京子は、たっぷり入った紅茶のポットから甘い香りのするアップルティを注ぎながら考えていた。本当にうちの会社のボスは誰にでも声をかけるし手を出そうとする。もちろん京子も例外ではなかった。結婚する前から勤めていたのだから当たり前というか、その時点で声もかけられないようなら女も終わりというものだ。 入社して早々に学生時代からの友人である荘一と結婚したが、そこは外資系ということで結婚退社を迫られることもなく、子供を産んでも産休・育休をがっちり取って復帰した。復帰してからのほうがボスの誘いはしつこかったかもしれない。事あるごとに相談と銘打っては食事に誘い飲みに誘い、遠まわしにも直接的にも関係を迫ってきていた。京子は自分が倫理感が強いとか保守的だからとかそういう理由でボスを遠ざけてきたわけではなかった。会社のボスとそういう関係になれば、よいときはよいだろうが関係が壊れるとともに仕事を失うということがわかっていただけなのだ。そんな馬鹿げたことはできない。今ではボスもあきらめて、というかすっかりおばさんになってしまった京子には何の興味もないので、本当の意味でよき上司と部下、という関係になっている。京子がいないとボスは本当に機嫌が悪い。面倒な仕事はなんでも京子に任せてしまうのだ。当然管理職になっている京子はあれもこれもこなしていくキャリアウーマンに成長していた。それもこれも、あのボスの誘いを断り続けてきたおかげだ。 しかし・・・最近京子は考えている。いつのまにか、夫とは必要以上に口をきかなくなり、ボスはすっかり相棒として自分を頼っている。私の「女」はもう死んでしまったのだろうか。家族もいて経済的にも安定し、別に恋なんてしていなくても不自由なことは何もない。しかしあのボスの「恋愛は自由だ」といつまでもそんなことを言っている姿を思い出し、自分はそんなこととはもう疎遠になってしまったのかと思うと少し悲しかった。恋をしている時のあの切ない感じや、陶酔した幸福感はもう味わえないのだ。そう思うと何となく自分の人生がとてもつまらないもののような気がする。 とはいえ、今目の前にいる真知子にこんなことを話したら、まともに相手にはされないだろう。真面目を絵にかいたような友人なのだ。でもだからこそ信用できるしどんなことも受け止めてもらえると思う。夫にも相談できないようなこともなんでも真知子には話せるのだ。隣に座っている仲のよさそうな男女を横目に見ながら、京子は呟いていた。 「もう、恋するなんてことないのかしらね。私たちは。」
コーヒーを飲んでいた真知子はあわててカップをソーサーの上に置いた。もう少しで取りこぼすところだった。京子の呟きは真知子がコーヒーを取りこぼす程度の威力は十分にあったからだ。まさに、今自分は恋愛中だ。だが、どんなに親しい誰よりも信頼できる京子にもこのことは言えなかった。自分のことをどれほど京子が信用しているか分かっているからだ。家庭を壊すつもりも、人生をやり直すつもりも全くないのに、こんな話をしてしまってはこれまでの信頼をすべて失うと思えた。うそをついていることはもちろん心苦しかったが、だからと言って相手を大切に思うからこそ言えないこともあるのだ。もう一歩正直な気持ちを言えば、いつも自分の方が頼られる立場で意見をする側にいるのに、その立場を一瞬にして失うのも怖かったのだ。それでこれまで、ずっと真知子は黙っていた。なのに京子が恋について話をするなんて、驚きだ。もしかしたら京子は私の秘密に気付いているのだろうか、いや気づいているなら彼女ははっきり言うはずだ。「やめなさいよ、そんなこと。何もかも失っても構わないの?」と。どっちが得か、が思考の基本である彼女ならそういうだろう。だから気づいたのではないと思う。しかし私の様子がおかしいと感じているのかもしれない。私に興味のない夫や子供たちが気付かなくても20年来の親友は自分の様子の変化に気づいてしまったのかもしれない。なんと返事すればよいのだろうか。下手に隠せば、何かに感づいている京子によけいに不信感を持たれてしまうかもしれない。だが、何も気づいていなかったら、正直に打ち明ければ信用を失うだろう。真知子は京子との友情を失うことは考えられなかった。意思が強く自分の信じた道をまっすぐ進んでいく京子を尊敬していたし、そんなことよりこの20年来の付き合いを失うことが怖かった。誰より大切にしてきた友達なのだから。京子がぼんやりと眺めている方向には、仲のよさそうな男女が一つのケーキをつつきあいながら何か話をしている。この二人を見て、何気なく言っているのかもしれない。そう思った真知子はそちらを見ながら答えていた。 「仲いいわねぇ。そう若くもなさそうだけど。うらやましいわ。あの年であんなふうにできる相手がいるなんてね。」 「うん、本当に。今私が一緒に喫茶店に入る男性は、会社のボスでなきゃ、クライアント。どっちも仕事の話しかしないし、ケーキなんて食べるどころか、メニューを見せてもらうこともないもの。座ったら「コーヒー」で終わり。そしてずっと打合せ。あんなふうに幸せモードを周りにふりまきながらお茶を飲めるなんて、なんてうらやましい、と思うわ。」 「ま、でもそれはそれで必要とされてるってことでしょう?私たちの年齢になって、必要とされて喫茶店に入れるってのもなかなか貴重だと思うわよ。だって、香苗たちが喫茶店に入るのは絶対にバーゲンで疲れて歩くのも嫌になったときとか、みんなで待ち合わせした時とか、それだけなはずよ。打ち合わせに喫茶店に入ってみたいってきっと言うわ。」 「あははは。本当に。笑ったら失礼か。そういや、今日香苗は来るの?聞いてる?」 「ううん、聞いてないわ。どうなんだろ。彼女まだ子供が小さいし、年末の忙しい時期に主婦に週末出かけて来いなんて、あまり誘いやすいものじゃないし。佐緒里は子供もいないしご主人も百貨店勤務で週末は仕事だろうから、出かけやすいのだろうけど。」 「そうねぇ。私たちも専業主婦だったら今日ここには居ないだろう、くらいの想像はつくものね。でも実際は仕事して家事して、毎日たいてい忙しくて、ようやくお休みの週末をどう使おうと私の勝手よ。って大きな態度で出かけてきちゃったわ。」笑いながら京子は家を出るときの夫の不機嫌な顔を思い出していた。 「うちも同じようなものね。駿は塾に行ったからいいとして、主人と由紀は由紀の部屋の模様替えをするって言ってたわ。私がいると色々口出ししてうるさいから、丁度いいみたいだった。子供たちもそこそこ大きくなってるってのも違うわよね。さて、そろそろ会場に行く?少し早いみたいだけど、何か手伝うこともあるかもしれないし。」 こうやって、真知子と会うと、すべての行動が早め早めになる、と京子は心の中で苦笑した。私だけだったら、絶対にギリギリの時間かどうかしたら遅ればせながら、と登場しなくてはならない時間にしか行かないだろう。やっぱり真知子は真面目だ、と思った。 「そういえば、真知子、今日珍しく遅れたじゃない?遅れることなんて絶対ないのに。何かあったの?まぁ、遅れたうちにもはいらないけど。数分じゃあ。」と思いだしたことを何気なく口に出してから、京子は真知子に責められたことはないのに言ってはいけなかったかと後悔した。「あ、いつも遅れてる私が言うことでもないか。ごめんね。」とあわてて付け足した。 「そうそう、ごめんね。出かけようとしたら隣の奥さんが来てね。なんかいっつも私が出掛けるのを見計らって妨害に来るのよ。あら。笑い事じゃないわ。絶対そうなんだから。今日は回覧板って言われて、それも至急よ。目を通してハンコ押したりで、1本電車遅れてしまったのよ。なんでかしら。出かけるときには必ず現れるような気がするわ。それも遊びに出かけるときだけよ。今度あの奥さんの様子を観察してみなくちゃいけないわ。」 「うそ、そんなタイミングよく?そんなわけないでしょ。たまたまじゃないの?」 「いいえ、絶対違うわ。他にもいろいろあったのよ。でも仕事に行くときはそんなこと一度もないの。私の出掛け方はランダムだから予想もできないはずだし。いつも見張られてたらどうしよ。」 「それは自意識過剰よ。ま、適当にお付き合いすることね。お隣さんじゃ。」と話をしながら二人で伝票を取り、お互いの支払い分をきちんと会計に出してホテルのラウンジを後にして同窓会の会場に向かった。
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