自分が男でなくなる瞬間
それは猛暑がつづくとある盛夏の夕暮れのことであった。 花園弁護士は、書斎でどっしりとしたデスクに向かい、民事訴訟の答弁書を 作成するためワープロのキーをたたいていた。 書斎にクーラーはいれないで、窓は開け放たれている。玉川上水縁のブナの 林のなかに建っている花園家の周辺にはいくらか涼しい夕風がそよぎはじめて いた。その夕風がときおり書斎にしのびこんでくる。 廊下に人の気配がした。 「あなた お食事ができました」 妻の佐保子が書斎を覗き込む。 「ああ。そいじゃ飯にするか」 花園は返辞をしたままワープロののキーをたたきつづける。
夕食の席では麒麟麦酒で発売したばかりのプレミアムビールを佐保子と味わう ことになった。 「ビールには『ひとくちのみの原則』というのがあってね」 花園は自分のグラスにコーヒー色をした酷のある『無濾過ビール』を一口分だけそそぐ。 「その原則というのはどういう意味があるんですか」 佐保子は夫のまえにグラスをさしだす。 「その文字どおり『一口分』だけ注いで、それを一気に飲み干すということだ」 「そうなの。識らなかったわ。なんでまたそんな飲み方するの」 「そりゃ。ビールの最高の味をそこねないためさ」 「つまり『ひとくちのみ』は、ビール通の飲み方っていうわけね」 「まあね。それでは一口分だけにしおくから」 花園は佐保子のグラスに一口分だけそそぐ。 「はい。わかりました」 佐保子はグラスを傾けぐっと一気に飲み干した。 「あたしにはよくわからない。どんな飲み方でも味はいっしょだわ」 「ビギナーのうちは、それでよい」 「そうですか。ビギナーね。あたしビールはビギナーってとこね」 「このプレミアムは小瓶だから、量は少ない。グラスに満杯に注いでおしまい にするか」 花園は佐保子のグラスに七分三分の泡立ちでそそいだ。 自分のグラスにも神経質に七分三分の泡立ちでプレミアムビールをそそぐ。 「ビール講義おしまい。乾杯」 花園はグラスを掲げパフォーマンスを演じる。 「はい。うちの先生の講義よくできました。乾杯」 佐保子はくすくす笑いながらグラスに唇をあてた。 キッチンのテレビの背後にかけられた日捲りカレンダーは2008年8月17日に なっている。 セピアの彩りをした木彫風の壁時計の長針がぴくりとうごき夜の9時になった。
◇ 花園弁護士の日記 ◇
2008年8月18日
その夜、わたしは、夕食を済ませて洗面台に起った。 まず部分入れ歯をはずしよく洗浄してからプラスチックの容器にポリデントの一粒 を放り込み、泡立つ容器のなかにそっと浸した。これであすの朝までには白く綺麗な 入れ歯になるはずだ。 歯ブラシたてから歯間ブラシを摘みあげ、歯の間を綺麗にする。カップに水を汲み ごくごくと嗽をする。これで夕食時のたべ粕はおとされ歯の間は綺麗になった。 桜門大学歯学部付属病院の教授に推奨された小型のブラシで歯と歯肉の境界線 にあたる歯周溝に空ブラシをあてソフトにブラッシングしてゆく。上下、裏表と万遍 なくブラッシングがおわると、ぶくぶく嗽をする。これで歯周菌は穿りだされ洗い流 されたようだ。2本めのブラシにGUMの白いペーストを塗し歯茎をじくじくと横に磨い てゆく。これで歯垢は綺麗に除去されてゆくはずだ。3本めのブラシにペーストを塗し 歯の本体をじくじく横磨きしてゆく。歯の裏側にもブラシをあててゆく。これで歯の 裏表とも綺麗なった。こんどはGUMの液体歯磨きの液体をちいさなキャップに受けて 口に含み、ごくごくと20秒間嗽をする。これで残された歯周菌は殺されたはずだ。
就寝まえにトイレに起った。 便座をあげ便器の底に滞留している匂い止めの水面をターゲットに膀胱の水門を ひらいた。よく澄んだ綺麗な尿が太く、勢いよく放流された。 「これでよし。朝までゆっくり熟睡しよう」 独り言をいいながら、わたしは書斎を兼用した寝室に向かいベットに潜った。
深夜の午前1時に強い尿意を覚え目が覚めた。 「普段は朝までトイレに起つことはなかったはずだ。今夜はどうしたことか」 呟きながらトイレに起ち、便器の蓋を開けた。便器の底に滞留している匂い止めの 水面をターゲットに膀胱の水門をひらいた。けど尿は一滴も垂れおちない。膀胱も ペニスの尖端もチリチリしている。だが尿は放出されない。 「いったい、これはどういうわけか」 ペニスの尖端を刺激してみる。 なんの効き目もない。 ペニスの亀頭部と陰茎体との 境界線にあたる段差のある『カリ部』を指のはらで擦ってみる。けど、いつものような 快感は湧かない。ペニスの尖端はチリチリする。歯がゆいおもいだが尿は一滴も滴り おちない。放尿を諦めてベッドにもどるしかない。 ベッドにあがっても膀胱がチリチリ痛み寝付かれない。目を開けて天井を見つめる。 パソコンのモデムのライトで書斎は仄かな明度に包まれている。なんどもなんども寝返り をうつ。焦るばかりで眠れない。起きあがりパソコンの電源をいれる。Windowsが作動を 開始する。明るくなった画面のユーザー欄に暗証番号を入力する。 やがて紫色をした大輪の菖蒲の花が浮きあがる。トップ画面の右上端に8月18日 1時30分という白い文字が浮かびあがる。放尿できないまま18日の朝を迎えること になった。画面の左上のスタートをクリックする。次いで終了オプションをクリックして スタンバイでパソコンの蓋をする。 ふたたびベッドにあがる。膀胱がチリチリして寝付かれない。自分の感覚としては ペニスの尖端から尿が噴出しそうだ。あたふたとトイレに向かう。白い便器の蓋を開け、 脳は勢いよく放尿せよと命令する。だが膀胱はその命令を拒否したままだ。ペニスの尖端 を扱いてみる。なんの効き目もない。亀頭部を手のひらで撫でてみる。 いつものような快感ははしらない。膀胱はぱんぱんに張っている。けど尿は一滴も滴り おちない。排尿を諦めてベッドにもどる。 疲れきって、いつのまにか蕩けた。オレは馴染みの温泉旅館でトイレに起った。 トイレの入り口のドアは開かない。別のトイレを探しまわった。どのトイレにも先客が いて入れない。 目が醒めた。 膀胱は破裂しそうになった。むくっとベッドのうえに起きあがった。 デスクのうえの電池時計の指針は蛍光色で午前4時をまわっていた。 下腹部に手をあててトイレに急いだ。白い便座に掛けた。下腹部には 猛烈な尿意が襲来している。力んでみても尿は一滴も滴りおちない。 もはや排尿の扉はぴたりと遮断されてしまった。いくら脳から指令をだしても 膀胱の弁は開かない。いや膀胱の弁は開いているのかもしれない。膀胱の弁は開いているの に尿道になにかの異物が閊(つか)えているのかもしれない。 「これは、たいへんなことになった」 オレは叫んだ。その瞬間、生命に対する危機感が脊椎をはしり抜けた。 「救急車を呼ぶしかない」 急いで書斎にもどり、デスクのうえの受話器をとりあげた。 震えながら119番のボタンをおした。 「救急車をおねがいします」 「どうしましたか」 「はい。急に尿がでなくなりました」 「ほう。尿停ですか。すぐ出動します。場所は」 「はい」 わたしは自宅のところ番地を告げた。 あわてて着替えをすることになった。水色のジョギングウェアーをはしょった。 カバンのなからセカンドバッグを摘み、現金と桜門大学多摩病院のの診察券、 それに保険証、定期券などをほうりこんだ。 「救急車を呼んだから、あと頼む」 わたしは妻の寝室のドアを叩き、叫んだ。 勝手口にはしった。 勝手口のドアを開けると救急車が赤ランプを点滅しながら待機していた。 「どうもすみません。おせわになります」 隊員のひとりが後部ドアをあげた。 わたしは自分で救急車に乗り込んだ。 「ベッドのうえに寝てください」 「はい」 別の隊員に勧められてわたしはジョギングシューズを脱ぎ、自力で堅い ベッドにあがった。 「ご希望の病院はありますか」 中年の隊員はわたしをみおろした。 「はい。できれば桜門大学多摩病院におねがいします」 「それでは問い合わせてみます」 隊員は電話で受け入れ先に問い合わせをはじめた。 いまにもペニスの尖端から尿が噴だしそうだ。じっとお臍(へそ)のまわりに 手をあてて堪(こら)える。 「ご希望の病院で受け入れが決まりました」 「ありがとうございます」 目を瞑って激しい尿意を堪える。 救急車はうごきだした。 「血圧はかりますから」 別の隊員がオレの腕に腕体をまきつける。 「血圧は正常ですから」 オレは隊員と視線をあわせた。 救急車はサイレンを鳴らしながらノンストップで早朝の国道16号線 をはしりつづける。
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