8 「幸福の鐘」が鳴る
「僕も殺されるのを待っているんですよ」。じっと私の話を聞いていた少年が咳き込むように私に言った。 「そうでないと、だれかを殺してしまいそうになるんです。だれでもいいんです、僕を殺してくれれば。生きていても、ちっともいいことないんだ」 私は少年を見た。少年も私の目を見ていた。 「嘘だと思うなら、僕の背中を押してこの汚い川に落としてもいいですよ。僕、もう嫌なんだ。毎日毎日、もう嫌だってばかり思っている」 私は返事をしなかった。できなかった。身体が痺れていた。私は少年に声をかけるべきだったのだろうか。 しばらくすると、少年ははにかむように笑って、「ごめんなさい」と言った。私は少年に笑い顔をつくった。事件の二週間前のことだ。 私も同じことを男に話していたはずだ。ナゼ僕達ハ生キテイルノデスカ。理由ガアルノデショウカ。イツ死ンデモイイノデス。嘘ダト思ウナラ、ソノナイフデ僕ノ背骨ヲ抜キ取ッテモイイヨ。少シ痛ガルカモシレナイケド。 そのとき、赤くなった太陽が半島の先端に近づいていたはずだ。灯台の黒い影がはっきり見えていた。 海面に赤い広がりが伸びてきた。しばらくすると、目を開けていられなくなる。男はいつもより早めに釣り道具を箱に収めると、「さよなら」と言った。私は、振り向かなかった。男がどんな姿でバス停に向かうのか見たくなかった。 フェリーから出航の合図の汽笛が鳴った。そして、「幸福の鐘」が流れた。向こうの半島への最終便だ。 男と私はいつもは陽が沈み、あたりに闇が忍び込み、波の音が大きくなるころその場を離れた。男はバスに乗り、私は海岸に沿って歩いて家に帰った。 私はその日、両の手を強く握りしめて、一人で堤防に蹲っていた。
……寒イヨ、寒イヨ、助ケテヨ。
次の日曜に少年は土手に現れなかった。 私は少年に語りかけるように男の子が魚になった話を回想した。 「男の子は、しだいに暗くなる堤防で黒い海を見つめていました。缶詰工場は明かりを消していて、鉄の固まりになって蹲っていました。そのなかにたくさんの裸の死体が並べられているように思いました。空に星が見えました。周りが明るく思えました。男の子は立ち上がると、カバンからノートや教科書、筆箱を取り出し、海に投げつけました。身体が火照ってきて汗が出てきました。カバンを投げてしまうと、上着、シャツを脱いで上半身裸になりました。身体が熱くてしかたありませんでした」 「堤防の突端に来ました。黒い海面を見つめていました。波の音が強くなり、おいでと誘っていました。男の子は飛び込んでいました。身体がぐるぐると温かな波に抱かれていきます。苦しくはありません。しばらくすると、男の子は海水が甘い蜜のように感じました。背中に背びれができて泳いでいました。いつまで泳いでいても疲れません」 「眠り込んだ半島の先端に出ていました。もう遮るものはありません。見えるものは快い海原だけでした。水をくぐり抜けて星や月の明かりが差し込んできます。身体が透明になっていきます。もう何かを心配することはありません。僕ハ魚ニナッタンダヨ。僕ハ何処ニデモ行ケルヨ」
私は病室で目覚めた。とても暗い部屋だった。ベッドは一つだった。 枕元で義母が私を見ていた。 「みんな、心配したのよ。私、おばあさんにずいぶん叱られたわ」 義母は下を向いた。 編み棒が動いた。それっきり義母は私のほうを見なかった。私は、この人に悪いことをしたと思った。
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