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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第9回   9 少年の母親は男を選んだ
9 少年の母親は男を選んだ


 それから私は、海に行かなくなった。そのまま、私はその年の夏と秋の記憶も失った。記憶を消して、忘れてしまうためにささやかに生きてきた。
 老婆を殺した少年はいま、周囲を固い壁に囲まれた部屋で一人で座っているのだろう。聞き取れない言葉をだれかに向けて話しているのかもしれない。私にかもしれない。身体の奥から震えが起こっていた。
 私は眠っているのだろうか。寒イヨ、寒イヨ。
 「外ハ雪ガ降ッテイルノヨ。モウ少シ、オ眠リナサイ。起キタラネ、春ガ来テイマスカラネ。花ガ一杯咲イテイマスヨ」
 私の耳元で女の声がしていた。私は頷いて、眠った。

……生キル意味ナドナイノダ。

 私は、レストハウスでラケットをしまっていた佐藤さんを酒に誘った。
 待ち合わせをした居酒屋は空いていた。夕暮れの通行人が行き来する姿の見える窓側に席を取って、酒を頼んだ。同じ地域に住んでいたので、佐藤さんは少年の事件の経緯を知っていた。
 私の感想を話すと、佐藤さんは考えこんでいた。
 私に何かできたのだろうかと言ったとき、佐藤さんは私を見据えるように同意とも否定ともつかない不思議な表情をした。
 「いま、その子が感じているのは、人を殺したという罪の重さではないと思いますね。鏡に自分の姿を映すと、明瞭に自分の輪郭がわかりますよね。その子はいま鏡の前で自分の輪郭を実感しているのだと思います。殺すということは、自分と他人とを明確に区別することだと思うんです。だから、そこに恐怖が入り込んでくるのです。怖くなる。犯罪者が自首して、ほっとした顔をすると新聞に書かれることがありますよね。あれは被害者に謝罪できたからではなくて、自分がみんなのなかにとけ込めたという安堵感からだと思うのです。人を殺すと、自分がはっきりとわかる、見えてくるんです。こんなこと言ったら、変でしょうかね」
 言いにくいものを言い切ったという顔をした。佐藤さんは頬が赤くなっていた。
 「少年が人を殺したことを悔いるということは」と私が言いかけると、佐藤さんは笑いながら「そんなこと、ほんとうに思っているのですか」と言いかけて、酒を飲んだ。もう、俺たちは知っているじゃないか、下手な説明で済ますのはもうやめようじゃないかと言っているように、にやりと笑った。
 「殺された側の辛さに配慮することは、もちろん必要でしょう。でも、俺がいま考えたいのは、その少年がどんな思いでいるかということです。もし、Kさんがその少年のことを考えるなら、そこを思ってあげたらどうですか。それと、Kさん自身が抱えているものを少年と一緒に辿ってみることです。それがないと他人にかかわることはできないと思います。あとは嘘です」
 珍しく佐藤さんは語気を強めた。
 私は、「僕のかあさんが鬼になった」という少年の話をした。佐藤さんは黙って聞いていた。
 「あいつが出ていくと言ったんだ。もう来ない、別れようって。僕のかあさんはどうしてって聞いた。あいつは僕を見たんだ」。母親は少年の襟元をつかんで引き倒した。脚で何度も蹴った。
 「男は笑って見ていたそうです」。私は佐藤さんの顔をのぞき込むように言った。
 「母親は少年に疫病神と叫んだそうです。お前がいるからうまくいかないんだ、お前がいなくなってくれればと」
 少年は母親に風呂場に引きずられていって、冷水を浴びせられた。頬を叩かれた。頭をゴム手袋で打たれた。それが繰り返された。
 母親が少年を風呂場に残したままドアを閉めようとすると、男が母親を呼んだ。少年を裸にして連れてこいと言った。
 少年は男の前に正座をさせられた。男は母親にも衣類を脱げと言った。母親は裸になって横になった。その上に男は乗った。
 「あいつは見ていろと言ったんです。僕が下を向いていると、こっちに来て顔をねじ上げるんです。はじめは僕の母さん、向こうを向いていたけれど、何度もあいつが僕の顔を上げに来るから、見ていなさいって僕を睨んで言ったんだ」
 そのとき、「僕のかあさんが鬼になった」と少年は言った。
 日曜日の日射しの強い川縁で少年は私に話していた。
 川は穏やかに流れていたし、草むらから温かな風が吹いてきていた。空は青く透けていた。土手を散歩する人からは、私たちが軽やかな雑談を楽しんでいるように見えていただろう。


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