶け込んでいった。
○ 花園家の応接室 花園弁護士の姿はみられない。 藤原教授がソファーから身を起こし厚い大学ノートに書き込まれた花園弁護士の日記 帳を閉じてテーブルのうえに置く。 藤原教授はライターで煙草に点火する。 天井に向けて煙を噴(ふ)きあげる。 ○ 花園家のキッチン かなり広いキッチンは天井の蛍光灯で明るくなっている。 食卓のうえには数枚の銀の皿や瀬戸の皿が並べられている。 ピンクのエプロン姿で佐保子が調理台に向かい、キャベツを刻んでいる。 緑のエプロン姿で花園弁護士がガスレンジに向かって揚げ物に余念がない。 天ぷら鍋のなかでは筍がじりじり揚げられている。 揚げた筍の天婦羅は天婦羅受けの容器に移される。筍のほか野菜の天婦羅が容器に盛 られている。 佐保子は食卓のうえの皿に刻んだ野菜を載せると野菜の天婦羅を盛り付けてゆく。 調理台に向かった花園弁護士は豚肉のヒレのたまを輪切りにする。 輪切りにしたヒレ肉を容器のなかに撒かれたパン粉に塗し、ヒレ肉に衣を着せてゆ くのだった。 花園はガスレンジに向かいヒレカツを揚げてゆく。 揚げたヒレカツは佐保子が皿に盛りつけてゆく。 やがて揚げ物をおえた花園は調理台に向かい冷蔵庫から取り出した刺身用の「真(ま) イワシ」をまな板に載せ、手際よく皮を剥ぎ取る。そのイワシの肉をするっと骨から剥 (は)がしてゆく。まるでベテランのシェフの手捌きだった。 「おい。筍飯の釜がぴいっと鳴ったぞ」 花園が叫ぶように佐保子を振り向いた。 「はい。わかっています。あとで掻き回しますから」 佐保子はキッチンの換気扇を止めた。するとヒレカツや天婦羅それに筍飯の香りがない まぜに漂ってくる。 ○ 花園家の日本間 20畳ほどの畳が敷かれた和室の中央には紫檀のテーブルが配置されている。テーブ ルの脇には牡丹の花模様の座布団がおかれている。 漆塗りで艶(つや)のある柱が目立つ床の間には川合玉堂の「秘湯の里」と題する清津 峡温泉卿の墨絵の掛け軸が垂れている。 すでにテーブルのうえには瀬戸焼の箸置きに竹箸、それにビール、カップがおかれて いた。 襖を開けて花園弁護士に案内され藤原教授があらわれる。 「さあ。どうぞ」 花園は藤原に上座をすすめる。 「これでいいのか。恐縮しちゃう」 藤原は遠慮がちに座布団に胡坐(あぐら)をかく。 花園もテーブルに向かって安座する。 奥の襖が開き、おおきなお盆に料理を載せて佐保子がはいってくる。 「おまたせしました。これうちの先生が揚げた天婦羅です」 佐保子は筍などの天婦羅を盛りつけた皿をテーブルのうえにさしだした。 「ほう。ローヤー先生も調理をするんですか。識(し)らなかった」 藤原は佐保子と視線をあわせる。 「それにこちらは揚げたてのヒレカツなんですが」 佐保子はヒレカツを盛った皿をさしだした。 「ローヤー先生はカツレツまで手掛けるんですか」 「あたしは天婦羅が苦手なんですが。うちの先生は天婦羅やヒレカツ、トンカツなどの揚げ物が得意なんです」 佐保子はにたりとして起ちあがり、襖の向こうに消えていった。 「まあ、どうぞ」 花園はビールの栓を撥(は)ねた。 花園は藤原がさしだすカップにビールを注ぐ。彼は自分のカップにも七分三分の泡立ちで注いだ。 「それででは乾杯」 「乾杯」 藤原はビールをひとくち啜(すす)った。 「おっ。こりゃうまい。キリンとは一味ちがう」 花園もグラスをあおる。 「そうなんだ。ボトルはキリンビールそっくりだが、じつはドイツ製の「ブラウマイスター」っていうんだ」 「日本の酒屋では手にはいらないんでしょう」 「そうなんだが。ドイツ娘と結婚した大学教授の離婚事件でドイツにいったとき、手土産に頂戴してきたんだ」 「なるほど。ビールの本場だけのことはあるね」 花園は藤原のグラスにビールを注ぐ。 「これからは手酌にしよう」 花園はボトルを藤原のまえにさしだした。 もう一本のボトルの栓を花園は勢いよく撥ねる。 「男の家庭料理なんだが。筍の天婦羅どうぞ」 「ほう。筍の天婦羅ははじめてなんだ」 藤原は天婦羅に箸をつける。 「おう。これはまた絶妙の味だ」 「その脇のヒレカツにも箸をつけてみてくれませんか」 花園は自分でもヒレカツをほおばる。 「それでは」 藤原はヒレカツにソースを塗してくちにする。 「この味はカツレツの専門店なみだね」 藤原は自分のグラスにビールを注ぐ。
奥の襖が開いて料理を載せたお盆を支えた佐保子があらわれる。 「これうちの先生が捌(さば)いた[真イワシ]のお刺身です」 佐保子は刺身を盛りつけた皿をテーブルのうえにならべる。 「なるほど。魚も捌けるんですか。刺身もつくれるなんて、まるだ板前さんだ」 「こちらは筍の炊き込みご飯にお吸い物です」 佐保子は飯を盛りつけたお茶碗と鶴の模様の吸い物椀をテーブルにさしだした。 「筍は佐保子が庭先の竹林から採取してきたものなんだ」 花園はビールのグラスを傾ける。 「どうぞ。ごゆっくりなさいませ」 佐保子はにこりとして襖の奥へ消えていった。 「それではそろそろ筍ご飯をいただくとするか。自宅で筍狩りができるとは最高の贅沢(ぜいたく)だな」 藤原は筍ご飯に箸をつける。 ○ 羽村堰 堤に沿って流れくだる玉川上水のよく澄んだ流れを鯉が泳いでいる。 若い男女のカップルが上水にかけられた橋を渡ってゆく。
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