条約交渉の会場はシアネ応急の一画に設けられている。室内は木目調に整えられ、備え付けられた振り子式の柱時計が印象的であった。外から叩きつけるように降り注ぐシアネの太陽はカーテンに遮られて柔らかくなっているので、外にいるときと比べてマシとはいえたが、それでもやはり不快であることには変わりなかった。 「バカバカしい。何度も言うがそんな条件なんて呑めるはずがないだろう」 シアネの随員で一番右端に着いている者が小バカにしたように口を開いてきた。名前はマウロ・ビラールと言い、ルッソの情報では憂国党を裏で指揮している強硬派と見られている人物だ。マウロはこれまでも条約交渉に不遜な態度で臨んできて、アルノートたちに挑発的な言動を繰り返していた。 「まったく本当におたくらはやる気が溢れていることですなぁ。ですが、せめてそのやる気を他のほうへ向けてくれると我々としても助かるのですけどねぇ。本当、迷惑でかないませんわ」 相変わらずこの日も挑発的な言動を繰り出してくるマウロではあったが、いつもと少し様子が違っていた。マウロだけではない。他の者、ドストニアの随員も含め全員がアルノートのことが気になっていた。いつも低姿勢で汗をかきながら必死に説得を試みていたアルノートが、この日ばかりは会議が始まるや否や眼を瞑り、腕を組んで一言も発していないからだ。むしろ威圧的すらある。 「我々としても貴国のご期待に沿いたいところなのですがねぇ。未だに憂国党が野放しにされちゃあ、我々としては気になって気になって他のことにやる気を向けることができないのですわ」 全く一言も発しないアルノートに変わって、この日、主にシアネと応対していたのがルッソであった。ルッソはアルノートとは違い、皮肉を多く交えた応対を繰り広げているので、これもいつもの外交交渉とは違う雰囲気を作る一つの要因になっていた。 「今もこのとき、シアネに在留している多くの我が国民が生命と財産の危機に瀕しているのですよ。やれやれ、文句を言う前にやるべきことはしっかりとやってほしいですわ」 「その件に関しては、我が国の治安当局が懸命な捜査に当たっている。憂国党が一網打尽されるのはそう遠くない日に違いない」 「その台詞、もう聞き飽きましたわ。いったい、いつからずっと同じことを言っていること思っているんですか。我々は治安能力が足りない貴国のために、アビレス市の租借を提案しているのですよ。協定税率は多額な賠償請求よりもまだマシだと思いますがねぇ」 「貴様、我が国を愚弄する気か」 図太い音が会議室に響いた。度重なるルッソの皮肉に我慢できず、マウロは力いっぱいに拳をテーブルに叩きつけたのだ。 「お気に召さないのなら、いっそのことシアネ国内における警察権の委譲と我が国が被っただけの額の賠償請求に致しましょうか。我々はそれでもなにも問題ありませんが。我が国の治安当局であるならば、憂国党も見事に殲滅してくれるでしょう」 「お前……。そこまで愚弄するか」 怒りを必死に押し込めマウロは、依然として澄ました顔で皮肉を言い続けるルッソを睨みつけた。まさに一触即発だ。会議場は張り詰めた緊張感が漂い始めていた。 「マウロ君、少し落ち着きたまえ」 場の空気を和らげるかのようにアルノートと対面して席に着いている男が口を開いた。男はガスパール・ゲレーロというシアネの外務大臣だ。アルノートとさほど年は違わないように見えるが、痩せ細ったアルノートとは違い、ガスパールの体格は非常に大らかだった。 「アルノート殿、もうこの会議を続けてもう二週間、何も進展が見えていません。どうでしょうか。しばらくの間、時を空けてから会議を再開するのはどうでしょうか」 ガスパールはアルノートへ向けて今後のことを提案してみたのだが、アルノートは目を瞑ったまま何も口を開こうという気配はなかった。 「そうですなぁ。一週間ほど空けて」 やはりアルノートは何もしゃべろうとしない。マウロはそんなアルノートへあからさまに馬鹿にしたような視線を向けた。 「では、そういうことで。一週間後に再開いたしましょう」 口を全く開かぬアルノートに、ガスパールは一方的に閉会を宣言し、自分の身体を重そうに席から立ち上がろうとした。 「お待ちください。みなさんをこのままお帰しするわけにはいきせん」 「なにをいまさら。アルノート殿、はっきりと言うがこの話し合いは無駄だ。協定税率とアビレス市の租借、我々はとても受け入れるわけにはいかないよ」 いまごろ言い募ってきたアルノートにうんざりした様子でガスパールが答えた。 「それはどういう理由でなのですか。国家の体面ですか」 アルノートの顔に人の良い笑顔はなかった。むしろ差し迫った緊張感を浮かばさせている。 「はっきりといいましょう。我々にはもはや今日しか時間がありません。先日、私の独自のルートで一通の手紙を非公式に手に入れました」 アルノートはその手紙を手に持って全員に見せた。 「これは本国よりドルトムントへ下った一個師団を秘密裏に国境へ部隊を展開させる命令文書です」 アルノートの他はシアネ側どころか他のドストニアの随員も知らされていない様子で尾会議場は驚愕に支配された。一瞬の静寂の後にどよめきが起こる。 「お待ちください、大使。それは反逆行為になりますぞ」 機密漏えいの罪は重い。爵位の没収、場合によっては死罪、下手をするとその罪は一族に及ぶ場合もある。 「反逆行為であることはわかっている。これがシアネの諸君には脅しにみえていることも。しかし、これは私の覚悟だ」 「ならば、我々にどうしろというのかね。黙ってドストニアに服従しろと」 「その通りです」 さらりと言いのけたアルノートの強気な物腰に、シアネ側の人間が殺気めき始めてきた。 「長い間、平和を享受してきたあなた方に戦さの恐ろしさはわかりますまい。志半ばにして倒れていく多くの人たち。大切な人を失い、今後大きな喪失感に苦しんでいく人たち。戦争はたくさんの殺戮を生み出し、そして悲しみは果てることなくずっと引きづられていきます。それもそのほとんどが平民たちだけにです。国家の体面だけを気にし、平民のことを全く考えない者だと為政者の資格はありません」 アルノートはシアネ側の人間をぐるりと睨みつけた。普段から人の良い笑顔しかしていない人だけあって、滅多に見せぬその形相はなおさら威圧感がある。 「ですから、我々は戦争を避けるべく最大限の努力をします」 アルノートは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。 「協定税率の件、白紙撤回させていただきます。ただし、アビレス市租借の件は引き下がれません。これが我々の精一杯の努力です」 「だが、あなたはいっかいの大使に過ぎないではないですか。それが守られる保証はない。ましてやあなたは機密を漏洩した咎人にも今まさになろうとしている」 シアネ側の一人がなおも言い抗ってきた。 「バカにしないでいただきたい。私は畏れ多くも皇帝陛下より全権を委任され派遣されています。すなわち私の意志は帝国の意思になるということです。そして、今はまだ私が大使です」 会議場はすっかりとアルノートの気迫に呑みこまれ、支配されていた。たった一人を除いて。
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