第11回 性行動学の樹立
○ 羽村堰 玉川上水に沿って展開される桜並木の桜は葉桜になっている。 桜の古木の枝が垂れ下がり地面すれすれでそよ風に揺れている。 ○ 花園家の門前 白光がする生地に黒砂を散りばめた花崗岩の門柱に[弁護士 花園]と金文字で刻まれ た表札が浮かびあがる。 門柱の奥には広い芝生の庭が垣間(かいま)見られる。 ○ 花園家の庭 庭の芝生の奥にはグリーンの竹林がつづいている。 ○ 花園弁護士の書斎 かなり広いスペースの応接室の奥は、乳白色の絹を貼った衝立で仕切られ、書斎に なっている。 応接室の表ドアを開けると豪華な応接セットが配置されている。 ソフアーを背にした壁側にはスタンドピアノがおかれている。黒いピアノの蓋が開け られ、譜面台にはソナチネの楽譜が開かれたままになっている。佐保子がピアノのレッ スンをしてそのままにしていたのだ。 表のドアが開いて、背広姿の花園弁護士が入ってくる。 ソファーのうえにチョコレート色の鞄をおいて、衝立の脇を抜け、おおきなデスクに 向かいパソコンのスイッチをいれたところへ佐保子が奥のドアからあらわれた。 「お帰りなさい。これ書籍小包ですけど」 佐保子はグリーンの袋に包まれた書籍小包をデスクのうえに載せる。 「お茶おいれしましょうか」 「ビールと枝豆にしてくれないか」 「はい。それでは」 佐保子は奥のドアから消えてゆく。 「さて。どこからかな」 呟きながら花園は小包に手をかける。 小包の片隅には藤原教授のアドレスと名前が印字されたスタンプが押されていた。 「藤原の[性行動の科学的研究]が出版されたのかな」 花園は独り言をいいながら鋏で小包を開封する。 グリーンの表紙の真新しい一冊の本がでてきた。 「おそらく緑風舎からの出版だろう」 花園は表紙を捲った。 性行動の科学的研究という太い文字が印象的だった。 「あなた。ビールおもちしました」 佐保子はビールのはいったジョッキと枝豆をデスクのうえに載せた。 「お風呂は準備してありますから」 「ああ。一時間ほどあとにする」 「はい。それでは」 佐保子はいい残して奥のドアから消えてゆく。 花園はビールをひとくちすすると藤原教授の著書のページを捲った。
# 藤原教授の著書 #
性行動学の科学的研究 ー目 次ー
はじめに
第1章 「ヒト」の性行動
第1節 「ヒト」の本能・・・・・・・・・・・・・・・ 1 第2節 性行動の源泉 −性の本質を考えてみましょう−・・・・・・ 3
第3節 性規範の変容 −フリーセックスの時代−・・・・・・・・・ 4
第4節 性科学 −性行動学の樹立−・・・・・・・・・・・・ 5
第2章 「ヒト」の肉体と性感帯 −性行動の主体−
第1節 性差による肉体構造の差異 -PenisVagina-・・・・・・・・・・・ 7
第2節 男性の外性器・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
第3節 男性の内性器・・・・・・・・・・・・・・・・ 12
第4節 女性の外性器・・・・・・・・・・・・・・・・ 18
第5節 女性の内性器・・・・・・・・・・・・・・・・ 27
第6節 生殖器:総括・・・・・・・・・・・・・・・・ 41
第7節 「ヒト」の性感帯・・・・・・・・・・・・・・ 42
第3章「ヒト」の前戯的性行動
第1節 前戯的性行動の本質・・・・・・・・・・・・・ 59
第2節 前戯的性行動の手段・・・・・・・・・・・・・ 63 第4章 「ヒト」の性行為
序 説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 91
第1節 性行為に関する基本的念・・・・・・・・・・ 92
第2節 「ダブル型性行為」: その1 −性行為概念の再構成−・・・・・・・ 106
第3節 「ダブル型性行為」: その2 −男女間の性行為−・・・・・・・ 108
第4節 「ダブル型性行為」: その3 -同性間の性行為-・・・・・・・・ 125
第5節 「シングル型性行為」: その1 −男性の性行為−・・・・・・・ 130
第6節 「シングル型性行為」: その2 -女性の性行為-・・・・・・・・ 181
第7節 ゴールデン・マルチオーガズム −「シングル型性行為」: 総括−・・・・ 193
第8節 性行為の術・・・・・・・・・・・・・・・・ 222
あとがき
○ 花園弁護士の書斎 花園弁護士がデスクに向かい藤原教授の著書を開いている。 「この目次だけ読んでもこれまでの専門書とはかなり発想が異なる体系書になっているらしい」 花園はビールをすする。 「目次によって読者を完全に著書のなかにひきずりこむことに成功している。よし、俺もひきずりこまれてみるか」 花園は枝豆を摘まみながらページを捲る。 「たしか第1章の第3節までは以前に原稿を読んだとき見たはずだ。そうするとこんどは第4節から読めばよいことになる」 花園はページを捲り本文の5ページを開く。 そのページの「性科学」という文字が目にとびこんでくる。そのサブタイトルは[性行動学の樹立]と新鮮味にあふれていた。
# 藤原教授の著書 #
第4節 性科学 −性行動学の樹立−
1 性科学の概念 一般に「性科学」(sexual science)とは人間のセクシャリテーを包括する学問領域に 至っていない曖昧な科学領域とされている。ただ、それは人間の性に関する知識と技術 の科学的な集積であるといえよう。 2 性科学の目標 この性科学は、人間の性行動が望ましいシチュエーションにおいて性行動のパート ナー双方が身体・肉体だけではなく、心理的にも充実した幸福感・満足感・快感を得ら れるような知識や技術を真っ当なひとつの学問として体系化してゆくことを目標としな ければならない。これによって人間の「性生活の質」の向上に貢献することができるか らである。 3 応用科学としての性科学 そうだとすれば、これまで医学はじめ心理学、臨床心理学などに支えられきた性科学 も、単に知識を寄せ集めたにすぎない雑学的な体質から脱皮し、「応用科学」のひとつ として独立した学問領域を確立すべきである。 4 性規範の変容に対応した性行動研究の必要性 これまで人間の性行動は、宗教その他の分野における社会的規範からの拘束を余儀な くされてきた。 しかし価値観の多様化など哲学的な要因も影響して「性規範」は変容しつつある。た とえば従来、タブーとされていた「同性愛」も社会的に認知されるようになったし、 「同性婚」を承認するカントリーさえも出現している。このような性規範の変容の潮流 からすれば「両性愛」が承認されるのも自然といえなくもない。 その人間には、幼児や学童から少年、青年、壮年、熟年期から高齢者という人間層を 形成している。これらの人間にはそれぞれの年齢に応じた「性生活」があるはずだか ら、これらの人間の「性生活の質」の向上に貢献することができる性行動の研究が求め られることになる。 そこで筆者は、この領域における研究の成果を学問的に体系化してゆきたいと考え た。 この目標に到達するために、「人間の性行動」を研究の対象として、その基本的知識 と性行動の技術を論述してゆきたい。 5 本著のモチーフ このように筆者が本著の執筆をなすに至ったモチーフは、性行動は、人間が美しい星 といわれる地球で生存してゆくための基本的な行動領域であると考えた結果、その性行 動も人間の「行動」であるから人間の行動を研究対象とする心理学の研究にヒントをえ て「人間の性行動」を研究し、これを学問の正統派といえる「行動学」として体系的に 叙述してゆきたい。 6 周辺の学問領域 この意味において「性行動学」は、心理学という学問領域に隣接した独立の学問領域 であると考える。 ちなみに「性行動学」に隣接した学問領域としては心理学のほか次のような学問領域 が存在している。 A ジェンダーや女性学などは「社会学」の領域に属する。 B 産婦人科学、泌尿器科学、臨床心理学などの分野は、まさに医学の領域に属する。 C 生命科学(ライフサイエンス) 生物とくに人間が快適に生命を全うするための仕組みを考える学問領域である。 7 性行動学の地位 それでは、ここにいう「性行動学」は、正統派の学問領域においてどのように位置 づけることができるか。 これを横断的な視点に起って考えれば、本著により樹立しようとする「性行動学」 は、横断的に「ヒトの性行動」を直視し、これを研究の対象とする学問であるといえよ う。
○ 花園弁護士の書斎 花園弁護士がデスクに向かい藤原教授の著書に読み耽(ふけ)っている。 「たしかに、これまでのいわゆる「性科学」は正統派の学問とはされていなかった。むしろエッチの衣を着せて眺められる傾向にあったといえよう。しかし藤原は、このエッチな衣を剥ぎ取り、革新的な発想にもとづき新たな学問の衣を着せ、「応用科学」としてこれを学問らしく体系化した。この革新的な構成が学界の認知を受けられるかどうかは別として、革新的な発想たることはたしかだ」 花園はビールをすする。 「藤原は[性行動の質]という概念を提唱している。質というのだから、それは行動の中身の問題になってこよう。そもそも性行動にも[質]があるのか」 花園は腕を組んで天井をみあげる。 「ううん。それは性行動を[快楽原理]の哲学のレールに載せて考えるならば、その快感の度合とか、快感の態様とかもありはしないか。より具体的にいえば瞬間的な快感か、継続的な快感か、どこの部位に快感を生じさせるか、一方的に自己本位のアクションに留めるのか、それとも、きめ細かくパートナーへの配慮をするのかどうか、アクションの回数とか、子細に吟味すれば、これらも[質]の問題といえなくもない。 わしは法律屋だから、ものを考えるとなればつい論理的・分析的になってしまう」 花園は深い溜息(ためいき)を吐いた。
○ 花園家の庭 若葉が伸びてきた柘榴(ざくろ)の枝で鶯が啼いている。
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