第26回 秘湯の里・清津峡谷
◇ 上信越国立公園清津峡温泉郷 ◇
○ 清津峡温泉郷の峡谷 秘湯の里・清津峡温泉郷の峡谷をごうごうと急流が流れくだる。 峡谷の一角にはそそりたつ岸壁にしがみつくようにホテル緑風館が建っている。 ごうごうと流れ降る川の水音がホテルのロビーにまで響いてくる。 ○ 緑風館・桔梗の間(特別室) 藺草(いぐさ)の香り高い畳20畳ほどの部屋の中央に紫檀(したん)のテーブルが でんと配置されている。その奥の窓側にはソファーがおかれている。 花園弁護士と藤原教授が部屋の窓側のソファーに凭(もた)れ、窓外に連なる 峡谷の風景に見蕩(みと)れている。 桔梗の間の襖がするっと開いて和服姿の若い仲居が料理をはこんでくる。 「お待たせいたしました」 チャーミングな瓜実顔の仲居は紫檀(したん)のテーブルのうえに料理をならべ はじめる。 「どうも」 常連客の花園弁護士は、顔馴染(かおなじ)みの仲居と視線をあわせる。 「花園先生、しばらくでした。よくいらっしゃいました」 瓜実顔の仲居は愛くるしい眼差しでにんまりと微笑(ほほえ)む。 もうひとりの童顔の仲居もおおきなお盆から料理をテーブルにうつしてゆく。 山菜料理をメーンとした品数の多い料理が紫檀のテーブルを賑(にぎ)わわせる。 「それでは花園先生。いつものようにお酌はご自分でなさってください」 瓜実顔の仲居は畳に指をついて起ちあがる。 「ごゆっくりなさいませ」 童顔の仲居も畳に手をついて起ちあがる。 「ああ。どうも。あとはこっちでやるから」 花園はソファーで腰を浮かせる。 「ああ。女将は顔をださなくてもいい」 花園は仲居の背に声を浴びせる。 「はい。わかりました」 瓜実顔の仲居はちらっと、うしろを振り向き、襖の向こうに消えてゆく。 「それでは、藤原先生、乾杯にしましょう」 花園は紫檀のテーブルに向かい座椅子に腰をおろす。 「それでは山菜料理を頂戴するとしようか」 藤原教授は起ちあがりテーブルに向かう。 「さあ、どうぞ」 キリンビールの栓を撥ねて花園は藤原の差し出すグラスに七分三分の泡立ちで ビールを注ぐ。 花園は自分のグラスにも七分三分の泡立ちでビールを注ぐ。 「それでは乾杯!」 花園はグラスを高く掲げる。 「乾杯!」 藤原もグラスを掲げる。 「もう前の繰り返しになりますが。この温泉郷は上信越国立公園の一角なんで海抜 700メートルという山岳地帯なんだ。越後山脈に連なる山間地帯なんだが」 花園は紫色をした山菜を醤油にひたして口にはこぶ。 「ほう。それで山菜料理がメーンというわけか」 「まあな。その紫色のおひたしは、天然のアケビの新芽なんだ。雪が溶けて 春の陽光を浴びて萌(も)えあがった新芽を摘み取ったばかりの新鮮な山菜なん だが。地元では『木の芽』と呼んでいるんだ」 「なるほどね。アケビの新芽か。『木の芽』とはよく云ったもんだ。」 藤原は紫色の新芽に箸をつける。 「ほう。噛み締めると、ほんのりとした苦さ、ほろ苦い味が格別だね」 「オレは手酌でいくから。君も自分でやってくれないか」 花園はグラスに手をかけ、ぐっと飲み干す。 「ああ。手酌というのもオツなもんだ」 藤原は自分のグラスにビールをそそぐ。 「ところで。君は心理学者のくせに『地球人の性行動』を研究してるが。その 研究の集大成として『性行動の科学的研究』という著書を刊行し、わしにも贈呈し てくれたんで、読んでみた。佐保子も盗み読みをしているらしい」 「ほう。佐保子さんにも読んでいただき光栄だね」 「それで今宵は、その地球人の性行動についてアドバイスして欲しいんだ」 花園は藤原と視線をあわせる。 「まあね。花園弁護士のこれからの性生活の役にたつんならね。なんでも 聞きたいことはどしどし質問してくれないか」 「君にも知らせたようにオレは猛暑のさなかに突然、『尿閉』になった。その 前日の夕方までは、よく澄んだ大量の尿が、太く円い帯状で勢いよく放出され ていたんだ。ところが一眠りして起きたときには、突然、尿は一滴もたれなく なってしまった。たいていの場合、尿閉になるまえに、尿の出がわるくなるとか、 放出の勢いが弱くなるとか、太かった尿の線が細くなったり、2本に分かれたり するという前兆がみられるんでしょう。それなのにオレの場合、なんの前ぶれも なく、突然、尿閉になってしまった。なぜそうなったのか。いまだに理解できない」 「そもそも尿閉という症状は、前立腺肥大症の第3段階、つまり最終段階に起き る現象なんだ。これに対し君のような場合、その前の第1段階および第2段階の 症状を飛び越えて一気に第3段階の尿閉になってしまった。例外の場合だね」 「なるほど、例外的な場合か。それにしても、なぜ、オレの場合だけその例外に なったんかね。まったく判らん」 「そうだね。前立腺肥大の場合における症状というものは、まず尿の出がわるく なったり、尿が近くなったりするのが通例なんだがね」 「ところがオレの場合、8月17日の夜は麒麟麦酒で発売して間もない特製の プレミアムビールをたのしみ、入床前には太く力強い尿がでていた。それなのに その深夜から18日の朝にかけて突然、尿閉になってしまった」 「そうらしいね。さっきもコメントしたように、その尿閉という症状は前立腺肥大症 としては末期的な最終段階の症状なんだ。それ以前に君の場合、尿が近くなったこと はなかったかね」 「そりゃ、ビールやコーヒーを飲んだあとには尿も近くなるが、普段は3時間に1度 くらいだね。夜もトイレには起きたことがない」 「そうすると頻尿ではなかった。それでくどいようだが、放尿の状態にはなにかこう 変化に気づきませんでしたか」 「さっきもいったようにそういう変化はまったくなかったね」 「それでは、尿の放出状態がとぎれとぎれになったことは」 「とぎれとぎれにね。そんなこともあるんかね」 「ええ。それがあるんですよ。はっきり云えば、これまで勢いよくジョウジョウと排出 されていたものが、弱々しくシューシューと間隔をおいてくる。これは第2期の状態 なんだがね。そのようなシューシュー状態はなかったかね」 「あ、そうだ。いわれてみれば、尿閉の1週間ほど前から1日に1回ほどだったかな。 間歇泉(かんけつせん)のようなことがあったな」 「その状態が前立腺肥大症の第2期症状なんだ」 「なるほど。そうとは識らなかった」 「さらに尿がまったく出なくなり、いわゆる尿閉となる。この尿閉こそ前立腺肥大症の 末期的症状なんだ。第3期のね」 「それにしてもオレの場合、そうした第1期・第2期の症状を飛び越えて、いきなり 末期的症状になったんはどういうわけかね。素人のオレには理解できない」 花園は首を傾げながらおおきな黒い吸い物椀の蓋に手をかける。 「はなしがはずみ、箸がやすんだままで、お吸い物が冷めたかな。このお吸い物は 地鯉を味噌でくつくつ煮込んだ、ここの名物の『鯉こく』なんだ。冷めないうちに味わ うことにしよう」 「なんだって。『鯉ヘルペス』事件以来、鯉は食べられなくなったんじゃないか」 藤原教授は目をしろくろさせ、黒いおおきなお椀の蓋に手をかける。 「まあね。普通のお客さんにはだせないんだが。ここの女将がオレの教員時代の 教え子なんでね。生簀(いけす)で育てた自家用の鯉を生簀から掬(すく)いあげて 鯉こくにしたてあげてくれたんだ」 「それはありがたい。もう一生、鯉は食べられないと諦(あきら)めていたんだが」 藤原教授はお椀を両手で捧げ拝むようにしてひとくち啜(すす)る。 「おお! こりゃ絶妙の味だ」 「ところで、前立腺が肥大すると、なぜ尿の出がわるくなったり、最悪の場合には 尿閉になったりするんかね。オレのオペを担当した教授のコメントは、あまりにも 早口で、素人のわしにはよく読み込めなかった」 「いずれにしても泌尿器科のドクターは、医者としての専門的な知識だけでなく、 地球人の性生活を識りつくしているはずだから、『前立腺オナニー』の弊害など も懇切にコメントできるはずだが」 「ほう。その『前立腺オナニー』ってもんはなんのことですか」 「これはね。しらない人のほうが多いかもしれないが。本来、性哲学を遡れば セクシャリテーに辿りつく問題になる」 「ほう。性哲学ね。セクシャリテーか」 「その人のセクシャリテーによっては、特定の男性または女性をパートナーとする 性生活を指向するマジョリテーとしてのまともな性生活を建前とする人のほかに、 いわばマイノリテーとしての性生活を指向する人たちの中には、まともな性生活 とは異質の性行動を好むものがいるんだな。こういう人たちのうちには『前立腺 マッサージ』をエンジョイすることがある。これを『前立腺オナニー』ともいうんだ」 「ほう。そんなもんがあるとは識らなかった。君のコメントも、わしには、判ったよう でもあり、判らないようでもあるが」 「この概念は、あまり聞きなれないことばだが。特殊な性行動のひとつであること にはちがいない」 「その性行動もいわゆる自慰の一形態のようにもみられるが」 「まあね。マスターベーションの概念で括(くく)れないこともない」 「その性行動は実際にはどんなアクションをするのかね」 「あまりおおきな声で云いたくはないが。肛門から中指を挿入すると、前立腺に 触れることができるんだ」 「ほう。前立腺ってのは、そんな位置に存在してるんかい」 「まあね。腎臓の下部に位置する栗の実のような形をした、男性にしかない臓器 なんだがね。前立腺とは男性が男であるという証(あかし)になるんだ」 「ほう。男性に特有の臓器か。けど自分の肛門に自分の中指を挿入することは テナガザルでもないかぎり、かなりむずかしいんじゃないかね」 「まあね。からだの柔軟な人は別として、通常はセックスをエンジョイする者同士が 交互に手を貸すことになるのでしょうな。自分の指を挿入することができない場合は、 人にやってもらうしかない」 「女性のウァギナに男性がペニスを挿入するときのようにかい」 「まあね。とにかく肛門から指を挿入して前立腺をマッサージするわけだ。すると 電気ショックを受けたような鋭い快感がえられ、射精することもできるらしい。仮に 射精しないときでもオーガズムに達することがあるという。このような特殊な性行動 なんだから識らくてもよい」 「パートナーがいるくらいなら、ウァギナとペニスの結合という、まともな性行動という 選択肢もあるはずだが」 「そう考えるのが一般人の感覚なんだが。マジョリテーとしてのね。けど、そこが セクシャリテーの問題になってくるんだね。そうした性的指向を好むマイノリテーも 現実には存在しているんだ。男のパートナーも男だったりするケースもある」 「そうしたマイノリテーの気持ちも判らないわけではないが。人間の性感帯はほかにも あるはずでしょう。男性ならペニス、女性ならウァギナとりわけクリトリスといった、 もっとまともな部位もあるでしょうに。だとしたらなにも前立腺を刺激することもある まいに」 「それにもかかわらず敢(あ)えて前立腺を選択するのには、それなりの理由がある」 「どんな理由ですか」 「それは、さっきも云ったように、地球人の性感帯のなかでは前立腺がもっとも強烈な 電気ショックをうけたような特殊な性感をエンジョイできるからでしょうな。一度、それ を体験したらば、その味は忘れられないという。おそらく絶妙な性感なんでしょな」 「地球人の性行動という人間の本能にかかわるはなしに熱中していて、料理のほうは 置き去りになってしまった。その焼き物の魚は岩魚という淡水魚なんだ」 花園はその岩魚にかぶりつく。 「ああ。よく澄んだ清流にしか棲息(せいそく)しないというあれか」 「鯉もさることながら、岩魚も珍魚のひとつだ」 「その貴重な珍魚を食べて精をつけるか」 藤原教授も岩魚にかぶりつく。 「それにしても、さっきのセクシャリテーなんだが。ことばとしては判るが。その実質が よくわからないな。具体的にコメントしてくれないか」 花園弁護士は自分のグラスにビールをそそぎながら呟(つぶや)く。 「そのセクシャリテーということばは、すでに日本語になってるとも云えるが。その実質は 判ったようでわからない、というのが大方の言い分でしょう。この性概念はその人の人格 そのものないしは心理構造にもかかわってくる複雑な問題だから、あとで整理してコメント するよ。とりあえず、ここでは『性的指向』と云っておくことにしましょう」 「ほう。性的指向か。そう言い替えてもやはりもやもやしてるんだな」 「まあね。ニュアンスのある概念だからね」 「いずれにせよ、性哲学は奥が深いということだけは理解することができた。それ で例の『前立腺マッサージ』の性感が電気ショックをうけたような絶妙なもんだと すれば、その性感に溺れて、来る日も来る日も、その絶妙な性感をエンジョイする メンシェン(人間)もでてくるとおもわれるが。その性感を濫用(らんよう)しても 別に性生活上に弊害(へいがい)は起こらないもんでしょうか」 「いいところに気づいたな。その指摘については、考え方がわかれるんだ。 あんまり前立腺を刺激しすぎると、前立腺が肥大してくるという考え方もある」 「なるほど。そうするとその考え方は、前立腺肥大の要因はなにか、という命題に 関する『刺激説』というわけか」 「まあね。前立腺肥大の要因はまだその真相が解明されていないといったほうが たしかかもしれない。実はね。前立腺肥大症が増加してきたのは、日本経済が 高度成長期にはいってからの現象なんだ。これに対し終戦直後から昭和30年 代ころまでは、逆に前立腺が縮小するという症例がおおかったという指摘もなさ れているくらいなんだ。だからなぜ前立腺は肥大するのかは、未解決なんだな」 「そうなんかね。それにしても、貧困の時期には縮小していた前立腺が高度の 成長期にはいると、なぜ肥大するようになったんですか。わからん」 「その点についても曖昧模糊(あいまいもこ)というしかないんだが。ひとつの発想 は、要するに経済の高度成長にともない市民の生活が豊かになった。日本人の 食生活も欧米なみに洋風化してきた。いわば食生活もアメリカナイズされてきた せいではないかとみられている」 「ほう。その発想にタイトルをつければ『生活習慣説』ということになるかな」 「さすが、ローヤーだけに学説の見分け方が秀れているね」 「おだてたところで、なにもでないよ」 「なにも期待はしていないから」 「そうするとオレの場合、『前立腺マッサージ』とか『前立腺オナニー』など一度も やったことがないのになんでまた前立腺が肥大したんかな。わからん。ただ、 ひとつだけ生活習慣が要因といえなくもない」 「おそらく君の場合はそんなところでしょう。ただ加齢も要因のひとつとして考え られなくもない」 「そうだね。そろそろ熟年者の仲間入りをする年齢になったからな。でもさあ。 加齢がどうして前立腺肥大に結びつくんですか。よくわからない」 「それはね。現実的に泌尿器科のクランケの場合、前立腺肥大症の患者が 70%以上を占めているからだ。もっとも40歳代のクランケもいるらしいが」 「なるほど。そういうことか」 「そろそろメシにしないか。飲んでばかりいて生活習慣病になると困るから」 花園弁護士は苦笑しながらテーブルのうえの鍋下のガスレンジに点火する。 「メシのおかずはスキ焼なんだ。地鶏に地兎、それに葱、人参、サトイモなど のほかに焼き豆腐など、いずれも魚沼地方の産物ばかりなんだ。それにメシは、 正真正銘(しょうしんしょうめい)の魚沼産コシヒカリだからね」 「ほう。日本一の銀メシか」 藤原教授は自分のグラスにビールをそそぐ。 花園は鍋にスキ焼の具をいれ、調味料を垂らしこみスキ焼を仕立てはじめる。 「君が研究の集大成として刊行した[性行動の科学的研究]を読んでみて、わしの妻 である佐保子との性生活にも変化が起こった。これまでとは微妙に異なった味の濃 いものになったんで感謝している。佐保子もこっそり君の著書を盗み読みをしてい るらしいんだ」 花園は藤原と視線をあわせる。 「ほう。佐保子さんにも読んでいただき光栄だね」 「ところでさっきの[前立腺マッサージ]なんだが、この特殊なセックスアクション を単独でするときは、[一人エッチ]だから君の研究によれば、[シングル型性行為] に該当することになると考えられるが。このアクションについてコメントしてくれ ないか」 「まず[シングル型性行為]に関する基本概念を識っておかなければならない」 「ほう。どんな概念ですか」 花園は興味ふかそうに身を乗り出す。 「これまで、性交とは男性が勃起(ぼっき)したペニスを女性のヴァギナに挿入し、 性的に男女が結合することとされてきました」 「そりゃ、おっしゃるとおりです」 「この発想のもとでは、性交はその主体が男女という[ダブル型]のものに限定されて しまいます。しかしこうした理解によれば人間の性行動を解明するにあたり[性哲学] における[価値評価]について不都合をもたらすことになりかねない」 「その理由はなんですか」 「なぜなら性行動の価値的評価としては、従来の性交、つまりわしの著書で命名した ところの[ダブル型性行為]と価値的にはまったく同一の[シングル型性行為]の本質を 解明することが困難となる危惧が残るからだ」 「なるほど。そうなんだ」 「地球上に生息する人間の性行動に、性哲学ないし法的評価を加えるならば、それは 人間の生存本能に基づく[生殖的役割]を担うだけではなく、性行動による[性的快感] を享受するとにより、その性行動の主体が[幸福を追求する]という大きな価値を有す るからだ」 「まるで幸福追求権という憲法で保障された人権論になってきた。こりゃ、驚きだ」 「このような性行動の主体である人間は、そのまま人権享有の主体なんだな。だから 憲法で保障された[幸福追求権]の一内容として[性行動の自由]は憲法によって保障さ れているわけです」 「まさに憲法論ですな。この問題は底が深いんだ」 「まあね。そうだとすれば、これまで性行為とされてきた[ダブル型性行為]のみなら ず[シングル型性行為]もまた保障の対象になると解されます」 「藤原君のおっしゃるとおりですな」 「このような[性哲学]および[価値観]に基づき、わしの学説によれば、従来の[性交]」 の概念に変革をもたらし、性交には[ダブル型性行為]のほか[シングル型性行為]を含 むと解するようになったわけです」 「そうすると君の学説によれば、[ヴァギナ]の概念も変革がもたらせられるのですか」 「いいところに気づかれました。これまで女性の性器たるヴァギナについては、生来的 に女性特有の性器と解されてきました。しかし人間の性行動を[性哲学]および[性行動の 価値的評価]の見地に立脚して、その本質を解明するためには[ヴァギナ]の概念も変革 されなければなりません」 「たしかにおっしゃるとりです。はなしに熱がはいってスキ焼が冷めてしまう」 花園は銀飯をよそって藤原の前にさしだした。 「スキ焼はそちらの側から箸をつけてくらないか」 「ああ。どうも。それでは銀飯をいただくとするか」 藤原はコシヒカリのお椀に箸をつける。 花園はスキ焼を手元の受け皿によそりはじめる。 「これまで女性の性器としての膣をヴァギナと称してきました。しかしヴァギナは女性 の性器に留まるものではありません。女性の膣のほかにもヴァギナが存在することが明 らかになりました」 「ほう。その新たなヴァギナは、どんなヴァギナなんでしょうか」 花園はスキ焼に箸をつける。 「この新たなヴァギナは、性行動の科学的研究に関するモニターによる実験の過程に おいて偶然にも発見された事実として実証されています」 「ほう。そりゃ、素晴らしい発見だね」 花園は感服のポーズをとる。 「そうすると[ヴァギナ]の概念はどう変革されたのですか」 花園は藤原教授の顔を覗(のぞ)きこむ。 「その結果、ヴァギナは[真正ヴァギナ]と[疑似的ヴァギナ]に大別されることになった」 「ほう。[真正]と[疑似]に二分されるというのはどういうわけですか」 「ここに[真正ヴァギナ]とは女性に生来的に身体の一部として具備されている[生殖器と しての膣]を意味します。女性が保有する筋肉質の膣は生来的に保有する本来のヴァギナ であるから、これを[真正ヴァギナ]と呼称することになりました」 「なるほど。わかります。それで疑似のほうはなぜ疑似なんですか」 「ええ。これに対し性行動の科学的研究の過程において新たに発見されたヴァギナは、 講学上の概念としてこれを[疑似的ヴァギナ]と呼称することになりました。これは本来の ヴァギナに見立てたものだからです。この「疑似的ヴァギナ」は「疑似的ウォーターヴァ ギナ」と「疑似的エアーヴァギナ」に分類されます」 「ほう。するとこの二つのうち前者はどんなヴァギナですか」 「これは一定のシチュエーションにおける状況的概念です」 「といいますと」 「この[疑似的ウォーターヴァギナ]は次のようなシチュエーションにおいて形成されます。 まずペニスを露出した状態で浴槽とかプールの中に入ります。浴槽とかプールの縁にお尻を つけ体を安定させます。左右の手首の内側の脈拍を感じる部位を左右の乳首の斜め下側に あてます。そして股を開き、腰を少し屈めます。この基本姿勢ができたら左右の手首で乳首 を上に向けて擦りあげるようにして、ウォーターにぐいとへばりつきます。するとペニスの 尖端の亀頭部に快感がはしります。ウォーターにへばりついた瞬間、ペニスは[ウォーター ヴァギナ]に挿入されたわけです。この体勢でピストン運動にはいります」 「なるほど。それにしても、このシチュエーションは初耳だね」 「このようなシチュエーションを[疑似的ウォーターヴァギナ]と呼称します。ぴんとこない かもしれませんが、あくまでこのカテゴリーは[状態・状況的概念]です。モニターによる 実験例によれば、[疑似的ウォーターヴァギナ]とペニスが結合された性行動における快感度 は、[真正ヴァギナ]にペニスを挿入して性行動をする場合に匹敵するか、あるいはそれ以上 に高度な独特の質を有していることが実証されています」 「ほう。性行動も底が深いんだな」 「そこでこのシチュエーションを全体として把握し[疑似的ウォターヴァギナ]と呼称する ことになりました。これは講学上の概念ですが、いわば[第二のヴァギナ]です」 「わかりました。すると、もうひとつの[疑似的エアーヴァギナ]の正体は」 「これも次のような状態・状況において形成されるヴァギナです。まず男性が全裸になって、 あるいは下腹部を露出し、両脚を開き、腰をおとして[大気]にへばりつきます。両腕の手首の 脈拍を感じる部位を左右の乳首の斜め下にあてがいます。この基本姿勢ができたら両手首で 乳首を擦りあげながら、ぐいと腰を使って[大気]にへばりつきます。これで勃起したペニスは [大気のヴァギナ]に挿入されました。するとペニスの亀頭部には快感がはしります。両方の 手首で左右の乳首の両脇を擦りあげながらピストン運動にはいります。これを始めるとペニス はいっそう勃起し、[大気]に触れるペニスの亀頭部に感じる快感がアップされてゆきます。 するとペニスの」亀頭部は分泌された[カウバー腺]により潤ってくるし、女性の[真正ヴァギ ナ]にペニスを挿入したときと類似した快感がえられます。もとより個人差はありますが、 このときの[快感の質]は、[真正ヴァギナ]にペニスを挿入したときとは異なる独特のものだと いうモニターも実在しています。なぜ気体である[エアーヴァギナ]に挿入しただけのペニスに、 このような独特な快感を生み出すのだろうか。仮説にすぎないが、このような状態は、個体で ある[筋肉質]の[真正ヴァギナ]と異なり単なる気体にすぎない[大気]のヴァギナではあるが、 それに触れるペニスの触感を通してソフトな性感となり[筋肉質の膣]に類似した役割を[大気] が果たしているせいではないでしょうか。そこでこのような性的快感がえられるシチュエー ションを全体として[疑似的エアーヴァギナ]と呼称することにしました。このカテゴリーは 性行動の科学的研究という講学上の概念ですが、これはいわば[第三のヴァギナ]ということ になります」 「ほう。すると君の研究によれば、ヴァギナは三種類存在することになりますな」 花園は藤原教授と視線をあわせる。 「まあね。女性が生来的に保有すす筋肉質の[真正ヴァギナ]のほか、物理的には液体である [疑似的ウォーターヴァギナ]、それに物理的には気体である[疑似的エアーヴァギナ]と3種 のヴァギナが存在することになりました」 「ううん。将(ま)さにヴァギナ概念の変革ですな。するとまず[疑似的ウォーターヴァギナ] による[シングル型性行為]についてコメントしてくれないか」 花園弁護士は興味津々(しんしん)という目つきになる。 藤原教授は箸置きに箸を載せ、腕を組む。 「これまでのコメントにより新性交概念と新ヴァギナ概念が明らかになったが、君の求めに 沿ってまず[疑似的ウォターヴァギナによるシングル型性行為]についてコメントしてゆき ましょう」 「頼みます。もはや[男でなくなった]わしにとっては、わくわく、興味津々!!」 「まず前戯以前の準備行為が必要になります」 「わかります。どんな準備が必要になりますか」 花園は藤原と視線をあわせる。 「まず風呂の準備と室温の調節をしましょう。風呂の準備をしてお湯の温度は温めにして おいたほうが性感アップに効果的です。冬場には浴室の室温を適温に調節しておく。浴槽に お湯をだし、熱いお湯のままの状態で浴槽に蓋をしないで湯気をたてておけば、10分後には 室温も適温になります」 「なるほど。お湯の出し方で室温の調節ができると」 「まあね。まず[前戯の前のスタンバイ]として、トイレで十分に放尿し膀胱と尿道を空にして おきます。残尿があると性的快感の度合がかなりダウンしてしまいます」 「たしかに。これはパートナーとのダブル型のときでもおなじですな」 「そうです。ええと、頃合いを見計らい、全裸になって浴室にはいります。もうもうと湯気が 起ちこめる浴室で湯加減を確かめ水を追加するなど適温に調節します。温いお湯でシャワーを 浴びます。シャワーを嫌う人は微温湯を両腕や両足、両方の脇腹に浴びせます。するともう、 ペニスは膨張しはじめています。おしまいに微温湯を高い位置から勢いよくペニスに浴びせます。 するとペニスの[カリ部]に軽い快感がはしるはずです」 「ああ。むずむずしてきた」 「ローヤーといえども、血湧き肉躍るメンシェン(にんげん)だからね。むずむずしても不思議では ない。洗い場に起ち両脚を広げ、やや腰をおとし、[エアーウァギナ]にへばりつけるような基本 姿勢を整えます。両方の手首の内側の柔らかい部位を臍(へそ)の脇の両方の下腹部にあてがう。 そのまま両方の脇腹をソフトに撫で上げ両方の乳首の左右斜め下の部位から擦りあげてゆきます」 花園は思わず、両方の手首を胸にあてたポーズになる。 「両方の手首が乳首の上部に達したら、そのまま[八の字]に手首を左右に開きます。すると乳首の 接触による快感がはしりぬけるとともに、ペニスにもかなりの快感が走り抜けることでしょう。 ここでもう一度、両方の手首の柔らかい部位を臍の脇の両方の下腹部に戻し、両方の乳首に向けて ソフトに擦りあげます。乳首の上部に達したら両方の手首を左右に[八の字]に擦りながら開きます。 このようなパターンの前戯行為を繰り返してゆきます。すると[ダブル型]においてパートナーを 抱擁したときのような快感がふんわりと湧き上がってきます」 「なるほど。なぜそう感じてくるのでしょうか」 「それというのもペニスおよび上半身と[大気]との接触による快感がそのまま性感となって感じられ るようになるからです」 「わかります」 「もとより個人差はありますが、このパターンにより20回から50回程度の愛撫行為を繰り返せば ペニスはかなり勃起してくるはずです。ペニスの勃起を感じたら脇腹からのせり上げ行為をストップ し、手首は乳首の斜め下にあて腰を屈めて[大気]にへばりつきながら乳首の左右から手首で擦りあげ、 乳首の上部から[八の字]に左右に開いてゆきます。擦りあげるときソフトな擦りあげから次第に強い 擦りあげに転換してゆきます。その擦りを強めれば強めるほど、ペニスに感じられる刺激の度合が アップされ、むくむくペニスが勃起してゆくのが感じられます」 「なるほど。なんだか、あそこが膨れてきたようだ」 「このパターンの前戯行為で訓練してゆけば、下腹部からの擦りあげから乳首で[八の字]に開く アクションを5回程度繰り返すだけで、ペニスは大きく勃起することがモニターによる実験例により 実証されています」 「なるほど。そうなんだ。そうだとすれば、[ダブル型]のときでも、ペニスを急速に勃起させたいとき には、この手法を実行すればいいんだ」 「おっしゃるとおりです」 「ええと。準備行為と前戯行為はよくわかりました。するとその[本番]は、どうなりますかな」 「ええ。それでは[疑似ウォーターヴァギナによるシングル型性行為]の本番にはいります。このような 浴槽の外における前戯行為により、ペニスの勃起とともに乳首も勃起しているはずです。勃起したペニス の亀頭部は尿道口から分泌された[カウバー腺]により潤っているし、亀頭の[カリ部]と陰茎体との段差も 大きくなり、ペニスは快感とともに蠕動(ぜんどう)してきます」 「それは、男ならだれでもわかるはずですが。前立腺をカットして男でなくなったはずのわしも、ペニス は勃起するし、ペニスの亀頭部にはカウバー腺が分泌され、カリ部と陰茎体との段差も大きくなってきます」 「その段差が大きいほど男性の性器としては名器といわれます」 「ほう。それでは、わしのは[名器」かもしれない。前立腺はカットされ、精液は製造されなくなっても、 性欲は以前にも増して旺盛になったし、さらにペニスは快感とともに蠕動してきます」 「ほう。君の体験は貴重な研究資料として活用させてもらうことにしよう」 「藤原君。先ほどの本番のつづきを」 「ええ。こうなったら浴槽にはいります。まず基本姿勢ですが、浴槽の縁に近い位置で浴槽の中央に向けて 前向きに起ち、浴槽の縁にお尻をつけ、そこを支点にして肉体を安定させます。ここがピストン運動のとき の支点になります。両足を開脚し、膝を曲げ、腰をおとし、[疑似的ウォーターヴァギナ]にはばりつきます。 このポーズが[正常位]のときの基本姿勢になります」 「ほう。そのポーズが[正常位]の腰の据え方ですか」 「まあね。この[正常位]にも類型があります」 「どんな類型ですか」 花園は藤原と視線をあわせる。 「ええ。[手首型正常位]と[親指型正常位]です」 「なるほど。ちょっとトイレにいってくる」 花園弁護士は座椅子から起ちあがり、桔梗の間から廊下に消えてゆく。 「わしも放出してくるか」 藤原も起ちあがり桔梗の間から消えてゆく。
〇 清津峡谷 白い泡をたてながら、ごうごうと清流が流れ降る
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