6 「僕のかあさんは鬼になった」
私は、川沿いにあるサイクリングコースで少年と顔見知りになっていた。 前日に大雨が降って、まだ乾ききらないぬかるんだ道に車輪をとられて転んだ少年を助け起こしたのがきっかけだった。それは私が座っていたすぐ近くだったからで、なんでもないことだった。 少年はうれしそうに私に礼を言い、そのまま自転車を走らせていった。 さわやかな印象を受けた。それからのことだ、少年はサイクリングコースで顔を合わせると、私にあいさつするようになった。 「この川の鯉、ずいぶん増えたでしょう。こんなに汚くても平気なんですね。だんだんきれいになってきているのかな」 日曜の昼、コンクリートの土手に腰を下ろして川を見ている私の傍に立って、少年は声をかけてきた。自転車に手をかけたまま、私が少年の話にのってくるかどうかを試しているようだった。細い声の、丁寧な物言いだった。 私は少年の気持ちがわかった。土手には背の高い草が伸びていて、じっとしていると足の長い緑色の虫が跳ねた。 「きれいになってきたんだろうね。生き物が増えるって、気持ちいいよね」 私は足元で飛び回る虫を快く感じた。 この川は日本で一〇本の指に入る汚れ具合と報道されたことがあった。そのあと、護岸工事が進んでいた。 実際、土手を歩いてみると流れがきれいになっているのがわかった。 それまでは土のかたまりのようなところに草が生えていたり、その周囲には布や新聞紙の切れ端が引っかかっていたりした。 土手に突き出された管からは生活水が川に流れ込んでいた。管から流れ落ちるあたりは灰色の泡が幾層にも重なり、とても生き物がいるように思えなかった。長い間、自転車や材木が引っかかっていることもあった。 鯉の数が増えているのは確実だった。 以前は岸辺の草むらをのぞいてもその姿を確認できなかったが、いまは川の中央を群れて泳いでいる。天敵がいないためなのだろうか、無防備という印象さえするほど鷹揚に泳いでいた。背ビレが水面を波だたせて動く様子は優雅さを感じさせた。 川面をつついている白鷺の姿も見かけるようになった。 細いくちばしをたえず左右に突き刺している。小魚や土中にいる生き物が豊富なのだろうか。鴨がその脇を滑るように移動した。前からいたはずなのに、白鷺に遠慮しているような泳ぎ方だった。 しかし、日によっては気分の悪くなる風が吹いてきて、とても座っていられないときもあった。そんなとき私は、追い返されるように自転車に乗って、退散した。 少年は私の傍らに腰を下ろした。ズック靴の先端がはがれそうになっていた。私の視線を感じたらしく、反対の足の腿の下に隠して笑った。 台風のあとだったので、土手や樹木に草や木の枝がこびりつくように引っかかっていた。その高さは台風の水嵩を教えていた。 「すごい雨でしたね。風で僕の家が揺れました。僕のかあさんはいなくて、僕はとても怖かった。でも、一人でいるとき、鯉はどうしているのかと思いました。そう思うと、気持ちが元気になってきて、一人じゃないと思いました」 台風は相当な雨量を記録した。全国各地での被害がテレビで報道されていた。 こんな水量で土手が崩れれば、水面より低い家は押し流されてしまうだろう。実際、二〇年ほど前は毎年の台風報道を見ると、このあたりの被害が取り上げられていた。いまは穏やかだ、何事もなかったように。 少年はリュックを肩から外すと、中からコンビニで買ったらしい菓子パンと牛乳パックを取り出して膝の間においた。私の視線を意識したのだろうか、「僕のかあさんは働いているものですから」と弁解するように言った。川の流れに反射する光に目を細めながら、大事そうに食べていた。腕に火傷の跡のような傷があった。 町内でも少年を見かけた。そのとき、少年は声をかけてこなかった。 いつもリュックを背負い、一歩一歩を自信に満ちた足取りで駆けていた。その後を仲間たちが追うように走っていた。少年は光を全身に浴びて輝いていた。そう、私にはそんなふうに思えた。
……ミンナガ死バイイト思ッテイル。
「鯉は汚い川が好きなんですか。どんどん太っていて、大きくなっている。家族もたくさん増えているみたいだし。でも、僕は嫌だな。こんな汚いところで暮らすのは。いくら家族が一緒でも」 少年の家庭は両親が離婚し、少年は母親と暮らしていると話した。いろいろな感情のもつれがあるらしいことは言葉の端々にうかがえた。 私は、少年の話を黙って聞いていた。 「僕のかあさんは」と少年は母親を出すとき、必ず「僕の」をつけた。 少年は、こちらが自分の話に関心をもっているかどうか、こちらがどう反応するのかを確かめるように話した。 「僕は虫になりたいと思います。そして、葉っぱをたくさん食べていたい。それだったら、だれにも迷惑をかけないですむでしょう」 「僕は僕のかあさんから生まれたのだから、僕のかあさんが悪ければ僕も悪いんです。でも、僕は家にいなくてもいいんです。僕のかあさんの役にも立たないし、迷惑ばかりかけているんですから」 「いなくなればいいと、ときどき僕のかあさんは僕に言います。あいつが喜ぶから。あいつは笑いながら僕を殴るんだ」 「でも、家を出ていけません。僕は、死ねません。みんな、死ねばいいと思っているけれど。まだ一二歳ですから」 この言葉のあと、私は「僕のかあさんが鬼になった」という話を少年から聞いた。私は身体が硬くなるのを感じた。そして、ただ聞くことしかできない私を少年は突き放すように言った。 「すいません、ほっておいてください。僕は一人で生きていくからいいんです」 私は頷いていた。
|
|