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作品名:自分が男でなくなる瞬間 作者:藤田

第7回   第7回 [重症フローシート]からの解放
           第7回 [重症フローシート]から解放

○  羽村堰
  多数の花見客が桜並木の下を散策している。
  桜の古木の枝が垂れ下がり地面すれすれでそよ風に揺れている。
  桜の古木の地面から50センチほどの箇所に若い新芽が芽吹き可憐な花を咲かせてい る。
  野球帽をかぶったジャンパー姿の中年男がこの可憐な桜花にピントをあわせてカメラ のシャッターをきる。
○ 花園家の応接室
  花園はどっしりとしたおおきなデスクに向かいワープロのキーをたたきつづげる。
  ソファーに身を鎮(しず)めた藤原教授が大学ノートに書かれた花園弁護士の日記帳を 開いている。
  藤原教授は背筋を延ばすと日記帳のページを捲(めく)る。

                    
              # 花園弁護士の日記 #



 2008年11月5日

 特別室での一夜は明けた。
 わたしは[重症フローシート]のベッドに横たわっていた。
 壁時計の指針が6時を指している。
 特別室での一夜はながかった。
「おはようございます。いまから検温となりますのでご自分のベッドでお待ちください」
 ナースステーションからの放送がスピーカーからながれた。

 まもなく中山看護師長が瓜実顔を覗(のぞ)かせた。
「おはようございます」
 あとでわかったことだが、中山看護師長は毎朝、6時になると全病棟に姿をあらわすのだという。
「おだいじに」
 言い残して後姿をみせた彼女はベテランナースとしての貫録をそなえていた。
 看護師長と入れ替わりに若い童顔のナースがはいってきた。
「検温します」
 ナースはわたしの脇の下に体温計を挿入した。
「花城先生、よくお寝みになりましたか」
 彼女はにたりとしながらわしをみおろした。
「いや。トイレに起つ夢ばかり。どのトイレも塞がっていて。じりじりさせられた」
「それはたいへんでしたね」
 彼女はわしの脇の下から体温計を抜いた。
「平熱になりましたね。これでご安心です」
「どうも」
 彼女は廊下に消えていった。
 気が付くと昨日のクランケの姿はなく、ベッドは空になっていた。
 いつのまにか普通の病室に移動されたらしい。気がつかなかった。
ということは昨夜もかなり眠っていたことになる。
 童顔のナースとすれちがって主任のナースがはいってきた。彼女は女優の十朱幸代と
瓜二つの美女だった。
「花城先生。採血いたします」
 ナースは私の手首に針を刺した。赤い血液が注射器に吸い取られてゆく。
「はい。これでおしまい。おだいじに」
 ナースは微笑みをのこして廊下に消えていった。
 自分の吐く息の音が聞こえるほどの静寂(しじま)がつづいた。
 目をあけると壁時計の指針は8時をさしている。
「みなさま。朝食のお時間です。歩ける人は廊下までお膳を取りにきてください」
 ナースステーションからの電波がながれた。
「花城先生。お食事です」
 童顔のナースがお膳をはこんできた。
「どうも」
「今朝は[L術後流動食]です。ごゆっくり」
 ナースはベッド専用テーブルにお膳(ぜん)を載せた。
「ありがとう」
 ナースはわたしの声を背にして廊下へ消えていった。
 ベッドのうえに起きあがり移動式のテーブルを引き寄せる。
 牛乳、おもゆ、コンソメスープ、ホワイトスープ、番茶が載せられている。
「これがいわゆる[L術後流動食]か」
 わたしは独り言をいいながらおもゆを啜(すす)りはじめた。
「ああ、美味(うま)かった」
 わずか5分たらずでメニューのすべてをぺろりとたいらげた。
 これほど美味しい食事は久しぶりだった。

 朝食の美味しさに満足したせいか、たちまちドリームの世界にノメリコンでしまった。
 時の経過はわからなかった。 
 人の気配を感じて目をあけた。
「いかがですか。花城先生」
 顔を知らない若い男のドクターが起っていた。
「はい。仮眠したせいか楽になりました」
 わたしはドクターと視線をあわせた。
「それでは610号室に戻りましょう。あとで担当者がまいりますから」
「おねがいします」
「おだいじに」
 いい残して白衣は立ち去っていった。

 ふたたび、うとうと夢の世界に溶け込んでしまった。
 時間の経過はわからなかった。
「昼食の時間です。歩けるひとは廊下までおねがいします」
 ナースステーションからの放送がながれた。
 まもなく見知らぬナースがお膳をはこんできた。
「花城先生。お食事です」
 ナースはお膳をベッド専用テーブルのうえに載せた。
 このナースもわしを先生呼ばわりしている。俺が弁護士であることがスタッフに知れ渡ったらしい。
「また[L術後流動食]か」
 ナースは俺の声を背にして消えていった。
 わたしは起きあがりテーブルを引き寄せた。
 リンゴの果汁、コンソメスープ、おもゆ、それにエンジョイゼリーがお膳に載せられている。
 流動食ばかりで固形物はゼリーだけだった。

 食事がおわると、30分ほどうとうとした。
「花城先生。610号室へ移動しましょう」
 ナースがみおろしていた。
「はい。わかりました。おねがいします」
「それでは」
 ナースは脚立式のベッドに手をかけた。
「これで[重症フローシート]から解放されることになった」
 わたしは胸のなかで呟(つぶや)いた。
 ナースが押すベッドは604号室から廊下にでた。
 ナースステーションの脇をとおり610号室に向かった。
 
 ベッドが610号室にはいると拍手が起こった。
 同室のクランケたちが凱旋将軍のように歓迎してくれたのだった。
「ありがとうございます」
 わたしの声は感謝の気持ちに溢れていた。

 妻の佐保子が2時近くに病室へ顔をだした。
「ちょっと歩いてみませんか」
 佐保子に誘われてわしはベッドから降りた。 
 スリッパを履いて自分の足であるいた。ちょっとふらついた。
 佐保子につられてデールームに向かった。
 椅子にかけて窓外に視線を移すと高架式のモノレールが通過していった。
 なんとなく監獄から釈放されて娑婆(しゃば)にもどってきたようだった。

 病室に戻り、佐保子を帰宅させた。
 うとうとしていると、
「花城先生、検温です」
 童顔のナースは体温計をわしの脇の下に挿入した。
「微熱があるかもしれません」
 わたしはナースと視線をあわせた。
「さあ、どうでしょうか」
 ナースは体温計を抜いた。
「ええと、36度8分ですね」
「さきほどから点滴がはじまったせいでしょう」
「そうかもね。でも心配はいりません」
 いい残してナースは立ち去る。
 わたしは起きあがって浴衣を捲くり、[尿道カテーテル]を紐(ひも)でお臍(へそ)の下に結びつけた。
「これでよし。ちょっと足のトレーニングをしよう」
 わたしは浴衣姿で病室をでた。
 廊下を歩きまわった。ナースステーションの前にさしかかった。
「あら。花城先生」
 ステーションの奥で点滴ボトルの準備をしていた十朱幸代型ナースがおおきな声をあげた。
 わたしはにこりとして右手をあげた。
 エレベーターで1階に降りてみた。
 なんとなく巷(ちまた)に戻ってきた感じだった。
 外来の待合コーナーには人影はなかった。
 エレベーターで6階にあがった。
 トイレを済ませることにした。廊下の奥のトイレのドアを押した。
 洋式トイレのドアを開き、なかにはいった。ドアを締めて浴衣を捲り、「尿道カテーテル」を摘まみ、パイプの尖端を塞ぐキャップをはずし便器に向かって放尿する。ペニスに痛みははしらなくなった。けど尿はまだ赤かった。
 ただ、オペがおわってからパイプを挿(す)げ替えて太くなっていた。そのせいか、ペニスの亀頭部での血液の噴出が少なくなっていることが判明した。
「みなさん。夕食の時間になりました。歩ける人は廊下までおねがいします」
 ナースの放送がスピーカーからながれた。
 クランケの動きがあわただしくなった。
 壁時計の指針は6時30分になっていた。廊下まで押されてきた配膳車の周りにはクランケが群がっているにちがいない。
「花城先生、お夕食です」
 十朱幸代型のナースがお膳をはこんできた。
「どうぞ」
 ナースはお膳をベッド専用テーブルに載せた。
「どうもありがとう」
 わたしは起きあがり、テーブルを引き寄せた。
 メニューは、カレイムースのアンカケ、里芋の煮つけ、ホウレンソウ寄、リンゴ缶詰50g、と[L術後食]としては固形部が増えてきた。
 夕食が済んでからトイレに起った。
 ペニスの亀頭部には痛みはなく、気持ちよく放水できた。血尿も尿の赤い濃度が薄れてきた。オペの切開部が止血してきたらしい。
 睡魔に襲われ、寝込んでしまった。9時の消灯にも気づかなかった。


○ 花園家の応接室
  花園弁護士は、どっしりとしたおおきなデスクに向かいワープロのキーをたたきつづ げる。
  ソファーに身を鎮(しず)めた藤原教授が大学ノートに書かれた花園の日記に読み耽っ ている。
  藤原教授は背筋を延ばすと日記帳のページを捲(めく)る。
○ 羽村堰の堤
 桜並木をおおぜいの花見客が散策している。 


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