全てを見透かしたような視線が突き刺さるのをずっと感じていた。アルノートはただそれを執務机に座って受け止めているだけであった。もう一時間ほどが経とうとしている。会話は全く無い。窓からはしらみ始めた空の明かりがうっすらと差し込み、室内をぼんやりと薄明るくしていた。アルノートはいつものように笑みを浮かべてはいるのだが、それはとてもどこか儚く切ない。 臆病な私を蔑みに来たのですか。アルノートは口ではなく心の中で呼びかけた。途端に、突き刺してくる視線がさらに強くなったような気がした。ずいぶん嫌われてしまったものですね、アルノートは思わず自嘲めいた苦笑を浮かべた。 きっと男は今の状況を打破するための答えが、アルノートの胸の中にあることに気がついているのだろう。だが、アルノートはそれを実行する踏ん切りをつけることがなかなかできなかった。 アルノートが考えている以上に元老院のしがらみがきつく巻きついていたらしい。 あなたはきっと失望しているのでしょうね、私の臆病さに。アルノートはタメ息を一つ吐いて自嘲気味に笑った。 不意にドアをノックする音が響いてきた。アルノートはドアの方へ視線をゆっくりと向けた。ほんの束の間だけだ。視線を戻すと、そこからは何も感じなくなっていた。 「どうぞ。入ってください」 「あれ。大使以外にも人がいるように思っていたのですけどねぇ」 ルッソが気だるそうな表情をして入ってきた。スーツの袖をまくり、ネクタイはだらしなく緩めていた。 「いえ、私はずっと一人でしたよ」 「本当ですか。おかしいなぁ。部屋の中に何人かいるような感じがしたんだけどな」 飄々としていつも周りに緊張感を感じさせないのに、実は勘もするどい。ルッソにいつものような人の良い笑みを向けているアルノートではあるが、内心では頼もしいような恐ろしいような小気味良さを感じていた。 「それにしても、なんですかこの部屋は。一夜にしてゴミ溜めじゃないですか」 ルッソはあきれた顔をして部屋の中を見渡した。本棚はすっかり閑散となってしまっていて、床の上に足の踏み場が無いぐらい書類や本の山が崩れ落ちていた。執務机の上にも書類などが山となっていて、申し訳なさ程度に空けられているスペースにはタバコの吸殻が山となっている灰皿があった。 「煙草、やめたんじゃなかったんですか」 「不摂生を満喫しているときの煙草は、これまたなんとも格別な味でしてね」 「大使はもういい歳なのですから、いつまでも若いつもりで生活しないでくださいよ。ぶっ倒れられて、こんな面倒くさい事を押し付けられでもしたらたまったもんじゃない」 「それこそ、出世のチャンスではないですか。なんなら、仮病でもして差し上げましょうか」 「そんなチャンス、こっちからゴメンですわ。本国の要求なんか、果たせるはずがない」 「若いうちは買ってでも苦労しろというのに。勿体ないですねぇ」 「まったく……。本当は譲る気がないくせに。嫌な人ですねぇ、旦那」 「バレましたか。年を取ると若者をからかうのが生きがいのひとつになるのですよ。で、ルッソは健気に頑張っている年寄りを冷やかしにでもやってきたのですか」 「あー、すっかりと忘れていました。一つ情報を持ってきました。嫌な情報ですけどね」 気だるい表情はそのままであるのだが、ルッソの眼が突然怪しく光りだした。 「できることなら、死ぬまで聞きたくないですねぇ」 「憂国党とシアチ王国政府が繋がっていたことがわかりました」 アルノートは静かに灰皿の近くに置いてあった煙草ケースから一本を取り出し、口にくわえて火をつけた。深く口から吐き出した煙草の煙が天井に向かって昇っていく。 「言葉もないですねぇ」 アルノートはぽつりと口にした。 ドストニア南方の国境と隣接した王国シアネは今揺れていた。原因は三ヶ月前、突如出現した憂国党の存在だ。シアチ王国に滞在するドストニア人の襲撃を次々と繰り返し、女子供にも見境無く刃を向け、既に相当数の死者を出している。到底、無視することなんて許されない。大使であるアルノートはシアネ側に事態の早期解決を再三強く求めた。だが、それでも事態は解決するような気配を見せなかった。それを見かねていよいよドストニア本国がこぶしを振り上げようと、シアネに協定税率とアビレス市租借の条約を結ぶよう指令がきたのは三週間前のことであった。そして、昨日はシュタイナー商会本店までが襲撃、壊滅されている。ドストニアとシアネの緊張は危険なほど高まっていた。 「連絡員らしき者を一人、拘束しました。既に自供も始めています」 「木綿、ですかねぇ」 「十中八九、そうでしょう。せっかく自分の懐にあるお宝の山。それをむざむざと余所者に渡してしまっていることが勘弁ならなかった、ってことでしょうね。それにしても大使、あまり驚きませんね」 「年を取ると、ちょっとやそっとでは驚かなくなってしまうのですよ」 「そいつは残念。旦那の驚いた顔を見れることがせめてもの楽しみだったというのに」 「あなたは本当に良い性格をしていますねぇ。上司として誇らしいかぎりです」 「捕らえた連絡員を見てみますか」 「やめておきます」 「あれま。じゃあ、俺は少し休憩してきますわ」 ルッソは大きなあくびをしながら部屋を出て行った。 アルノートは一枚の書類を手に椅子を回して背後にある窓へと視線を移した。だいぶ明るくなってきた空が王都コルドバの街を照らしている。 憂国党とシアネが繋がっている情報は、アルノートにとって決して本国へ報告するわけにはいかないものであった。報告なんてことをしたら、途端に本国は怒り狂って戦端を開いてしまうのが眼に見えている。絶対に知られるわけにはいかない。 アルノートは深くタメ息をつき、アルノートは手に持つ書類に目を落とした。【発:参謀本部 宛て:ドストニア八旗軍第六師団 雷槌一号指令】アルノートの友人が極秘裏に送ってくれた軍の作戦指令書の写しだ。これを使えば、おそらく一気に条約交渉をまとめることができるであろう。だが、同時にアルノートは全てを失ってしまうことになる。 アルノートはもう一度タメ息をつき、椅子に深く沈みこんだ。
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