流される葦
甲子
第一章
一
柱時計が四時を打ちはじめた。毎日正午に時刻を合わせ、振り子の長さを調節しているのだが二十台も並んでいると進むのと遅れるのとでは四・五分の差が出てくる。 その音が続いている間に、康彦は戸棚を開けトランクを出し布団を畳んで入れ、ガラス戸を開け雨戸も開けた。そっとトランクを窓の外に下ろす。用意してあった新しい靴下とズック靴を履いて音を立てないように飛び降りる。ふだん履いていた下駄はそのまま置いてゆくことに決めた。外からそっとガラス戸を閉め、雨戸も閉める。 まだうす暗かった。板塀と羽目板の狭い場所を伝って裏木戸へ出る。桟をはずして石段を下りる。この六段ある石の段には苦しめられた。毎朝、下の井戸から丈の長いバケツで、台所の水瓶がいっぱいになるまで運んだ。夕方には風呂の水張り、かぞえてみたら十七杯、登るとき一段ごとにバケツの底が右足の踵にぶつかった。 砂利道を登って表通りへ出る。ようやく空が白んで来た。人気のない舗装路から振り返って見る。「石田時計店」の看板が二階の窓をふさいでいる。どの店も雨戸を立てたり白いカーテンを引いたりして街全体が白っぽく見える。坂を下りきると踏切を渡って線路沿いの脇道へそれた。真っ直ぐだと豆腐屋の前を通らなければならない。店はまだ閉まっているだろうが中ではもう仕込みをしているだろう。早朝とはいへ、いつ知った顔に出くわすかわからない。バケツの底で擦った踵の傷に、靴の後ろの部分があたる。下駄だと気付かなかったが、これは誤算だった。立ち止まっていちど靴を脱ぎ、踵を出してつま先立ちで歩く。靴の踵を踏みつぶさいよう気をつかった。牛乳配達が遠くから来る。康彦は更に道を曲がった。家々が軒を接した裏道である。遠回りだが仕方ない。いくつもの裏路地を曲がり曲がりして国道へ出た。左右を確かめて一気に渡り、また路地づたいに小出籠屋の庭の裏手へ出る。丸太を組んだ枠の中に、太さの揃った竹が数十本立ててある。康彦は祐介の部屋の雨戸を指先で三度叩いた。庭に面した縁側の戸が一枚開いて「おう」と低い声で祐介が顔を出した。 「だいじょぶか」 「平気だ。おふくろが戻るのは昼頃、親父は夕方だ」 「じゃ、昼前には出なくちゃな」 「平気平気、今日は日曜だろ、遊びに来たと思うから」 「でもトランクが…」 「だいじょうぶ。そんなことに気がつくおふくろじゃない」
履歴書を書き終わったとき、玄関の開く音がした。 「ただいま」祐介の母親だ。康彦は急いで履歴書を畳んだ。 「ただいま」もう一度言って障子を開けた。 「ああ、ヤッちゃん。久しぶり。そうだ今日は日曜だったね。遊びに来たの?」 「はい、おじゃましてます」 「いいよ、ゆっくりしてけば。いまお茶淹れるから」 母親が離れたすきに、康彦は履歴書を封筒に入れ、トランクへ収めた。 「昼喰って、午後にした方がいいぞ。それと京成で押上へ出る方がいい。省線の駅は時計屋に近いし、見つかりやすい」
二
矢来坂の途中、街路樹の根方に康彦はトランクを置いた。祐介の不要になった中学一年の教科書をそっくり貰ってきたため、トランクは重かった。その上に腰を下ろす。目の前はビアホールだ。ガラス玉を連ねた暖簾が人が出入りするたび賑やかな音をたてる。店の奥からレコードの歌声が聞こえてくる。いま流行のブルースだ。 梅雨上がりの七月下旬、康彦は日照りの中を三時間も歩き回り、目指す先を探しあぐね、疲れ切っていた。日はとっくに暮れていて、街灯は薄暗く、ビアホールの窓灯りだけが足下を照らしている。 交番で聞けばすぐ判るのかもしれない、けれどそれはためらわれた。どこから来た、と逆に聞き返されるのが困る。夜逃げ(いや朝逃げ)してきた、とバレルおそれがあった。 …どうしよう…康彦は途方にくれた。母の許へ行くにしても終列車に間に合うか、だいいち夜逃げしたという連絡がとっくに入っているだろう。といって祐介の所へも戻れない。 …牛にも馬にも蹴られないようにしてやったんだ… …とにかく、ひと通りの義務教育は受けさせたんだ… …学校出たってな、おまえなんかせいぜい三百代言になるぐらいが関の山だ… お盆に帰った(?)ときの母の剣幕を思うと身震いがする。けれどそれは、母が本心で言っているのではなく義父の前を取り繕う言葉であろう、と康彦は強いて思うことにした。それとは関係ないが、康彦はふた月ほど前に新聞の求人案内の広告を切り抜いておいた。 二日後の十七日だった。自転車で使いに出されたとき、小学校で同級だった祐介に出会った。事情を話すと「夜逃げして東京へ行け、東京で夜学に入れよ」とけしかけた。
人通りは絶えなかった。大声で話しながら行く二人連れ、笑いの絶えない一行、口笛を吹く人、ひそひそと語りつつ歩く人。だが康彦の姿に気をとめる者はいない。 白シャツに下駄履きの青年が、ビアホールの暖簾を両手で別けて出てきた。 「あの」康彦は思い切って立ちあがり、声をかけた。「この」言ってから、会社というのか店というのか判らず「場所はどこでしょうか」と新聞の切り抜きを出した。 「う…」青年は紙片を手に取り、ビアホールの窓灯りにすかし見て「これは俺のいる所だ。ここへ行くの?」 「はい」康彦は、ホッと肩の力がぬける気がした。 「いっしょに来るか」 「はい」康彦はあわててトランクを提げ、青年に従った。 坂を登り、途中から人通りのない暗い小道へ曲がる。下り坂だった。カタッ、カタッ、と前を行く青年の下駄の音が響く。板塀の奥からラジオが、第2次近衛内閣の誕生を告げ、「一億一心」という言葉を繰り返している。 十分ほど歩くと左側に広い通りが拓けていた。青年は立ち止まり、 「ああ、今日は日曜だったな、閉まってるよ」と振り返った。鼻梁の通った顔立ちだった。 「え、どこですか?」この道なら明るいうち何度も通って探した。一軒一軒のぞくようにして歩いたのだが、「冊子回読会」なんて全然見あたらなかった。 「あすこ、川元運送って大きな看板かかってるだろ。あれがそうだよ」青年は指さした。 「運送屋なんですか」 「ああ、前はな」言って振り返ると「統制令で小さい運送屋が大きい運送会社に吸収されたんだ。トラック二台だけの運送屋だったからな。この二月に出た陸運統制令、知ってるだろう」 「いえ」 「そうか、とにかくそれで空き屋になったガレージへ、回読会が移ったわけだ」 「広告には書いてなかったもんですから」 「いつ頃の広告なんだい、それ」「ふた月ぐらい前です」 「それじゃ判らないよ。回読会が引っ越したのは先月だから」 「行って戸をたたけば誰かいるでしょうか」 「いや、だめだろう。宿直だけだよ多分、宿直じゃ話はわからないだろう」 「でも、わけを話せば、泊めてもらえるでしょうか」 「なんだ、泊まるとこないのか?」 「はい」 青年は康彦のトランクを見た。赭茶色のファイバー製。そして足元から順に見上げてきて眼をあわせる。 「俺の部屋へ泊まるか?、明日の朝六時にあすこへ行けばいい」 「そうですか」康彦には信じられなかった。見ず知らずの…。 「こっちだ」青年はいま来た道を引き返してゆく。二十メートルほど戻って、上半分が格子になっている木戸の前で止まり、右に連なる雨戸を指さす。 「ここがね、回読会の前の店、いま配達員の宿舎になってる」 雨戸は六枚、ということは間口三間か、 「じゃ、ここで聞けば…?」 「なんだ、もう採用は決まってるのかい」 「いいえ」 「それじゃ無理だろう。配達の連中に判るわけがない。無理に俺んとこへ泊まれってんじゃないんだよ。俺はこの奥のアパートを家賃払って借りてる、だから誰を泊めても自由だ、けど配達員だけの宿舎じゃそうはいかないだろ」 「そうですね」康彦は少し考えた。が考えたところでどうにもならない。 「わかりました。泊めていただきます」 木戸を開けて入ると、右は回読会だったという二階建ての羽目、窓はどれも閉まっていて人気なく、二階の窓から頼りなげな灯りが漏れていた。左は切り立った崖で、崖に添った道を行くと回読会の宿舎から五メートルほど離れて木造平屋の建物がある。玄関は開け放しだった。廊下の両側に部屋があり、青年の部屋は玄関のすぐ脇だった。電灯を点けると、押し入れ付きの六畳で、本箱と机と壁ぎわに布団を敷きっぱなしのソファーがあった。 青年は机の前に座ると「まあ座れ。トランクはそっちへ置いて」とソファーの脇を示す。 「あの…」康彦は青年に何と呼びかけたらよいか判らず、考えてから「先輩は学生さんですか」と聞いた。 「まあ、学生は学生だがね。俺は薄井というんだ」 「あ、わたしは添島康彦と申します。今夜は、ほんとうにありがとうございます」 「いくつなの。まだ若そうだが」 「十三です」 「うん、君も学校へ行きたいのかい?、回読会に入る連中はみんなそうだが」 「はい、そのつもりです」 「学校はどこ、もう決まってるの?」 「いえ、まだこれからなんです。予備校の夏期講習受けて、それから…」 「十三だと、中学の二年へ編入かい」 「と考えるんですけど、もし駄目だったら一年の二学期へ…それでも駄目だったら来春に新入受験します。入学歴がありませんから」 「うーん、そりゃ厳しいな来年だと十四だろう」 薄井はまっすぐ康彦を視た。見据えるという感じだった。 「学校を出て、何になりたい。というか、何の目的で学校へ入りたいんだい」 康彦は虚を突かれた。何になるのか、など考えてもいなかったので、すぐに返事ができなかった。薄井の顔を視ながら言葉を探す、というより自身を問いつめていた。 「いいんだ、いいんだ」と薄井は苦笑いし「これが俺の癖でね、仲間、いや友人にもよく言われるんだ。さ、明日は早いだろう、寝るとするか、と言っても布団は一組しかない」 言ってソファーの上の布団を畳へ引きずり落とした。色の褪せた布張りのソファーから二カ所、スプリングが露出していて、弾みでぶるるんと震える。 「わたしは畳の上でいいんですけど」 「ま、いいさ、布団の方は汚れてるから。毛布があるから君はソファーで寝て…」 「いえ、なにもいりません、暑いですから」 「いや、掛けるんじゃなく敷くんだよ、毛布を」あ、なるほど、と康彦は思った。 「俺は朝遅いから、時間になったら勝手に行けばいい」 薄井さんが電灯を消すと、板壁一枚の隣からレコードの音が聞こえてきた。控えめな音だったが、暗闇だとはっきり聞こえる。ブルースではなく、しかし洋楽だった。 「またやってるな、飽きもせず…」薄井さんがつぶやく、 「何ていう曲ですか」 「Love's gone、日本語では*イ去りぬ」 「いい曲ですね」 「そうかい」 「ジャズとは違いますね」 「タンゴだろう。日本人の作曲だよ」 「え!」
三
「夜学へ行きたいのかな」 履歴書を一瞥しただけで、社長という人は眼を向けた。綺麗に髭を蓄えた、四十がらみの立派な顔立ちだ。 「はい、予備校の夏期講習に入ろうと思います」康彦は堅くなって答えた。 「夏期講習は無理だろう。もう遅い」 事務を執っている男が顔を上げて康彦を見た。 「はあ!」 渡された数枚の硬貨をポケットにして、カウンターに並べられたファイバーの箱を持つと、細々した注意を受けて自転車の荷掛けへ括りつける。十人ちかくいるだろうか、早い人はもうスタンドを跳ね上げて出て行く。 「お、金村君ちょっと待て」と社長が大きな声を出した。 出かけようとしていた二十歳前後の男が、ハンドルを掴んだまま振り向く。 「君の後釜が来たから、三日間、引き継ぎをたのむ」 金村とよばれた青年は自転車のスタンドをたてて戻ってきた。頬にニキビの跡が無数に残る平べったい顔の男だった。 「えーと、添島君」社長は履歴書に眼を戻してそう紹介した。 「君ね、いまからこの金村君に就いて配送の順を教わって…、そのトランクはここへ置いたままでいいよ。帰ってから宿舎へ運べばいい。片野君、食費」と社長はてきぱき言う。 「はい」と事務を執っていた男が机から硬貨を出した。 「よろしくお願いします」康彦は金村に頭を下げた。
めし屋、という所へ初めて入った。赤城食堂、という定食屋へ金村は連れて行った。 みそ汁・漬け物つきのご飯が八銭、焼き海苔と納豆が付くと十銭になる。康彦はさっき貰った硬貨を出してみた。十銭の白銅貨が六枚ある。みんな、出かけるとき硬貨を受け取ってゆくのを見ていた。 「これ毎朝、支給されるんですか」 十銭の朝食を前に箸立てから箸を抜きながら訊いた。 「ああ、そのかわり給金からちゃんと引かれる」 金村は納豆ではなく魚の干物を頼んだ。それだと十二銭になる。 そうだ、給料とか休日とか勤務時間など、何も訊くひまが無かった、と康彦は思った。 「どうして毎朝支給なんでしょう」 「そうしないと、給料使っちゃって次の給料日までに食費が無くなるやつがいるんだよ。だからだろう」 なるほど、と康彦は思った。 その日廻るのは芝・大森・蒲田の順で七十六軒だった。厚手のカードの束を順に繰ると一軒毎に配る雑誌と回収する雑誌名が記され、裏に次に配る家までの略図が描かれている。しもた屋は玄関から、商家は勝手口、隠居暮らしの家は木戸を開けて縁側へ、というのが多く、また留守だった時の受け渡し方法も書いてある。郵便受がいちばん多かったが、門柱の上だったり植木鉢だったりする。中に「犬小屋」というのがあった。 「馴れない者だと、吠えられるんじゃないですか」 「犬小屋ったって犬はいやしないんだ」 「いないんですか」 「ああ、ただの脅しさ」
三分の二ほど廻ると昼すこし前になった。蒲田駅前の広場から一本入った裏通りの定食屋に金村は自転車を停めた。昼食にする、と言う。 「まだ早いんじゃありませんか?」康彦は駅前広場の時計が十一時半なのを見ていた。 「いや、お昼になっちゃうと込むんだ」 紺暖簾をわけて入ると、塗りの剥げた角盆が積み上げてあって、金村はその一枚を取った。康彦もならった。戸棚に皿盛りの煮物や揚げ物が並んでいる。金村はレバー韮炒めを、康彦は鯖のみそ煮を選んでカウンターへ行った。丼のご飯とみそ汁と漬け物の小皿が加えられ勘定を払った。どっちも十六銭だった。 客は隅の方に二人いるだけ。康彦は箸を使いながらあたりを眺めた。戸棚の上の方に値札が掛かっている。入り口に近い方から、めし付き十四銭・十六銭・十八銭、となっている。壁に「別献立」という掲示があり、玉子丼・ライスカレー・親子丼・天丼・カツ丼などがあり、いずれも二十銭から三十五銭まである。 食べ終わる直前、昼のサイレンが鳴った。にわかに客が増え、争って総菜を盆に載せカウンター前に列を作る。 公園のあずまやで食後の休みをとる。 「な、昼になっちゃうとあの混雑だ」 「遅く行くと、どうでしょうか」 「だめ、おかずが売り切れちゃうんだ。別献立の丼物かライスカレー、でなきゃ冷奴かほうれん草で我慢するしかなくなる」 配達は二時半に終わった。金村に頼み、帰り道を神田へ迂回して錦町の予備校へ寄った。 「午後の部だったら三人ほど空いてますけどね、夜の部は十日も前にいっぱいになって…」 夏期講習について受付の男はそう言うと、秋期の募集は八月九日から受け付ける、と、パンフレットをくれた。 「このまま帰るとまずいんだ」と金村が言う。 「はあ?」 「ちょっと早すぎるんだよ。四時すぎまでどこかで休んでかないと」 「叱られるんですか」 「いや、内勤の手伝いさせられるんだ」 ミルクホールへ入った。牛乳はコップ一杯六銭。 「内勤の手伝いって、どういうことするんですか」 「明日の配本の整理。最終的には全員が戻った後でないと決まらないんだが、面倒なんだよこれが。誰も嫌がって四時半までは帰らない。四時半が定時なんだ、外勤は」 店に戻ると、広いガレージの両側へ自転車を並べてファイバーの箱と配本伝票をカウンターへ出す。内勤の人は事務の片野さんを合わせて三人。箱の中の本と伝票を照合すると「オーケー」と言う。終わると金村はそそくさと出て行った。 「あ、君、君」 社長が奥の机から呼んだ。靴を脱いで上がると「どうかね」と、眼を見ながら訊く。 「はい、どうにか」 「続けられそうか」 「はい。お願いいたします」 「よし、じゃね。月給三十円でそのうち食費は毎朝支給するから差し引き十二円前後を二十日締め切りで二十五日に払う。どうかね」 考えるひまもなく「はい」と康彦は答えた。 「片野君。空いてる部屋は?」 「守谷がいま一人ですが」 「守谷が一人か、一人だと守谷じゃなくてヤモリだな。もう帰ったか」 「いえまだ、あ、いま帰りました」
守谷は丸刈りの頭に丸い眼鏡をかけ、厚ぼったい唇をした、好人物という感じだ。康彦は先刻のヤモリという社長の冗談を思って笑いをかみ殺した。でも、あの調子だと自分は陰で何と言われるだろう、と思った。二階へ上がると階段に最も近い六畳が守谷と共に棲む部屋だった。部屋の真ん中に裸電球が下がり、壁の隅に小さな机がある。 「きみ、夕飯まだでしょう」 守谷は机の本を鞄に詰め込みながら言う。 「はい」 「じゃ一緒に行きますか。食べたあと、ぼくはそのまま学校へ行きますけど」 「お願いします」 守谷は学生服にズック鞄を斜めに掛け、回読会のある広い通りを横に見てそのまま直進する。急な坂道だった。昇りきるとにぎやかな坂道の途中へ出た。 「神楽坂ですよ」と守谷は歩きながら言う。 石畳の坂道を少し下って右の小道に入るとすぐ「財団法人=神楽坂食堂」の看板が目に入った。守谷が先に入り、康彦のためにドアを押さえてくれた。壁にメニューの木札が下げてある。 ミルク付きトースト・オムライス・ライスカレー・Aランチ・Bランチ… 「Aランチ」と守谷がカウンターの女子店員に言った。 「ぼくもAランチ」と康彦も言ってお金と引き替えに青い小判型のチケットを受け取った。 もう一度壁のメニューを見ると、Aランチ二十銭・Bランチ十六銭だった。 「夕飯なのにランチってのが面白いでしょ」と守谷は言い、「きみも夜学へ行くんてすか」と訊く。 「はい、そのつもりです。守谷さんはどこへ行ってるんですか」 「市立第一。九段です。ほんとは府立に行きたかったんですけど遠いんです、ここからは」 「九段なら近いんでしょう。何年ですか」 「三年です。二年の夏休みまでは田舎で県立に行ってたんですけど、親父が春に急死して、そのあといろいろあって…ぼくは次男ですから」 「じゃ、夏休みには田舎へ帰るんですか」 「夜学に夏休みはないんですよ。昼間と違って授業時間が短いですから…」 「何時からですか」 「六時から九時、三時間しかないんです」
部屋に戻って、康彦は予備校のパンフレットをひろげた。秋期講習は九月二日月曜日からで、受講申し込みは八月九日より。入学金七円・教材費三円・月謝七円・計十七円・前納、「おっ!」と康彦は呻いた。時計屋にいた一年三ヶ月で貯めた小遣いは十一円。六円足りない。康彦はポケットを確かめた。八銭ある。今日一日の収支を計算してみた。朝食十銭・昼食十六銭・夕食二十銭・牛乳六銭・計五十二銭。八月九日までは十八日あるから、牛乳を除くと二円五十二銭か、この八銭を加えても二円六十銭。ぜんぜん足りない。 朝は納豆を付けなければ八銭ですむ。昼は十四銭ですまし、夜はBランチ十六銭。計三十八銭だと二十二銭残る。それでも三円九十六銭にしかならない。やはり、足りない。 トランクのポケットから封筒を出し、中身をあらためた、一円札十一枚。何度数えても同じだ。康彦は考え込んだ。やはり無謀な「朝逃げ」だったろうか…。 …「何の目的で学校へ入りたいんだい」…ふっと、昨夜薄井さんの言った言葉が甦る。 そう、ぼくは何のために学校へ入ろうと躍起になっているのだろう…。 そうだ、薄井さんに昨夜のお礼を言わなければならない。 康彦は立ち上がって窓に寄った。アパートの玄関が右下に見える。 「何見てるんですか」守谷が後ろから呼びかけた。 おや、もう帰ったのか、 「ええ、昨夜、薄井さんの部屋に泊めていただいたんです。それでお礼を言わなくちゃ、と思って…」 「ああ、あの人ですか、あの人は滅多に帰りませんよ。玄関のすぐわきの部屋だから帰ってれば灯りで判ります」 守谷も窓からのぞいて「まだですね」と言い「それより、宿舎の中を挨拶して回らなくちゃなりませんね」 「あ、そうですね」 「ぼくが案内しますよ」 二階は同じような作りの六畳が四間あった。それぞれの部屋で守谷が紹介し、康彦は「よろしくお願いします」と敷居ぎわで頭を下げた。 一階は八畳がふた間。ひと間に三人。もう一方に二人いた。二人の方は内勤の人。三人の方に金村がいた。表通りに面した、先月の初めまで回読会の店だったというところは、いまの店より少し手狭だが、やはり板の間とカウンターと土間、古びた自転車数台と古雑誌の山、がらくた類が積み上げてあった。 「内勤の人というのは特別なんですか」「大学生なんですよ。昼間の」 「片野さんという事務の人は?」 「ああ、あの人は店の方、事務所の裏に部屋があるんです。社長の奥さんの親戚なんだそうです」 二人は窓際に向かい合って坐った。崖上の斜面から、草の匂いとともに夜気を含んだ風が渡ってくる。 「隣の二人、年配でしょう。萬世橋にある満蒙学校へ行ってるんです。卒業すると開拓団のリーダーや地方の役人になれるんだそうですよ。日本では頭がつかえてて軍人になる以外は道が無いも同然ですけど、満州では現地の人を下男や下女に雇って王侯貴族みたいに暮らせるそうです。もっとも、無事卒業できればの話ですが…」 「予備校のパンフレットには、三年の編入までしかありませんけど、四・五年はどうして無いんでしょうね」 康彦は疑問に思っていたことを口にだした。 「ああ、四・五年は転入しか受け付けないんです」 そうか、と康彦は思った。やはり、門は狭い、とも、 「わたしは今日、金村さんと芝・大森・蒲田、と回ってきましたが、守谷さんはどっち方面を担当してるんですか」 「ああ、君は南ですか、ぼくは北、滝野川・王子・赤羽です。滝野川にね、作家がいるんですよ」 「さっか、って、小説家ですか?」「そう、時代小説ですがね」 「小説家が貸本を読むんですか」康彦は頓狂な声を出してしまった。 「小説家って、そんなに貧乏なんですか」 「いや、そういうことじゃなく、ライバルの様子を探る必要があるんじゃないですか。それで数多く見たい、けれど身を入れて読むわけじゃないから、見たあと処分に困る。その点で回読会は便利だってことのようです」
四
翌日は五反田・目黒・荏原を回った。配達先が狭い地域に密集していて、八十四軒と数は多かったが楽に回れた。ただ半数近くがアパートで、留守が多かった。受け渡しは郵便受け・ガスメーターの上・隣へこと付ける、などなど。 三日目、引き継ぎの最終日は世田谷。六十三軒と数は少ないが、範囲が広く、ほとんどが畑地か砂利道で、一軒一軒が遠かった。昼食は私鉄駅付近の小さな商店街でするしかなく、玉堤・野毛、などは一面の花畑で、ペンキ塗りの瀟洒な建物が散在している。 「向こうはもう神奈川県だぜ」と、野毛の土手下に自転車を置くと、多摩川の堤防に登って金村が言った。 広い河原に中州があり、その向こうに午後の光をきらめかせながら透明な川がうねっていた。対岸の左手一帯は鋸屋根が連なる工場街。林立する煙突からうす青い煙が風の方向を示している。 「暑いですね」と康彦は正直に言った。 「うん」金村は素直に言って先に土手を下りた。登るよりも下りる方がむずかしかった。 金村は上体を前へ傾けて一気に駆け下りたが、康彦は後ろ反りにそろそろ下りようとして草の葉に靴底を辷らせ尻餅を突いてしまった。 「だめだよ、坂の角度に直角に近い形で駆けないと…」と金村は言い「試験も同じだぞ」とつけ加えた。 配達はあと二軒で終わりだった。等々力不動の境内に滝があり、葦簀を立てかけ「氷」という幟旗を垂れた店があった。 金村は自転車を停め「ところてんでも喰うか」と、返事も訊かずスタンドをたてる。 さすがに、埃たつ畑道よりは涼しい。掛けた縁台の前の桶に、白布をかけた氷塊があり、水蒸気が立ちのぼっている。金村は「ところてん」と注文した。 「ぼくも」と康彦が言うと「酢かね、蜜かね」とお婆さんが訊いた。 「酢」「酢」と金村と康彦は同時に言った。二人は眼を合わせ、にやっと笑った。酢も蜜も四銭だった。 「予備校はどうした」と金村が訊く。 「ええ、秋期の申し込みが来月九日なんですけど」 「いくのか」 「行きたいんですけど、間に合いそうもありません」 「どうして?」 「足りないんです。お金が…」 「幾らかかるんだい」 「十七円です。入学金七円、月謝七円、教材三円」 「うん、予備校は高いからな。で、いくら足りない?」 「十一円しかないんです。九日までの食費を節約しても間に合いそうにありません」
初めて、一人で配達路線を走ることになった。略図があるにしても、勘違いということもあり、方向感覚の狂い、ということもあった。一軒ごとに記憶を呼び起こし呼び起こし、どうにか昼までの分を消化して蒲田駅前の定食屋へ辿りついた。この前よりだいぶ遅れ、定食屋の店内はごったがえしている。 店の前でためらっていると、「添島」と後ろから呼ばれた。金村が立っていた。 「遅いんだよ。こんな時間になっちゃ。公園へ行こう」 金村は徒歩だった。 「辞めるって伺ってましたけど…」 「辞めたよ昨日で。で昨夜のうちに引っ越した。行李一つだからな、簡単なもんだ」 「どこへ越したんですか」 康彦はあづまやへ入ると日陰の中で金村の顔を見た。 「仲間。いや友達のところさ」 言ってたばこに火を付けてふーっと煙を吐く。 「きみね、要領悪いんだよ。時間になったら残りは午後に回すことにしてさっさと定食屋へ行かないと高いもの喰う羽目になるよ。といってこの暑さに豆腐やほうれん草ぐらいじゃ参っちゃうだろ」 「ええ、でも。時間、判らないんです。サイレン聞いてはじめて、ああ昼かって…」 「なんだ、時計持ってないのか。こないだの話じゃ時計屋にいたって言ってたけど」 それはそうだが夜逃げしてきた、とまでは言ってない。だいいち、腕時計にしろ懐中時計にしろあの時計屋がただでくれるなど考えられもしない。 「これ、役に立つんじゃないか…」 金村はポケットから厚さ五ミリ程の伝票を出した。 「領収書」書き込み欄は白紙で、右下に「冊子回読会」のゴム印が捺してある。 康彦は戸惑った眼を金村に向けた。 「三十枚以上ある。これ使えば足しになるだろう」 「どういうことですか?」 「どじだなあ。要領だよ要領。そのくらいの才覚がないと生きていけないよ。使い方は帰って今夜考えろよ」 もう定食屋もすいてるだろう、と立ちあがった。 康彦も、一応「領収書」をポケットに収め、自転車を押した。 「三十枚以上あるんだ。たばこの一箱ぐらい礼をしてもいいと思うがなあ」 たばこ屋の前で金村は言う。世話になったといえば三日間お世話になった。と康彦は思った。 ポケットから食費の残りを握って出し、掌をひろげる。 金村は十銭白銅二枚をつまみ上げ「じゃ」と言った。 「金村さんは、こんどはどこで働くんですか」 「今夜、大阪へ行く」 「だって、大学の夜間部、行ってるんでしょう」 「やめたよ、学校なんか…」
「これ使うの、まずいと思いますよ」と白紙領収書を手にとって守谷は言う。 「どういうとき使うのか、と思って…」神楽坂食堂のBランチを食べながら康彦は言った。 「これはね、月末になると集金のため配達伝票に領収書がつく、それと同じものですよ。つまりね、お客さんからお金貰ったとき、これに書き込んで渡す。伝票に付いた領収書はそのまま未収扱いとして次回に集金する、というかたちにするんです」 「それ、どういうことですか?」 「ぼくはもう時間だから、帰ってから話しますよ」 守谷は鞄を肩にした。 康彦は宿舎に帰ると白紙領収書について考えた。確かに伝票には先月分の領収書が何枚か挟んであった。気にもとめなかったが、あれが守谷の言う「未収扱い」ということか、それにどうして白紙の領収書が要るのだろう。 それよりも秋期講習のお金の工面だ。半ばは諦めかけたが、やはり口惜しい。 康彦は押し入れからトランクを出して開けた。祐介から貰った一年生の教科書と時計屋にいたとき申し込んで郵送された四冊の講義録。教科書はもちろんだが、講義録も最初一号の半分も読んでいない。秋期は見送り来春の受験を目指すしかないか…。 「ただいま」と守谷が帰ってきた。 「どうしたんです、教科書なんか拡げちゃって」「あ、すいません。すぐ片づけます」 「ぼく、ちょっと考えたんですけどね」 守谷は鞄を机に置き、制服を脱いで坐った。 「きみ、予備校の入学金は払えるんですか」 あれ!この人には話したと思ったが勘違いだったか。 「足りないんです」 「幾らぐらい足りないんです」 「六円」 「そのこと、金村に話しましたか」 「ええ」 「ああ、それですね」と。守谷は腕を組んだ。 しばらく黙っていたが組んだ腕をほどくと眼鏡の位置を直し、 「さっきの領収書ですけど、もし一枚でも使うと金村の策略にはまることになりますよ」 「どういうことですか」 「さっき話したでしょう。お客さんからお金受け取ったとき、白紙の領収書にその場で書き込んで渡す。伝票に付いてる領収書はそのまま未収扱いにするって」 「はい」 「まだ判らないですか。そのときのお金は自分のポケットに入れるんです。そうすれば五円でも十円でも当面は自由になる」 「それは、一種の横領ですね。でも、翌月にはバレちゃうでしょう」 「バレないように翌月は別のお客さんに同じ手を使って、前月の穴を埋めるんです」 「そうすると、きりがありませんね」 「そう、きりがなくなる。そうして使い込みは少しづつ殖えていく。そこへきみが現れた。もしきみがそれを一枚でも使うと、金村が開けた穴は全部きみがやったということになる」 「金村さんは実際に使い込みしてるでしょうか」 「さあ、確かなことは判りませんけど、その領収書を持ってたってことは、やった、としか思えないでしょう」 「どうしたらいいんですか。ぼくはいまも講義録ならべて、予備校の秋期は、諦めようかと思っていたんです」 「諦めることはありませんよ。まだ方法はある。ただ、それとこれとは別の問題です…」
五
朝、康彦は白紙領収書の返還に「立ち会って下さい」と、守谷に懇願した。 みんなが出かける混雑時間は避けた方がいいでしょう。八銭の朝食をすますと二人は店へ戻った。 「忘れものかい」内勤の人がいぶかしげな眼を向ける。 「社長はいないんですか」 「社長は、今日は用があっていないけど」 「じゃ片野さんにちょっと」と守谷が言った。 社長がいる方がよかったのにな、と康彦は思った。 「なんだい」帳簿立ての向こうで片野が顔を向けた。 「これなんですけど」康彦はかすれた声を出した。 「うー」立ってきて領収書の束を手にとると「どこにあったの」と険しい眼をする。 「きのう、金村さんから…」 「ふーん、これで全部か」 「はい」 「そんなことないだろ。一冊は百枚綴りなんだ」 片野の言葉遣いが変わってきた。 「関係ないでしょう。何枚綴りだろうと」 守谷が脇から、普段とは違う声で言う。 「関係ないとはなんだ。百枚綴りのものがこれだけに減ってる。だからあとはどうした、と訊いてるんだ」 「そんなこと、金村さんに訊いたらいいでしょう」 「金村が使ったろうということは察しがつくよ。ただ、それから何枚か剥がして持ってるってこともある」 「何てこと言うんですか。それじゃ最初からぼくたちを疑ってることになるじゃありませんか。だいたい片野さんの管理に落ち度があったからこういうことになったんでしょう。それを棚に上げて…。それじゃ話にならないじゃないですか。今日は配本休んで、話し合いましょう。身体検査でも荷物検査でも何でもして下さい」 「配本は休むわけにいかない」 「休めないならもう出かけますよ」 「ちょっと待て」 「待ってなんかいられるか!」 守谷が大きい声を出す。 「これ以上遅れると、学校に間に合わなくなる」 「遅刻ぐらいがなんだ」 「遅刻ぐらい、とはなんですか。夜学に遅れるのだったら、誰がこんな会社で働くか!」 言うと守谷は康彦の顔を見て「行きましょう、話にならない」外にある自転車へさっさと歩いた。 康彦も肩を並べた。 後ろから呼んでいたが、振り向きもしなかった。
夕方、康彦も守谷も一時間以上遅れて戻った。 守谷は内勤の照合が終わると「ぼくはこれから学校へ行きます。九時半ごろ帰りますから、潜り戸を開けておいて下さい」言うと返事も聞かず宿舎へ戻って学校へ向かった。夕食も摂らなかった。 康彦はその夜、神楽坂食堂へは行かず、いつも朝食を摂る赤城食堂へ行った。 朝と変わらず、みそ汁・漬け物の「めし」が八銭だった。お菜は幾種類もあったが「まだ方法はある」と言った守谷の言葉を想い出し、みそ汁と漬け物だけで我慢した。 自分のために守谷を巻き込んでしまったな、と康彦は食べながら思った。
「行きましょう」 下校するとすぐ守谷は言った。 「行って、何を言うんですか?」 「決まってるでしょう。あんなこと言われて黙って引き下がれますか。言うだけはきちんと言わなければ」 守谷は先に立ってずんずん歩く。 「私のために、すいません」 「いえ、これは皆の問題です。働いてる者、皆の…」 トタン張りの雨戸が閉まっていた、潜り戸は難なく開いたが、すぐ前に自転車があった。身体の厚み分の隙間しかない。これでどうやって雨戸を閉めたんだろう、と康彦は思った。横歩きして自転車の脇をすり抜けると、カウンターまで行った。 「片野さーん」と守谷が大きい声で呼ぶ。事務所の隅の扉が開いて片野が顔を出した。 「今朝の話がまだ決着していません」 「それを蒸し返すのかい」 「当然でしょう。このままうやむやにしたくありません」 「可能性はある、と言っただけなんだ」 「ですから、それをはっきりさせてもらいたいんです」 「どうすればいい」 「月曜から集金があるのでしょう。それに内勤の人が同行して、確認をとればいいんです。そうすれば不正行為があるかないかはっきりするでしょう」 「そんなことできるわけないじゃないか」 「どうしてです」 「彼らは大学生なんだ。夏期ゼミに欠席すると単位に影響する」 「単位がなんだ」と守谷は声を荒らげた。 「あなたは今朝、遅刻ぐらいなんだ、と言ったでしょう。大学生の単位は大事で、中学生の遅刻はどうでもいい、と言うのですか。もしどうしてもできない、と言うのでしたら、ぼくは集金をお断りします。配本はお客さんが待ってることですからやりますけど、お金は受け取ってきません」 「そんな無茶を言うな」 「無茶はそっちでしょう。こちらの言い分を聞きもしないで、可能性がある、だなんて、バカにするのもいい加減にしてください。何と言われてもぼくは実行します。それがいけないと言うのでしたら、馘首にしたらどうですか」 「待てよ、社長に連絡するから明日まで待て」 帰りの道で、康彦は守谷の横顔を窺った。
社長は土曜いっぱい出社できないので、日曜の午前十時半に店で会う、と土曜の夕方戻ったとき片野は言った。 翌朝、康彦にとっては初めての日曜である。同時に時計屋を逃げ出して一週間になるんだ、と考えた。そうだ、祐介に手紙書かなくちゃ。守谷はまだ眠っている。いつも柔らかな表情なのに、強い人だな、と康彦は守谷の寝姿を見た。それからそっと起きだし、机に便箋を開いた。 「お、もう起きてるの」と守谷が声をかける。 「あ、机、借りてます。手紙書きますので」 「ああどうぞ」 守谷はまた寝るようで、寝返りうち、背を向けた。 手紙を書き終わり、顔を洗いに台所へ下りるとすぐ、守谷も下りてきた。宿舎の中はまだ誰も起きていない。 「朝食はまた、あのめし屋にしますか」と康彦は訊いた。 「ああ、悪いんですけど、休日はいつも朝飯抜きなんです。ぼくも貧乏学生ですから…」 ふと康彦は「まだ方法はある」と言ったのはどういう意味なんだろう、と守谷の顔をちらっと見た。 半坪の土間に不揃いな下駄が三足あった。守谷はそれを履いて外へ出た。康彦も続いて出た。板塀の向こうは隣家だが、庭ではなくいきなり高い台地になっている。 「これは築山っていうんですか」 「いや、ただの平らな庭ですよ。こっちが低くて建物が見えないだけです」 そのままアパートの裏側を歩き、突き当たりの切り立った崖まで行った。赤い粘土層の垂直な壁だった。五・六メートルの高さはあるだろうか、上の方三分の一ほどにわずかな草が生えている。 「土地の境界ぎりぎりを掘り下げたんですね。そうして平らな地面作って回読会の事務所とアパートを建てた」 「この上にも家があるんですか」 「ああ、水商売の家が並んでますよ」 「水商売?」康彦はすぐ、母のことを思った。 五年生のとき、母は落花生の産地という街で水商売に入っている、と吉川から聞かされた。だが水商売とはどういうことなのか判らず問い返すと「蓮池みたいな処さ」と半ば嘲りの表情て答えた。「蓮池」とは花街だった。 「花街ってことですか?」 「ええ、上の家は置屋なんです。芸者の」 「芸者の?」蓮池の「松むらのさんちゃん」を思いだした。さんちゃんというのはおさんどんの愛称、とあのときは思ったが、おさん、という名前なのかもしれない。赤い頬のかわいい娘だったが…。 「そう、なにしろ神楽坂ですからね、この崖の上と下では別世界なんですよ。上は神楽坂、ここは赤城下、そうそう、あとで赤城神社へ行ってみますか。安兵衛飛び越えの松、ってのがあるんですよ。中山安兵衛が高田の馬場で伯父だったか叔父だったかの仇討ちしたことは知ってるでしょう」 「はい、映画で見ました」 「そのとき、神田の長屋から高田の馬場へ、ちょうどこのあたりを駆けて行ったんだそうです。そのとき、その松を飛び越した、というのですが…」 一回りしてアパートの表側へ出た。 「薄井さんはいまいるでしょうか」急に思いだして康彦は言った。 「ああ、いると思いますよ。日曜は大抵いるようです。でもまだ寝てるんじゃないですか」 部屋へ戻ると「まだ方法はある。と先日おっしゃっていましたが、方法ってどういうことですか?」と康彦は訊いた。 「方法?」 「予備校の入学金のことです」 「ああ、あれね。一年の教科書のことです。全科揃ってるんでしょ」 「ええ」 「あれと講義録、古本屋へ売ればどうかな、と思って。一年の教科書が必要でしたら、ぼくのがありますから」 「足しになるでしょうか」 「さあ、行ってみなければ判りません」 「今日、午後にでも」 「いえ、月が変わってからの方がいいと思います。月末は売る人が多いので、足元をみられますから」 いろんなことを知ってるんだなあ、と康彦は思った。 「さ、もう十時過ぎました。行きましょう」
社長はまだ来ていなかった。片野は事務所の椅子で待っててくれと言って奥へ入った。守谷は机にあった新聞を引き寄せると「おっ!」と声を上げた。 …武力行使を含む南進政策に踏み切る。北仏印と軍事協定… 社長が見えたからと片野が顔を出した。事務所左端の扉は廊下につながり、左の中庭は手入れされた植え込み、右に片野の部屋。その奥にも部屋がある。突き当たりは階段。広い部屋だった十二畳かもっと広いか、洋間で、中央に絨毯、テーブル・ソファーセット。 ソファーに向き合った椅子に社長がゆったりとたばこをくゆらせていた。 「どうも、お呼びたてしたようで…」と守谷が挨拶した。 「うん。ま…」 社長は右手を広げてソファーを示した。 緊張した面持ちで守谷が坐り、康彦も並んだ。もう一つの椅子に片野が坐る。 「話は片野から聴いたよ。きみらの言い分はもっともだと思う。それで内勤の一人を三日間添島君に付けよう。守谷君の方は私が信用するから不問にしてくれないか。添島君の方も、添島君を疑うのではなく、金村の疵痕がどれほどか、実害を調べるためだ」 「そもそも、問題は領収書の流出にあると思うのです」 「うん、それは明らかに管理の手落ちだな」 「市販のものだから誰にでも手に入る」 片野は小声で、不服を言う。 「百枚綴り全部に、人目を盗んでスタンプ捺すのはそう簡単ではないと思いますけど…」 守谷は片野の方に眼を移して言い「とにかく、今回は添島君の地区を洗い出すことで了解します。ただ元凶は金村さんにあるわけですから、金村さんを喚んで問い糺すとか…」 「いや、それは考えていない」と社長。 「どうしてですか、それをしないで、身に覚えのないぼくたちに「可能性はある」なんて言うのは失礼じゃないですか」 「創氏改名という法律が二月十一日に施行されたのは知ってるだろう」 「はい」と守谷。 康彦は知らなかった。意味も判らない。 「それに従順な者がいる。一方では反発する者もいる。従順な方も外見だけで、内心はどうなのか判らない。半島出身者は金村だけじゃない。まだ三人いる。安堂・崔木・伊山。だから、いまそれをあぶり出すというのはやぶ蛇になりかねないんだよ」 あ、金村さんは半島の人だったのか、康彦は夏蜜柑の皮に似た頬の金村の面影を追った。 「おまちい…」と奥の方で声がした。 「あ、ご苦労さん」片野が立っていって、勝手口と思われる方から大きな盆を運んできた。 蓋付きの丼物だった。四人分ある。 「そういうことで了解してくれるかな」と社長。 「はい」「は」と守谷と康彦は同時に言った。 「昼めしが来た。食べていかないか」 天丼だった。海老の赤い尻尾がころもの端から勢いよく跳ねあがっている。 康彦にとって初めてのご馳走だった。おそるおそる箸を割り、まず海老の頭を囓った。旨かった。朝食を摂らなかったせいもあるが、物資不足と言われて久しいのに、まだこんなに旨いものがあるんだ、と思った。
「回読会って儲かるんですかね」 帰り、赤城神社の境内に入って康彦は訊いた。 「まあ、損はしない、って程度じゃないですか」 「金村さんのような使い込みがあっても、ですか?」 「まだ使い込みかどうか決まってませんし、どれくらいかも判りませんが、カバーはできるんじゃないですか。それに、回読会そのものは片野さんが仕切っていて、社長にはほかの仕事があるようです」 「ほかの仕事?」 中山安兵衛飛び越えの松、と木碑の建てられた樹は、直径十センチほどの幹が少し傾いていて、手入れされている様子はなく、平凡な枝振りだった。ただ、安兵衛がいかに超人だったと謂え、これを飛び越えられるだろうか、高さ二メートル以上はある。 「ほかの仕事って、どんなことですか」 「商事会社。ブローカーって言いますかね。この一月に日米通商航海条約が失効したのは知ってるでしょう。アメリカからの破棄通告は去年のうちに出ていたんです」 そんなことも康彦は知らなかった。なんにも判ってない。守谷さんとの年齢差はたった一年なのに、自分はなんにも知らないんだ。と康彦はなさけなく思った。 「そこで物資不足が始まったんです。急にではないですよね、この効果はじわじわと影響してくるんですよ。そこでブローカーの出番です。物不足こそチャンスなんですよ。アメリカやヨーロッパ以外のところから物資を調達してくる」 「貿易会社なんですか」 「ええ、それほどきちっとしたものではなく、大手財閥系の貿易会社とは比較にならない小さな会社です、まあ、一言で言えば御用商人か闇屋。そこへもってきて、今朝の新聞で武力行使を含む南進政策、とあったでしょう」 「どういうことなんでしょうか」 「戦争ですよ。いまでも日支事変は続いているわけですけど、それを拡大しようということです。南へ」 「南?何のためですか」 「多分、物資が目当てでしょう。ゴムとか石油とか、ABCDライン、なんて言われてますよね…」急に「止めましょうこういう話」と守谷は人差し指を唇に当てた。 社務所から人が出てきたのだ。
六
結局、金村が使い込んだ件数は六十四件、二百二十三件のうちの六十四件が多いのか少ないのか康彦には判らなかったが、とにかく濁った水が濾過されて清潔になった、という実感はある。守谷さんのおかげだ、と思った。 八月一日、各所に戦時標語の立て看板が出された。 …「ぜいたくは敵だ!」… 誰がぜいたくなんかしてるだろう、と康彦は考えた。朝めし抜いたり、一銭でも安い定食屋を探したり、みんなそれぞれ苦労してるんだ。 翌日、東横線中延駅前で昼食をすませ、公園へ行った。公園の入り口に例の立て看板があったが、近づくといたずら書きがしてあり、思わず吹き出してしまった。 /素\ …「ぜいたくは敵だ!」… 近くの人が交番に報せたらしく、巡査が来て「ふーん、味なことをやるのう」と感心していたが、すぐ外し「他所へ行って喋るなよ」と抱え去った。 夜、守谷に話すと笑いながら崖上の方を指さした。 「あれですよ。崖のすぐ下へ行くか、上がって路地横へ入ると三味線の音がよく聴こえます。御用商人が武家をもてなしているんです。昔も今も変わりないんですよ。そうして下々には、ぜいたくは敵だ、とくる」
四日の日曜、食費は土曜の夕方支給されるが、例によって朝食は抜き。康彦は守谷と共に鶴巻町の古本屋へ向かった。夏休みのせいか、閑散としている。三円三十銭ある、トランクの十一円と合わせて十四円三十銭か、あと二円七十銭なんだ、と康彦は考えていた。 店へ入ると店主は一目見るなり「中学のはうちじゃ扱わないんだ」と気の毒そうに言う。 書棚を見ると和綴じの本や洋書がびっしりと並び、いかにも高そうなものばかりだ。 康彦はがくっと力の抜けるのを感じた。これで万事休すか…。 教科書を一冊一冊、のろのろと風呂敷に戻す。 「待ちなさい。全科揃ってるんだね」と店主が声をかけた。 「書き込みや汚れがなければ、市へ出してみるから」と一冊をとりあげパラパラめくって「講義録はべつにして、教科書だけ一円出そう」と眼鏡を向ける。 「一円?…」康彦は息を呑んだ。唾が喉に絡まって声がでない。 「予備校の入学金が足りないんです」横から守谷が言う。 「入学金!。これから予備校へ入ろうというのかい」 店主は眼鏡を光らせ、康彦の顔をまじまじと見た。 「よし、じゃ教科書が一円二十銭。講義録は四冊三十銭出すがどうだい」 予備校の秋期に入れないなら、講義録だけは残しておきたい。と健一は思った。が、 「はい、結構です。お願いします」と守谷が言った。 どうして!。康彦は腑に落ちないまま守谷と共に頭を下げ一円五十銭を受け取った。 日差しが強い。軒に沿って日陰を拾い歩きしたが、大通りを渡るときは無防備だ。二の腕がじりじり焼ける。毎日自転車で経験しているはずなのに、いま急にそんなことを感じるなんて、と康彦は思った。黙りこくって矢来坂を登り、赤城下へ戻った。 水道の水を腕に流し、顔を洗い、蛇口の下へ頭を突っ込んで冷やすと、幾分か軽くなった気がする。 部屋へ戻ると、守谷が机を背に坐っていた。 「あと幾らあれば間に合いますか」 「一円二十銭です。二日間食べなければどうにか…」 「そんなことできませんよね、この暑さで」 守谷は振り向いて引き出しの鍵を開け蟇口を出すと「これ、使ってください。こんどの給料で返してくれれば結構です」 四つ折りの一円札二枚を拡げて出した。
八月九日。配達の帰り、神田錦町の予備校へ寄った。受付は来春の新入受験と一年・二年・三年の編入受験の組に分かれ、どのコースを望みますか、と訊かれた。 「一年の編入は、入学歴が無いとだめなんでしょうね」 諦めていたはずだったが、未練がましく聞いてみた。 「昼間ですか夜間ですか」 「夜間ですけど」 「夜間でしたら一年の場合は通学歴は必要ありません。もちろん編入試験に合格しなければだめですけど…。何歳ですか」 「十三です」 「一学期の教科は独学でやったんですか」 「はい、講義録で」康彦はうそをついた。 講義録は取り寄せたものの、夜、店を閉めてから読もうとすると、時計屋では電灯を元から消されて、読もうにも読めなかったのだ。 「じゃあ一年三学期編入に挑戦したらどうです。試験は十二月の半ばにあるはずですから」 少しためらった。できるだろうか「それであの、編入試験を受ける場合ですが…」 「ええ」 「受験料とか入学金・月謝なんかどのくらい…」 「公立の夜間中学ですね」 「はい」 「これに出ています」と、募集要項を出してくれた。 「それから、教材は十五日に揃いますから、それ以降都合いい日に取りにいらっしゃい。それと市電を使うときは通学証明が必要ですね、一緒に作っておきます」 ああ、そういうものも要るんだな、と康彦は思った。
宿舎に戻ると守谷に報告し、礼を言った。 守谷は教科書を鞄に詰めながら「いよいよですね。一年の教科書は帰ってから出します」 神楽坂食堂へ行った。ほんとうは奢りたかったが、お金を借りた相手にご馳走する、というのはどんなものだろう、給料が入って返済し、その後でいいのじゃないか、と考えた。 部屋へ戻るとすぐ募集要項を開いた。中学夜間部一年後期、転・編入手続き 試験実施日・十二月八日、合否発表・同十五日、受験料八円。転・編入試験合格後の入学手続き 期限・同二十日。必要書類 直前までの通学証明書又は尋常小学校卒業証書及び成績を証明するもの。用意するもの 月謝五円(但し一年分一括納入…各学期毎の分割納入可)教材(教科書等)六円(校内指定扱い所にて販売) 二十九円になるなあ。康彦は忙しく計算した。十二月だと八・九・十・十一の四ヶ月、九・十・十一は予備校に払い続けなければならないから、十一月いっぱいでは二十円貯まるかどうか。ほーっとため息がでる。うす汚れた天井を放心して見つめる。 …「何の目的で学校へ入りたいんだい」… ふと、薄井さんの言葉が甦る。そう、どうしてぼくは学校へ行きたいのだろう。何のために…。 「どうしました」 守谷だった。帰ってきたのも気づかなかった。 「ドイツがね、とうとうロンドン空襲ですよ」 康彦は黙って夜間中学の募集要項を差し出した。 「ふーん、二十九円になりますか」 「守谷さんのときはどうだったんですか」 「ぼくですか、ぼくの場合は二年転入で、昼間から夜間への変更でしたから予備校へは行かないですみました。試験はうけましたけどね。教材は国定ですから全部そろってましたし。そうだ、今月でちょうど一年になる。去年の夏休みに家を離れたんですから。親父が死んで四ヶ月後です」 「お家は何をされていたんですか」 「農機具屋ですよ。田舎の小さな町の。それが、親父が死んだら借金があったんです。それで店も家財も人手に渡って、兄が役場に就職して…」 似たような境遇で、しかし自分とはやはり差がある。 「諦めて、来春の一年生を目指すしかないでしょうか」 「うーん」と守谷は腕を組んだ。 「もう、予備校は払い込んだのでしょう」 「はい」 「来春受験となれば予備校は行く必要ありませんよね」 「解約はできないでしょうか」 「できないことはないでしょうが全額は戻らないと思いますよ、手数料とかなんとか理由つけて」 一瞬、二人とも黙り込んでしまった。
翌朝、赤城食堂で八銭の朝食をとっているときだった。 「ゆうべ考えたんですけど、十二月の編入、受けたらどうですか」 「でも、お金が…」 「借りるんですよ、社長から」 「社長から?。わたしはまだ、入って半月にもならない」 「今じゃなく、試験受けたあと、合格通知を見せて頼むんですよ。きっと貸してくれると思います。そのときはぼくもいっしょに行ってお願いしますから…」 急に、ぱっと光を視たように康彦は感じた。
銭湯というものに初めて入った。ここへ来て半月、仕事を終わると水道の水で身体を拭くだけだった。銭湯は浴槽が広く、湯の量もたっぷりしている。カランからの流し湯も思い切り使うことができて、豊かな気分になれる。時計屋では毎晩入ったが、家族五人が入った後なので、湯の量は坐っても腰までしかなく、盥で行水するのと変わらなかった。流し湯を浴槽から汲み出して使ってしまうせいだった。そうして、湯から出ると束子で浴槽の掃除を言いつけられていた。終わると身体が冷えてしまって、冬には風邪をひきそうだった。それよりもあの水運び、六段の石組みを大バケツ十七杯。バケツの底が踵にぶつかるので、持つ手を左右換える。左では二の腕がすぐに疲れるので右手を頻繁に使うことになる。そうして右の踵に血がにじみ、皮が破れる。 食堂を出て守谷と別れ、宿舎の前まできたとき。前方から来る人かげをみとめた。白シャツに下駄履き、遠目から薄井さんだと判った。 「あ、その節はどうも、ありがとうございました」 「ん!」と薄井さんは顔を向ける。 「この前泊めていただいた…」 「ああ、予備校へ行きたいとか言ってた」 「はい、添島康彦です」 「俺はこれから風呂に行こうと思ってるんだ。きみもどう」と、銭湯に誘われた。 最初、板の間で裸になるのが恥ずかしかったが、脱いでしまえば何のこともなかった。 背中を流し合った。薄井さんが髭を剃る。康彦も鏡を見て、ああ床屋へ行かなくちゃな、と思った。 風呂上がりの夜道、わずかな風が腕や首筋をやさしく撫でて行く。 横丁に赤い提灯の店が見えた。「おでん」と書いてある。 奇妙な店だった。一軒の店の中を半分に仕切って、板囲いしてある。おでん屋の方は明るいのだがあと半分は暗いまま、硝子戸の中に自転車のハンドルだけが光っている。 「おでん、喰うかい」 「いえ、食事はすませましたから」 「おでんぐらい食えるだろう。まだ若いんだから」 言葉で押されるように敷居をまたいだ。 初老の男が「いらっしゃい」と声を掛ける。白い襟なしのシャツに前掛け。先客が一人、L字型のカウンターの角のところに坐っていた。七・八人で満席になりそうな狭さだった。 薄井さんはカウンターの真ん中、四角い銅鍋の前に坐り、隣に康彦を坐らせた。 鍋の前じゃ暑いけどなあ、と康彦は思った。 「さきにビール」と薄井さんは言い「きみも呑むか」と康彦を顧みた。 「いえ」 「そうか、じゃ一本」人差し指をたてると「へい、おまちぃ」とおやじはコップを出し、足元から瓶を布巾で拭いて出した。 鍋には串が林立している。奥の方に頑丈そうな、けれどたいそう古びた冷蔵庫が置いてある。 「タコ・ゲソ・ニシ・大根」と薄井さんは立て続けに言い「こっちにも同じもの」と康彦を指さした。 康彦はあわてて、おやじの後ろの壁にある「お品書」に眼をやった。タコ四銭・ゲソ三銭・ニシ三銭・大根二銭・合わせて十二銭。 「夏期講習は行ってるのかい」と薄井さん。 「いえ、間に合いませんでした。それで九月からの秋期に申し込みました。十二月に編入試験があるそうです」 「そうか、ということは、二年後期かい」 「いいえ、一年の三学期です」 「どうして?、こないだの話じゃ二年か三年か、ということじゃなかったのかい」 「ええ、やはり入学歴がないと一年にしか編入できないんです。それも夜間部に限って…」 「そうか、そういうことになってるのか」 康彦は「お品書」の先頭にある「栄螺十三銭」というのと最後の「めし四銭」という文字を視ていた。角に坐っていた客が帰っていった。 「薄井さんはこのあいだ、学校を出て何になりたい。とおっしゃいましたけど」 「そんなこと言ったかな」 「ええ、そのことを、もう少し詳しく話していただけませんか」 「言ったとすりゃ、何気なく言ったことだよ」 「そんなこと」とか「何気なく」とか言ってるけど、ほんとうは何か言いたいことがあるんじゃないだろうか、と康彦は考えた。 「あのとき、学校を出て何になりたい、と言われてすぐに返事できませんでした。実際わたしは、何が目的で学校へ行きたいのか、考えてもいなかったのです。それで急に恥ずかしくなりました。夜逃げまでしてきて…」 「夜逃げ?」薄井さんは振り向いた。 薄井さんが払おうとしたので、康彦は急いでポケットを探り、十二銭出した。 「普通のおでん屋とは違いますね。わたしの知ってるおでん屋は、ハンペンとかツミレとかコンニャクとか」 「うん、タコでんとか貝おでんとか言ってるよ」 木戸の前まできた。勝手口から入ればいい、と康彦は薄井さんと一緒に木戸を入った。 「部屋へ来ないか、少し話そう」 月はあったが、切り立つ崖に遮られて薄井さんの顔はほの白く見えるだけ。薄井さんからもそう見えているだろうと康彦は思った。 電灯を点けると、部屋の様子はこの前と少しも変わっていなかった。本箱と机と、布団を敷きっぱなしのソファー。薄井さんは机を背にして坐った。康彦もかしこまる。 「あぐらになった方がいいよ」 「はい」と康彦は楽な姿勢をとる。 「夜逃げと言ったけど、どこにいたの」 「時計屋です。地方の」 「時計屋になるつもりだったのかい」 「いえ、実は、売られたんです」 「売られた?」 「紹介してくれた人が、五年間勤めるという約束で百五十円受け取ったそうです。わたしには、夜学に通わせるという条件をつけたから、と言ってました」 「いまどき、そんなことがあるんだね。で夜学の方は」 「時計屋の主人は、そんなことは聞いてもいないって」「ふーん。それはひどい」 「わたしは、どうしても学校へ行きたかったんです。でも、何のために行きたいのか、考えてもいませんでした。今でもそうです。学校を出て何になりたいのか、それも判りません。ただ、いろいろなことを知りたい…」 「それでいいんだよ。そのための学問なんだから。ただね、何かになりたいための学問だったら下らないと思うよ。それだったら職業訓練所じゃないか。まあ、何になりたいかっていう内容にもよるがね。ボクハ グンジン ダイスキヨ って、幼稚園なんかで唱わせてるだろう。体制の押しつける教育ってのは、そんなもんだ。お国のため、社会のため、と言っても、問題はその国や社会がどういうものか、にあるんじゃないか?。産めよ殖やせよってしきりに宣伝してるが、何を産めよ殖やせよか、大臣や大将や博士を殖やせ、じゃないんだ。一兵卒さ。戦場で弾に当たって死んでゆく兵が欲しいわけさ」 話が意外な方向へ進むのに、康彦は驚いた。同時に引き込まれ、唾を飲み込んで薄井さんを見つめた。 「人は生まれた時から人だ。これは他の動物と変わりない。そうして生長していく、生長の過程でいろいろ学び、変化していく。ただ、人間は恣意的にだけ生長するのではない。教育、というものが付加される。もちろん、動物にも教育はある。餌の確保とか外敵から身を守るとか種の保存とかを親や群れから学ぶ。しかし人間の教育はその大部分を体制が干渉している。体制の押しつけには方向性がある。それを教育と勘違いしているむきが多い、というより信じている。本来的に教育とは、受けるものではなくて、みずから掘り起こし、獲得し、開発していくものなんだ」 こういう方向になると、康彦には難しかった。 けれど、だからこそ学校へ行って勉強しなくちゃ、という思いがいっそう切実になる。 「ドイツがチェコを併合したりポーランドに侵攻したりするたび、「電撃作戦」などと新聞は書き立て、読者は喝采する。それが大衆心理なのさ。日本の教育水準なんてその程度なんだ。そうして着々、南進政策。みんなは、それがいつ始まるかとわくわくしながら待ってる。そういう教育をしてきたんだ、ずうっと、明治以来。けれど戦争なんてねえ、勝っても負けてもいいことは何一つない。勝てば軍人の世の中、負ければ…、それは言わなくても判るだろう。この世から貧乏や病気がなくなればいいと誰もが思う。けれどそれらはさまざまに形を変えて残るだろう。不幸そのものはなくならないんだ。仮に、いまより少しは豊かになることがあったとしても、そこにまた新たな格差が出てくる。格差が作られるかぎり、真の豊かさは感じとれない。欲望は果てしがないし支配者は目に見えない形で支配の方法を温存するからだ。悲しさや切なさや虚しさや苦しみの種は次々と生まれる。それは分りきつてる。だからといって諦めたり順応したりしてはだめだ。このままずるずると戦争にひきこまれ、国の方針に都合のいい人民を教育し続けてゆけば、人間性は失われ、なんのために生まれ、生きてゆくのか判らない人が殖えていく。戦争を続け、拡大してゆくための弾除け、あるいは単なる兵器生産手段としての機械みたいな存在にされるだけだ。そういう現実を阻止するためには、絶え間なく闘わなければならない。権力の干渉に闘うと同時に、自身との闘いでもある。知恵と勇気が必要だ。それを考える。そういう方向に考えることができるのが人間だ。それこそが真の学問…けれどいま、検閲が厳しく、出版の自由もない。これでは、真の知恵を会得する手段がない。学校の教育なんてそんなもんだよ。我ひとり、手探りで進むしかないんだよ…」
七
大森の商店街に箪笥屋があり、横の路地の奥まった処に、別棟になった老夫婦の隠居住まいがある。本を持って木戸を押すと、気配でお婆さんが読み終わりの雑誌を抱えて縁側へ出てくる。今日はお爺さんが出てきた。 「この暑さじゃ疲れるでしょう。冷やしたお茶があるから」 お婆さんが盆にコップを載せてくる。コップの回りに細かい水滴が膨らんでいた。 「年寄りふたりだと、頂き物も食べきれなくてねえ」 見ると盆の上に菓子皿があり、豆大福が二個載っている。 康彦はコップは握ったが大福には手を出しかねた。 「よかったら食べてちょうだい。こんなもんだけど」 「はい、いただきます」 康彦は大福を口に入れた。これは幾らするのだろう、と考えながら食べた。 「あんたは夜学に行ってるんかね」とお爺さん。 「はい」 「若いのに、えらいねえ。わしらはおととしまで店におったんだが、息子に譲って隠居さ」 「もう一つありますで。どうぞ」 「はい」 「嫁姑って世間で言うでしょう。そう言われたり思われたりするのが嫌でねえ」 康彦はお茶を飲んだ。お茶を飲むと急に腹が膨らんだ気がする。これで今日は昼食の代わりになるかもしれない、と思った。 「ごちそうさまでした」
やはり、大福二個では夕方になると腹がへった。でも三個ならどうだろう。 翌日は荏原、中延・戸越は商店街が比較的狭いので目的の店はすぐ見つかる。 餅菓子屋のウインドウに舟形の皿に盛りつけた赤飯があった。大福四個・饅頭四つ・海苔巻き五つ。どれも一皿十銭の表示がある。 康彦は海苔巻きを買い、公園のベンチで食べた。お茶が無いのが難点だったが、水飲み場ですませた。 次の日、世田谷は一面に畑地で、私鉄駅前の小さな商店街しかない。高級な菓子屋はすぐ判るが餅菓子屋はないだろうと思っていたら鯛焼き屋があった。器具を外に向けゴロゴロひっくり返しなから焼いている。 「いくらですか」と康彦は自転車を下りて訊いた。 「一個二銭」髭を生やした男が答える。傍らに溶いた小麦粉のボールと餡の入ったバットがあった。 「三個下さい」 「持ってきますか、食べてきますか」 「え」康彦は薄暗い店の中を見た。 粗末なテーブルと三人掛けの床几がある。康彦は床几に腰を下ろした。三個載せた鯛焼きの皿と湯飲みの番茶が運ばれた。六銭か。ふと康彦は、この調子でいけば編入に必要なお金は借りなくても間に合うんじゃないか、と考える。 夜、思い切って薄井さんと行った貝おでんの店へ行った。まだ時間が早いらしく、客は居なかった。 康彦は端の方へ掛けると「めしを下さい」と言った。 「めし?」おやじさんは戸惑った顔をしたが、丼のご飯を出した。 漬け物も汁もない、ご飯だけというのは食べにくいものだ、と康彦は思った。ごつごつしたものを口に押し込み、咀嚼を繰り返し、喉を伸ばして呑み込んだ。
祐介からの返事が届いていた。 あの翌日、吉川が積田先生のところや高木君のところなど探しに行ったそうだ。ぼくのところへは来なかったのだから灯台もと暗しさ、もちろん、誰も知る筈はない。 暑い中、雑誌の配達は大変だろうね。ぼくも夏休みの筈なのに、全校招集をかけられ、軍から派遣された教官に毎日二時間の教練を受けている。体操などと異なり、ゲートルを巻いての教練は思いのほかきつく、終わって帰っても夕方まで疲れが抜けないなどの影響が出ている。きゃっきゃっと喜んでる奴もいるけど、気がしれない、とみんな怒ってる。 クラブも、剣道・柔道・陸上など体育系の他は解散された。唯一、鼓笛隊だけ残ったが、練習は軍歌ばかりで面白くない、と言って抜ける奴がでている。話では、夏休みが終わっても毎日二時間の教練は続けるのだそうだ。そうなれば必然的に学科の単位時間も減るわけで、教科書に依る教科も消化できなくなるだろう。未消化の分は家で自習しろということなんだろうか、と不平が出ている。その点、夜間部には教練がないので、夜間へ移ろうかなどと言う者もいるほどだ。君が夜間部を選んだのは正解だったと思うよ。また手紙します。元気で…そうそう、積田先生も心配していたよ。では… 康彦は不意に積田先生を思った。
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