7 「魚になった男の子」の話
頭の中の虫が叫び始めた。受ケタ痛ミハ、本人シカ分カラナイ。 私は少年の「鬼」の話が事実であるかどうかということより、そのことが話であれ、少年の口から出たことに衝撃を受けた。少年は川を見つめたまま、すり切れた半ズボンの裾を指先でいじり続けていた。
……ダレカ僕ヲ殺シテクレイカナ。
あるとき、私の小さいときの話を聞いてきたので、「魚になった男の子の話」を少しずつした。 その話を私は話したくなったのだが、少年に明日への希望を持ってもらいたいと思って話したわけではない。少年に私が抱えている思いと重なるところがあることを感じてほしかったからだ。少年は興味を持ったようだった。 「茎の長い雑草が生い茂っていました。長い塀が続いています。缶詰工場でした。その灰色の壁を曲がると、海に突き出た堤防の突端に男の背中が見えました。男の子はカバンを抱えて全速力で走りました。みるみる缶詰工場の四角の窓ガラスがいくつも後ろに吹っ飛んでいきました。極彩色のテープや花輪で飾られたフェリーの発着所が後ろに見えなくなり、男の姿が間近に迫ったとき、細い釣り竿がぐいっと後ろに引かれました。男は糸を巻き取り始めました。勝ちを確信した者の傲慢さで、男はゆっくりとそれまで敵だった者をたぐり寄せます。釣レタンダネ。キョウ、何匹釣ッタノ。男の子の叫びをよそに男は魚から針を抜いて、バケツに放り込みました。魚は不当な扱いに抗議するように水面から跳ね上がって銀色に光りました」 「その男の子は、学校からそのままいつも海を見に行ったのでしょ。だって、いつもカバン持っているし、海が好きだったのかな」 少年が突然、珍しく話に割り込んできた。少年はいつも黙って聞いているのだが、妙にうわずった声だった。何に反応したのだろうか。 そう、そのときの私は、男のバケツの側にカバンを投げだして座り込み、そのまま黙って海を見ていたはずだった。 学校には行っていなかった。遅い朝に家を出て、海岸を三〇分近く歩いて堤防に来ていた。そんな私にだれも声をかけてこなかった。小学生にだれも関心を示さなかった。 海面が暗くなるまで座っていた。男から話しかけてくることはなかった。私が話す言葉にうんとか、いいやとか答えるだけだった。私はそれでよかった。 座っていると、靴を脱いだ靴下からコンクリートの暖かさが伝わってくる。海は霞んでいて、向こうの半島がいつもぼんやりと姿を見せて、手前で横長の平たいタンカーがすれ違っていた。 固く閉ざされた缶詰工場の内側からは規則正しい金属音が響いていた。 フェリーの発着を知らせる「幸福の鐘」がときどき鳴るのを聞いていた。僕モ乗ッテイキタイ。デモ、乗セテクレナイ。 私はある出来事の後、父と義母と暮らすようになっていた。しばらくすると、学校へ行かずに堤防で秋になったばかりの海を眺めるようになっていた。 一週間ぐらいたったころに毎日釣りをする男の横に座るようになった。男は私に関心を示さなかった。 男は不思議な儀式をした。 釣った魚をバケツのなかでしばらく泳がせたあと、小型のナイフで魚の背びれを切り取り、身は海に放り投げた。細かな小骨を陽に透かして数えるように眺めた後、口に含んで奥歯で磨りつぶすように顎を動かしていた。細い頬で長い顎髭が小刻みに揺れていた。 私は、少年にゆっくりと話した。理由はなかった。その風景を自分で確かめるように話していた。 「雨が降っていました。傘が飛ばされそうになるほど強い風が吹いていました。堤防にはひどく荒れ狂った波が襲っていました。堤防を飲み込むようでした。フェリーは欠航していました。もちろん乗客の姿はなく、コンクリートの壁に叩きつけられる波の音が繰り返し響いていました。男の子は男の姿を堤防の先端に見つけました。まるで波に攫ってほしいというように釣り竿を握りしめていました。先端に立つ電柱に身体を縛りつけていました。耳あてのある帽子を深くかぶり、どんな顔をしているのか分かりません。でも、男の子が男のそばに行こうとすると、男はこちらに向いて帰れという仕草をしました。男は、男の子を見つけていたのです」 その翌日からだった。私が男に話しかけ、短い会話をするようになったのは。私は、その男が何を考えていたのかを感じていた。男も同じように私の気持ちを感じているようだった。 私は男の側に座っているだけで落ち着いた。目に見える風景が穏やかになった。その思いを少年に話そうと思ったが、それはやめた。適当なところで話をとめて、また次というそぶりをした。 少年は、次の日曜も来た。 自転車を脇に片づけると、私の横に座って川面をじっと見つめていた。もそもそと菓子パンをリュックから取り出して食べた。 私たちは、休日の昼下がりの日だまりを楽しんでいる親子のように見えたかもしれない。いや、孫を連れたと言うべきか。 「正午を知らせる缶詰工場のサイレンが鳴り渡ると、固く閉ざされていた銀色の扉が左右に開きます。黙々と灰色の服を着て帽子を目深にかぶった男と女が出てきます。顔の表情は見えませんが、みんな同じ顔をしているようでした。疲れていて、少しでも休みたいのです。口を開くのも嫌そうに話し声も聞こえません。扉から出ると、そのままどこかに消えていきます。そして、またサイレンが鳴り、いつの間にか扉は閉まって、規則正しい金属音が響いてきました。今日ハ最後ノ日ダネ。きのう、男はもう海に来ないと男の子に話しました。男の子は淋しい気持ちになりました。オジサン、魚ミタイニ僕ノ背中ヲ割イテ、背骨ヲ囓ッテクレナイカナ」
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