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作品名:a nameless sword −青天ノ月− 作者:みつお

最終回   D
 日が沈む頃になると空には雲が多く現れるようになった。どうやら明日は朝から雨が降ることになりそうだ。アルノートはそんな夜空を大使館の執務室から一人、窓から眺めていた。
「大使、あなたはご自分がなさったことがわかっているのですか」
「わかっています。あなたたちを驚かせてしまったのは本当に申し訳ないと思っていますよ。ですから、もうこれ以上あまり私をいじめないでください」
 さきほどからずっと一等書記官がアルノートの背中に向かって小言を吐いていた。
 やるべきことは全て処理を終えた。必要書類の準備と大使としてのサイン記入。今後の日程の調整、アビレス市へ事務員の派遣。二、三日後には条約が批准される手筈になっている。そして、アルノートは拘束され官職も爵位も剥奪される。
「申し訳ございませんが一人にしてください。荷造りもそろそろ始めないといけませんからね」
 アルノートの言葉に一等書記官はそれ以上何も言おうとはせず、視線を落としてドアへ足を向けた。
「大使。私の実家がヴァンプファンの郊外にあります。何かありましたら、ぜひに」
「意外ですねぇ。君にそんなやさしい言葉をかけられるとは」
「せめて、会議の前に私には一言話しておいてほしかったです」
 ルッソが肩越しに視線を向けてみると一等書記官は寂しそうな表情をしていた。赴任して二年間、ずっと小言を繰り返していた一等書記官が表情を曇らせていることにアルノートは胸にこみ上げてくる何かを感じた。
「新しい大使が赴任するまでの間、ルッソの補佐をよろしくお願いします、トニ」
 トニが一礼して執務室から出て行くのを肩越しに見届けて、アルノートは再び夜空へと視線を戻した。後悔は何も無い。本国に残した妻にはこれから厳しい生活をさせることになってしまうことだけが心苦しいが、それでも呪縛を砕き割ったアルノートの心は晴れ渡っていた。
雲の隙間から空に月の姿が現れた。付近が月に照らされ明るくなる。アルノートは視界の中に一瞬、なにか違和感を覚えた。その時だった。大使館に何か衝撃が走った。それは外には洩れないような偽装が施された衝撃であった。
 アルノートは慌てて執務室から飛び出て行った。
「何事です」
 事務員が息を切らせながら走ってくる。
「大使。大変です。憂国党の襲撃です」
「警衛隊はどうしました」
 大使館には駐在武官が指揮する一個小隊並みの武装部隊が配属されている。
「既にトニ一等書記官が駐在武官とともに警衛隊を率いて応戦に向かいしました」
 銃撃、そして剣撃の甲高い音が押し寄せてくるプレッシャーと一緒に聞こえる。
 アルノートは昼間の会議場でのマウロの顔を思い出した。憂国党を裏で操っているとみられる者。条約締結が決まったとき、マウロは顔を歪ませていた。おそらく憂国党の裏にいるのはシアネ王国ではなく、シアネの強硬派ということなのであろう。マウロらシアネ強硬派は条約を白紙にさせるべく襲撃してきたのだ。
 再び大使館に衝撃が走った。先ほどよりも大きい。命の灯火が消えていく悲鳴がアルノートの耳に入ってきた。
「大使、敵はあまりに多すぎます。持ちこたえられません。既に大使館には火をつけられています。大使だけでも脱出してください」
 爆発で上がった白煙の中をトニが駆けつけてきた。右腕をやられたのか力なくダラリとさせ、額からは血が滴っている。
「トニ。あなた、負傷しているではないですか」
「私のことなどはどうでもよいのです。それよりも大使は早くお逃げください。大使さえ生き延びることができれば、条約もなんとかなります。さあ早く」
「バカな。私一人で逃げろというのですか」
 カランと乾いた音が響き、転がって近づいてくる音がアルノート耳に入ってきた。投擲弾だ。投擲弾が一切の感情を感じさせない無気質であるのに、少しずつ転がり迫ってくるその姿は不気味なまでに圧倒させる死を直感させられる。
 トニが咄嗟に力を振り絞ってアルノートを突き飛ばす。まるで計ったかのようなその瞬間であった。投擲弾が爆発し、周囲にいたトニや事務員たちを荒れ狂う死の彷徨で切り裂く。直撃は免れたもののアルノートも爆風に吹き飛ばされ壁に叩きつけられた。
「ありゃ。大使、生きてたんですかぁ」
 背中を思いっきり叩きつけられ、アルノートはむせ返って咳をしていると喧騒とした雰囲気には場違いな素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「ルッソ。良かった。無事でしたか」
「ええ、もちろん。ですが、あなたには死んでもらいませんとね」
 ルッソはそう言うと右手に持った剣の切っ先をアルノートへと向けてきた。アルノートはそのときに初めて剣が血で濡れていることに気がついた。その奥で冷たく光る目が、心の奥底から冷えあがらせていく。
「残念。俺、本当に大使をけっこう気に入っていたんだけどねぁ。本当に残念」
「どういうことですか。これは」
「どうもこうも。見ての通りですよ。この憂国党は俺が作り上げたものなんですよ」
「ドストニアを裏切ったのですか」
 アルノートの問いに、ルッソは軽い笑い声を上げた。
「冗談。俺がドストニアを裏切っただって。違いますよ。これは元老院の指示ですよ」
「バカな」
 元老院という言葉にアルノートは驚きを隠せなかった。
「本国はですね、このシアネを武力制圧しようとしているんですよ。大使にむちゃな条約の指示を出したのも、不良に終えさせて戦争を開始する大義名分を得るため。なのに、あなたはあろう事か機密を漏洩させて、本国に断りも無く譲歩して条約締結に結び付けてしまった。もうさすがにあなたを庇うことはできませんわ」
 ルッソは静かに剣を頭上に振り上げた。
「ですから、大使。あなたにはここで死んでください。あなたの死が戦争の大義名分となるんでお願いしますわ」
 ルッソが頭上に掲げた剣を降り下げようとした瞬間であった。一発の銃声が轟いた。アルノートが見上げなおすと、ルッソが苦痛をもらしながら剣を持っていたはずの手を抱えていた。
「貴様の好きにはさせないぞ」
 声がする方へアルノートは目をやると立つのもやっとなボロボロの姿でトニがルッソに銃口を向けていた。
「貴様ぁ、邪魔をするな」
 ルッソは叫びながら腰に挿していた小刀をトニへ目掛けて抜き放った。投じられた小刀はトニの首に突き刺さり、噴出した血が壁を真っ赤に染める。トニは音をたてながら必死に息を吸おうと苦しみ悶えている。
「俺はな、元老院から直接指示を受けているんだよ。お前みたいな役立たずのゴミがこの俺に口を出すんじゃねえよ」
 ルッソは苦しみ悶えるトニを無慈悲に蹴り飛ばし、そのまま何度も何度も力いっぱいに踏みつけた。
 チャンスだ。アルノートに背中を向けたルッソはすっかりとトニを踏みつけるのに夢中でこちらにまったく意識を向けていない。アルノートは近くに落ちていた鋭利な花瓶の欠片を手に飛び掛った。ルッソがトニをやったように目指すのは首筋だ。やれる。アルノートは力をこめて花瓶の欠片を突き刺した。だが、アルノートがそのときに感じたのは違和感であった。頭の中ではたしかな手ごたえがあるのだが、手元からはひとつも手ごたえが伝わってこない。
「驚きましたよ、大使。なかなか剣さばきですねぇ。いやぁ、あぶなかったあぶなかった」
 なぜかルッソの声が耳元で聞こえてくることにアルノートは驚いた。背中から鋭い痛みが感じる。アルノートが自分の腹を見てみると剣が突き出ていた。アルノートは前へと態勢を崩しそうになるのを踏ん張ろうと一歩ずつよろけながら必死に足を踏み出した。倒れたら、もう二度と立つことはできなくなる。だが、その努力もルッソの無慈悲なまでのさらなるルッソの銃撃で無駄に終わった。ルッソが放った銃弾はわき腹を貫通し、アルノートは前のめりになって倒れた。
「どうしてですか、ルッソ」
 口から溢れてくる血と鈍く響き渡る痛みにアルノートは絶え絶えに言葉にした。
「ヴァンツェル事件ですよ。あなたも加担していたから知っているでしょう。一応、民衆派は征伐されましたが、それでもあの事件のせいでドストニアは政情が不安定になっているんですよ。だからこそ、外に目を向けさせるために戦争が必要だということなんです」
「そんなくだらないことのために……」
「さてさて……、上の人間が考えることなんか私はよくわかりませんよ。私はただ指示されたことをするだけです。まあ、あなたも立派な貴族ではないですか。家を守るために息子を売ったのですからね」
 再び大使館に大きな衝撃が走った。とてつもなく大きい。地下の武器庫に火が回ったのかもしれない。
「さて……、俺はもう行きます。思ったより火が回るのが早い。これ以上いると私も死んじゃうや。それじゃあ、大使。成仏してくださいね」
 そういうとルッソはのんびりとした歩き方でアルノートの前から去っていった。
 自分はなんと情けない男なのだろう。意識が遠くなっていくのを感じながらアルノートは自分自身を張り倒したい気分になった。アルノートはルッソの言うとおり家を守るために息子を貴族派に売った。いや、そうではない。自分は怖かっただけなのだ。最低だ。
 不意にこみ上げてきた衝動で口から一気に大量に血をアルノートは吐き出した。意識がいよいよ朦朧としてくる。ふとアルノートは誰かが近くにいる気配を感じた。馴染みがあり、そして胸が痛くなるあの男の気配。息子だ。
「私が無様に死んでいくところを見に来たのですか、フォルカー」
 それも仕方が無い。それだけの罪を自分はしてきたのだ。
「きっと私は確実に地獄行きでしょうね。向こうでは私一人ですか。寂しいですね」
 アルノートの呟きに、やはりフォルカーはいつものように何か答えようとする気配は一切見られなかった。だが、それでもアルノートはハッとさせられた。フォルカーの顔へ目を向けてみるとこれまでずっと見えなかったのに、今は顔がはっきりと見える。フォルカーは確かに微笑んでいた。
「なんであなたはそんなに微笑んでいるのですか。私はお前を裏切り、シアネと平和を築くことにも失敗し、今、無様に死のうをしているのですよ」
 それでもフォルカーはアルノートへ向けて微笑み続けた。そして、ゆっくりとフォルカーへ手を差し伸べてきた。
「すまない。本当にすまない、フォルカー。本当にありがとう……」
 アルノートの瞼がゆっくりと閉じられるとそこから一筋の涙が流れていった。




―エピローグ―
 すっかりと白んだ西の空にうっすらと白い満月が浮かんでいた。雲ひとつない青天だ。
「どう思う、ご隠居」
 クリストフ・イェンゼンが目の前に流れる国境の川を眺めながら聞いてきた。その先に広がる森林から先はシアネ王国領だ。クリストフはやる気のないことを隠そうとする気配は一切無い様子であった。万時がこの調子である。そんなクリストフを今まで一度も腹立たしいと思ったことがないことにヘルマン・レーゼルはいつも不思議な気分を感じていた。
「どうやら敵は我らの動きに感づいたようですな。哨戒の兵が多くなっているようにみえます」
 それもそのはずだ。ヘルマンはアルノートへ秘密裏に作戦命令書のコピーを渡していた。アルノートの外交で解決しようとする信念を思い図ってのことであった。だが、どうやらアルノートの志は半ばにして挫折してしまったらしい。アルノートが憂国党の襲撃によって死亡したと知らされたのは昨日のことであった。
 平民であるにもかかわらずヘルマンにとって、アルノートは心のうちをさらけ出すことができる無二の親友であった。アルノートと出会ったとき、平民と対等に話そうする貴族がいることにヘルマンは衝撃を覚えたものであった。
「そうじゃない、これから始まる戦争の行き先についてだよ」
「そっちの方でしたか。まあ、難しいでしょうなぁ。準備不足であるのは一目瞭然。参謀本部は元老院の指示で慌てて綿密に考慮することなく、お粗末な軍事計画を作り上げたのでしょうなぁ」
「うーん……。これは本当に面倒くさいことになりそうだな」
 クリストフは頭を掻きながら盛大なタメ息をついた。
「閣下。あまりそのような態度は見せないでくださいな。士気に悪影響が出てしまいますわ」
「閣下。あまりそのような態度は見せないでください。士気に悪影響が出てしまいます」
 クリストフはヘルマンが士官学校の教官時代の非常に優秀な教え子の一人であった。その証拠に若干三十四歳にして少将の階級を授かっている。怠け根性がなければ、今頃はもっと上、もしかしたらシアネ制圧のために編制された南方派遣総軍の総司令官にもなれていたかもしれない。
 クラウスは懐中時計を手に取り出した。時刻は午前六時五十八分を示している。
「閣下。そろそろ時間です」
 クリストフは特に何も返事をせず、そのまましばらく川の流れを見続けていた。
「なんのための戦争なんだか」
クリストフは静かに呟きを残し、身を翻して川へ背を向けて歩き始めた。ヘルマンもクリストフに従うように歩み始めた。
 遠くで砲弾が次々と撃ちだされる重い音が聞こえた。隷下の砲兵隊が味方の渡河を支援するための砲撃である。


 グレゴニア暦六三二年五月一二日午前七時。この日、ドストニアとシアネの間に戦端が開かれた。この戦争はドストニア元老院の予想を裏切り、この後六年続けられ、ルシリアの反乱を許すこととなる。


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