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作品名:老婆の弔い 作者:仁科治

第40回   40 少女はシャガの咲く家にいた

40 少女はシャガの咲く家にいた


 佐々木から待ち合わせを反故にした詫びの電話が何度か入った。もう一度会いたいとも言った。私は断った。
 そんな最後の電話のとき、佐々木は「ばあさんのこと、覚えているか」と聞いた。ぬるりと粘った体液を吐き出している生き物が泥のなかで動くような感じがした。

……人ヲ騙シテ生キテキタジャナイカ。

 その夜、私は夢の中で洞窟を歩いていた。どこまで行っても終わりがなかった。再び元の道に戻ってしまうからだ。でも、家に帰ろうとしていた。
 いつしか、車に座っていた。
 「どこに行きましょうか」
 突然、私の前にいた運転手らしい男が言った。
 車は止まっていて、横を何台もの車がライトを光らせて走り抜けていった。水をはじく音が夜の深さを感じさせた。私はいま自分がどこにいるのかわからなかった。
 「どこへでも行きますよ」
 男はまた言った。待っているのだ。私が行き先を告げるまで。ずいぶん時間がたったらしい。
 「さあ、出発しましょうや」
 男は車を動かし始めた。実は、行き先は知っていて、私が正直に言うのを待っていたのかもしれない。
 車は、私の家に向かって走っていると思った。しかし、それが大きな間違いであることに気づいた。私は帰るべき家を忘れてしまっていた。
 こんなところにかつて住んでいたというような部屋に私がいて、そこがどこなのかとまどっていることがあった。目覚めたあと、そこへどうやって行けばいいのかわからなかった。そう、その家はあるのだが、そこへ行くには遠すぎるような、どんな道筋を辿ればいいのかわからなかった。
 夢を見ると、列車に乗っていて、薄暗い駅で何度か乗り継ぎしながら崖の下にあるその家に行ったはずだ。家の前の草むらにシャガがいつも咲いていて、門から玄関まで水が打たれた石畳が続いていた。
 そんな家の前で車は止まった。
 「お待ちしていました」
 格子戸を押し開くと、黒い布を頭から両肩までかぶった女が立っていた。
 布を取ると、私が川に流した少女だった。ここに流れ着いていたのだ。もうずいぶんになる。私は忘れていたことを隠そうとした。
 私は頷いてみせた。少女は微笑した。
 「ずいぶん長い旅でしたね」
 私はここへたどり着くために、歩いてきたのかもしれない。
 「なぜ、そんなに私をじらすのでしょう。あれからずっとずっと、私を思い出してくれるのを待っていました」
私は、少女と向き合って食事をとった。
 そして、少女の囁くような歌を聞きながら眠った。眠りながら、私は少女に語りかけていた。
 「愛の国を探してきました。私は日々、夢見て暮らしてきました。いま、こうやって一緒にいます。もう、これからはあなたとずっと一緒です」
 少女は静かに泣いていた。モウ間ニ合ワナイノデス。今夜ガ最後デス。思イ出スノガ遅スギマシタ。


 私は深く眠ってしまったらしい。
 目を覚ますと、運転手の帽子が見えた。
 車窓の景色は動いていなかった。車は止まっていた。だが、運転手はハンドルを握ったまま前を向いていた。
 私は身体を乗り出して運転手の横顔を見た。
 運転手は人形だった。対向車の明かりと思っていたのはビルの屋上にある観覧車の照明だった。夜間飛行機が空を横切っていった。
 「どこへ行きましょうか」
 人形が声をかけてきた。
 「どこへでも」
 私は人形に答えた。
 「お前は少女を見捨てたではないか。あんなに助けを求めて苦しんでいたのに」。人形が私をなじった。
 「いや、少女は私の前からいなくなったのだ。私こそ少女を求めながら、暗い部屋の隅で蹲って苦しんでいたのだ」
 「少女は涙も声も枯らしてしまった。人を信じることができなくなった。お前はまた嘘をついて騙している。そうやって、お前はこれまで生きてきたのだ。これからも、そうやって生きていくのだろう」
 私はどこへ行ったらいいのか分からずに、そこで眠った。オ前ハ、ヤハリソンナ生キ方シカデキナイノダ。


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