第13回 佐保子の密読
○ 羽村堰 玉川上水に沿って展開される桜並木の桜は葉桜になっている。 桜の古木の枝が垂れ下がり地面すれすれでそよ風に揺れている。 ○ 花園家の門前 白光がする生地に黒砂を散りばめた花崗岩の門柱に[弁護士 花園]と金文字で 刻まれた表札が浮かびあがる。 門柱の奥には広い芝生の庭が垣間(かいま)見られる。 ○ 花園家の庭 庭の芝生の南側では柘榴(ザクロ)の枝には真紅の花が咲き乱れている。 柘榴の木からかなり離れた庭の片隅にはおおきな蜜柑の木が無数に白い花をつ けている。 ○ 花園家の応接室 かなり広いスペースの応接室の奥は乳白色の絹を張った衝立で仕切られ、書斎 になっている。 応接室の表ドアを開けると豪華な応接セットが配置されている。 ソフアーを背にした壁側にはスタンドピアノがおかれている。 黒いピアノの蓋が開けられ、譜面台にはソナチネの楽譜が開かれている。
奥のドアが開いて、エプロン姿の佐保子が入ってくる。 佐保子は絹張りの衝立の脇を抜け、おおきなデスクに向かった。 デスクのうえには一冊の書籍が開かれたままで胡蝶ランを描いた短冊型の栞が 挟まれている。 「これは、うちの先生が読みかけたままにしておいたものらしい」 佐保子が呟きながら書籍に手をかけると、その表紙には「性行動の科学的研究」という文字が刻み込まれていた。 「あっ、これは藤原先生がお書きになった例の著書なんだ」 佐保子は叫ぶようにいった。 「あたし、いちど読んでみたいとおもっていたんだ」 佐保子は栞を抜いて著書のページを捲った。
◆ 藤原教授の著書 ◆
第3節 男性の内性器
1 性器の原点 本来、胎児の未分化段階の性器(性腺原基)は「女性型」である。 性染色体上、男性の場合には、ある段階から男性ホルモンが分泌されるようになってくる。 その男性ホルモンの作用により性器は「男性型」に変化してしてくる。 具体例でいえば、「陰嚢」は「大陰唇」にあたる部分であり、胎児の段階で男性ホルモンの作用によりその襞が伸びてゆき、 それが融合して袋状になったものが「陰嚢」なのである。 陰嚢の裏側を観察すると袋の縫い目のような盛り上がった線がみられるはずである。 これは「陰嚢」形成の痕跡ともいえる。 このほか、ペニスの亀頭と膣のクリトリス、ペニスの茎部と膣の小陰唇、男性の「精巣」と女性の「卵巣」がそぞれ対応される。 2 精巣 A 概念 精巣とは、精子と男性ホルモンをつくる生殖器官をいう。 この精巣は「睾丸」といわれる。 「精巣」・「睾丸」・「ホーデン」はいずれも同義にもちいられている。 睾丸は、男性の股間の袋(陰嚢)の中に左右1個ずつ入っている精子と男性ホルモンをつくる生殖器官である。 B 睾丸の形状 睾丸は、楕円形をしたタマの形をしており、左右に1個ずつ別々に陰嚢のなかに入っている。俗称ではキンタマと呼ばれる。 睾丸の大きさには個人差があるが、普通は直径4〜5cmの楕円形で、しわしわの袋つまり「陰嚢」によって保護されている。 C 精子の生産 睾丸の中には「曲細精管」や「直精細管」などの細かい「精細管」が網状にぎっしり詰まっている。 この睾丸は、副睾丸、精索、精管との組織的なはたらきにより72時間程度で精子をつくりだすことができる。 この睾丸では1日に7000万個から1億個程度の精子を生産している。 D 睾丸が下腹部に吊るされた理由 睾丸は本来、内臓器官であるから体内に隠れているはずの器官である。それにもかかわらず陰嚢に包まれただけで、体外に吊る されている。それは体温より低い温度、精子に適した温度を保つためである。睾丸が、蹴り、握り、叩きなどに弱いのは、体外に 吊るされてはいるが、もともと内性器だからである。 このように睾丸は、高温にも弱いため陰嚢とともに体外に吊るされた器官としてその機能を担うことになったのである。 D 睾丸の緊急避難 もともと高温に弱いといわれる睾丸も厳寒の状態に晒されると、寒さから身を守るため体内に潜りこんでしまうことがあ る。この現象は睾丸が緊急避難として体内に避難するものである。 いわゆる「タマがなくなった」という現象がこれである。 E 睾丸女性化症候群 これは男性ホルモン・アンドロゲンにうまく適応することができず、外性器が未発達になったり、不妊をもたらすおそれもあ り、クラインフェルター症候群に属する。 3 精巣上体(副睾丸) A 概念 精巣上体とは、精巣の上部に位置する生殖器官をいう。 これを副睾丸ともいう。 B 機能 この睾丸は「精細管」でつくられた精子を一時的に蓄えておく機能を担っている。 この睾丸は、いわば「精子の保育・培養所」である。 4 精管 A 概念 精管は、「精巣上体」と「射精管」とを繋ぐ一対の管状器官をいう。 B 形状 これは精巣上体から出ており、その形状は長さ35cmから40cm程度の管になっていて、その「射精管」近くは膨大部形状 になっている。 この精管は、「前立腺」の中で尿道と繋がる。 C 機能 この精管は、精巣でつくられた精子を「精管膨大部」まで運ぶ役割を担い、いわば精子の通り道になっている。 この段階では、精子は自力で移動することをしないで、精管の蠕動運動によって運ばれる仕組みになっている。これは大切な 精子にエネルギーを使わせないためとみら れている。 精子は1日に7000万個から1億個、男の一生では兆単位の数字で生産され、1回の射精により放出される精子の数は実に 5000万個から数億個といわれるが、この精管で精液を「精管膨大部」まで運び、そこで保存し射精の準備が整うことになる。 生殖に向けた、このような仕組みの巧妙さには舌を巻くばかりである。 5 精嚢 精嚢は精子の運動を促進するための液体を分泌する生殖器官をいう。 6 前立腺 A 概念 前立腺とは膀胱の下部に位置し、尿道と精管の結合部を囲んでいる生殖器官をいう。 B 形状 この前立腺は「栗の実」のような形状をした男性にのみ備わっている男性固有の生殖器官をいう。 C 機能 前立腺からの分泌液と精嚢から分泌される粘液が精子とブレンドされ「精液」をつくる。 D 前立腺肥大 この前立腺は、尿道を囲んでいるため、これが肥大すると尿道を圧迫し、「頻尿」や「残尿」などの現象が起こる。 個人差はあるが、加齢現象のひとつとして「前立腺肥大」となることがある。 E 前立腺マッサージ これは肛門から指を挿入し、腸壁沿いに探り、その指で前立腺を圧迫刺激することをいう。 そもそも前立腺は、性感帯のひとつであるから、圧迫刺激を受けると、電気ショックを受けたような強い快感を味わうことがで き、射精にいたる。 この独特の性感を「前立腺オーガズム」という。ただ、このアクションは副作用ともいうべき弊害をもたらす危険性が孕まれて いる。 7 尿道 A 概念 尿道は、単に尿を排出するだけでなく、射精のときには精液を噴出する通路ともなる生殖器官である。 B 機能 尿道は次のような機能を担っている。 ア 排尿器官として尿を排出する通路となる。 イ 射精器官として精液を噴出する通路となる。 この射精時には、射精にともなう快感があるだけでなく、強烈に射精した直後には、痛みを感じることもある。 8 射精のメカニズム A 精液の滞留 性的興奮が高まるとペニスが勃起する。それとともに精嚢や前立腺から液体が分泌され、膀胱の下にある「内括約筋」が収縮し て膀胱からの通路が遮断される。 そして尿道から外へ出てゆく通路も「外括約筋」によって閉塞される。すると、この二つの括約筋の間がひとつの部屋になり、 この部屋に精液が溜まってくる。 B 「カウバー腺」の分泌 それと同時に「カウバー腺」から尿道内にアルカリ性の粘液が分泌され、尿によって酸性化された尿道を中和する。 この「カウバー腺」は精液の通り道を浄化し、精液を安全に送り出す作業をサポートする役割を担っている。この「カウバー 腺」はぬるぬるした粘液で、ローションの役目をも果たしペニスの亀頭を潤滑にして膣へのペニスの挿入を容易にする。 C 精液と尿の混合を防止 そのうえ尿道には弁があり、「膀胱方面」と「精巣方面」とが分離されているため、この弁により一方を遮断することができ る。このため精液と尿とが混合するおそれは絶対にない。 D 射精によるオーガズム やがて性的興奮が頂点に達すると、「外括約筋」が弛緩し、括約筋の壁でつくれた部屋に滞留していた精液が、筋肉の痙攣とと もに尿道から噴出される。 このときの性的快感の現象を「射精」という。 このように男性は、射精した瞬間、強い性的快感を得ることができる。 これを「射精によるオーガズム」という。このほか男性のオーガズムには「射精しないオーガズム」もありうる。 この点については「性行為の技術」の一つとして後述する。 E 射精後における性器の状態 射精により性的興奮が鎮まると、それまで充満していたペニスの海綿体の血液は「陰茎静脈」を通って体内に還流されてゆく。 つれて勃起していたペニスも弛緩し、通常の状態になってくる。 F 精子の移動 このような1回の射精により精液は2〜4cc放出される。その中には1〜6億個もの精子が含まれているといわれる。 精管の中では、精子の移動は緩慢であるため、自力でおおきく移動することができない。そこで分泌液と混じって精液に生成さ れ、その精液が射精されたのちは、1分間に3mmくらいの速さで進めるようになってくる。 G 精通 ここに精通とは、初めて精液が体外に出されることをいう。 この精通は、早い人で10歳、遅い人で18歳くらいといわれている。 男性の精通は、女性の「初経」にあたる。この精通の多くはマスターベーションによる。もっとも夢の中で精通が起こることも ある。これを「夢精」という。 男性は、この精通を経験したときから性的機能が一人前に成熟したことにになり、女性に妊娠させる能力を保有する。 女性の初経が「生む能力」の取得であるのに対し、ここでは男性が「生ませる能力」を保有したことになる。 9 男性の性に関する参考知識 ◇ 停留睾丸 母体内の胎児の睾丸は、その体内にあり、出産したときは、陰嚢に降りてくるのが通例である。 しかし出産しても予定どおり睾丸が陰嚢に降りてこないことがある。このように降りてこないでそのまま体内に停留されている 状態を「停留睾丸」という。 出産してから1歳くらいまでは睾丸も陰嚢に納まっていることが多い。もし2歳を過ぎても降りてこない場合は、手術の必要が ある。もしそのままにしておくと、精子の製造能力に体温が悪影響を及ぼすおそれがあるからである。 ◇ 中折れ ペニスは勃起して膣に挿入することはできるが、勃起状態を維持することができず、挿入中に膣内でペニスが萎えてしまうこと がある。この状態を「中折れ」という。これは40歳以上で起こりやすい症状であるが、ED治療により改善することができる。 ◇ 中折れ早漏 A ペニスの勃起力が弱い場合:腰折れペニス B ペニスの勃起力が激しい場合 がある。 その強さと早漏とは別次元の問題である。 ◇ 中出し 膣内に精液をそのままとことん吐き出すことをいう。 ◇ バイアグラ これは「勃起不全」を改善するための治療薬である。医師の処方が必要である。 これは適正に使用しないと死に至ることもあるので注意しなければならない。心臓系疾病患者には使用が禁止されている。 もっともこの種の患者にも適用することができるED治療薬もある。 ◇ バイブ 男性器を模した性具でアダルトグッツの一つである。電動式バイブレーション、くねり、回転などもできる。 アメリカでは「肩揉みマッサージ機」がバイブにも転用さているという。 ◇ テストステロン 男性ホルモン・アンドロゲンの一種である。 これは睾丸で合成され、胎児期には男性生殖器の生育に、思春期には陰毛、声変わり、睾丸・ペニス、男らしい筋肉の発育に、 成人期には性欲や性行動に関与してくる。 これはいわば「命の男性ホルモン」である。 ◇ 朝立ち A 概念 朝、起きたばかりのときペニスが勃起していることがある。この現象を「朝立ち」という。 B メカニズム この朝立ちはなぜ起こるのか。 以前には夜中になると膀胱に尿が溜まり、勃起中枢を刺激するためペニスが勃起すると解されていた。 しかしその後、朝立ちは睡眠のメカニズムと関係することがわかってきた。 人間の眠りには「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」を繰り返すというパターンがある。睡眠はおよそ90分サイクルで浅い眠り の「レム睡眠」と深い眠りの「ノンレム睡眠」が繰り返される。 朝になって起きる直前には「レム睡眠」の状態であるため「金縛り」などが起こりやすい。 その名残としてペニスが勃起するといわれる。 ◇ ふぐり 男性器・陰嚢のことを性用語では「ふぐり」という。 ◇ インサート ペニスをバギナに挿入することを性用語ではインサートという。 ◇ 陰茎癌 その多くはペニスの亀頭部に発生する。 ただ男性癌の1%と発症率はわずかである。 これは痛みもなく、排尿困難などにより発見される。 ◇ オハシ 男性の陰茎を性用語では「オハシ」と呼ぶ。 これは「男の端」からきたものという。 ◇ カルピス 性俗語では精液のことを「カルピス」という。 ◇ ザーメン 精液を「ザーメン」という。 この精液は、生殖するために男性がペニスの先端から女性の膣内に放出する精子を含んだ液体をいう。 精液は「精嚢分泌液」と「前立腺分泌液」によって構成されている。これは乳白色である程度粘り気がある。 ◇ 精液検査 不妊の疑いがある場合に行う検査である。4〜5日、禁欲したのち手淫(マスターベーション)で精液を採取して 顕微鏡により精子の数とか、その運動率、奇形の有無などを検査することをいう。 ◇ 精液プール 女性のオーガズムの過程において興奮期になると、膣の前方3分の1を隆起させ膣の奥の方を膨らませ「テント形成現象」を生 起し、精液の溜まるスペースを造ることをいう。
○ 花園弁護士の書斎 妻の佐保子がデスクに向かって藤原教授の著書に読み耽っている。 「ああ。この藤原先生の著書には、あたしの識らなかったことが記述されている」 佐保子は呟いた。 「人の性行動について、もっと勉強しなければならないわ」 「これからも、うちの先生が留守のときに、この著書を密読することにしよう」 佐保子は呟きながら起ちあがった。 ○ 羽村堰の堤 葉桜がそよ風に揺れている。
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