第6回 内視鏡オペ[TUR-P]の決行
○ 花園家の応接室 ソファーに凭(もた)れて藤原教授が花園の日記に読みふけっている。 花園はデスクに向かいワープロのキーをたたいている。 ○ 羽村堰 多数の花見客が桜並木の下を散策している。 桜の古木の枝が垂れ下がり地面すれすれでそよ風に揺れている。 近づいてきたブルーのユニフオームの女子高校生が咲き乱れた桜花に口づけをする。 ○ 花園家の応接室 花園はどっしりとしたおおきなデスクに向かいワープロのキーをたたきつづげる。 ソファーに身を鎮(しず)めた藤原教授が大学ノートに書かれた花園弁護士の日記帳を 開いている。 藤原教授は背筋を延ばすと日記帳のページを捲(めく)る。
# 花園弁護士の日記 #
2008年10月22日
妻の佐保子同伴で桜門大学多摩病院に出頭した。 病院脇のコンビニで[板オムツ]3枚を求めた。 外来の待合室の席を通り抜けて自動受付機のまえに起った。 「診察券をお入れください」 マシンの指示にしたがって診察券を挿入した。 受診科を選ぶ画面が開いた。 泌尿器科のボタンを押した。 プリンターから受診票がするするっとでてきた。白いB5の受診票を抜き取り透明のビニールケースに 挿入した。診察券もケースの片隅の切口に嵌(は)め込んだ。 エスカレーターで2階にあがり泌尿器科の外待合室でベンチに駈(か)けた。 30分ほどうとうとした。 「花園さん。1番の診察室にお入りください」 聞き慣れた教授の声がマイクをとおして伝わってきた。 わたしは佐保子をソファーに残して診察室に向かった。 1番の診察室のドアは開いていた。 「おねがいします」 わたしはドクターに頭をさげた。 「今から自己血用の採血をしますから」 教授はわたしと視線をあわせた。 「こちらへどうぞ」 ナースにいわれてわたしは診察用の硬いベッドにあがった。 「それでは。ちくりとしますから」 わたしを見下ろした教授はわたしの右腕の手首に針を刺した。 「しばらく動かないでください」 ナースはわたしの腕に軽く手をかけた。 静寂のエリアで秒針が時を刻(きざ)んだ。 「これでお終いです。500CCの採血がおわりました」 教授はわしの手首から針を抜いた。 ナースは素早くわたしの手首にガーゼを宛がいホワイトテープを貼(は)りつけた。 わたしは左手の中指で針を刺した右手の手首を抑えたままデスクに向かった教授の脇の硬い丸椅子に掛けた。 採血の所要時間は20分ほどだった。 教授は内視鏡オペの手順についてコメントしてくれた。 「このあと心電図と呼吸器テストを受けてください」 教授はわたしと視線をあわせた。 「よくわかりました。ありがとうございました」 わたしは頭をさげ診察室をでた。 ゆっくり歩いて1階の検査病棟に向かった。 検査病棟では、まず心電図を撮影してからその奥の検査室で呼吸器テストを受けた。 呼吸器テストを受けたのは3年ぶりのことだった。
2008年10月31日
朝、6時に起きた。 検査日のため絶食となった。 午前9時30分、桜門大学多摩病院の泌尿器科外来に出頭した。 外来の待合室で待機していたらナースがあらわれ微笑(ほほえ)んだ。 「花園さん。放射線科にいらしてください」 「わかりました」 童顔のナースに指示されて起ちあがり、トイレで放尿してから放射線科にまわった。 検査棟では、まず1号室で胸部を撮影した。 「こんどは5号室にいらしてください」 技師にいわれ、わたしは1号室からでると5号室のまえで待機した。 5分ほど経過した。 「花園さん。こちらにお入りください」 面長の検査技師が検査室からあらわれた。 「そこの更衣室で検査着に着替えてください」 「はい。わかりました」 わたしは右脇の更衣室にはいり柔道着のような検査着に着替えた。 「まず膀胱の[CT]からはじめます。この台におあがりください」 技師にいわれてわたしは検査台に横たわった。 「辛(つら)くとも、しばらく我慢してください」 「はい。わかりました」 技師はマシンの操作をはじめた。 天井を向いたままのわしの全身はゆっくり細いトンネルのなかに吸い込まれていく。 やがて[CT]の撮影がはじまった。 息苦しい狭い空間に閉じ込められてしまった。底知れぬ深い洞穴に沈殿していった。 時の経過はわからなかった。 「おわりました」 技師の声がしてわたしは狭いトンネルのなかから救出された。 「しばらくお待ちください。こんどは[MRI]になりますから」 「はい。わかりました」 目を瞑(つぶ)った。うとうとした。 「それでは[MRI]にとりかかります」 技師の声でぱっと目をあける。 「はい。おねがいします」 「辛くともしばらく我慢してください」 「はい。わかりました」 わたしの全身はふたたび狭いトンネルのなかに吸い込まれていった。 息苦しいトンネルのなかで目を瞑った。 どん、どんと太鼓(たいこ)を叩くような音波が鼓膜(こまく)を振動しはじめた。 技師がマシンを操作しているらしい。 音波はしだいに強くなってきた。オーケストラの演奏がはじまった。強烈な音波が鼓膜を振動し頭が割れるような状況になった。 「もう。やめてくれ」 「もう。やめてくれ」 と口のなかで叫んだ。 しかし容赦なくオーケストラの暴力演奏は継続された。 やがて暴力演奏は終わった。 技師の操作によりわたしはトンネルから抜け出した。 「お疲れさまでした」 技師にいわれわたしは更衣室で検査着を脱いだ。 あっという間に時間が経過した。 入院手続きをとった。 病室は6階の610号室に決まった。 担当のナースは男の看護師だった。 「採尿をしますから」 ナースはわたしのペニスの尖端を消毒してから便器に採尿した。 そのあとで数本の試験管に血液を採取した。 ほっと一息ついたところでナースから[オペの計画内容]についてコメントがあった。 うとうとしてしまった。
「花園さん。オペの担当者です。よろしく」 青いユニホームのナースが起っていた。
夕食後に麻酔医が枕元にあらわれた。瓜実顔の女のドクターからコメントを受ける。 オペのときは局所麻酔で済むという。
9時消灯となった。
2008年11月4日
わたしは610号室のベッドに横たわっていた。 「おはようございます。いまから検温となりますのでご自分のベッドでお待ちください」 ナースの放送が病室の静寂(しじま)を破った。 担当のナースが病室をまわりはじめた。
禁食の朝を迎えた。 ほかのクランケは配膳された自分だけの朝食をとりはじめた。 スープをすする音。箸を置く音。クランケにとって愉(たの)しいささやかなトーンも、わしにとっては耳障りだった。 目を瞑(つぶ)り、耳を押え、禁食扱いの忌(いま)々しさをじっと堪(こら)える。
8時すぎに妻の佐保子が病室に顔をだした。 「あなた禁食でしたね」 佐保子はわたしを見下ろし微笑みかける。 「余計なことをいうな」 わたしはそっぽを向く。
午前8時50分、ナースがストレッチャーを押してあらわれた。 「花園さん。オペルームにゆきますから」 「はい。おねがいします。それでは」 わたしはしぶしぶベッドから降りストレッチャーに乗った。 「3階の中央手術室に向かいますから」 ナースはストレッチャーを押しはじめた。 「よろしくおねがいします」
「頑張ってね」 「頑張れよ」 「いっときの辛抱だから」 「おれもあそこをやったんだ。大丈夫だから。先生の場合もきっと」
ルームメイトのクランケたちがわしを激励し送りだす。 「みなさん。ありがとうございます。どうも」 わたしの声は掠(かす)れてしまった。 佐保子は周囲(まわり)に微笑みかけた。 ストレッチャーは廊下にでてからエレベーターで3階に降りた。
手術室の入り口は予備室になっていた。 わたしは数名のスタッフによってストレッチャーからベッドに移された。 わたしの肉体には心電・脈拍・血圧を測定する装置がセットされた。 わたしを見下ろした数名の白衣のスタッフに顎(あご)で会釈した。 手術着を着せられたわたしの頭には青いハットが被せられた。 これで予備作業は完了したらしい。 白衣のひとりは脚立式のベッドを押して手術室にはいっていった。
ふたりの白衣の手でわたしは手術台に移された。 手術台のうえで仰向けになったわたしは手足を手術台に緊縛(きんばく)されてしまった。 もはや動くことはできない。耐えるしかない。 そのうえ目の前にはカーテンが張られてしまった。おれの下半身でなにがなされているのか。もはやスタッフの動きは観察できなくなった。 「ちくりとしますから。背中を丸めてください」 麻酔医がわたしの背中に手をかけて横向きにした。 「はい。こうですか」 わたしはエビのように背中を丸めた。 「はい。それで結構です。それでは」 背中にちくりと電気がはしった。 「わしの下半身を麻痺させるための脊椎麻酔にちがいない」 口のなかで呟いた。
時間の経過はさだかではない。 「麻酔の効き具合を確かめますから」 しばらくしてから女のドクターが私の顔を覗(のぞ)き込んだ。 「はい。わかりました」 「ここはどうですか」 「はい。冷たい感じです」 ドクターはわしの胸にあてたらしいなにかを離した。すると冷覚が去った。 「こんどはどうですか」 ドクターはわたしの腹部になにかをあてがったらしい。 「はい。先ほどはガラスか金属のような冷たいものをあてられたという感じでしたが。こんどはそれと違い、冷たい感じはなく、ただ物を載せられたという鈍(にぶ)い触覚だけです」 「実は胸部と下半身との冷覚を比較して麻酔の効き具合を確かめているんです」 「そうですか。胸部には冷覚がありますが、腹部には鈍い触覚だけです」 「わかりました。そろそろ麻酔が効いてきたようです」 「はあ」 「それでは経尿道内視鏡オペに着手しますから」 「おねがいします」 「オペの状況は右上のテレビの画面に映(うつ)しだされますから」 「はい。わかりました」 見あげると右上の高い台の上には医療用テレビが設置されていた。 テレビの画面を見るとおれの尿道らしいピンクの筋肉が映写されている。 カーテンの向こうでは、いつのまにかペニスの尖端から細いカテーテルを尿道に挿入したらしい。 自分の尿道を見つめるのは、これがはじめてだ。 テレビの画面が動いた。 よく見ると[前立腺]らしい筋肉組織が鮮明に映写されている。その部位がクローズアップされた。 [経尿道内視鏡オペ]とはメスで開腹すことなく、尿道を経ておこなう内視鏡オペを意味しているんだ。細いカテーテルをとおして電気メスを挿入して切開する手術らしい。これは教授のコメントによるものだ。 その電気メスがテレビの画面に浮かびあがった。釣り針形の電気メスを外部から微妙にコントロールして患部の細胞を切り崩しては、おしげもなくその肉塊を尿道に放り込んでゆく。その作業が鮮明に映写されている。 メスをあてた瞬間、真っ赤な血液が噴出する。しかし下腹部にはなんらの痛みははしらない。ただおなかのうえになにかが載せられているという触覚だけが感じられるにすぎない。 おしげもなく患部の切除が継続される。電気メスでカットしては尿道に放り出す光景が継続される。油の多いロース肉を削り取るような 光景が連発される。尿道の壁に残った肉片も丁寧に掻(か)きさられてゆくのだ。 これだけの鋭利な作業が進行しているというのに痛くも痒(かゆ)くもない。ただ患部にメスをあてるたびにびーびーとモーター音が わしの鼓膜(こまく)を揺さぶる。 時間の経過はよくわからない。 やがて凝視していたテレビの画面が動いた。尿道の映像は消えてしまった。 「花園さん。おわりました。おつかれさま」 カーテンの向こうで聞き慣れた教授の声がした。 「はい。ありがとうございました」 「カーテンとりますから」 ナースがカーテンを取り外すと教授が微笑していた。 「なにも問題はありませんが。念のため一晩だけ[重症フローシート]にゆきましょう」 教授はわたしの枕元から立ち去った。 「おつかれさまでした」 入れ替わりにスタッフが覗き込み、心電、脈拍、血圧を測定する装置を取り外した。 「ちょっとしものほうの手当をします」 ナースはわしの下腹部にオムツを宛てがう。ペニスの尖端にはカテーテルを嵌(は)めこんだ。 「ありがとうございました」 「それでは[重症フローシート]にまいります」 「よいしょ」 ふたりのナースがわしを脚立式で移動できるベッドに移した。 瓜実顔のナースがベッドをおしはじめた。 手術室から予備室にでた。 丸い壁時計の指針は11時40分を指していた。9時30分にオペを開始したのだから、結局、2時間のオペとなった。 ベッドは廊下にでた。 ベッドのうごきにつれて白い天井が、列車の窓外を眺める風景のようにあとへあとへと去ってゆく。
やがて[重症フローシート]室に辿りついた。 そこには1人の先客がいた。 クランケは2人だけの気楽な気分になった。特別室だという重圧感はなかった。 「花園さん。点滴しますから」 見知らぬナースが点滴ボトルを吊るした点滴スタンドを押してきた。 「おねがいします。薬液はなんですか」 わたしはナースと視線をあわせた。 「はい。膀胱を洗浄するための食塩水です」 「そうですか」 ナースはわしの右手首に針を刺し込み、ボトル下のリールを指で摘み点滴量の調整をした。 ぽとりぽとりと点滴液が垂れ落ちはじめる。 「もうひとつお注射をします」 ナースはわしの左手首に針を刺した。 「これはなんですか」 わたしはナースを見あげた。 「抗生物質です」 「ああ。化膿止めですか」 「おだいじに。なにかありましたら、枕元のブザーをおしてください」 「困ったときにはナースコールさせていただきます」
しばらく時間が経過した。 「点滴取り換えますから」 ナースがあらわれて点滴スタンドのボトルを取りはずし、平たく赤いおおきなボトルをつるした。 「こんどはなんですか」 わたしはナースを見あげる。 「はい。これ花園さんの大切な血液です」 「ああ。自己血ですか。前に採取した」 「ええ。その自己血の残りを体内にお返しするわけです」 「わかりました。返血ですか」 ナースがリールを指で調整するとぽとりぽとりと真っ赤な液体が滴りはじめた。 「これが自己血の輸血なんだ」 「おだいじに」 ナースは微笑んで立ち去る。 うとうとした。
トイレを探すドリームの世界に溶け込んでいった。 ジョギングコースの公園脇のトイレにはいっていった。トイレのドアが開かない。 隣のトイレのドアに手を掛けた。だがドアは開かない。下腹部がちりちり痛む。もうたまらない。
「花園さん。いかがですか」 はっと目覚めると男の看護師が起っていた。 「トイレにいったんですが。ドアが開きません。夢でしたか。便意で下腹部がちりちり痛みます」 「わかりました。いますぐに」 看護師は急いで便器を持ちこみ、わたしのお尻に宛がった。 ぐぐっと下腹部がうごいて楽になった。 「軽い排便がありました」 看護師はわたしのお尻をテッシュペーパーで拭き取ってくれた。 おなかは楽になったが、ペニスの痛みが気になってきた。尿道から内視鏡を挿入して前立腺をカットしてから ペニスの尖端にカテーテルを装着したせいだ。 「ペニスの痛みを気にするな」 といいきかせるとかえって痛みが気になってしまう。そこで逆説的な手法にでることにした。 「ああ。痛かろう。さぞかし痛かろう。ああ、痛い。痛い。ああ、痛い」 と口遊(ずさ)んだ。 この手法は心理学者で親友の藤原教授に教わったものだ。 いつのまにか睡魔のエリアに蕩(とろ)けこんでいった。 目が覚めた。いつしか夕刻になっていた。 ペニスの尖端の痛みは解消し楽になっていた。 ふとオペ直後の光景を想起(おも)いだした。 移動式のベッドに載せられオペルームから予備室にでたときのことだった。 「これなんだかわかりますか」 主治医の教授がわたしの目のうえに小さな薬瓶を翳(かざ)した。瓶のなかには茶褐色の小粒で60粒ほどの錠剤らしきものが入っていた。 「なんの薬ですか」 「これは薬ではありません。花園さんのカットした前立腺の肉片です」 「ほう。驚きました。電気メスでおしげもなくカットして尿道に放り投げ出した。あの」 「そうです。念のため癌研(がんけん)にだして病理検査をします」 「おねがいします」 わたしは顎(あご)で会釈(えしゃく)した。
わたしは、この[重症フローシート]のベッドで仰向(あおむ)けになったままの一夜になった。 妻の佐保子は2時すぎに帰宅させていた。 ペニスにカテーテルを装着しビニール袋に尿は採取されるのでトイレに起きる必要はなくなった。 けど腰が痛くなっても横になることができない。 安眠できない一夜になった。
○ 花園家の応接室 ソファーに凭(もた)れた藤原教授が花園弁護士の日記に読み耽(ふけ)っている。 花園弁護士はデスクに向かい答弁書の下書をワープロに打ち込んでいる。 ○ 花園家の門前 白光のする生地に黒砂を散りばめた花崗岩の門柱には[弁護士 花園]という金文字が刻 み込まれている。 ○ 羽村堰 堤の桜並木の下をまばらに花見客が散策している。
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