41 泣く部屋がない男は後悔している
私は自分の部屋に立っていた。私の椅子にあの男が座っていた。 「命ノ尊厳ナンテモノガ、アルモノカ。ドンナ理由ヲ持チ出シテミテモ、ソイツニ気ガツケバ、全テガ失セテシマウハズダ」 私は翌朝まで自分の部屋に入らなかった。 男は書き物を机に置き忘れていた。
「鏡の中で俺は刃を研ぐ。なんのためにか。俺は熱心に切れ味を試す。だれを殺すためなのか。注意深く自分の喉元に刃を当てる。喉の皮膚から赤い血が刃の先を濡らす。俺の顔は蒼白だ。刃に美しい華が迸り始める。笑いがこみ上げてきて、我慢しきれずに大声を立てた。眼球を回してみた。裏側が見えた。真っ赤になっていた。鏡の中の俺が言う。オ前ハ、ソウヤッテ逃ゲテキタノダ。オ前ノ苦悩ハ最低ノモノダ」
「俺は夕焼けを見た。暗い山並みの背後には、山積みにされた死体置き場と、刑務所とあの偉い人が住む場所があった。それが真っ赤に燃えていると思った。死者たちは腐臭を上げ、犯罪者は世間への怨念を膨らませ、偉い人は過去の栄光にしがみついていた。復活を望んでいることが共通していることだった」
「警笛が鳴った。俺は振り返った。俺を照らし出すライトの明かりに寒い雨が降っていた。俺は川沿いの道を選んだ。黒い川面に人家の明かりが落ちていた。流れは速かった。俺は、流れていく子猫の死骸を見た。白い猫だった。俺は、これから俺がどこへ行くのか思い出せなかった」
「生きる証がほしい。独りで暮らしていた少年のころが浮かんでくる。俺は、いつも夢の中で遊んだ。平穏な、静かな、明るい世界だった。疲れては草に寝転び、心は青空に弾んだ。しかし、悲しいばかりに独りだった。話す相手のない言葉は暗い空洞になった俺の心に落ちていった。俺は笑えなかった。笑うことを知らなかった。そんな俺は少女を愛するようになった。少女への愛は俺の独占欲をかき立てた。俺は少女を失いたくなかった。だから、少女を深く傷つけてしまった。俺は生まれてこなければよかった。生まれてきさえしなければと強く思った。俺には泣く部屋がなかった。《サヨウナラ》俺の心はバラバラになった。自分の心をどうつなぎ合わせたらいいのか」
男の書き物はまだ続いていた。 ゲームを楽しむようにばらばらに書き込まれたノートを閉じて、部屋の片隅を見た。小6の少年が私を見ていた。 「僕ハ、ドウ生キテイケバイイノデスカ。僕ハ、全テヲナクシテシマイマシタ。イマ、小サナ部屋ニイマス。独リデス。助ケテ下サイ。アナタシカ助ケラレマセン。残サレタ僕ハ、ドウスレバイイノデスカ」 「あのおばあさんは喜んでいるんだよ」 「ドウシテデスカ」 「自分では死ねないから。どんなに辛くても、人はなかなか自分では死ねないのだよ。だから、人に頼むんだろうね。信じられる人にしかお願いできないことだから」 「僕ハ、イイコトヲシタノデスカ」 「そうだよ。とてもいいことをしたのだよ。あのおばあさんには、生きている意味なんてないんだから」 「僕ハ、デモ、イマ、トテモ寒インデス。ネエ、ドウシタライイノデスカ」
……舟ハ老婆ヲ乗セテユックリト出テイッタ。
私は川の前に立っていた。私の背後に、老婆と少女と、そして黒い眼窩をのぞかせた男が座っていた。頭の中で鐘の音が強く響いていた。 私は目を閉じて、呟いていた。
……おばあさん、私はたくさんの人たちの悲しみを犠牲にしてここまで生きてきてしまいました。でも、みんな背後に積み重ねるだけで、私は心の底から罪を感じていません。悲しくないのです。いつも、知らぬふりをしてやり過ごしてこれました。 みんな、私の嘘なんです。他人に心をかける、優しいふりをする、美しい言葉を話す、こんなことは相手を騙して、私だけが生き延びていく方法なのです。 私は、あなたを殺すことでいのちというものが感じられるようになったと思います。でも、まだいのちの意味、尊さ、その確かさが両手で掴むような実感となってこないのです。
老婆が私の横をすり抜けるように通って、川辺に立った。向こう岸から一艘の舟が近づいてきた。かつて私が老婆の小屋で見た舟だった。老婆が乗り込むと、少女、男が乗り込んだ。私は舳先を軽く押した。私は、彼らが海に向かっていくと思っていた。 舟が岸を離れ始めると、老婆が私の足元を指さした。猫がいた。眠り込んでいた。私がかつて殺した猫だった。 私は、カミソリを猫の腹に刺して、横に引いた。乾いた紙のように腹は開いた。 中に細長い紐が重なり合うように詰まっていた。指で突いてみると、触れた部分が粘って指先を濡らした。そして、丸くなって膨らんだ。あのヒルだった。先端部分がいくつも立ち上がり、T字型の頭になった。どれもが私を見て、口を開いた。 オ前ハ、ヤハリ嘘ヲツイテイル。心ノ底カラ、悔イテイナイ。ドノヨウニシテモ、オ前ハ罪ヲ感ジラレルコトハナイ。ダカラ、俺タチハオ前ノ腹ノ中ニ住ミツイテ、イツマデモオ前ノ体液ヲ吸イナガラ生キテイコウ。 オ前ガ小サナコトデモヨイ、生キルコトヲ肯定シタトキ、俺タチハ死ネルダロウ。ソレマデハ俺タチモオ前ト同ジヨウニ、コノ姿デ永遠ニコウシテ閉ジ込メラレテ生キテイクシカナイノダ。
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